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「まり花の考えでは~、黒薔薇って、ウタちゃんがそれに意識を集中させ続けない限り、形を保っていられないモノなのっ。だから、ウタちゃんの気がほかに逸れたら、いずれ消えちゃう。話を整理すると~、黒薔薇はウタちゃんが心を乱したときに出てきて、ソコに意識がいってると消えないってコトでいいかな~? それで! ウタちゃんが黒薔薇に意識を向けずにいたなら、存在してられないの。でも、夕方の公園でのケースは――」
「そうじゃない、というわけか」
まり花のことばの終わりを引き取り、プロメテウスがヘッドフォンの向こうで言った。
まり花が何を言おうとしているかを、聡明な彼女はすでに理解しているようだ。
「まり花くんの考えに沿えば、公園で遭遇した黒薔薇がいつ出現したかは分からないが、雨多の心が落ち着いた時点であれが形を保っていたのはおかしい、ということになるね」
「そうね~。まり花も同じコト思ってるの。アレが出てきたのは、ウタちゃんが最大級に荒れてたときかもだけど、何でウタちゃんの気が治まってからも存在できてるの? ってなるから。それってヘンじゃないっ? ね、アナタはコレ、どういう意味だと思う?」
ふだんどおりの、少々芝居がかった口調で言って、まり花はプロメテウスに問いかけた。
心情を打ち明ければ、心のどこかにちくりとした痛みが走った。
悲憤にも似た感情が、自分には力なんてないと雨多の胸で叫ぶのだ。
昨日はこの感情の高ぶりに、我を忘れて取り乱してしまったが、いま雨多は冷静さを保っている。
あのとき彼女を刺激した、何もない自分と『恵まれた魔女』の比較が勝手な思い込みの産物であることを、すでに雨多は気づいていた。
神妙な顔の雨多に、まり花が呼びかける。
「ね~、ウタちゃん!」
「何?」
首を傾げる雨多へ、まり花は長いまつげをはたきウィンクしてみせた。
「ウタちゃん、昨日のコトだけど、まり花ホントに怒ってないのよ。何でかって言うと、昨日のアレは、ウタちゃんを怒らせても仕方ないって分かっててやったコトだから」
「えっ?」
面食らう雨多に、まり花が両肩をすくめてみせる。
芝居がかった仕草だが、不思議な雰囲気のこの少女にはよく似合った。
「こんな言い方したら挑発的かな~って、あのトキも思ってはいたわ。でも、まり花、それでも言わなきゃだったの。だって、これはまり花が分かってるだけじゃダメで、ウタちゃんに知ってもらうのが大事なコトだったからっ。――プロメテウスには、まり花の作戦バレてたけど~!」
「ど、どういうこと?」
昨日に雨多を激発させたあのやり取りは、まり花があえて選んだことだったと知って、彼女は戸惑いを露わにした。
それが悪ふざけからでないことは雨多にも分かるが、まり花の意図がつかめずにいる。
そうした彼女に、まり花は笑みのない真面目な顔で言った。
「それは、ウタちゃんの機嫌を損ねてでも、知ってもらわなきゃならないコトだったからよ。ヒトの心が持つ力、それを抜きにして今回の件は解決できないからっ」
「えっと、それってどういうこと? 心の力でっていうのは、黒薔薇に負けるなって、わたしの気持ちの上でもそう構えておけっていうこと?」
まり花のことばに、まだ雨多は理解が追いつかないでいる。
いったいまり花は、何をもってして解決だと考えているのか。
ぱちぱちと目を瞬かせる彼女に、まり花は力強く首を横に振った。
「ん~ん! 目的は黒薔薇に負けるなってトコじゃなくて、まり花ね、最終的にはあの薔薇を出てこなくしたいのっ! だって、ソッチの方が絶対いいじゃない?」
「え、ええ……そりゃあそうよね」
まり花の語気に圧され、雨多も首肯する。
しかし、湧き上がる疑問に彼女は首をひねった。
「でも、どこから来るか分からない相手に、そんなことできるのかしら。気合いで『出てくるな』って言って、聞き分けてもらえる?」
「『どこから来るか』? そうよね~、そう思うのも分かるわ。でも大丈夫っ! まり花、ソコについてもちゃんと察しを付けてるから。別に、黒薔薇にお願いするっていうワケじゃないの。まり花の言う解決っていうのは、もうアレを出現させないってコトよ!」
出現させない、とまり花のことばをおうむ返しにつぶやき、雨多は細くため息をついて言った。
「あの黒薔薇がもう現れないなら、わたしだって嬉しいわ。それができたら、どんなに安心か……。それで、まり花、あなたの言う心の力っていうのが、この件の解決にどう関わってくるの?」
「そーね、それ、とっても大事なトコロよっ! ウタちゃんにはよく聞いてもらいたいんだけど……」
「うん」
常にない重々しい調子でまり花が言うのに、雨多は心持ち声をひそめてうなずいた。
テーブルには彼女たち以外の誰もいないというのに、まり花は秘密を打ち明けるように声を低くする。
「あのね~、黒薔薇って外敵じゃないの。どこかヨソから来てウタちゃんに襲いかかるんじゃない。その代わり、黒薔薇の出ない場所を探してどこに逃げてもムダなの。何でって、アレはウタちゃんの心から生まれたモノだから」
――――――――――
昼休みも終わり、雨多はまり花と別れ、教室へと戻った。
席について午後の授業を受けながらも、彼女の頭の中では、カフェテリアでのまり花との会話がぐるぐると回り続けている。
「えっ、『黒薔薇がわたしの心から生まれた』って……じゃあ、全部わたしが悪いってこと?」
「もー! そんなふうに解釈しちゃうだろうから、まり花これまで、ウタちゃんにはこのコトを言わずにいたんだからっ。そーいうコトじゃなくて、ヒトの心には強い力があるから、いい方向に働いてるときは素晴らしいんだケド、バランスを崩すとあの黒薔薇みたいなのを生み出したりするのっ! そんなケースもあるのっ! ウタちゃんのように異形の存在を顕現させるっていうのは、まり花もそんな見たコトないけど~、ソレってウタちゃんの心に強い力があるからだと思うっ」
「心の……力……。わたしが黒薔薇を作った……?」
まり花の話があまりに衝撃的で、雨多は呆然とそうつぶやく。
ショックを隠せない様子の彼女に、まり花が席から身を乗り出した。
テーブル上に置かれた雨多の手を取り、百合ヶ丘の魔女は熱を込めて言う。
「あのねっ、まり花、ウタちゃんに分かっておいてほしいんだけど、黒薔薇みたいな化け物を生む自分の心はダメだとか汚いとか、そーいうふうにはゼッタイ思わないで! ヒトって誰でも、機嫌がいいトキもあれば悪いトキもあるじゃない? 気持ちのアップダウンなんて、あって当たり前なのっ。ウタちゃんの心は、本来強いモノよ。力があるからこそ~、心にすっごく負担がかかるとか、そーいうトキに、心の状態の反映したモノを現実にまで作り出しちゃったっていうコト!」
長いまつげに縁取られた目で雨多を見据え、まり花が迫力をまとってそう言い切った。
雨多は片手をぎゅっと握られたまま、勢いに飲まれた体で数度瞬きをする。
明かされた黒薔薇の正体に受けたショックが、まり花の熱弁によって薄らいだようだった。
「ねー、ウタちゃん、分かった?」
「え、ええ……何とか。あんな化け物ができたのもわたしが悪いからとか、そんなふうに自分を責めるなっていうことね」
まり花からの念押しに、雨多がようよううなずくと、やっと握られた手が解放された。
返事をしながら、雨多はなぜまり花が自分を責めるなと強調したのかが、理解できた気がする。
雨多の心の状態が負の方向に傾いたことで黒薔薇が生まれるのなら、ここで彼女が自分を責めては、次なる薔薇の種をまくようなものだった。
だから、まり花は心の持ち方にまで、細々とことばを費やすのだろう。
そこまで考えて、雨多は「あっ」と声を上げた。
「わたし……黒薔薇なんかが出るから、こんなにいやな気分なんだと思ってた。でも、これってまり花の言った順番と逆よね? そもそもは、わたしがいやな気分になったから黒薔薇が出たんだ。……わたしはそれが、黒薔薇のせいだと思ってたから、あれが出たことでもっといやな気分になって、またそこに気持ちの沈むことがあって……って、ずっと繰り返してた。えっ、ちょっと待って、考えてみる!」
「どうぞ~」
雨多は一人で慌てて、これまでの出来事を振り返ってみた。
黒薔薇が出現したタイミングで、そのときの自分はいったい何を考えていただろうか。
数日前のカフェテリアで初めて黒いつぼみの開花を目撃したとき、雨多は新しい環境になじめず、暗い思いに沈んでいたところだった。
では、二度目のときは? それもやはり、同じカフェテリアで、まり花に浮かない気持ちについて話していたのだった。
三度目には夢の中でまで登校して落ち込んでいたし、四度目は体育館の倉庫で、突発事態からネガティブ思考に陥ったところを襲われている。
そして、つい昨日には公園で取り囲まれ、雨多が黒薔薇に遭遇した回数は五度にもなった。
怪異に見舞われる前には、必ずと言っていいほど雨多の気持ちの落ち込みが認められる。
それぞれ場所や時間、状況も異なるが、黒薔薇の出現に一つ共通するのは、どれも雨多がストレスを強く感じていたタイミングだったということだ。
まだ何か見落としがあるかもしれないが、まり花の指摘に誤りがなかったのを、雨多は改めて確認した。
そして、自分の気持ちだというのに、人に言われるまで心と出来事の関連性など何も見えていなかったことへ、彼女は少なからずショックを受けていた。
雨多はこれまで、黒薔薇との遭遇で心乱れたのだと思っていたし、それに何の疑念も抱かなかった。
実際には全くの逆で、彼女の心乱れたときに黒薔薇が出現するとは。
当たり前だと思っていたことが、引っくり返ってしまった。
彼女の胸中を察したか、まり花が組んだ両手指の上に顎を置いて、テーブルの向かい側から尋ねてきた。
「どーお、ウタちゃん? 納得できた~?」
「うん……これまでのことを考えてみたら、確かにまり花の言うとおりだわ。でも……本当に自分じゃ何も気付かなかった。自分の心のことなのに。なんだか、それにもびっくりしちゃう」
最初の衝撃が通り過ぎると、雨多の唇からため息が漏れた。
まり花は消沈する彼女へにっこりと笑いかけると、軽やかな口調ではげます。
「そんなガッカリしないで~。自分のコトって、案外本人からは分からないものよっ。まり花、前にも言ったケド、ウタちゃんは特にガマン強いトコがあるから~。自分がヒドイ状況に追い込まれてても、すぐには気付いてあげられなかったんじゃないかしら?」
「うっ……」
まり花のことばに、雨多はまたしても図星を射られた。
前には我慢強いという評が不思議だった雨多も、今ならば正しく理解することができる。
この場合の我慢強さは、自分への鈍感と表裏一体の関係だった。
ことばに詰まる雨多へ、まり花は組んだ指を解いてピンク色の唇に当て、さらに言う。
「だって、まり花と初めて会ったときのウタちゃんって、息を吸うのもタイヘン、みたいなドン暗い感じだったじゃない? ズーンって沈んでて」
「ううっ……」
擬音混じりに言い表された自分の姿に、雨多は言い返すことばを持たなかった。
当時の自分の気持ちがどれだけ重苦しかったかを振り返れば、まり花の正直な描写を否定できないのだ。
――そりゃ間違ってないけど、正しいんだろうけど! 言われる側は恥ずかしいわよ。
この居心地の悪さから抜け出したくて、雨多はふとした思いつきを口にした。
「あっ、まり花! ふっと思ったんだけど、黒薔薇との遭遇のうち、一つだけおかしなことってないかしら? ちょうど昨日、わたしとプロメテウスが公園で襲われた、あのとき! あのときだけ、黒薔薇が出てくるタイミングがおかしかったの。今、これまでのことを振り返ってて気付いたんだけど、昨日の公園だけほかと違ってるんじゃない? う~ん、なんて言うか……黒薔薇が出てくるんなら、本来わたしがまだカフェテリアにいる間、あの気持ちがぐちゃぐちゃになってるときだったんじゃないの? 公園に移ってから、しかもプロメテウスといろいろ話して時間も経った後にって、これまでにないパターンじゃないかと思ったのよね」
苦し紛れのことばだったが、話すうちに雨多自身も内容に説得力を感じ、多弁になっていた。
――そうよ。昨日は黒薔薇を退治してもらった安心で頭が一杯だったけど、これっておかしいことじゃない? わたしの気持ちと黒薔薇の出現がつながってるのなら、ほかの場合みたいに昨日だって、カフェテリアにいたときに騒動が起こってたはずなんだから。
この発見に、雨多は我知らず目を見開く。
驚く彼女を見つめ、まり花がにんまりと笑った。
まり花は繊細な容姿の少女であるが、そうした表情をすると、不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫を連想させた。
「ウタちゃ~ん、よく気付いたわねっ! そのコト、夕べにまり花とプロメテウスの間でも話してたの~。コレっておかしいわねって」
「そうなんだ、二人も気付いてたの? じゃあ、これって何でだと思う? まり花には、もう分かってるの?」
矢継ぎ早に雨多が問えば、まり花は長いまつげを上下させて彼女へ言った。
「ん~、何も考えつかないワケじゃないケド、それを話す前に、もうちょっとウタちゃんに思い出してほしいコトがあるわっ。ウタちゃんが初めて黒薔薇と遭遇して、まり花のトコロへ飛び込んできたトキよ。ねー、ウタちゃん。ほかの場合と違って、あのトキだけの現象があったコト、覚えてなあい?」
「あのときだけの、現象?」
何かあったっけ? と雨多は小首を傾げる。
自分がとにかく慌てていたことなら記憶にあるが、その心情に圧倒されてほかの事柄が思い浮かばなかった。
「ほかと違ったことって……あのとき何かあったかしら?」
「も~、さっきのコトに気付けたんだから、コレだって分かるハズよっ! ウタちゃん、あのね~アナタ、最初に出てきたあの黒薔薇が退治されたのって、記憶にある?」
なかなか正解にたどり着かない雨多に、まり花が業を煮やす。
頬を膨らませて彼女が出したヒントに、はたと雨多は思い当たって声を上げた。
「……ああ! えっと、あのときは確か、あなたと話してて、それで、思い出して黒薔薇の出た方を確認したら……そうよ、もうそこにはいなかったの。ほかのケースみたいに、浄化されたわけでもない。あのとき黒薔薇は、何でかひとりでにいなくなったんだと思う」
雨多が記憶から引き出してきた当時の状況に、まり花は大きくうなずいて同意を示した。
「そう! それで、最初のトキにいつの間にかいなくなった黒薔薇は、昨日の場合みたいに時をずらして出現するコトもなかったわ。要するに~、消えちゃったワケ。黒薔薇はウタちゃんの心から生まれたって、まり花話したわよね。ウタちゃんの心――つまりは意識につながってるから、ウタちゃんがそこに意識を集中させ続けない限り、黒薔薇って消えちゃうんだと思うの」
「えっ。じゃあ、最初のときに、あれがいつの間にかいなくなったわけって……わたしがまり花に気を取られたから?」
当時を思い返しながら、雨多がはっとして言う。
まり花は再び力強くうなずき、口を開いた。
「そーいうコトっ。最初のときはまり花と会って、ウタちゃんの意識がコッチに向いて、黒薔薇は関心の対象から外れるじゃない? そうしたら、黒薔薇にとっては、それって養分を絶たれたのと同じコトなんだと思う。だから、ひとりでに枯れるなりして消えちゃったんじゃないかな~って」
「……なるほど」
黒薔薇が雨多の心に根ざしているものなら、雨多の心がほかに向いたことによって存在を保てなくなるというまり花の説は、彼女にとり納得のいく話だった。
深くうなずいた雨多だが、頭をよぎった疑問にまた困惑の表情を浮かべる。
彼女は戸惑いも露わにまり花へ尋ねた。
「んっ? ちょっと待って。ねえ、まり花。でも、今の話だと昨日の件っておかしくない?」
まり花は雨多の反応に、我が意を得たりとばかりに点頭する。
薄いピンク色の頭髪を揺らし、彼女はじっと雨多を見つめた。
「そー、ココからがまり花の言いたいコトなのっ。ウタちゃんはさっき、昨日の公園でのケースは、黒薔薇の出現にタイムラグがあるのがヘンって言ったわよね。まり花は――まり花とプロメテウスは、ソコへさらにココがヘンだってコトを付け加えたいのっ。あのトキ、もうウタちゃんの関心の対象になかったハズの黒薔薇が、何で存在できてたの~って、ソレよ! ココがヘンなのっ」
「わたしが最初に遭遇したときには、関心を向けなきゃ消えてたものなのに……それが、姿を保って活動するようになってたってことか。まり花、これって何が違うの? 最初と昨日で、どうしてこんなふうに変わってきたのかしら。なんだか、気味が悪いわ……」
雨多がうそ寒げな表情になり、目を伏せる。
向かいからまり花が、彼女へ「ウタちゃん」と呼びかけた。
雨多が視線を上げると、そこには思いがけず真剣な表情のまり花がいる。
百合ヶ丘の魔女は、いつになく抑えた調子で言った。
「ウタちゃん。脅かすワケじゃないけど、まり花、アナタに言っておかなきゃならないコトがあるの」
――――――――――
「はあ……」
板書のはかどらないノートへ目を落とし、雨多は密やかなため息をついた。
昼時のカフェテリアでまり花から告げられたことばが、彼女の頭の中で回る。
――ウタちゃん、脅かすワケじゃないけど、言っておかなきゃならないの。まり花ね、黒薔薇の力が、前より強くなってるんじゃないかって思うわ。最初はウタちゃんの心から切り離されれば消えていたものが、ソコを離れてもしばらく活動できるようになってきてる。昨日の公園でのケースは、黒薔薇自体が力を強めているコトの表れじゃないかって、まり花、そんな感じがするの。
そこまで話したところで、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り、彼女らも教室へ戻らねばならなかった。
だが、黒薔薇が以前よりも強くなってきていると聞いて、雨多は心穏やかではない。
彼女は思わず、「どうして」と漏らした。
――どうして、そんなことに。あっ、あのとき、わたしがすっごく取り乱したから? だから、生み出した化け物も強くなっちゃったの? わたし……。
――ほーら! またウタちゃん、自分が悪いって考えちゃってる! 『どうして』で自分を責めちゃダメなのっ。今は、『どうしたら?』で対策を考えましょ! ……なあに? また『でも』って言いたそーねっ。
まり花の指摘はそのとおりで、まさに「でも」と返そうとしていた雨多は、はっとしてことばを飲み込んだ。
「でも」や「だって」は、ここで役に立たないどころか、雨多の気持ちを暗くしてしまう呪文だった。
前にもまり花に、繰り言の禁止令を出されたではないか。
また放課後に落ち合うことを約束して、いったん彼女はまり花とカフェテリアで別れた。
自分を責めて、出口のない思考に入り込むことの無益は、雨多もよく分かっている。
まり花のことばはもっともだった。
これまで培ってきた考え方の癖を、彼女もすぐに矯正できるわけではない。
しかし、自分にはそういう癖があるのだと承知しているだけでも、気持ちとしては落ち着いていられた。
――黒薔薇がわたしの知らないところで力を強めてるって、正直どうしていいか分からないけど、まり花もプロメテウスもいてくれる! ひとりぼっちじゃないんだもの。これからのことも、また放課後に相談しよう。
雨多がそう胸の内で決意を固める。
ワンピースのポケットにしまっているお守りに、服の上から手を置いた。
そのとき、内側で小さくブレスレットが振動するのを感じる。
あれっと思い彼女がポケットの中に手を入れようとしたタイミングで、彼女を指して教壇から国語の教師の声が飛ぶ。
「では、西条さん。次の段落から本文を読んでください」
「は、はいっ? ええと……」
指名されて、席から飛び上がるように立ち上がったものの、雨多には該当のページがどこかも分からない。
授業開始のときに開いた位置のままの教科書を手に、彼女は冷や汗をかいた。
そこへ、そっとささやく声が聞こえる。
「雨多さん、五十六ページです」
隣の席から助け船を出してくれたのは、今日子だった。
雨多は教師から見えないよう、教科書の陰で口早に礼を言う。
その際、ちらりと隣の席を横目に見て、彼女は危うく声を上げそうになった。
――えっ。
気遣わしげに雨多を見上げる今日子の、机の端に一瞬だけ細長い影がよぎったのだ。
それは細い鞭のようにも見えたが、彼女が連想したのは別の物だった。
緑を帯びたその影が何であるか、雨多には見誤りようもない。
今日子のそばに一瞬だけ出現したそれは、まるで植物の蔓のようだった。
「どうかしましたか、西条さん。五十六ページの段落からですよ」
教壇からいぶかしげな教師の声が届く。
雨多はそれへ、あやふやにうなずいた。
「え、ええ……はい」
再び今日子の方へ目をやるが、すでに影は姿を消し、今日子も雨多の戸惑いを不思議そうに見るばかりだ。
雨多はようやく教科書の指定の箇所を読み上げ始めたが、彼女の頭はちらりと見た蔓のシルエットのことでいっぱいになっていた。
――――――――――
放課後のカフェテリアでこの三人が顔をそろえるのも、もはや習慣のようになりつつあった。
春からの編入生である雨多と、百合ヶ丘の魔女と呼ばれるまり花、そしてこの学校の生徒ではないプロメテウスが、いつもの席に着く。
顔を合わせるなり、雨多は早々に自分の鞄から小さな包みを取り出した。
「プロメテウス、昨日はありがとう。これ、ハンカチ洗ってきたから」
「ああ、丁寧にありがとう」
透明な小袋に入れられたそれは、アイロンをかけられきれいに畳んであった。
プロメテウスは美しい容貌を笑ませ、昨日公園で雨多に貸したハンカチを受け取る。
まり花が、これも恒例になった質問を発した。
「で、ウタちゃんは午後の間に何かヘンなコトってなかった~?」
「それが、あったの! ねえ、二人に聞いてほしいんだけど、わたしさっき黒薔薇の蔓を見たの!」
まり花の質問の終わりに被さるように、勢い込んで雨多が答える。
プロメテウスもまり花も、その報告に驚いて、口々に尋ねた。
「何だって? 君は大丈夫だったかい?」
「えー、ソレっていつ、どこでっ?」
「いっぺんに言われても答えられないってば! ちょっと待って。まず、あったことを話すわね」
そう断って、雨多は午後の授業中、隣席の今日子の机の隅に、一瞬だけ身をくねらせた緑の影を見たことを話した。
彼女が目の端に捉えた異物はすぐに姿を消してしまい、授業の後に教室内を見回しても、その存在の痕跡は見つけられなかった。
「蔓がわたしに直接触れてきたわけじゃないけど、たぶん、あのときお守りはちょっと振動してたと思う……。授業のあと、今日子さんにそれとなく調子を聞いてみたけど、別に何ともないって。もちろん、わたしもよ」
「誰にも害が及ばなかったならよかった。……しかし、雨多の近くにまた黒薔薇が現れたとは」
プロメテウスがそう言って、思慮深げな顔をする。
まり花が雨多を見やり、大仰に首を傾げてみせた。
「昨日に黒薔薇におそわれてからココまでで~、ウタちゃんが心のバランスを失うようなコトってなかったんでしょっ?」
「ええ、そうよ。すごく落ち込んだとか気持ちが乱れたとか、黒薔薇を生む原因になりそうなことはなかったわ」
雨多が即答する。
黒薔薇を生み出す原因は、この日にはない。
それは確かなことだった。
しかし、彼女が教室で一瞬だけ目にしたうごめく影は、間違いなく黒薔薇と共にある蔓のものだ。
――まさか、あの薔薇の出現と私の心理状態に関係があるっていう説は、外れだったの?
そう考えてもみたが、彼女にとってもまり花の主張は、説得力に満ちている。この説を容易に捨てる気にはならないが、とはいえ、なぜ蔓が雨多の前に姿を現したかについて、その理由はと言われても彼女には思い浮かばなかった。
考え込む雨多の向かいで、それまで考え深げだったプロメテウスが顔を上げた。
「――今日に生まれたのではない、黒薔薇の蔓か。ならば、昨日、あの公園で取り逃がした物がいたということはないだろうか」




