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「ホンット、こ~んなムチャクチャなクライアント、まり花も初めてよっ。でも、ウタちゃん、一つ確認させて! 依頼人を危険にさらすのは~、まり花のポリシーに反するの。ウタちゃんの『覚悟』が、ヤケを起こしてるんじゃないってコト、まり花にハッキリ約束できるの~?」


「もちろん! ヤケじゃないわ。わたし、みんなで助かるつもりよ。これ以上、誰も傷つかないようにする。ここではそれが、決着をつけるってことだと思う」


 雨多がまり花に、そう言って力強く請け合った。

 彼女の描く決着の図をどう捉えたか、プロメテウスが唇の動きだけで「誰も」と繰り返す。


 二人の友人を見つめ、雨多はにっこり笑うと、ポニーテールを揺らして両腕を広げた。


「二人とも、好きよ。――ここまで連れてきてくれて、ありがとう」


「ウタちゃ……」


 突然に抱きつかれ、まり花が驚いて目を見開く。

 片腕をまり花に、もう片方をプロメテウスの体に回してギュッと抱擁すると、雨多はすぐに身を離した。


「行きます!」


 そう一声宣言すると、雨多は迷いなくきびすを返す。

 そして、黒薔薇の立つ向かい側へ向かって一直線に走り出した。


 彼女の動きを見て取って、黒薔薇が周囲の蔓をざわめかせながら、鬱然とつぶやく。


「あなたはわたし、わたしはあなた……。だというのに、わたしを拒絶して、あなたは、ついにわたしを殺すの?」


「違う!」


 黒薔薇の疑念を、雨多は真っ向から打ち消した。

 気迫のこもったそのことばに、異形の少女が身じろぎする。

 崩れかけた顔貌からは、およそ表情らしい表情は読み取れないが、雨多の発言は、人とは異なる存在すらも驚かせたようだ。


 だが、雨多は、そんな相手の反応に注意を払う余裕もない。


 ――ここは、わたしの夢の中よ。世界はわたしが作るの。


 それを心に繰り返しつつ、まっすぐ対面の黒薔薇へと駆けていった。


 相手を目前にしても減速する様子を見せない雨多に、ブレスレットを握りしめてまり花があわてる。


「ウ、ウタちゃんっ! まさか!」


 前のめりになるまり花を、横からプロメテウスが制する。

 美貌の少女もまた正面を見つめ、真剣な表情をしていた。


 二人が見守る中、接近する雨多に黒薔薇がいぶかしげに問う。


「わたしを受け容れなかったあなたが、今さら何をする気……?」


 雨多は、これにも足を止めることなく、走りながら大声で答えた。


「わたし、あなたを迎えに来たの! 待たせてごめんね」


「っ――?」


 いったい雨多に何を言われたのか、黒薔薇もすぐには理解できなかったようだ。

 向かってくる相手を攻撃する踏ん切りもつかず、蔓を惑うように揺らして、その場に棒立ちになる。


 雨多は戸惑う相手へと突進した。

 そして、周囲の蔓にもひるまず黒薔薇を抱えると、そのまま前方へ向かって押し切る。

 進む先のフェンスは黒薔薇に破壊されており、黒薔薇の背後には空が広がっている。

 遮る物のない所へと、雨多はなおも突き進んだ。


 その光景に息を飲むまり花の隣で、プロメテウスが静かに言った。


「――行け」


「ああああああああっ!」


 その声が聞こえたはずもないが、雨多が全身で叫んで屋上の縁を踏み切る。

 彼女は黒薔薇と共に、ためらいなく宙へと跳んだ。




――――――――――――――




 無数の緑の蔓が、落下する雨多たちの周りでなびく。

 突然に屋上から飛び降りの道連れにされたというのに、黒薔薇に恐怖はないようだった。

 ただ呆然と、異形の少女が雨多に尋ねる。


「あなた、わたしが要らないのでなければ、どうして……」


「わたし、みんなで助かることに決めたの。まり花もプロメテウスもわたしも――そして、あなたも。みんなでよ!」


「わたし、も?」


 囂々と鳴る風に混じって聞こえた雨多のことばに、黒薔薇は目を――眼球のあった箇所を見開いた。


 それ以上の問答の余裕は、雨多にない。

 彼女は自分のことばを証立てるように、黒薔薇をギュッと抱きしめた。

 実際には、抱きしめるというより、無我夢中でしがみつくような有り様だ。

 しかし、そこには絶対に腕を解かないという雨多の決意がにじみ出ていた。


 抱き合って真っ逆さまに落下する感覚に、雨多が目をつぶる。

 その背に、黒薔薇の腕が回された。相手からも背を抱かれたことが意外で、彼女は驚く。

 その雨多が次に感じたのは、閉じた瞼の裏まで染まるような明るい光だった。


「……え?」


 突然に光が押し寄せ、空を切って落下していたはずの体が、柔らかに受け止められた感覚があった。

 いったい何が起こったのか、雨多にも瞬時には分からない。

 着地した覚えもないのに、いつの間にか彼女は柔らかな感触の足場に膝をついていた。

 地面に墜落する衝撃はどこにいったのかと、雨多が目を開ける。

 すると、まず彼女が目にしたのは、視界を埋め尽くすほどの一面の花々だった。


「えっ、わたし、どうして? 学校は? それに、二人は? ――あっ、黒薔薇」


 辺りを見回しあわてる雨多は、膝立ちの状態から立ち上がろうとして、自分の肩にもたれかかる相手に気付いた。

 視線をそこへ向けると、垂れた黒髪が見える。

 そこで雨多はようやく、落下の間に黒薔薇と抱き合う状態になっていたことを思い出した。

 雨多が、自分の肩に伏せられた相手の顔をのぞき込もうとしたとき、聞き慣れた二人の声が飛んでくる。


「ウタちゃんっ!」


「雨多、無事か!」


 口々に言って、彼女へと駆け寄ってきたのは、まり花とプロメテウスだった。

 黒薔薇を抱き止める体勢の雨多は、首だけ動かして二人を見上げる。


「こっちは無事よ。二人とも、大丈夫だった?」


「ああ、大丈夫だ。あなたたちが飛び降りた後、様子を見ようと屋上の縁まで走ったんだが……突然に辺りが白い光に包まれて、気がついたらまり花くんと一面の花の中に立ち尽くしていた。我々にも、何が起こったのかは分からない」


 そう説明するプロメテウスの隣で、まり花は鋭い視線を雨多に寄りかかる相手へと向けた。

 うごめく蔓の群は見当たらないが、雨多と一緒にいるところからして、少女の姿をしたそれは黒薔薇であるに違いない。


「ウタちゃん、ソレ、黒薔薇よね。蔓なんかは消えてるみたいだケド~」


「そうよ。ねえ、あなた、大丈夫?」


「う……」


 雨多が呼びかけて黒薔薇の肩を揺すると、小さなうめきが上がって相手が身じろぎした。

 やがて状況に気付いたか、黒薔薇がゆるゆると伏せていた顔を上げる。

 それを目にして、まり花とプロメテウスは一様に驚きを露わにした。


「黒薔薇ちゃん、そのカオ……!」


「そうか。そもそも、それが本来の姿だ。ようやく素顔に戻ったと言うべきなんだろうな」


 改めて黒薔薇と正面から向き合い、雨多もまた目を見開く。


「黒薔薇、あなた!」


 今日子の似姿を取って現れ、そして異形の力を振るっては容貌が崩れていった黒薔薇の顔は、いま雨多と全く同じ造作へと変化していた。

 眼球も失われておらず、ポニーテールと下ろし髪といった外見の違いがなければ、雨多と黒薔薇を取り違えてしまいそうだ。


 黒薔薇は雨多を見返すと、他者の存在など念頭にない様子で、自分の念願を繰り返した。


「わたし……わたし、帰りたい」


「うん、分かってる。わたしはあなた、あなたはわたし、だものね」


 雨多はそう言って、自分と同じ顔の相手にうなずきかけた。

 すでに黒い薔薇は咲かず、辺りに満ちているのは、怪しげに人を惑わす香りではなく、心を安らがせるような馥郁たる芳香である。


 ――大丈夫、もう黒薔薇は危険な存在なんかじゃない。


 相手を前にして、雨多はそう思った。

 もしかして、黒薔薇が雨多を脅かすほど力を増大させたのは、雨多からの拒絶や否定を受けたからだったのかもしれない。

 化け物の出現に必死だった雨多としては、自分の身を守るためのことであったが、黒薔薇は拒絶という形で攻撃されていたのだ。

 何よりも帰りたい場所である、雨多自身によって。


 それでも帰りたい、帰る場所は一つだけだと訴えた黒薔薇の悲痛さが、今の雨多には理解できる。

 彼女はまり花を見上げると、率直なことばで詫びた。


「まり花、ここまで協力してもらって、ごめんね。わたしは、黒薔薇に打ち克つことを選ばない。そう決めたの。わたしにとっての解決は、相手を倒すことじゃなかった」


「ウタちゃん……」


 まり花が雨多を見つめる。プロメテウスや黒薔薇も、黙って彼女を注視した。

 周囲からの視線を受けて、雨多は考えながら自分の心の内を語る。


「わたしはこれまで、いやな気持ちに蓋をして見ないようにしてたけど、それは黒薔薇っていう形を取って、わたしに返ってきただけだった。それに、今までの例を見たって、黒薔薇は倒したとしても、また生まれるものなの――この気持ちに向き合うことができなきゃ、ね。だから、わたしは、いやな気持ちになったときも、もうそれに見ないふりはやめる。自分の気持ちにそっぽ向いて、それが外にあふれちゃうくらいにため込んでも、黒薔薇を生むだけでいいことない。それが、やっと分かったの」


 そこで一度ことばを切って、雨多はすぐにまた先を続けるために口を開く。

 彼女の話に割って入る者は、誰もいなかった。


「わたし、いやな気分になったりするのはよくない、悪いことだって、心のどこかでは思ってたわ。けど、自分がどう感じてるかを善悪で判断するのも、もうやめる。そういう、いやな気持ちになることも含めて、それがわたし、わたしの心なの。わたしは、それでいい。――まり花、がっかりした?」


「ううんっ! この一件の主体は、ウタちゃんよ。まり花の反応なんて気にしてるバアイじゃないし、それに、まり花、ウタちゃんにガッカリなんてしないわ~」


 雨多に落胆したかと問われて、まり花は強く首を横に振った。

 そして、彼女は片手の人差し指を黒薔薇に向け、付け加えて言う。


「あと~、ダソクだけど、今さらまり花が黒薔薇ちゃんを消し去ろうとしても、もうムリよ。黒薔薇ちゃん自身の不浄の度合いが、軽くなってるもの。マッタク、あんなにマガマガしい気配だったのが、ウソみたいよね~。黒薔薇ちゃんがあそこまでヤッカイな存在になったのは~、ウタちゃんのトコロに帰りたくて、でも拒絶されて帰れなくてっていう、事態のこじれが大きかったのかもねっ。今の、そんな黒薔薇ちゃんの存在を認めて受け容れるコトができるウタちゃんになら、そのコも害になるワケじゃないわ~」


 雨多は、次にプロメテウスの長身をふり仰いだ。

 その視線を受け止め、美貌の少女が柔らかくほほえむ。


「あなたには驚かされる。だが、見事だ、雨多。私はあなたの選択を誇らしく思うよ」


「二人とも……ありがとう」


 そして、彼女は黒薔薇に向き直り、自分と同じ顔立ちの相手を見た。

 黒薔薇は――いや、雨多の心から爪弾きにされた彼女の一部は、素朴なことばで切々と訴えた。


「わたし――わたし、帰りたい。拒絶しないで。要らないって、言わないで……!」


「うん。あなたの行き場所は、ここよ。最初から、わたしたち一つだったんだものね。きれいも汚いも、どっちもあっていいの――少なくとも、わたしの中には」


 そう相手に答え、雨多は自分から黒薔薇へ額を寄せる。

 ごく自然に額と額を付けて、彼女は瞼を下ろした。

 そして、一度は手放してしまった自分の感情に、真心から呼びかける。


「おかえり。わたしに余裕がなくて、寂しがらせちゃったわね。あなたの居場所は、わたしの内にあるの。戻ってきて。もう要らないなんて言わない。わたしは、あなたを受け容れるわ」


「うん。……わたし、寂しかった。本当に寂しかったの」


 雨多の耳に届いたのは、幼い子どものような声だった。

 そして、再び目を閉じていても感じるほどのまばゆい光が起こり、間もなくやんだ。

 雨多が目を開けると、先ほどまでそこにいた少女は、跡形もなく消え失せている。

 彼女は自分の周囲に変わりなく立っている友人たちを見つけると、相手についてを尋ねた。


「ねえ、黒薔薇……いえ、もう一人のわたしは?」


「消えたよ。あなたたちが光に包まれて、また姿が見えるようになったと思ったときには、もう雨多の片割れはいなかった」


 そう答えたのは、プロメテウスだ。

 まり花もうなずいて言う。


「ウタちゃんの内に戻ったってコトなんでしょうね~。ほら、今度こそこの夢の世界もお役目シューリョーってカンジ!」


 百合ヶ丘の魔女は、大きな動作で辺りを示した。

 雨多もその光景を目にし、息を飲む。

 地表に敷き詰められた花々から、次々と花片が宙へ浮き上がっているのだ。雨多は呆然とつぶやいた。


「花が、舞い散ってる……」


 どこから風が吹いているわけでもないのに、彼女たちの足下からも、花びらがふわりと舞い上がっては、天へと上っていく。

 虹色の帯が空へと伸びるような美しい光景に、雨多はただ見とれた。


 そこへ、まり花が彼女にブレスレットを差し出して言う。


「ウタちゃ~ん、はい、コレ返すわ。どーせメンテナンスが必要だし、またまり花のトコロに戻ってくるんでしょうケド、ココでのコトが夢じゃなかった証拠に、ウタちゃんに渡しておくのっ。まり花は預かってたダケだものね~」


「あ、うん。ありがとう」


 雨多は礼を言って受け取ったそれを、左の手首に付ける。

 プロメテウスがそんな彼女に近付き、微笑して口を開いた。


「先ほども言ったが、見事だったよ。雨多、目が覚めたらまた会おう。あなたには、私から伝えなければならないことがある」


「えっ、伝えなければならないこと?」


 雨多はそうオウム返しに言ったが、プロメテウスは口元の笑みをただ深くしただけだった。


 少女たちの周囲ではいよいよ大量の花びらが舞い上がり、互いの姿さえかき消されてしまいそうだ。

 この夢の終わりがもう間もないことを、雨多も悟った。

 夢から覚めてしまわないうちにと、彼女はあわててプロメテウスに答える。


「分かった! 目が覚めてから聞くわ」


 そして、花びらの一片一片が織りなすとりどりの色彩の嵐に負けないよう、雨多はまり花とプロメテウスに向かって声を張り上げた。


「――またね!」


 この世界での最後の挨拶が二人に届いたか、それすらも雨多には分からない。

 音もなく舞い上がる花が吹雪となって、次第に彼女は上下の感覚も定かでなくなった。

 自分が立っているのか横たわっているのか、いったいどこにいるのかも把握できなくなる。

 そして雨多は、長くを過ごした夢の中から、ゆっくりと滑り出ていった。


 ――あのとき、屋上から飛び降りて地面に激突しなくて済んだのは、もしかしてもう一人のわたしが助けてくれたからなのかな……。


 意識の途切れる直前、雨多はふっとそんなことを思った。

 それに返る声はなかったが、まるで応答するように、彼女の心の一角がほんのりと温かくなる。

 その感覚に、雨多は自分の心にあるべき存在が戻ったことを理解した。

 胸の奥底から湧き上がる、嬉しさと安堵の入り交じった感情を最後に、そこで彼女の意識は途切れた。




――――――――――――――




 翌朝、スマートフォンにセットしていたアラームの電子音によって起こされた雨多は、手探りに目覚ましを切る。

 そして、寝ぼけ眼を開いて、まずぼんやりとつぶやいた。


「朝だ……」


 窓辺の遮光カーテンの隙間から朝の白い光が射し込み、見慣れた自室の中を薄く照らしている。

 その光景も、見上げた自室の天井も、これまでと何ら変化はない。

 この、あまりにふつうの、いつもどおりの日常の風景は、昨夜の夢の中での体験を経た雨多にとって、かえって不思議に感じられた。


 夢の中から何の変哲もない日常に戻ると、まるであそこでの出来事が雨多の空想だったかのような気がしてくる。

 それが、一部始終を記憶している、色鮮やかな体験であってもだ。


 ――夢の中のことではあったけど、あれはただの『夢』じゃないんだよね……?


 そう自分に確かめて、何気なく片手を持ち上げた雨多は、そこにある物を見つけて目を見開いた。

 寝起きの頭にかかった靄が一気に晴れて、ベッドの上に飛び起きる。

 眠る前には何もつけていなかったはずの手首に、まり花から贈られたお守りのブレスレットが巻かれていた。


 彼女が夢で見たとおり、いくつかあった赤い石は一つを除いて色を失い、無色透明へと変じている。

 赤の色味を残した一粒も、ほぼピンク色と言ってよいほどに濃さが薄まっていた。

 これは、石に込められたプロメテウスの火の力を消費したためで、雨多の夢の中での記憶と符合している。


 さらに、彼女は枕の下を探って、夕べに敷いたクリーム色のカードを引き出した。

 カードの表に目を落とし、あの夢の中で自分を救ってくれた文章を一読すると、雨多は笑って仰向く。


「ほんとだった!」


 興奮していた雨多だが、アラームが設定どおりに第二のベルを響かせたために、あわててベッドから出た。

 先ほど止めた第一のアラームが目覚ましのためなら、今回のそれは、そろそろ身支度を始めなければ登校の刻限に間に合わなくなってしまうという知らせだ。


 百合ヶ丘女学院の制服に身を包んだ雨多が、登校前に玄関の姿見で乱れがないかをチェックする。

 ブレスレットは手首から外して、ハンカチにくるむとワンピースのポケットに入れた。

 鏡に映る彼女は、これまでと違い、長い髪を三つ編みではなくポニーテールに結っている。


「よし!」


 これでオッケーだと家を出ようとしたところで、鞄に入れていたマナーモードのスマートフォンが振動した。

 雨多が取り出して画面を見ると、おはよ~、という件名でまり花からメールが届いている。


 ――今日からまり花の相談室を再開よっ! だから、ウタちゃんとはランチ時は会えないの~。放課後、カフェテリアのいつもの席で会いましょ。あっ、ブレスレットのメンテナンスも必要だから、忘れずに持ってきてね~!


 華やかに装飾された文面を一読し、雨多は返信に素早く「了解」、と打ち込む。

 これだけでは素っ気ないと思い直し、雨多はぶつぶつとつぶやきながら続きを考えた。


「『じゃあ、放課後にね』……っと。送信!」


 夕べ、雨多の心に大きな出来事があったとしても、目が覚めればそこにはいつもどおりの日常が存在した。

 しかし、雨多の小さな変化にも、目を留めてくれる人はいる。

 教室に入ってきた彼女を見つけて、すでに席に着いていた今日子が、驚いたように声をかけてきた。


「おはようございます。あら、雨多さん、今日はポニーテールになさったのね」


「おはよう、今日子さん。ええ、本当はわたし、ポニーテールの方が慣れているの。こっちに移ってきて、おとなしめな髪型じゃないと浮いちゃうかなと思って三つ編みにしてたけど、やっぱりしっくりこなくって、変えたの。本当は、ポニーテールの方が楽だし、好きなのよ」


 打ち解けた様子でしゃべる雨多に、今日子はわずかに目を見張った。

 この春に編入してきてから、どこか気を張っていた隣席の少女が、自然な笑みを浮かべているのに気付いたからだ。

 ただヘアースタイルを変えただけでない、雨多の内面的な変化を感じ取って、今日子は嬉しげに表情をほころばせた。


「よくお似合いですわ。雨多さん、何かいいことでもありまして? 今日はいつもより、楽しそうに見えますわ」


 今日子の指摘に、雨多は微笑してうなずく。


「そうね。いい夢を見たっていう感じかしら。――ねえ、今日子さん。よかったら、お昼をご一緒しません?」


 雨多からの初めての誘いかけに、今日子もほほえんでうなずいた。




――――――――――――――




「――まり花くん。君からの依頼に、私は背いてしまったね。『何があっても雨多を守る』と、私は君にそう請け負ったはずだった」


 放課後のカフェテリアで、定位置に陣取ったまり花の向かいに座っているのは、プロメテウスであった。

 その目立つ長身を包んでいるのは、百合ヶ丘女学院のものではないセーラー服だ。


 テーブルに三つある座席のうち、一つが空いている。

 その席に着くはずの人を待つ間、まり花が頬を膨らませて不服げに答えた。


「もー、アナタ、分かって言ってるクセに! あの場で何が最善か、ホントのホントーの解決は何か、そこまで考えたからウタちゃんの意志を優先させたんでしょ? キレイな顔でしおらしげにしてもダメよ、まり花にはお見通しなんだからっ。……それで、アナタのヨミが正しかったコトも、分かってるわ」


 二人が話しているのは、昨夜の雨多の夢の中での体験だった。

 夢については、第一の当事者である雨多でさえ空想に過ぎないのかもしれないと疑ったものを、二人にそんな素振りは見当たらない。

 少し不思議な領域に関わりがある彼女たちにとって、今回の体験も当たり前に受け止められるもののようだった。


「正しかった、ね。しかし、まり花くんが間違っていたわけではないさ」


 プロメテウスはそう言って、まり花を慰めた。


「君があくまで黒薔薇の撃滅にこだわったのも、ひとえに雨多の安全を最優先に考えたからこそだ。つまりは、依頼の範囲を超えて彼女の身を案じるほど、まり花くんにとっては雨多が大切なのさ。噂に聞く百合ヶ丘の魔女は、もう少しビジネスライクだったと思うが……私としては、君のひととなりを知る良い機会になった」


 そういう表現で、プロメテウスはまり花の人物を誉めた。

 しかし、雨多への友情に言及されることは、まり花にとって素直に喜び辛いらしい。

 百合ヶ丘の魔女は、どこか居心地の悪そうな顔で、唇をとがらせてみせた。


「……もー、やりづらい! コッチからお見通しにするのはいいケド、ヒトから見通されるのってヤなカンジだわっ。まり花、そーゆーの苦手よ。……慣れないから」


 まり花の声が、尻すぼみに小さくなる。

 常に我が道を行く、薄いピンクの髪の少女の珍しい反応に、プロメテウスはそれ以上を言わなかった。

 彼女はすねたような表情を浮かべるまり花を見て、穏やかに唇を笑ませる。


 そこへ、パーテーションの向こうから聞き覚えのある声がして、二人の注意を引いた。

 声と一緒に、雨多が姿を現す。


「まり花、遅くなってごめんね。あっ、プロメテウスも来てたの――あら、プロメテウス、それってあなたの制服?」


 目に入ったプロメテウスの見慣れない格好に驚いて、雨多が矢継ぎ早に言った。

 美貌の少女は落ち着いた態度で彼女に空いたいすを勧め、質問に答えてやる。


「やあ、雨多。私が仕事として受けた依頼は、めでたくもう終わったからね。今日は制服のままで失礼するよ」


 そのことばに雨多は、これまでプロメテウスが制服姿を見せなかったのは、素性を伏せるためであったのだと思い至った。

 そういえば、彼女をまり花から紹介されたときに、特殊な能力を持つ事情から本名を名乗っていないとも説明されたはずだ。

 その相手があえて制服で現れたのは、彼女がプライベートで来ていることを意味するらしい。


 ――といっても、どこの学校かしら? わたしには見覚えのない制服だわ。


 それよりも、おとなびた少女が学生服を着ていることが、雨多には少し不思議に見えた。

 あまり自分と年齢は離れていないだろうと踏んでいたのだが、プロメテウスも本当に、学生として学校生活を送る身分であったようだ。

 その当たり前のことが、彼女には新鮮に感じられる。


「ウタちゃん、いらっしゃ~い! 夕べ渡したあのブレスレット、持ってきてくれたっ?」


 まり花に声をかけられて、雨多は「ええ、もちろん」とうなずいた。

 席について早速、彼女はポケットから取り出したハンカチを開く。

 そこに入っていた繊細なブレスレットをまり花に渡し、しみじみとした調子で雨多が言う。


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