プロローグ ・まこちゃんが死んだ日
その日、7歳の誕生日を迎えた世篠澤虎之助は、少女の亡骸の前に立っていた。
「まこちゃん、 早く起きてよ!」
徐々に激しさを増していく大粒の雨が、絶え間なく彼の心身を打つ。 目の前では凄まじい水勢の濁流がうねり、轟々と鳴っている。
死んだ少女の右腕は不自然に折れ曲り、大木の根と岩の間に挟まっていた。その小さな身体はすっぽりと岩影に収まって、辛うじて激流から身を守っている。
「ぼくの力じゃ動かないよ……ねぇ、まこちゃんてば!」
少女の身体を懸命に揺さぶりながら、虎之助は母親の言葉を思い出していた。
『絶対に子供だけで遠くに行かないようにね。 この辺りの山に住んでる熊は、人を食べちゃうんだから』
数時間前、彼の姉である真琴は、「7歳になった虎之助に見せたい場所がある」と言って彼を誘った。
『人を食べる熊? ママはね、私たちが迷子になったら困るから脅かしているだけよ。 みんなでいつも探検してる場所だし、全っ然大丈夫! トラ、男の子でしょう? 早くおいで!』
真琴は明るく前向きで勇敢な子供だった。引っ込み思案で意気地のない虎之助にとっての憧れであり、ヒーローのような存在だった。
『ここで向こう岸に渡るの!』
川幅が狭くなった場所で、真琴はそう言った。
彼女が軽快に石の上を跳ねて渡るのを見て、虎之助は勇気を振り絞って後に続いたが、足を滑らせた際に靴が脱げてしまった。 靴は数メートル流された所で、石の間にすっぽりと挟まってしまう。
僅かに上がり始めていた水位と水勢に、二人が気付くことはなかった。
靴を拾うべく川の中へ入って行った真琴は身動きが取れなくなり、 雨がぽつりぽつりと落ち始めるのとほぼ同時に、彼女の身体はあっという間に攫われてしまった。
虎之助は川下に向かって一心不乱に走り、姉の姿を探した。 何度も転倒し、擦りむいて血だらけになった膝がガタガタと震えていた。 体力も限界を迎えようとしていたその時、姉の姿を視界に捉えたのである。
虎之助は真琴の身体の側へ膝をつき、顔を近づけた。
濡れた長い黒髪が、小さな顔の半分を覆っている。 彼は震える手を伸ばし、その髪をそっと払ってやった。 青白く、生気の抜けた顔。唇は紫に変色していて、口角からは血が滲んでいる。左眼の上にはどす黒い痣。 Tシャツから露出している肌や、レギンスの破れた部分からも生々しい傷や痣が覗いている。
「傷が残らないといいけど……。まこちゃん、早く起きて」
虎之助は奥歯を軋ませながら真琴の肩を何度も揺すると、その冷たくなった身体に顔を埋めて力一杯抱きしめた。心臓の鼓動は聞こえない。呼吸もしていない。
「神様……かみさま、まこちゃんを助けてください。 どうか助けてください。 どうかお願いします。 神様。 かみさま」
虎之助はその言葉を呪文のように、何度も何度も唱え続けた。
【神様に祈るくらいなら、俺と契約しようぜ】
どこからともなく聞こえてきたその声に、虎之助はびくりと肩を震わせる。
激流、豪雨、吹き荒れる風。 周囲は獰猛な音に支配されていたが、聞き慣れない掠れた声が、彼の耳にはっきりと届いた。
「俺の名前は蝦蟇岡 卦呂三郎! 」
「うっ、うわぁあ! 」
虎之助は驚きのあまり飛び上がって後方に倒れこむ。
「神様なんて待ってたら、お前まで死んじまう」
巨岩の上に、蛙が座っている。
否、蛙のような化け物だ。
身体の大きさは虎之助と変わらない。
藍色の着物を羽織っており、そこから黄緑色の艶のある肌が見える。
すらりと伸びた脚の先には、大きな吸盤の付いた指があった。
蓮の葉を傘代わりに差しているが、身体の方が遥かに大きいのであまり意味を成していない。
「あの……」
尻餅をついていた虎之助が、ゆっくりとバケモノを見上げ、口を開く。
「あの。 手伝ってください、ぼくの力じゃ動かなくて」
「……その女を川から上げてどうすんだ? 」
「安全なところに動かして、目を覚ましたら一緒に帰る」
「俺を見て頭のネジが吹っ飛んだか」
虎之助はバケモノを一瞥すると、再び真琴に向き直り、身体を引き揚げる作業に戻る。挟まった腕を引き抜こうと岩や木の根にも手をかけて力を加えたり、蹴飛ばしたりしているが、当然ぴくりとも動かない。
「なぁ、お前いくつだ? 」
岩の上から、バケモノが問う。
「今日で7歳」
「名前は?」
「とらのすけ」
「大人を呼んだ方がいいんじゃねーか?」
「ぼくが離れたら、熊に食べられちゃうかもしれない」
「お前が居たって、熊のディナーが豪勢になるだけだぜ」
虎之助は声の主を睨み付ける。
「うるさいぞ! どっかいけ! 」
蛙のバケモノは持っていた蓮の葉を虎之助の頭上にはらりと落とすと、濁流から数メートル離れた岩へ飛び移った。
「なぁトラノスケ。 辛いだろうが、その女はもう死んじまってるよ。 お前もわかってんだろう?」
虎之助の動きは一瞬止まったものの、今度はさらに濁流側へ一歩踏み込んで作業を再開した。 どうにもならない苛立ちと虚しさからなのか、息を荒げてガムシャラに真琴の身体を引っ張っている。
「このままじゃお前も死ぬんだぞ、トラノスケ」
「そんなの知ってるよ!」
虎之助は下半身から崩れ落ち、真琴の膝元に蹲った。 嗚咽をかみ殺すように震えだすと、食いしばった歯の隙間から「わかってるよ……」と微かな声を漏らした。
「……ぼくは絶対に、まこちゃんを置いて帰らない。 まこちゃんが居ないとぼくは……」
濁流の飛沫を浴びながら、虎之助は大声で泣き喚いた。涙と鼻水は堰を切ったように溢れ出し、声を上げるごとに強張っていた全身が脱力していく。
『ここでまこちゃんと眠ろう』という諦めに似た決意が虎之助の心を染めていった。
「だから最初に言っただろうが。 俺と契約しろ」
蛙のバケモノはそう言った。
「その女を助ける力を貸してやる」
虎之助は息を小刻みにしゃくり上げながらバケモノへと視線を移す。
「たすける……?」
「あぁ、助ける。 俺との約束を守ってくれるならな」
バケモノは岩から跳んで虎之助の側に着地すると、真琴の亡骸を指差して言った。
「死体を引っ張り上げるって意味じゃねぇぞ。 お前、こいつと一緒に帰るんだろ?」
虎之助にはもう何も残されていなかった。縋り付くものもなければ、体力も限界だった。 目の前にいるバケモノの言葉を信じた訳ではなかったが、彼は無心で首を縦に振っていた。
バケモノは、先端の丸い特徴的な指を一本立てる。
「ひとつ。 ここで起きたことは誰にも話すな」
2本目の指を立て、続ける。
「ふたつ。 俺以外のバケモノを見かけても絶対に関わるな。 見て見ぬふりをしろ」
3本目の指を立てたバケモノは、虎之助の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「みっつ。 今日貸した力を、10年後に返済しろ」
「へんさい……?」
「返してもらうって事だ。 約束はこの三つだ、守れるか?」
「まこちゃんが……助かるなら」
「よし、じゃあ復唱してみろ」
「ふくしょう……?」
「お前が守らなきゃいけない三つのルールはなんだ?」
虎之助はバケモノの言葉を反芻しながら質問に答える。
「今日のことは、誰にも話さない」
「おう、そうだ」
「知らないバケモノについていかない。 知らん振りをする」
「おう、一番大事な三つ目は?」
「大人になったら、おかえしする」
「ん、大体合ってる。 お前は頭がいいな」
笑顔を作ったバケモノが、虎之助の胸に片手を添える。
虎之助は突然、陽だまりの中に居るような暖かさを感じた。いつのまにか周囲には、橙色をした淡い光が霧のように満ちている。そして全ての雑音が消え、静寂に包まれた。
「さぁトラノスケ、この女を助けよう」
虎之助は真琴の肩に優しく触れる。
真琴の周囲に橙色の光が集まっていく。
その光は左目の痣や身体の傷を覆い、跡形もなく消していく。
挟まれていた右腕がふわりと浮いた。
虎之助はその右腕を両手で迎え入れる。
そこには確かな温もりがあった。
周囲を満たしていた淡い光は、虎之助の胸に吸い込まれるように消えていく。
「まこちゃん……」
死んでいた真琴が顔を顰めながら、瞼を開く。
「あれぇ……トラ……? 」
「まこちゃん! 」
「助けてくれたの? ありがとう……もう死ぬかと思ったぁ……」
「……いや、死んでたんだよぉ! 」
「なに泣いてんの……怖かったの私だよぉ……」
「ぼくだよぉ! 」
2人の目の前にある岩の上に、再びバケモノが飛び移る。
「おいトラノスケ! 早くそこから離れな」
「あ……はい! そうか…… 」
「誰と喋ってるの? トラ」
「まこちゃん、立てる? 早く向こうへ!」
虎之助が手を差し出すと、真琴はひょいと立ち上がり、濁流から離れた緩やかな斜面を指して「あっちに行こう」と言った。 ふらつく虎之助に肩を貸す程の回復ぶりである。
「家に帰るまでが遠足だぞ」
虎之助は振り返って、バケモノの声がした濁流の方へ向き直った。
「ねぇ、どうしたの? トラ」
「きっかり10年後……17歳の誕生日だ。 取り立てにいくぜ」
バケモノは不気味に微笑む。
「楽しみにしてるよ、トラノスケ」
ーーーーー
その後、山道を軽トラックで走っていた近隣集落の老人が偶然2人を発見し、虎之助と真琴は無事に保護された。
虎之助はその日起きた出来事に関して一切口を開くことはなかった。
真琴が周囲に事の顛末を説明したが、明瞭な意識を持ってハキハキと喋る無傷の真琴を見て、その言葉を信じる大人は誰一人としていなかった。
「鳴瀬町の幼い姉弟が行方不明になった」
山間の田舎町で起きた小さな騒動は、こうしてあっけなく幕を降ろした。
しかしその影で、「鳴瀬山けろけろタイガース」の伝説は、人知れずひっそりと幕を上げるのであった。