13
ここは、学校だ。
ぼんやりとした、見覚えのあるようなないような風景の中で、雨多はそう思った。
百合ヶ丘女学院の校舎とおぼしき建物を前方に見て、彼女は校門をくぐったところだ。
この春から通い始めて、もう見慣れたはずの校舎だが、細部に目を凝らせば急にぼやけてあやふやな印象になってしまう。
雨多に見える学校は、建築物としてはちぐはぐな代物であったが、今の彼女はそれに違和感を持たなかった。
いつかも来た、百合ヶ丘女学院に似た奇妙な校舎へ向かおうとして、雨多はふと足を止めた。
彼女は制服姿に三つ編みを垂らしたいつもの格好をして、手には黒革の学生鞄を提げている。
通常ならば、こうした登校風景には制服姿の少女たちが欠かせないというのに、この空間には雨多以外の生徒がいなかった。
だが、妙に静まり返った校舎前で彼女が立ち止まったのは、この現実とのずれに気付いたからではない。
――何かをしなければ……。
急にそんな思いが湧き上がり、雨多の足を止めたのだった。
しかし、自分が何をしなければならないのか、それが彼女には分からない。
額に片手を当て、雨多はぼんやりとつぶやいた。
「教室へ行かなきゃ。学校が始まるわ。でも、わたし……何かをしないとならなかったはずなの。何か……大事なこと。わたし……誰かを……」
「雨多さん」
背後からいきなり声をかけられて、雨多の物思いはそこで途切れた。
聞き覚えのある少女の声に、彼女は振り返って相手の名を呼ぶ。
「今日子さん」
先ほどまで誰もいなかったはずの空間に、いつの間にか一人の少女が立っていた。
雨多のクラスメートで彼女とは席も隣同士である、睡蓮寺今日子だ。
清楚を絵に描いたような今日子は、いつもと変わらないように見える。
雨多へ向かって、今日子は不思議そうに小首を傾げた。
「どうかなさったの? 教室へまいりませんか、授業が始まってしまいますわ」
「え、ええ……でも、わたし……」
今日子に促されても、雨多はなおも迷って動けない。
早急に思い出すべきことがあるのに、記憶にもやがかかったようにぼんやりしているのが、彼女にはどうにももどかしかった。
再び物思いに捕らわれそうになった雨多に、今日子の手が伸びる。
立ち止まる雨多の二の腕をつかみ、今日子は強い口調で言った。
「思い出さなければいけないことなんて、ありませんわ。雨多さん、教室へまいりましょう」
「えっ、今日子さん?」
ふだんの今日子にはない強引な態度に、雨多が戸惑う。
その様子に構わず、今日子はたおやかな少女とは思えない力で彼女の腕を引いた。
あまりに今日子らしからぬ振る舞いに、雨多は恐ろしさを覚える。
つかまれた腕が痛くて、彼女は今日子の手を振り払おうとした。
「や、やめて!」
「ここには、あなたとわたくし以外必要ありません。今度こそ……逃がしなどいたしませんわ!」
雨多の抵抗にあい、今日子はますます腕をつかむ力を強めると、険しい形相で唇を大きく開いた。
雨多は相手の口の中に、舌や歯のほかにうごめく緑の影を見つけて慄然とする。
我知らず「ひっ」とひきつった声を上げたのを、彼女は他人事のように聞いた。
雨多の二の腕に指を食い込ませ、今日子が今度はにたりと笑う。
唇をゆがめたその表情に、ふだんの今日子らしさはなかった。
今日子の姿を取ってはいても、いま雨多の腕をつかんでいるのは、あの隣席のクラスメートとは全く別の人物であるかのようだ。
よどんだ暗い目をして、今日子に似た何者かが笑みを広げた。
口の中には緑の蔓がうごめき、雨多にとって見覚えのある不吉の薔薇の花が、ちらちらと見える。
黒い花びらを唇からこぼし、ゆがんだ笑みのまま少女は言った。
「雨多さん……あなたと、一緒に……」
「やめて! あなた、今日子さんじゃない!」
雨多は少女から顔を背け、片手に持っていた学生鞄をむやみに振り回した。
それに相手がひるんだ隙に、今度こそ拘束から逃れる。
「きゃあっ」
つかまれた腕は解かれたものの、雨多は数歩も離れないうちに勢い余って転倒する。
その拍子に、彼女は手から鞄を取り落とした。
背後にはまだ今日子を模した少女がいるというのに、落とし方が悪かったのか、鞄の口が開いてしまう。
そんな場合ではないのに、思わず雨多は鞄の方に気を取られた。
「だめですわ……雨多さん。ここには、あなたとわたくしだけ。ここは、あなたの夢の中ですのよ。なのに、どこへ逃れようというんです」
唇からはらはらと黒い薔薇の花びらを落としながら、少女が倒れた雨多へ悠然と近寄る。
その危機のただ中にありながら、雨多の目は開いた鞄の口辺りを見ていた。
そこに、鞄の中から飛び出たらしい、一枚の小さなカードが落ちていたのだ。
「何だろう、このカード……?」
自分の学生鞄に、こんな物を入れた覚えはない。
薄いクリーム色をした上品なその紙片へ、雨多はわけも分からず手を伸ばした。
背後に迫る少女の気配を痛いほどに感じながら、それでも彼女はカードを優先せずにはいられなかったのだ。
手にした紙の表、金の枠に縁取られた短い文面を見たとたん、雨多の背筋に電流めいたものが走った。
――呼んで! まり花たちを呼んで!
そこにあったのは、若い娘のものらしい手書きの文字だった。
呼んで、とシンプルに繰り返す短文に、雨多は脳裏にかかったもやが一気に晴れたような心地になった。
――そうよ、わたしはこれをやらなきゃならなかったの! これだけは、絶対にやらないといけないんだから!
雨多はとっさに地面から起き上がり、手の内にカードを握りしめた。
取り落とした鞄はそのままに、背後に迫る相手から跳びすさって距離を取る。
彼女がくるりと向きを変えて今日子の姿をしたものと対峙すると、相手は唇から蔓の端をはみ出させて雨多の名を呼んだ。
「雨多さん……」
「――まり花、プロメテウス! ここに来て、助けて!」
おぞましい光景に怖じ気づきそうになる心を励まし、雨多は全身でそう叫んだ。
彼女には、まり花のような知識も、プロメテウスのような能力もない。
しかし、心からの願いをことばにすることは、雨多にもできる。
そして、この場へまり花らを招き入れられるのは、その祈りだけだった。
雨多の声が響きわたるやいなや、彼女の目の前にぱっと光が走った。
まぶしさに思わず目を閉じた雨多の耳に、場の緊張感にそぐわない明るい声が届く。
「は~い! お呼ばれしちゃった、まり花で~すっ」
「! まり花!」
目を開けた雨多は、自分とあの少女の間に立つ華奢な背中を見つけた。
雨多の声に、突然に現れた少女が薄いピンク色の頭髪を揺らし振り返る。
つややかなピンク色の唇を笑ませ雨多をかえりみたのは、百合ヶ丘の魔女ことまり花であった。
「ウタちゃん、呼んでくれてありがとう! いくらまり花たちが準備万端でも~、ウタちゃんからのお招きがないと夢の中にまで上がり込めないから、まずここへ『呼んで』もらうコトが大事だったのっ。おかげで、うまくいったわ!」
ウィンクと共にそう言って、まり花は片手の指にひっかけた繊細なブレスレットをくるりと回してみせる。
赤い石を混ぜた透明なパワーストーンで作られたそれは、雨多のお守りのブレスレットに違いなかった。
心強い救援の登場に、雨多は安堵で膝の力が抜けそうになる。
だが、まだ不思議な点は残っていた。
まり花にはプロメテウスも同行するはずであったのに、長身の彼女の姿が見えない。
プロメテウスは雨多の夢の中にまでやって来られなかったのだろうか。
雨多がそれを尋ねようとしたところで、今日子の姿をしたものが、まり花をとがった視線でにらみつけた。
本来の優しげな面立ちの跡形もないきつい表情で、今日子に似た何者かが唇を開く。
そこから黒い花弁を散らして、忌々しげに言った。
「こんな所でまで、じゃまが入るなんて……。出ていって! ここは、あなたの居場所ではないわ」
「んふっ、ザーンネン! 初めまして、ってワケでもないわね、黒薔薇ちゃん? アナタじゃまり花を追い出すコトはできないわ~。この夢の主は、ウタちゃんだものっ。ゲストを招くかどーかは、ホストの選択よ。ウタちゃんが招き入れた存在を、アナタがどうこう言えるワケないのよね~」
まり花は少女の剣幕にもうろたえず、悠然と相手にほほえみかけた。
「それにしても、黒薔薇ちゃんてキレイなお顔だけど、ウタちゃんには似てないのね~。まり花、意外!」
「その姿は今日子さんのものよ。中身は黒薔薇だけど、見た目はわたしのクラスメートにそっくりなの」
まり花の背後から注釈を入れて、雨多が気になっていたことを尋ねる。
「まり花! プロメテウスは?」
「ちゃーんと来てるわよ。まり花に抜かりはないんだからっ。それより、ウタちゃんは大丈夫だったの~?」
「ええ、何とか……。まり花のくれたカードがなきゃ、危ないところだったわ」
「やっぱり、アレを渡しておいてよかったわっ。黒薔薇をおびき寄せるためだから、浄化の力を持たせちゃマズイな~と思ってタダのカードにしたんだけど、ちゃ~んと切り札としての働きはしてくれたみたいね!」
眼前の敵を無視するかのように、まり花は雨多と話し込む。
その態度に業を煮やした不気味な少女は、口からうごめく蔓をのぞかせながら語気鋭く言った。
「夢にまで介入してきて、戯れ言を……! そこをどきなさい!」
言い終えるやいなや、少女は口から吐き出した蔓を、対面のまり花へ向けて放った。
蔓が鞭のようにしなって宙を走るのを目にして、雨多が悲鳴を上げる。
だが、標的となったはずのまり花は、動揺の色もなく片手を掲げた。
彼女の手にあるのは、お守りのブレスレットだ。
「まり花、危ない!」
敵の攻撃を避けようともしないまり花に、血の気が引いたのは雨多の方だった。
だが、まり花は雨多が割って入らないよう、空いた片腕を横に出してみせる。
そして、掲げたブレスレットに向かい、いつもの朗らかな声をかけた。
「さっそく出番よ。よろしくねっ」
無防備に片手を上げたまり花に、敵意を持った蔓の先端が届く。
そう見えた矢先、まり花の手元で突然に赤い閃光が生じて、雨多は思わず瞼を閉じた。
次に目を開けたとき、そこに現れた新たな人物の姿を認め、彼女は驚きを隠さずにその名を呼ぶ。
「あっ、あ……プロメテウス!」
「ふう……。自分が召還される立場になるとは、考えてもみなかったな。しかし、うまくいったようだ」
雨多が目にしたのは、まり花の前に立って蔓の攻撃を退けた、長身の少女の後ろ姿だった。
手にはすでにワンドを持ち、彼女が臨戦態勢でいることが分かる。
この火を司る少女がどうやって一瞬の間にここへやってきたのか、雨多にも見当がつかなかった。
「二人とも、無事かい?」
ワンドを構え、肩越しに美貌の少女が振り返る。
雨多はプロメテウスの傍らへ駆け寄った。
「ええ、大丈夫よ」
「もっちろん!」
雨多が、まり花がそう答えるのに、プロメテウスは安心したようにうなずく。
しかし、彼女は緊張を解かず、前方に立つ少女へワンドを向けていた。
雨多も表情を引き締めて、今日子を擬した存在を見やる。
少女はまり花とプロメテウスを忌々しげににらみ、それから雨多へと視線を転じた。
生気の光がないその目には、悲痛な色が浮かんでいる。
敵である少女が見せた表情が意外で、雨多は思わず相手を見返した。
「また、じゃま立てを……。ここにはわたくしとあなた以外、必要ないのに……!」
訴えかけるようにそう言う少女の足下には、プロメテウスの浄化の火に焼かれたのだろう灰と化した蔓の一部が落ちている。
だが、それも見る間に空気に溶けるようにして消え去った。
「んっふふ! 敵とコトを構えるっていうのに、まり花が無策でいるワケないじゃない? まり花がパワーアップさせたこのお守り、赤い石にはプロメテウスの火の力を込めてあったのっ。ヒトの夢を渡るのって、まり花にしてもケッコー難しいの~。だから、まり花とは違って、プロメテウスはこの石を介してココに姿を現してるっていうワケ。いいアイディアでしょ?」
やはりプロメテウスの傍らに立ち、まり花が異形の少女に胸を張って言う。
作戦をまり花に一任し、技術的な詳細については把握していなかった雨多が、今さらながらに不思議そうな顔をした。
「そんなことって、できるんだ」
「私にしても初めてのことだったが、成功して一安心だ。しかし、これといい夢を渡ることといい、誰もが容易になせるようなものではないよ。私の独力では、あなたの夢の中にまで助けに来られはしなかった」
まり花に代わって答えたのは、プロメテウスだ。
それにうなずいた雨多だが、また別の疑問が浮かんで首を傾げる。
「ねえ、わたしの招待がないと、ふつう夢の中には入れないっていうことよね。根本的な謎なんだけど、じゃあ何で、黒薔薇はここへ侵入できてるの?」
「えー? だってウタちゃん、黒薔薇はアナタのココロが生み出したものだって言ったでしょ?」
プロメテウスを挟んで反対の側から、まり花が雨多へ指摘する。
まり花のことばに、プロメテウスもうなずいて同意を示した。
「そうだね。私やまり花くんは、いわばここでの部外者だ。夢の主であるあなたから喚ばれねば、部外者は中まで入れない。だが、黒薔薇はその点違う。招かれなくとも、雨多がお守りを持っていなければ、夢の中までも侵入できるのだろう」
「詳しい説明は省くけど、そーね、そーいうコトね」
二人がかりでの説明に、雨多は納得する。
頭では彼女も理解ができたものの、口を開けば少しのため息が漏れた。
「なるほど……。敵ではあっても、あれもやっぱりわたしの一部なのね」
浮かない顔で雨多が今日子に似た少女へ目を向ければ、相手はさらに表情を険しくし、叫ぶように言う。
「こんなじゃまを入れないで。……要らない人は去って!」
「その要求は飲めない。君を雨多には近付けさせない。私の操る火に浄化の力があることは、もう知っているはずだ。雨多に危害を加えるつもりなら、こちらも加減はしない」
雨多へと一歩進み出ようとした少女を、プロメテウスが重々しい声で牽制した。
赤い石を戴いたワンドを向けられ、少女はひるんだ様子で身を引く。
先ほどの蔓を退けた一撃だけでなく、これまでにプロメテウスの火が黒薔薇の花や蔓を焼いてきたことは、目の前にいる今日子の似姿も知っているらしい。
敵が知恵を付けてきているという、まり花らの予測は的を射ていたのだ。
まり花が長身の少女を見上げ、励ますように言った。
「プロメテウス、遠慮はしなくていいのよ~。人の姿をしていても、このコの中身はカンペキ黒薔薇だもんっ。ちなみに、黒薔薇ちゃんの外見は、ウタちゃんのクラスメートを借りているそーでーす。身近な人間に擬態して、ウタちゃんを油断させるつもりだったんでしょうね!」
「そうね。わたし最初、本当に今日子さんがいるんだと思ってたわ」
雨多も、まり花のことばにうなずいた。
今日子の姿をして、彼女の声で、ことば遣いでしゃべる存在を前にすると、本人でないとすぐに気付くことはできないものだ。
その隣で、プロメテウスが慎重にまり花へ確認を取る。
「まり花くん、あの少女は完全に黒薔薇だというんだね。要らない念押しだが、ここでの出来事が、その今日子というクラスメートに影響する恐れはない。それに間違いはないんだね」
「そうよ~。そのクラスメートのコを夢に引きずり込んで、相手を乗っ取ってしゃべらせるとか、そーゆーのはムリ! 黒薔薇ちゃんには高度過ぎ! ただ相手の姿を借りているだけよ。そのキョーコちゃんについてのデータは、ウタちゃんの記憶から引き出したんでしょうねっ。ウタちゃんの中にある、キョーコちゃんの印象をベースに作ったのがコレってコト。だから、見た目や声、しゃべり方なんかも『ウタちゃんの思うキョーコちゃん』に似せられたっていうワケ!」
目の前にいる『今日子に似た者』は、実際には今日子本人との関連を持たない。
つまり、ここで黒薔薇を退治しても、現実の今日子に何らの害も及ぼさないのだと、まり花が太鼓判を押した。
二人の会話にいらだちが募ったか、今日子の似姿は肩を強ばらせ、両方の拳を握りしめた。
着用した制服が不自然に波打ち、布地の下にも蔓が伸びていることを知らせる。
唇から黒い花弁をこぼし、蔓の先端をちらつかせて少女が言った。
「じゃまをしないで。あなたたちは、ここには要らないわ。必要なのは、わたくしとあなただけ……なのに、どうして」
語彙が多くないらしい黒薔薇のことばからは分かりづらいが、不要であるという『あなたたち』はまり花やプロメテウスを、そして『あなた』とは雨多を指すのだろう。
少女の憤懣に呼応するかのように、制服の袖口、襟裏などからその先端が這い出て身を踊らせた。
黒薔薇の急速な成長は、夢の中でも変わりないようだ。
見る間に蔓は少女の身を這い、先々で黒いつぼみをつけていった。
何度見ても慣れない光景に身を震わせながら、雨多は気付いたことをまり花に尋ねた。
「――ねえ、まり花。じゃあ、あの女の子のしゃべってることって、黒薔薇のことばなの? 今日子さんの姿は、見た目だけのマネだものね。黒薔薇が思ったり考えたりしたことを、わたしたちに話してるのかな?」
今日子のふりをして雨多に近付いてきたときには、黒薔薇が使ったのは彼女の口まねだ。
しかし、まり花やプロメテウスが現れその正体を見抜かれて以降のことばは、誰のものだろうか。
雨多にはそこが疑問だった。
口調には今日子の名残を感じさせるが、ことばの内容は彼女のものであるはずはない。
――こんなこと考えてもみなかったけど……今しゃべってるのは黒薔薇、なの?
問われたまり花の方では、この点に特別な重みを感じていなかったらしい。
薄いピンクの髪を揺らし、思案する風情で彼女は答えた。
「う~ん、ウタちゃんの見方で合ってるんだケド……しゃべることができるって言っても、フツーのヒトとの会話みたいにやり取りができるワケじゃないと思うわ。だって、さっきから黒薔薇ちゃん、同じようなコトしか言わないもん。念じていることがことばになって、それを繰り返しているだけってカンジかしら~?」
まり花のことばに、プロメテウスもうなずく。
「黒薔薇の形では、そもそも口を利くことができなかったからね。経験の中で黒薔薇も知能が伸び、夢というこの特別な空間の中で、発声器官のある人の姿を取った。こうした条件がそろったため、しゃべり始めたのかもしれない。今のところ、まり花くんの言うとおり複雑なことは話していないが……きっとこれにも、成長の可能性はあるんだろうな」
「そうなんだ……」
二人からの答えに、雨多は思案する顔で黒薔薇を見た。
これまで物言わぬ存在、不気味な襲撃者であった黒薔薇が、人の姿を取り、自分の口からことばを発している。
その事実が、かすかに雨多の興味をそそった。
――しゃべることができるようになったんだったら、もしかして、黒薔薇が何を考えているのかも分かるのかな。
現状では、相手とスムーズに意志の疎通が図れるとは思えない。
まり花もプロメテウスも、そう言った。
しかし、雨多には黒薔薇について、どうにも気にかかる点があるのだ。
――何で、あんな悲しそうな顔をするんだろう。
黒薔薇がただ蔓と花の形であったときには雨多も分からなかったが、人のなりをしたことで、相手に感情めいたものが見て取れるようになった。
確かに、黒薔薇が操ることばは、二人が言うように単調な繰り返しだ。
けれども、その声音や顔つきに、雨多は思ってもみなかった悲痛の情を感じ取った。
わけも分からず襲われる身の雨多としては、敵は鬼のような恐ろしい形相でいるものだとばかり思っていた。
だが、案に相違して、目の前の少女は憤ってみせこそすれ、その根底には怒りとは裏腹の溢れんばかりの悲しみがある。
少なくとも、雨多にはそう感じられた。
今日子に擬した黒薔薇は、悔しげに唇を噛み、まり花やプロメテウスをにらむ。
だが、すぐに攻撃に出る様子もなく、腰を落として相手方を警戒しているようだった。
「あ~、ウタちゃん! もしかして、黒薔薇とコミュニケーション取れるんじゃないかって、そう思ってる?」
プロメテウスを挟んだ隣から、出し抜けにまり花が言った。
口にも出していない物思いを、まさか悟られるとは雨多も考えていない。
突然のことにとぼけることもできず、彼女はしどろもどろに答えた。
「えっ? あ、コミュニケーションっていうか、向こうと会話ができるかどうか分からないけど……。黒薔薇は元はわたしの一部で、なのにわたしに襲いかかってきて……って、何でそんなことするのか、わたしも分かってなかったのよね。薔薇の格好だったときには気付かなかったけど、人の姿で何だか……悲しそうな顔するし。わたしにとって予想外だったって言うか」
「黒薔薇が悲しそう、か。雨多はそう思ったんだね?」
プロメテウスが穏やかに口を開く。
敵である黒薔薇への関心を言い出すことに、味方である二人の手前気が引けていた雨多も、プロメテウスの声に促されてことばを続ける。
「う、うん。怒ってるような態度だけど、声とか表情の感じとか、わたしには悲しそうだなって思えたの。でも、それってわたしだけかな……ねえ、わたし、ヘンなこと言っちゃった?」
「いや――」
話すうちに、どんどん自信を失っていく雨多に、プロメテウスがそう言って首を横に振ろうとしたときだ。
まり花がかなりの剣幕で、二人の会話に割り込んできた。
「ウタちゃん! ちょっと黒薔薇にほだされてきてないっ? 見知った顔になって出てこられて、ミョーに身近なカンジに思ってるかもしれないけど~、アレって中身は黒薔薇よ! 夢の中じゃ、以前には危ないトコロまで追いつめられたっていうのに、相手のごきげんうかがってるバアイじゃないってばっ」
「それは、危ない目にも遭ったし、わたしも黒薔薇が怖いことに変わりはないけど……」
でも、黒薔薇の示した感情に対し、自分が引っかかりを覚えているという事実は動かしようがない。
どうしてそれが気になるのかと問われても、雨多には答えられなかった。
頭ではなく、彼女の直感がそう判断しているのだ。
「ウタちゃん、まり花は賛成できないわ~! 黒薔薇ちゃんは、知恵がついてきてるもの。ココにウタちゃんのクラスメートの姿を借りて現れたみたいに、今もウタちゃんの油断を誘うつもりで振る舞ってるのかもしれないわっ。ウタちゃん、忘れたの? 今夜まり花たちがアナタの夢の中にまで来たのは、この一件に決着をつけるためよ~! 黒薔薇とのカタをつけて、もう二度とウタちゃんが襲われないようにする。それが、まり花たちの目指すトコロだったハズよっ」
「それはそうなんだけど……」
まり花が強調した今回の目的を、もちろん雨多は忘れていない。
そして、自分のためにまり花やプロメテウスが協力してくれているのだということも、よく分かっている。
それでも、彼女のことばには迷いがうかがえた。
雨多の様子にため息をつき、まり花が腰に両手を当てて言う。
「あんまり怖がらせるのもね~と思って言わなかったケド、前にウタちゃんが夢で苦しめられたトキ、サイアク黒薔薇という一部分が、ウタちゃんという主体を乗っ取っちゃうって可能性もあったのよ! それも、ジューブンに!」
「あっ……!」
鋭く放たれた指摘に、雨多は服地の上や肌を這った蔓やトゲの感触を思い出し、恐怖に身をすくませる。
あのおぞましい感覚は、雨多の身にいまだ生々しく残っていた。
まり花は、さらにことばを重ねる。




