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後編

「それって、どういう意味……?」

 私は真っ先にそう尋ねていた。


 普通に考えるなら『忠士さんは天国から善くんを見ている』、だと思う。

 天国なんてものが本当にあるのかは知らないけど、それはよく聞く言い回しで実際に善くんも皆から言われていた言葉だ。

 普通に考えないならそれは――怖い話だ。


 答えを待つ私を、善くんは更に強い力で抱き締める。

「兄さんが見てるんだ」

 さっきと同じ言葉を、取りつかれたように繰り返す。

「兄さんが見てるから、悪いことなんてできない」

「ま、待ってよ。見てるって、忠士さんは三年前――」

「わかってる。兄さんは死んだ」

 真意を確かめようとする私に、善くんは早口で言葉をかぶせてきた。

「でも、俺を見てる」

「ゆ……幽霊になって、ってこと?」

 恐る恐る聞いてみる。

 長いように思える沈黙があって、彼が首を振ったのがわかった。

「違う。俺は見たことがないけど、兄さんは俺を見てるんだ」

「意味わかんないよ、善くん!」

 困惑した私は、善くんの腕を無理やり振りほどいて抜け出した。

 それから振り向くと、今まで見たこともないくらい沈んだ顔の善くんがそこにいた。

「わからないと思う。俺だってわからない」

 本当に、彼が何を言ってるのか理解できない。

 でもどうにか答えを引き出したくて、私は更に質問を重ねる。

「見たことないなら、どうして忠士さんが善くんを見てるってわかるの?」

 すると善くんはぼそぼそと、低い声で呻くように言う。

「皆がそう言うから」

「皆って……」

「父さんも母さんも。町内会長さんや近所の人たちも。親戚のおじさんおばさんも。学校の先生も――」


 ちょうど今朝、町内会長さんが言っていた。

『お兄さんもきっと、君のこと誇らしく思ってるはずだよ』

 それは初めて聞いた言葉でもないし、私が知っている限り、似たようなことを善くんはこの三年間で何度も何度も聞かされてきたはずだ。皆にとっては善くんを励ます気遣いの言葉でもあったんだと思う。

 でも善くんにとってはそうじゃなかった、みたいだ。

 私は今日まで、この瞬間まで、何も知らなかった。


「善くん……」

 打ちひしがれている幼なじみに、私は精一杯の言葉をかけようとした。

「それって、何て言うか、たとえ話みたいなものだよ。誰も本当に忠士さんが見てるなんて思ってない」

 善くんは何も言わない。影をまとったような顔に、切れ長の瞳だけがぎらぎらと光っている。

「だって、亡くなった人は戻ってこないんだよ」

 そして私がそう告げると、善くんは即座に口を開いた。

「汐音はそれを証明できるのか? 死んだ人が生きてる人間のところに来ないって。傍にいて、俺のすることを何もかも見ていないって」

「えっ……で、できないけど」

 予想外の切り返しに一瞬詰まってしまった。

 だけどそんなことできない。できるはずがない。

「そうだ、誰にもできない。兄さんが俺を本当に見てるのかどうか、証明することなんてできっこない」

 私とは逆に、善くんは急に歯切れよく言い放つ。

「そして兄さんが俺を見てないって証明もできない。『兄さんが見てる』って皆が言い続ける限り、俺はその可能性を捨てきれないんだ」

 頑なに、そう信じきっているって口調だった。

「だから俺は、悪いことができない」

 悪いことができない。それは本当なら正しい行動のはずだった。

 だけど私には、善くんを縛る鎖のように思えて仕方がない。

「善くんはそれでいいの?」

 私が問う。

 善くんは溜息をつきながら、その場に座り込む。

「皆は、俺が立派になって喜んでる。兄さんだってきっと――」

 忠士さんは何も言わない。

 この部屋にいるのかどうかさえ、私にはわからない。


 それから善くんは、膝を抱えて黙りこくってしまった。

 私も、彼にかける言葉なんてもう思い浮かばなかった。だからそのまま善くんの傍にいた。善くんのお父さんお母さんが帰ってくるまで、ずっと傍にいた。


 次の日の朝、善くんはいつも通りに私を迎えに来た。

 寝癖一つない髪、ボタンが全て留まったブレザーとシャツ、歪みなく結ばれたネクタイ――いつも通りの姿ではあったけど、表情だけが酷く暗かった。

「お……おはよう」

 何事もなかったように声をかければ、善くんは苦しそうに目を逸らす。

「昨日はごめん、変な話して」

「え、えっと……」

「引いただろ。気持ち悪いよな」

 善くんらしくもない、吐き捨てるような物言いに胸が痛い。

 私は必死になって首を横に振った。

「引いてない。別に私、変に思ってないから」

 嘘じゃない。

 でも、全部本当だったわけでもない。

 善くんはどう思ったんだろう。小さく肩を竦めた。

「勝手なこと言ってるのはわかってる。でも、今まで通りに接してくれたら……嬉しい」

 昨日の私の告白に対する返事、みたいだ。

 本当なら、振られたってショックを受けるところなんだろう。でもそれどころじゃなくて、もっと酷いショックを受けていて、私は頷くしかなかった。

 すると善くんは無理やり作った笑みを浮かべて、

「ありがとう。じゃあ、学校行こうか」

 と言った。


 ショックだった。

 私は好きな人の苦痛、悩みすら知らないまま何年も過ごしてきた。

 三年前の事故のこと、引きずってるのは私だけだと思ってた。身体に深い傷跡が残ってる私だけが。

 だって善くんはずっと明るく振る舞っていたし、前向きに生きているようにも見えた。お兄さんの無念を背負って、立派な優等生になって――でもそれは違った。

 私よりも、誰よりも、あの事故に縛られていたのは善くんだった。


 その日一日、私は善くんの様子を見守りながら過ごした。

 それで、気づいた。

 町内会長さんに頼まれて、町内のいろんな仕事を手伝っているのも。

 学校では先生に雑用を頼まれても嫌な顔一つしないのも。

 休み時間にクラスメイトから授業について質問されて、丁寧に教えてあげるのも。

 進んで生徒会役員になって、居残りまでして作業をしているのも――。


『兄さんが、見てるから』


 優等生としての善くんは、そうやって作られたものだった。

 いつだって忠士さんが見てるって思い込んで、いつもにこにこして、頼まれごとも嫌な顔一つせず引き受けて、勉強だって何だって人一倍努力して成績もよくなった。

 でも、善くんには悪いことができない。

 善くんが悪いことって捉えてる、でも誰もがする当たり前のことができない。

 辛い時に皆の前で辛い顔をすること、面倒な頼みを断ること、時々は勉強なんかをサボること、そして恋をすること。

 それは本当にいいことなんだろうか。

 悪いことができない善くんは、幸せなんだろうか。


 ぼんやりと考えたまま、いつも通りに振る舞う善くんを見つめながら、数日が過ぎた。

 そして迎えた土曜日、私は善くんとワッフルを食べに行く約束をしていた。でもとてもじゃないけどそんな気分にはなれなくて、迷った末、約束の時間ぎりぎりにメールを送った。

『ごめん、風邪引いたから今日は中止』

 嘘をつく後ろめたさはあったけど、代わりに行きたいところがあった。

 忠士さんのところだ。


 事故があってからというもの、一人で乗り物に乗るのが苦手だった。

 バスはまだ平気だけど、それでも怖くなってバス停に立ってから二本見送った。三本目でようやく乗り込んで、一番後ろの席から窓の外ばかり見ていた。

 私を乗せたバスは街外れへ向かい、小高い山の途中で私を降ろす。

 民家も商店も一切ない寂れた山の中腹に、忠士さんが眠る市営墓地がある。見渡す限りお墓が並ぶだだっ広い墓地には、これまでにも何度か足を運んだ。でも一人きりで訪れたのは初めてだった。

 お供えとか何がいいのかわからなくて、お花とお線香だけ買ってきた。服装もお葬式ほど畏まらなくてもいいだろうと思って、ブラウスとスカートにした。ただ山だからか、あるいは薄曇りの午後だからか、ちょっと肌寒くてこれは失敗だったかもと思う。


 お彼岸シーズンも過ぎた今、墓地は私以外に人の姿がなかった。

 新興住宅地みたいに整然と並ぶお墓の中を歩いて、やがて忠士さんの眠るお墓を見つけた。

 小此木家乃墓、と刻まれた墓石の側面に、忠士さんの名前もちゃんとある。享年二十一歳。冷たい石に記された文字は整いすぎていて、ここにあの人がいるって実感が湧かない。

 私は備えつけの花立てに買ってきたお花を挿し、お線香にマッチで火を点けた。

 それから手を合わせて、忠士さんに呼びかける。

「忠士さん。善くんのこと見てるって、本当?」

 返事はない。

「皆がそう言うって、善くんが言ってる。善くんもそう思って、悪いことができなくなってる」

 亡くなった人がどうなるのか、幽霊はいるのかどうか。私たちは何も知らない。

 善くんの言った通りだ。いることも、いないことも、証明なんてできない。

「忠士さん、善くんを助けてあげてくれないかな」

 そう尋ねたって、やっぱり返事はない。

 優しいお兄さんだった。善くんのことをとても可愛がっていて、いつも車でいろんなところに連れていってあげていた。あの日だって、善くんが遊園地に行きたがってるのを知って、それで連れていってくれようとしてたんだって聞いた。


 でも、善くんだって優しい。

 遊園地に行きたかったのは善くんだけじゃなくて、私もだった。それで善くんは私のことも誘ってくれて、すごく嬉しかったのを今でも覚えている。

 事故に遭った時だって――車の中で潰されかけていた私が痛みで意識を失いかけると、私の血まみれの手を握って必死に呼びかけてくれた。汐音、汐音って名前を呼んでくれて、それで私はあの時救助を待っていられた。深い傷の痛みに耐えながら、善くんの手をきつくきつく握り返していた。善くんだって痛かっただろうけど、彼は泣き言一つ言わなかった。

 優等生になる前から、昔からずっと、私は善くんが好きだったんだ。


「――汐音っ!」

 いきなり名前を呼ばれて、びくっとした。

 慌てて振り向くと、善くんが墓地に駆け込んできたところだ。私がどこにいるかは察していたみたいで、真っ直ぐにこっちへ駆けてくると私の要るお墓の前で立ち止まる。

「な……何で、ここに来たんだよ……」

 息を切らしつつ尋ねてきた善くんに、私は立ち上がって応じる。

「善くんこそ、どうしてここにいるの?」

「汐音が……、家に行ったら出かけたっておばさんが言うから」

 肩で息をする善くんが、苦しそうに顔を歪めた。

「ここに来てる気がしたんだ、何となく」

「だったら、どうして私がここに来たかもわかるよね?」

 聞き返してみると、善くんは荒い呼吸のまま黙った。

 だから私は自分で続ける。

「忠士さんに聞いてみようと思ったの。善くんのこと見てるのか」

「答えるはずないだろ。兄さんは死んだんだ」

「そうだね。見てるのかも、見てないのかもわからなかった」

 誰も証明できない。

『兄さんが、見てるから』

 その言葉が本当かどうか、私には証明する手立てもない。

「でも善くん、見て」

 私は墓地を一周ぐるりと眺めやってから、改めて善くんを見つめる。

 よほど急いで追いかけてきてくれたのか、いつもは寝癖一つない善くんの髪が乱れていたし、頬は上気して真っ赤だった。流れる汗をパーカーの袖で拭う、その仕種は優等生っぽくなかった。

「ここにはこんなにお墓があるし、一つのお墓には一人だけじゃなくて、何人かが一緒に眠ってるんだよ」

 市営墓地は広い。碁盤の目みたいに区画整理された土地の中に、数え切れないほど多くのお墓が整然と並んでいる。

 うちの市だけでこれだけあるんだから、日本中のお墓の数を数えたらとてつもない数字になるだろう。

「亡くなった人が生きてる人の傍にいるなら、その数ってすごいことになるよね。本当にいるのかな」

 私が言うと、善くんは目を伏せた。

「汐音の言いたいことはわかる、でも」

「善くんが信じたくないなら、信じることないよ」

 私はそう思う。

 信じたくないものを誰かに言われたからって理由で信じる必要なんてない。

 もちろん、善くんが忠士さんに見ていてほしいと望んでいるなら話は別だ。

「俺は……」

 善くんが、その言葉の続きをためらった時だった。


 不意にぽつんと、冷たい雫が落ちてきた。

 雨かなと空を見上げたら、薄曇りだった頭上にはいつの間にか暗い雲が垂れ込めている。雨粒は次から次へと降ってきて、私の頬や白いブラウス、それに傍らの墓石にぶつかり始めた。

「汐音、雨だ。どこかで雨宿りしよう」

 我に返ったように善くんが言い、私の手をぐっと掴んだ。

「あっ、待って。花を持ち帰らないと――」

 私は花立てから備えていた花を回収し、お線香の火を消した。

 そして善くんに手を引かれ、墓地を急いで駆け出した。


 広すぎる市営墓地の中には、どういうわけか雨宿りできるような場所がなかった。

 それで私と善くんは墓地を駆け抜け、バス停まで戻るしかなかった。バス停には簡素な待合所があって、そこなら雨くらいはしのげるからだ。

 無人の待合所に二人揃って飛び込んだ時、雨はバケツを引っ繰り返したみたいな土砂降りになっていた。私たちも当然ずぶ濡れで、水滴を滴らせながら待合所内のベンチの上に座り込む。屋根を打つ雨音が激しく反響して、怖いくらいだった。

「次のバスまで、三十分以上あるな……」

 時刻表を確かめた善くんが溜息をつく。

 それから私が座るベンチに戻ろうとして、なぜか慌てて目を逸らした。

「どうかした?」

 その様子に思わず尋ねれば、善くんはこちらを見ないまま言いにくそうにする。

「汐音、服が……」

「服?」

「濡れて、透けてるから」

 言われて見下ろしてみれば、お墓参りの為に着てきた白いブラウスは水を吸い、肌の色がわかるほど透けていた。

「あの、ごめん。俺も濡れてなかったらパーカー貸してたんだけど」

 善くんは顔を不自然に背け、妙にあたふたしている。

 これも善くんの基準では『悪いこと』なのかもしれない。そう思いつつ、私は透けるブラウス越しに自分の身体を眺めてみた。さすがにこれでも傷跡までは見えない。

 でも、見て欲しい。

「善くん」

 待合所には私たちの外には誰もいない。

 そして外は激しい雨のカーテンで覆われていた。

 だから私は立ち上がり、善くんの前に立って呼びかける。

「嫌じゃなかったら、見て欲しいんだけど」

「え!? い、嫌とかそういう問題じゃ――」

 善くんが慌てる傍で、私はブラウスの裾をスカートから引き抜き、そのボタンを下から順にいくつか外した。

 それから前を軽く開く。

「見て」

 改めて告げれば、善くんは覚悟を決めたように首をぎこちなく動かした。

 落ち着きなく泳いでいた切れ長の瞳が、私の剥き出しのお腹に留まった途端、大きく見開かれる。そして息を呑むのが聞こえた。

「汐音、その傷……!」

 善くんの顔がそこで凍りつき、声も震えた。

「まだ、残ってたのか……」

「ずっと消えないって。結構深かったから」

 皮膚を縫い合わせた後は醜く盛り上がっていて、一目見ただけで縫合の跡だとわかる。

「中身が今、無事に動いてるのが不思議なくらいだよ」

「今も痛むのか?」

「たまに、引きつるみたいな痛みはあるけど、その程度」

 それよりも傷が開いた時を思い出して、気持ち悪くなることの方が多い。

 でもそれも、年々薄れているように思う。

「触ってみる?」

 善くんの目が傷跡に釘づけになっていたから、私はそう切り出してみた。

 彼が一瞬うろたえるのが表情でわかった。

「べ、別に変な意味で触りたいんじゃない……けど、いいのか?」

「善くんなら、いいよ」

 私は頷いた。


 善くんの手が、そろそろと、慎重に、私のお腹へ伸びてくる。

 私はその手をそっと取り、傷跡へと導いた。

 彼の手は温かかった。熱いくらいだった。皮膚の上に乗せるとしっとりしていて、その手が傷跡をなぞるように優しく撫でてくる。

「ん……」

 私が声を漏らすと、善くんは一瞬びくりとしたけど、手は離さなかった。

「痛くないか?」

「平気。いいよ、触ってて」

 善くんの手が気持ちいい。

 こうして傷跡を見せることになるって、触ってもらえる日が来るなんて、思ってもみなかった。

「本当は善くんのこと、諦めようと思ったんだ」

 私が呟くと、傷跡を撫でていた善くんの手が止まる。

 切れ長の瞳が微かに揺れて、私を見る。

「この傷見せたら、事故のこと思い出させちゃうから。善くんはもうすっかり立ち直って、前向きに生きてるんだって思ったから」

 潤んで揺れる彼の瞳に、私は精一杯笑いかけてみた。

 本当に、この目が好きだ。

「でも、善くんが忘れてないなら――それどころかあの日に囚われたまま前に進めてないっていうなら、私も諦めないって決めた」

 私が、善くんを助けたい。

 そう思った。

「善くんのこと、好きだよ。ずっと昔から……」

 私は手を伸ばし、目の前にある善くんの頬を包んだ。

 善くんが私を真っ直ぐに見つめてくれる。

「汐音……」

「お願い、善くん。私を見て」

 私は彼の瞳に告げた。

「忠士さんが善くんを見てるかどうか、私にはわからない。皆の言うことが正しいのかってことも。だけど」

 だけど、私は生きている。

 そして善くんの傍にいる。

「私は善くんを見てる。それは証明するまでもなく、本当だってわかるよね」

「……ああ」

 善くんが頷く。

「だったら、私を見て。見えないものじゃなくて、ちゃんと見えてる私を見て」

 彼の目には今、私が映っているはずだ。

 雨に打たれてずぶ濡れで、寒さで少し震えていて、身体には消えない傷痕がある私。

 善くんのことが本当に大好きな、私が。

「私は善くんに幸せでいて欲しい。正しくなくてもいいから、立派じゃなくてもいいから、幸せにしたいって思ってる」

 両手で包んだ彼の顔に、私は静かに近づいた。

 目を閉じる。

「『悪いこと』しようよ、善くん」

 そう言って、背伸びをしてみる。

 一瞬だけ唇が触れた。柔らかいかどうかもわからないくらいの、本当に瞬きくらいの短さだった。目をつむったままじゃわからない、そう思ってうっすら開けてみたら、ほぼ同時に善くんが私を強く抱き締めた。

「俺も好きだ、汐音!」

 雨音をかき消すような声で善くんは叫ぶ。

「その明るさも、俺を笑わせようとしてくれるところも、傷跡だって全部――全部大好きだ!」

 それから善くんは私の頭を鷲掴みにして、さっき私がしたのよりも遥かに荒々しく唇を奪ってきた。

 唇だけじゃなくて歯がぶつかって、それでも構わず貪られて、それから唇を割って熱い舌が滑り込んでくるようなキスだった。濡れた服越しに感じる善くんの体温が、私の身体にじわりと伝染してくる。雨に打たれた後なのに、熱くて溶けちゃいそうだった。

「……しちゃったな、悪いこと」

 一度唇を離した後、善くんは息を乱しながらそう言った。

「善くんが幸せなら、すればいいと思うよ」

 私が応じると、彼はとろけるように微笑んだ。

「なら、もっとする。これからいっぱい、汐音と悪いことする」

 開き直ったみたいに言うから、こんな時だけど私もおかしくてちょっと笑った。


 次の日、善くんは用水路の掃除に行かなかった。

 前の日に雨に打たれて風邪を引いたから――という理由が嘘なのは、善くんの他には私だけが知っている。

 代わりに、その次の週には行かなくてはならなかったけど、私もついていって一緒に手伝った。だから善くんは水路掃除の間だって幸せそうだった。


 優等生をすぐに辞められないのは私もわかってる。

 急に辞めて『ぐれた、反抗期だ』みたいに思われても困るから、ゆっくり、少しずつ辞めることにするらしい。

 そして善くんが生きやすいような、無理なく過ごせるような善くんになるつもりらしい。

 その間にも私たちは時々、二人だけで悪いことをする。そんな時の善くんは本当に嬉しそうで、幸せそうで、その顔を見ているのは私だけってところが私もすごく幸せだ。善くんの為にも、もちろん私の為にも、これからいっぱい悪いことをすべきだって思ってる。


 忠士さんが善くんを見てるのかどうか、私にはやっぱりわからない。

 でも私だって善くんを見てる。そのことは誰にも、忠士さんにだって負けないつもりだ。

 善くんが迷う時には、その目に映る一番確かな存在でありたい。いつも、そう思ってる。

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