世篠澤家の哀しきモンスター
山々に囲まれた長閑な田園地帯に、悠然と構える古風な平家の木造建築。
そこは、世篠澤家が代々受け継いできた由緒正しき屋敷である。
敷地の片隅には、納戸を改築して建てられた「離れ」がひっそりと佇んでいる。
その「離れ」で世篠澤虎之助は、怠惰な人生とラゴブロックを積み上げるだけの毎日を送っていた。
ボサボサの髪の毛から覗く死んだ魚の目。二着ローテーションで酷使されたヨレヨレのシャツと擦り切れたスウェット。
外界との接触を拒絶した世捨て人にとって、「身嗜み」などという概念は取るに足らないものだった。
彼は義務教育を終えてから、八畳一間の離れでひたすらラゴ作品を量産する哀しきモンスターに成り下がっているのである。
足の踏み場もないほど散らかったラゴブロックを荒々しく蹴散らしながら、虎之助は窓際へ歩み寄る。 麦茶の注がれたコップを持つ手は小刻みに震えていた。 彼は額に滲む脂汗を乱暴に拭う。
その窓から見えるのは、世篠澤家自慢の日本庭園である。
手入れの行き届いた庭木が春の風を受けて新緑を揺らし、丁寧に刈り揃えられたツツジの植え込みは紅色の花が爛々と咲き乱れていた。
母屋の縁側付近には大きな池があり、8匹の鮮やかな錦鯉が優雅に泳いでいる。
その池に足を浸してぼんやりとしているバケモノもいる。
「そこは足湯じゃねぇぞ」虎之助が呟く。
光沢のある真っ赤な頭の頂点に、申し訳程度生えた緑の頭髪。 作務衣のようなボロ布を纏った身体から伸びる両腕は何本にも枝分れしていて、今は地面に突き刺さっている。同型の脚を池に浸してリラックスした様子である。
その数メートル先に据えられた灯籠の上には、淡黄色の浴衣を着たおかっぱ頭の少女があぐらをかいて座っている。 一見、小学校低学年くらいの女の子に見えるが、頭には二本の触角。 背中にはてんとう虫柄の、甲羅のように丸い羽根を持っている。
少女は何かに気付いたかのように「ハッ」と鳴瀬山の方角を一瞥すると、灯籠から勢いよく飛び降りてパタパタと駆け出した。
「今日はモンシロチョウと戯れてカマトトぶらないのか」
向かった先は、庭の隅に根を据える樹高6メートルほどある紅葉の古木だ。
その中間辺りの枝の上で、花柄のハーフパンツを履いた鼠のバケモノが腕を枕にして寝転んでいる。 フォルムは人間に近いが、長い尻尾を持ち、全身が灰色の短い毛に覆われている。 突き出した鼻と頭部に生えた耳が特徴的な、まさに鼠のような風貌のバケモノである。
駆け寄った少女は、地面まで垂れ下がった鼠の尻尾を神社の鐘の如く二、三度揺らすと、樹上の鼠に声をかけているようだった。
このバケモノ達は10年前の事件直後、虎之助が家に帰った時から居座っていたメンバーである。 友達の居ない彼は、このバケモノ達に脳内であだ名を付けて観察していた。
「根津実 忠太郎」「市松 天道ちゃん」「バカトマト」の3匹である。
もちろん見ていることを悟られぬように、何気なく庭を眺めて物思いにふける、思春期の青少年を演じながらの観察だ。
おそらくこの三匹のバケモノは事件以前からこの庭を住処にしていたのだろう、と彼は認識していた。
この10年間、バケモノ達がこの庭を空けた事は一度もなかった。 どんな時でもかならず一匹は留守番をする、というフォーメーションを採用しているようだ。
虎之助は、ガラス1枚隔てた庭にライオンやワニのような猛獣を飼っているような感覚を持っていた。 目を合わせて馴れ合えば、何をしてくるかわからない猛獣だ。
町に出ても学校に行っても、人が集まる場所には必ずバケモノがいて、彼らの声が聞こえてくる。 だから外出時のヘッドホンは必須であったし、それは彼にとっても都合が良かった。 ヘッドホンを付けていれば、話しかけてくる人間も居ないからだ。
彼が「一人遊び」にのめり込んだのも同じ理由からだった。 何かに夢中になっている時、周囲の雑音がゆっくりと遠のいていくような感覚が好きだった。 余計な事はなにも頭に入れず、時間を忘れ、ただ目の前の事だけを考えながら作業に没頭する。 彼は学校での「ペン回し」を皮切りに、「ラゴブロック」に辿り着いたのである。
バケモノに視線を悟られぬようにサングラスをかけて登下校したいと考え、実行したこともあった。
彼は当然のように上級生に呼び出されて、キレのあるローキックを四発ほど頂いた。 三日間は足を引きずりながら歩く事になったが、五発目を真琴に止めてもらわなかったらもっと悲惨な結果になっていただろう。
彼には友達が居なかったが、からかわれたり、イジメられる事はあまりなかった。 所謂、「空気のような存在」だったのだ。
虎之助は自分がイジメを受けなかった理由を、「世篠澤真琴の弟」という大きな看板のお陰だと評価している。 真琴が元気に生きている事が、中学時代の虎之助にとっての生命線になっていたのである。
「今日、何が起きるんだ…… あの化け蛙、本当に来るのか……」
今日はあの事件からピッタリ10年後、蛙のバケモノが「迎えに来る」と指定したその日である。昨晩一睡もできなかった虎之助は重い瞼をゴリゴリとこすり、何かを吹っ切ろうとする様に麦茶を勢いよく煽った。
それとほぼ同時に、積まれたラゴブロックに埋もれていたスマートフォンから「まこちゃんから着信です」と篭った音声が聞こえた。