4話 虎千代
林泉寺の朝は早い。
小僧や和尚などは太陽もまだ顔を出さない様な朝4時頃には起きて朝勤をする。
以前は俺もそれに参加していたが、今は参加せずに朝食の準備をするのが日課。
今日も炊事場では俺と他の寺男が僧たちの朝食の準備をせっせと行っている。
「雪、俺は火を熾すから鍋に水を入れて来てくれ」
「了解です。それじゃあちょっと行ってきます。ついでにミツバとか若芽のヨモギでも雑炊の具として採ってきますか?」
「あれば採って来ておくれ。少しは雑炊も彩りが良くなるだろうさ」
「確かに茶色と桃の様な赤ですから碧が入れば鮮やかになるでしょうね。では行ってきます」
少しでも地味な雑炊を豪華にするために俺は誰でも採れる野草を摘むことを提案した。
と言ってもこの時代の食糧事情を勘案すれば豪華な食事は準備出来るはずもなく、いくら越後国、今でいう新潟県で米どころとして有名な田園広がる国といっても裕福な生活なんか出来るわけがない。白米なんて食べられるわけもなく粟や稗よりも大唐米という赤米の方が一般的なこの時代。
多くの農民は兎に角飢えを覚えないよう少しでも腹がいっぱいになる様、味や質よりも量を求めて唯一自分たち農民の口に入る大唐米や雑穀である粟や稗を雑炊にして腹を満たす日々。
今日の献立はその大唐米を雑炊にして嵩増ししたものと梅干だけだ。
はっきり言って質素である。だがこれが戦国時代の現実であるし、農民などは梅干すらないことだってある。
砂糖はもちろん貴重だから農民の口になどはいるはずもなく大名だって食べる事は難しい。海が近いから塩は比較的手に入りやすいと思うかもしれないが、そんなに多くの塩を精製出来るような施設が存在しないからやはり貴重なのには変わりない。生産性と労働力を考えると難しいのが実情だ。
塩が貴重ということは醤油なども非常に貴重品だし、味噌は何とかすれば手に入る位のもの。しかしそう頻繁に食することは出来ない所が悩み所。しかも大豆味噌ではなく糠味噌というものであり風味が違っている。
砂糖や塩が使えない食事、それがどういった味かなど分かり切っている。はっきり言えば味がないものが多い。
ここは皆が朝食を取る広間。
朝の日課である作務を終えた皆は聞こえる足音からも食事を心待ちにいているのだろうと分かるほどに廊下をトコトコやって来て板張りの上に茣蓙を引いてそこに座り、食事のお膳を置いて正座をして一切喋らず食事をする。
修行をしている小僧としてはまだまだ煩悩を抑える事は難しいのだろう。いや、それはそうか。仏の道に入る事を志した小僧だとしてもまだ7歳8歳の子供。現代では小学高低学年の年齢なのだから。
静寂が包んでいるこの空間には小僧と僧、和尚が食事の合間に出る僅かな音しかない。天室光育和尚や宗謙兄弟子、虎千代など今この寺の僧と呼ばれる全ての者が集まっている。
当初此処に来たばかりの虎千代は明らかな不満の顔をしていて、とてもジッと正座して食事をする様な子供ではなかった。子供特融のじっとしていられない特徴と言えなくもないが、それを加味しても落ち着きがなく、きっと城でいいものを食べて我がままし放題だったに違いない。
虎千代の幼少期、それは非常に暴れん坊であり手の付けられない子供であった。
義を重んじ誰よりも人を慈しみ、周囲に気配りをする、そんな清廉な人物ではなかったのである。欲望に忠実に義なんてものは知らん、口よりも先に手が出る、でも何処までもずる賢く、言葉遣い丁寧なので初対面の大人の受けはそれなりにいい。その典型の様な奴だった。
城内の誰からも疎まれ嫌われ、実の父親である長尾為景には高齢の時の子供であった為に実の子供かどうかも疑われ、厄介払いで寺に入れられたとまで言われている。
しかしこれには諸説あり、戦国時代は次男以降の子供は後継問題から切り離すためにわざと寺に入れたと言われており、虎千代は四男。兄である長尾晴景、長尾景康、長尾景房と三人も為景の後継がいるのだから寺に入れられるのは自然な流れなのだ。また為景は妻である虎御前が強い信仰心を持ち、それに子供ながら興味を示した虎千代を少しでも大人しくさせたいと思い寺に入れたという説もあるくらいだ。
でも結局は力が強い我が儘なガキ大将みたいな奴であることには変わりないのだ。
虎千代が林泉寺に来て数日。
不満な気持ちを隠せず顔に出してしまったり言動の端々に出たりもするが、相変わらず言葉遣いは丁寧であり天室光育和尚に対する態度も随分と師匠と弟子の関係になって来たのではないかと感じる。だが兄弟子や俺の様な寺男たちに対する態度は非常に悪い。
これは時間が解決してくれるという事は上杉謙信の未来、つまりは史実を知っている俺としては知ってはいるが、大きな変化は父親である長尾為景が死去してからというもの。
それまでは天室光育和尚から軍学や和歌、漢詩などを学んでいくが興味を示すのは軍学のみ。僧としては政にも直結しそうな軍学よりも和歌や漢詩などの文学の方が重要なのに、強い興味を示すのは軍学ばかり。
僧としての修行は段々と疎かになっていくのは言うまでもない。
しかもこの時代に2メートル四方のジオラマを作るなど、どれだけ熱中しているのかと怪訝に思うほどである。そんな物作る暇あったら修行をしろ、修行を。……言っても意味も無い事は分かっているけどさ。
現代に居たのならば間違いなくサバイバルゲームや戦略ゲームに熱中するオタクになっただろうな。
食事を終えるとまた小僧や和尚は昼の勤行に励む。多くの人物は作務である境内の掃除だ。寺男である俺も掃除はするが境内の庭を主に担当するし本殿の中などは決して掃除しないし出来ないのだ。これは身分差もあるし掃除も一種の修行と考える宗教特有のもの。
虎千代や、ゆくゆくは小姓として等という僧を目指す立場としては煩悩丸出しの野望にまみれた者は和尚から教養を学ぶ。この時代小姓は殿様の身の回りの世話に加えて夜の世話もしなくてはならない。戦場では女は連れていけないので男で性欲の処理を済ませるのだ。だから小姓は見た目も見目麗しくなければならないし、身の回りの世話をするための教養と気配りも無くてはならない必須条件。
つまり俺は絶対にやりたくない、ということだ。
男色をやらない奴は武将として失格とまで言われるし変態扱いされ後ろ指を指される。それくらいこの時代は男色には積極的なのだ。
戦国時代で一番の変態は誰か、と今の時代の武将たちに聞いたらきっと来年の1537年に産まれる木下藤吉郎や羽柴秀吉と様々な名で呼ばれる豊臣秀吉であろう。何故なら女にしか興味が無いのだから。
男色家として有名な武田晴信、後の武田信玄からはきっと気持ち悪がられて成敗してやる、と言われたに違いない。これは俺の勝手な予想だが。
因みにうちにいる天室光育禅師は1470年生まれの今年で66歳という高齢だ。寺院でも時には和尚の夜の世話をしなくてはならない時があるが、もはや使い物にはならないものしか持っていない天室光育禅師のいるこの寺には縁のない話だ。
でもここで一つ疑問がある。
くノ一などは房中術等と呼ばれる技などは先輩などが教えてくれると聞いた事がる。忍びの里から外の世界に術が漏れないようにする為であるが……寺ではどうなんだろう。
林泉寺では天室光育和尚は使い物にならないから実践では教える事は出来ないだろう。言葉で伝えたり指摘したりすることは出来るだろうが、それでも和尚の身の回りの世話をしている限りその気配は感じられない。
それならば知識としての技は別として実践の時の技はどうしているのだろうか。
寺にいる人の誰かが教えている?では誰が?実は案外身近な人が…………深く考えるのはやめよう。
長尾為景
1489-1543/1/29
上杉謙信の実父。
父である長尾能景の死去後、家督を継ぎ越後守護代となった。
守護である上杉房能を自刃させ、その養子の上杉定実を守護として擁立し傀儡とし、関東管領の上杉顕定を敗死させ越後の実権を取り戻した。
越中国や加賀国と転戦を繰り返したが、国内領主の反乱に遭い隠居した。後継は嫡子の長尾晴景。