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他人の才能をうらやむ雨多の耳に、不意にまり花の声がよみがえった。
――あのねっ、ウタちゃん! 才能って一種の責任なのっ! それを備えて生まれたからには、手つかずで放り出しておいちゃいけないの!
それは今日、まり花が雨多に力説したことだった。
身に享けた才能は責任なのだとして、まり花は自らに修行を課している。
その百合ヶ丘の魔女が、雨多の羨望を知れば、何と言うだろうか。
きっと、気楽なものだと思われるだろうと、彼女は想像した。
遠慮のないまり花のことだから、雨多の前で盛大に不満を表すかもしれない。
「……でも、それでも、何にもないのに比べたら、才能があった方が絶対いいわよ」
脳裏に浮かべたまり花の面影に、雨多は口に出してそう言った。
脱衣所と一体の洗面スペースには、上半身が映る大きさの鏡がある。
頭髪を乾かすためドライヤーを使おうとその前に立った彼女は、鏡の中に憂鬱そうな顔をした自分が映っているのを見つけた。
――――――――――――――――
その日は幸いにも、悪い夢は見なかった。
自分のベッドの中で目を覚ました雨多は、黒薔薇に悩まされなかったことに安心して枕元へ目をやる。
アラームをかけたスマートフォンの隣には、まり花から与えられたお守りのブレスレットが置かれていた。
この繊細なブレスレットの効力だろうか、最悪の目覚めを繰り返さずに済んだのは、雨多にとってありがたいことだ。
「っていっても、学校に行かなきゃならない気の重さは、お守りじゃどうにもならないけど……」
あくびをして、彼女はのろのろとベッドに身を起こす。
黒薔薇が襲ってこなくとも、平日の雨多は毎朝、重たい気持ちと戦って体を動かしていた。
これから身支度をして学校だと思うと、中々エンジンがかからない。
彼女の一日の始まりには、かなりの気合いが要った。
号令をかけてベッドから出て、雨多は朝の支度をこなす。
制服へ着替える最中、彼女はお守りのことを思い出した。
この日の授業に体育があるため、雨多は夕べ、まり花へ質問のメールを送ったのだ。
――体育の授業のときは、お守りはどうすればいいかしら? ポケットに入れておくのも不安だし。
それへ、まり花からすぐに返信が飛んできた。
デコラティブなメールの中で百合ヶ丘の魔女は、下着の内にでも入れて身につけておくよう、ハートマーク付きで勧めてきたのだった。
それに従い、雨多は胸元にブレスレットをすべり込ませ、ブラウスの前を止める。
グレーのジャンパースカートを頭からかぶるようにして着用し、片手に上着であるボレロを持った。
「これでよし、と」
そして、今日も三つ編みに結った髪の先端を、指で軽くはじく。
特別自分に似合うとも思えず、好きなわけでもない三つ編みだが、校内で目立たず平穏に過ごしたい雨多としては、髪型で冒険する気にはなれない。
やはり重いため息とともに朝の支度を終え、彼女はスマートフォンを入れた制鞄を手に自分の部屋を出た。
――――――――――――――――
その日の体育の授業は、体育館でのバレーだった。
授業時間の合間に、生徒たちは教室で体操着に着替える。
雨多も体操着を入れた袋を机上に置き、羽織っていたボレロを脱いでいすの背にかけた。
そこで彼女は、隣の席の今日子がスピーディーに着替えを進めているのに気付く。
自分や周りの生徒と比べて、彼女は何やら急いでいるようだった。
ふだんがおしとやかな今日子のてきぱきとした動作に、雨多は首を傾げて尋ねる。
「今日子さん、お急ぎですの? そういえば、体育委員なんでしたっけ」
「ええ。委員だから体育館でバレーの準備をする係りなんですが、今日はもう一人の委員の方がお休みなんです。だから、できるだけ早く移動して一人で準備をしてしまおうと思って」
「まあ、そうでしたの。でしたら、わたしがお手伝いしましょうか」
本来なら、極力目立たずに過ごしたい雨多であったが、話を聞いては素知らぬ顔もできない。
少しおずおずとしたこの申し出に、今日子は嬉しげに顔をほころばせた。
「雨多さん、ありがとうございます。助かりますわ」
「い、いえ。一人で準備は、大変ですものね」
ぎこちなく手を横に振ってみせる。
昨日にプロメテウスに真っ向から誉められたときもそうだったが、賞賛や謝辞を堂々と受け取ることは、雨多には難しかった。
彼女は着替え終えると、今日子と連れだって体育館へと向かう。
体育館シューズにはきかえ、体育館の入り口から今日子が雨多に中を指して言った。
「雨多さん。体育館の床の、あそこ、色が違う箇所ですわ。あれは蓋になっていて、そこを開けてもらうと、中に支柱を立てる差し込み口がありますの。支柱は、体育館の用具倉庫の中です。ネットもそこですわ。倉庫からそれらを取り出してきて、この床に立てていくことになります。まずは倉庫にご一緒していただけるかしら?」
「ええ、行きましょう」
雨多は今日子に伴われて、体育館内から用具倉庫の入り口の前に立った。
二人で金属の重い引き戸をすべらせれば、キャスターがごろごろと音を立てる。
雨多も体育館での授業は何度か受けていたが、倉庫に入るのは初めてだ。
ここにも採光用の窓はあるが、明かりをつけない倉庫内は薄暗かった。
中に入ると、床運動の道具や積まれたマットが目につく。
内側から来た方を振り返れば、戸口付近には清掃用の大きなモップもしまわれているようだ。
今日子の示したバレー用の支柱を、まずは一本、二人がかりで運び出す。
両腕に提げたポールの重量に、雨多が驚いて今日子に言った。
「今日子さん、この支柱ずいぶん重いわ。この用意をお一人でなさろうとするなんて、無茶ではないかしら」
「時間をかければ大丈夫かと思ったのだけれど……やはり、重い物ですわね。雨多さんが助けてくださったからよいようなものの、わたくし一人では往生しているところでした」
手にした重みに、今日子も目を円くしている。彼女の予想では、自分だけでもどうにか片付けられる作業だったのだろう。しかし、実際の用具の重量は、少女一人で抱えるには難しいものだった。
倉庫と支柱の設置点を往復し、支柱二本とネットを運び終える。
バレーボールを満載したキャスター付きのかごを倉庫から引き出し、二人は協力して重い音を立てて戸を閉めた。
並んでボールかごを押しながら、雨多は今日子におそるおそる切り出す。
「あの……わたしでよかったら手伝いますから、大変なときは無理をせず、そうとおっしゃってくださいね」
「まあ、ご親切に。ありがとうございます。厚かましいけれど、授業が終わった後の片付けにも、早速お力を貸して頂きたいのですが」
「ええ、もちろん。厚かましいなんて、とんでもない」
ほっとしたようにほほえむ今日子に、雨多の方も安堵した。
協力を申し出て、それがすげなく断られたらどうしようと、心のどこかで彼女はその可能性を危惧していたのである。
今日子の側に、差し伸べた手をはねつける要素は見当たらないにも関わらずだ。
実際に相手は雨多の好意を喜び、にこやかにそれを受けたではないか。
しかし、それでも雨多には、理由のない不安感が拭えなかった。
彼女の申し出が受け容れられるかどうかを危ぶむのは、つまりは、雨多自身が他者に受け容れてもらえるかどうかを心配しているのと同じだ。
彼女はまだ新しい環境に慣れず、自分というものを出せないでいる。
自分から話しかけるのも、相手へ答えるのも、全てにおいてどこかおどおどとしていた。
――よかった。よけいなお世話にならなくて。
彼女は内心でそうつぶやく。
慣れないことば使いでのやり取りに気疲れはあるが、今日子とのコミュニケーションはうまくいったと言える。
ほんの小さな出来事ではあるし、これで雨多の抱える問題の全てが解消されたわけでもない。
だが、この小さな成功は、彼女の中で一つの自信になった。
彼女たちが支柱を立てようとしていたところへ、体操着に着替え終えたクラスメートたちがやってくる。
二人の姿を見つけ、少女たちは口々に言った。
「今日子さん、雨多さん。コートのセッティングですの?」
「まあ、それならそうと言ってくださればよろしいのに。お手伝いいたしますわ」
「ありがとう、みなさん」
この協力の申し出に、今日子がにこやかに礼を言う。
増えた人数で手分けをして、支柱を差し込み口に立てるところから、ネットを張るまでの全てがスムーズに進んだ。
一緒に作業をしていたクラスメートが、雨多に尋ねる。
「あら、雨多さんも体育委員でいらしたの?」
クラス内で社交的とは言えない雨多は、この少女ともあまりことばを交わしたことはない。
互いに面識の薄い相手だ。
雨多は彼女に、事のあらましを話した。
「いえ、わたしは違うのだけれど、今日はもう一人の委員の方がお休みだというから、お手伝いにと思って」
「まあ、雨多さん。お優しいのね。よく気が付かれること」
クラスメートから満面の笑みとともにそう誉められ、雨多はどぎまぎとして答える。
「えっ……そんな。さ、差し出口かと思ったのだけれど、今日子さんのお役に立てたようでようございました」
雨多は何とか最後まで言い切ったものの、平素から誉められ慣れないのがここでも出て、ことばの調子がどうにもぎこちなかった。
顔が熱く感じるのは、きっと頬が赤らんでいるからだ。
しかし、そうと意識しても、雨多にもコントロールすることはできない。
――今日子さんやプロメテウスなら、こんなときでも堂々としていられるんだろうな。
あの二人を見るに、本当に自信のある人というのは、自分の美点をひけらかそうとしない。
そして、雨多には意外な発見だったが、そうした人たちは他者の力を借りるときにも、物怖じしないようなのだ。
先ほどの今日子がそうだが、自分一人でできるからと、要らぬ虚勢を張ろうとしない。
それに、人に力を貸してもらうにしても、卑屈にならずそれを受け容れることができる。
きっと、今日子のようなタイプは、自分が人を助ける側に回っても、気負わずスマートに振る舞えるのだろう。
態度にどこか余裕があり、堂々としているというのが、プロメテウスや今日子に共通した点だと雨多は気付いた。
――何て言うか、中身の豊かな人っているんだわ。
身近な人たちの人間性を観察し、彼女はそう結論する。
今日子も、おそらくはプロメテウスも、経済的に恵まれた家庭の子女であろうと想像はついた。
しかし、雨多も金銭面では豊かさに与っているが、内面的に今日子らのようであるかと問われれば、向こうとはかなりの距離を隔てていると即答する。
雨多は、人へ力を貸すこともその逆に助けを借りることでも、彼女たちのようにさりげなく振る舞うことはできなかった。
他意なく誉められて挙動不審になる自分に気付くとき、彼女は深いため息が出てしまう。
こういうところに、雨多は周囲との差を感じた。
しかし、コミュニケーションに少し自信をつけていた雨多は、落ち込んでばかりもいなかった。
――今日子さんともお話できたし、クラスのみんなとも、もっとことばを交わしていこう。
気を取り直して、そう自分に言い聞かせる。
クラスメートとの間に不釣り合いを感じて、編入以来、周りと距離を置くのに四苦八苦していたのは雨多だった。
だが、ここに来て彼女は、ほんの少し変わり始めている。
おずおずとではあったが、自分から周囲と関わろうと決めたのであった。
彼女は、胸元に入れたまり花お手製のお守りのことを思い出す。
別に、対人関係に効力があるものでもないだろうが、不思議なブレスレットを身につけているという事実が、何とはなしに心強く感じられた。
「では、雨多さん。おことばに甘えて、用具の片付けも手伝っていただいてよろしいかしら」
授業後、今日子から声をかけられ、雨多がうなずく。
「ええ」
「でしたら、わたくしどももお手伝いいたしますわ」
周りからの協力もあって、終わりの片付けは用意するときよりも速やかに進んだ。
人では十分に足りているから、先に体育館を出るクラスメートもいる。
これで午前の授業はラストだ。
みな着替えて昼食をとるのだろう。
雨多は片付けの仕上げに、今日子とバレーボールの入ったかごを押す。
そのとき、彼女は見慣れないジャージ姿の生徒が体育館に現れたのを見た。
「あら、学校の体操着でない方がいらっしゃるのね」
「ああ、あれは運動部の方ですわ。昼の練習で体育館を使うのでしょう」
雨多の疑問に、今日子が答える。
彼女らが昼休みに入るのと入れ替わりに、運動部員たちがここを利用しに来たらしい。
何となく少女たちを眺めながら、雨多が言った。
「それにしても早いものですわ。まだ昼休みに入ったばかりですのに」
「そうですわね。みなさん一年の、新入部員の方たちでしょうか。事前に昼練の準備をしにきたのかもしれませんね」
実際のところは分からないが、今日子の予想に雨多もなるほどとうなずく。
しゃべりながら、ボールのかごを倉庫へ運び入れた。
すでに支柱やネットはしまい終え、手伝ってくれたクラスメートも先に体育館を出ている。
後は、二人がそれに続くだけだった。
だが、ボールを満載したかごを定位置へ戻し、今日子の後について雨多がそこを離れようとしたときだ。
かごの側にバレーボールが一つ転がっているのに、彼女は気付いた。
かごにはボールがこぼれんばかりに乗っていたから、そこから落ちてしまったのだろう。
それを拾い上げようと倉庫の薄暗い床に屈んだ雨多は、ごろごろと大きな音が鳴ったのに驚いて顔を上げた。
見れば、さっきまで開いていた戸が閉ざされている。
「と、戸口が……?」
自分がまだ中にいるのに、なぜか倉庫の引き戸がぴったりと閉まっていた。
――閉じ込められちゃったってこと?
思わぬ事態に動転し、雨多はボールをかごへ戻すのも忘れて扉の方へ駆け寄る。
そこで自分が取り落としたボールにつまずき、体勢を崩して内側から戸にぶつかった。
その拍子にガタンと音が立つ。
「あ痛っ」
そう声を上げたものの、戸にぶつかったくらいで構ってはいられない。
雨多はすぐさま引き戸に手をかけ、扉を開けようとした。
しかし、力を込めても扉が動かないのだ。
「うそ……鍵まで閉まってるの?」
先に出た今日子も、まだ雨多が中にいることを知っているはずであるのに、なぜ倉庫の扉が閉められてしまったのか。
さらに鍵もかけられているらしいことに、雨多は混乱する。
――まさか、今日子さんが閉めたの? どうして? いや、でも……。
自分は故意に閉じ込められたのだろうか。
この疑問を、突拍子もないものと雨多は打ち消そうとする。
彼女には、今日子が人を陥れるような相手には見えなかった。
それに、体育の用具倉庫に閉じ込められる理由など、雨多に心当たりはない。
心当たりがないというのに、彼女の胸には闇雲な不安感が膨れ上がった。
採光窓から外の光が入るが、戸が閉まっていて倉庫内は薄暗い。
そのどことなく陰気な空間に一人取り残され、雨多の鼓動が不穏に高鳴った。
――どうしよう。本当に閉じ込められちゃったの? どうして?
閉じ込められたという前提がまず不確定であったが、不安から雨多の思考が飛躍した。
開かない倉庫の戸が、まるで自分への拒絶のように感じられる。
突然の事態に、冷静に対処することは彼女にはできなかった。
雨多は声も出ず青くなり、極端な考え方に走ってしまう。
――今日のことも、うまくいったと思っていたのが自分だけだったらどうしよう……。もしかしたら、人の反感を買っていたのかもしれない。
先ほど、ささやかながら雨多に生まれたはずの自信は、もろくも砕け散った。
クラスメートの役に立てればと手伝いを申し出、てっきり喜んでもらえたと思っていたところに、この出来事だ。
心の浮き立っていた雨多は、冷水を浴びせかけられたような気持ちになった。
――やっぱり、わたしには周りと打ち解けようなんて、無理なのかもしれない……。
そう考えて、胸苦しさに襲われる。
倉庫の暗がりよりも、彼女の胸に生まれた不安感の方がなお暗かった。
自分が育てた悪い想像に縛られ、雨多は身動きができなくなる。
浅い呼吸を繰り返す彼女の鼻先に、ふと場違いに甘い香りが漂ってきた。
花の香りだ、と認識した瞬間、雨多の背筋が総毛立つ。
危険を察知した本能が、身の縮こまる緊張を凌駕するほどに強い警告を発した。
「この香りは……!」
ぎょっとして彼女は背後を振り返った。
ねっとりと甘ったるい芳香は、悪夢の中でかいだものに違いない。
それがなぜ、現実の世界の倉庫内で漂ってくるのか。
かえりみた先で雨多は、想像を上回る光景と出会い、声を上ずらせた。
「う、うそっ!」
いつのまに開花が進んでいたのか、採光窓の鉄格子に大輪の黒薔薇がいくつもついていた。
戸口ばかりを見ていた雨多は、背後につぼみが出現していたことも知らない。
つぼみはすでに花を開き、そこから怪しい芳香が流れ出ていたのだ。
薔薇の花の下からは、とげの付いた緑の蔓が這い出ている。
何本もの緑の蔓は、窓から倉庫の壁を伝い、置いてある用具に絡みながら進んで、知らぬ間に雨多の側まで到達していた。
見下ろしたすぐ近くの床、そして雨多の傍らの跳び箱の側面にも、不気味な緑色の筋がいくつか走っている。
背後から忍び寄っていた蔓は、今や彼女の間近に迫り、その先端を体へ伸ばしてきた。
――あの蔓に、捕らえられてしまったら……。
先日の悪夢が、雨多の脳裏にまざまざとよみがえる。
顔が恐怖にひきつった。
ぎこちなく後ずさろうとしたものの、彼女は足下に転がっていたバレーボールに再びつまずいてしまう。
尻もちをついた雨多に、蔓は容赦なく向かってきた。
蔓は、まるでそれ自体が意思を持つもののように動く。
おびえる雨多の目には、その様が獲物を狙う蛇に見えた。
鎌首をもたげた蛇が標的に襲いかかるように、ついに蔓の一端が彼女をめがけて放たれる。
「――いやっ!」
悲鳴を上げて、雨多は反射的に目をつぶった。
彼女にはほかに、なす術がない。
彼女の体操着の胸元へ、無情にも伸びた蔓の端が届こうとした。
しかし、それが雨多に触れる寸前、突然に光が生まれる。
閉ざした瞼に不思議なまぶしさを感じ、目を開いた彼女は、そこに驚くような光景を見た。
「ええっ?」
雨多の胸元が、白く輝いている。
そして、彼女に襲いかかった蔓は、光に触れると急速に勢いを削られ、細って消失していくではないか。
さらに、光は蔓を伝い、緑のそれを白い輝きで覆ってしまった。
床に座り込んだまま呆然と事態を見守る雨多の前で、幻想的な白の光が緑の蔓をコーティングする。
次の瞬間、活発だった緑の鞭が弱り果てて空に消えていった。
その間にも光は蔓から蔓へ、そして薔薇の花へと伝ってゆき、対象を白い輝きで包んでは消し去ってゆく。
薄暗い倉庫のあちこちで清浄な光がきらめいた。
「あ……」
雨多の胸元で、体操服の布地を通して何かが光っている。
熱や衝撃は何も感じなかったが、この不思議な光が奇怪の黒薔薇を撃退してくれたのだ。
雨多はおそるおそる胸元へ手をやってみたが、てのひらに感じるものは服地の感触くらいだ。
やがて倉庫内の黒薔薇や蔓は一掃され、それを潮に白い光は薄くなっていった。
黒薔薇からすんでのところで自分を助けてくれたこの光は、どこから生まれたのか。
胸に手を当てた雨多は、今朝方の出来事を思い出し、はっとして声を上げた。
「あ! お守り……まり花がくれたブレスレット。もしかして、あれが助けてくれたの?」
まり花からのアドバイスに従って、彼女は着替えの際、お守りを肌身離さないように、服の下に入れていたのだ。
ほかに心当たりもなく、不思議なブレスレットの効力だと考えて間違いないだろう。
胸元で輝いていた白い光も、次第に弱まり消えていった。
雨多はふとあることを思い出し、周りに鼻を利かせる。
そして、嗅覚に何も引っかからなかったことに、首を傾げた。
「あれ……? あの香りも、もうなくなってる」
黒い薔薇が消えたからか、頭のぼんやりする甘ったるい匂いも、倉庫から失せていた。
床から立ち上がった雨多は、足下に転がっていたバレーボールをかごの中へと放る。
そのとき、背後の戸をたたく音がして、彼女は驚いて飛び上がりそうになった。
「――! 雨多さん!」
「今日子さん?」
外から呼びかけてくる声が誰のものか、雨多にはすぐに分かった。
どうやら、雨多が中に閉じ込められたことに、今日子は気付いてくれたらしい。
黒薔薇の甘い香りをかいでから、目の前の異変のことしか彼女には意識されなかったが、今日子の切迫した声の調子からして、表では雨多が気付くより前から呼びかけ続けてくれたのかもしれなかった。
「今日子さん! わたしはここよ!」
「雨多さん! やっぱり中にいらしたのね。どうしたのかしら、倉庫の戸が開かないなんて。戸口に鍵はかけていないはずなのですけれど」
倉庫に雨多がいることを確認し、声に安堵をにじませた今日子も、まだ開かない戸には焦りを覚えているようだ。
――誰かに鍵をかけられたんじゃなかったんだ。
今日子のことばに、雨多はほっとする。
まだ倉庫から出られたわけでもないのに気が早いようだが、自分が何者かによってここへ閉じ込められたという仮説は、これで跡形もなく崩れ去ったのだ。
そのことに気を強くして、雨多は冷静さを取り戻し今日子に言った。
「ちょっとお待ちになって。内側からも見てみます――あっ!」
一歩引いて内側から引き戸の全体を見回し、雨多は大きな声を上げた。
内と外からいくら躍起になっても、戸が開かなかったはずだ。
倉庫内にあった長いモップが斜めにはまり、引き戸につっかえ棒をしていたのである。
「えっ? 何で、いつの間に……あっ、つまずいて戸口にぶつかったとき!」
記憶を大急ぎで巻き戻し、雨多はあっと声を上げた。
引き戸が閉められてしまったことに驚き、戸口へ駆け寄ろうとしたところで、彼女は自分が床に取り落としたバレーボールにつまずいた。
そこで体勢を崩し雨多が戸にぶつかったとき、ガタンと物音が立ったのを聞いている。
あれだ。
おそらくはあのとき、戸口付近に立てかけてあったモップが倒れ、偶然にも戸のつっかえ棒になってしまったのだ。
戸が開かないことを悟った雨多はほぼパニックに陥ったが、あのとき一呼吸入れて辺りを見回すだけの冷静さが残っていれば、この件は早々と解決していただろう。
「原因はこちらにありましたわ。すぐに開けます」
外の今日子にそう言って、雨多はさっそくモップに両手をかけた。
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