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もはや夜会どころではなかった。騎士団の解散と同じほど衝撃を受けたグロリアは、壁にもたれてすっかり魂が抜けてしまった。
妹はグロリアのために気つけになる飲み物をもらってくると離れて行ったが、途中で誰かに捕まってしまい身動きが取れないようだ。そんな遠い光景をぼんやりと見ていたグロリアは、自分に向かって歩いてくる存在にすぐには気づけなかった。
金の公子だった。
「一曲どう?」
何度聞いても低い声。顔立ちや表情に公女の面影はあるものの、どうにも慣れることが出来ずにグロリアは目を伏せて「踊れませんから」と答えた。
「知ってるよ」と、それでも強引にあの手がグロリアの手を取る。
「あの公女……公子……様」
フロアに引っ張られながら、グロリアは彼を何と呼ぶかもあやふやなまま声をかけた。ざわめく周囲の声が耳に入る状態ではなく、ただ存在そのものもあやふやに感じられる男を見る。
「聞きたいことは踊りながら教えるよ……ダンスも、ね」
運動神経のいいグロリアだが、ダンスの練習はしてこなかった。そのため、最初の何度かは彼の足をぎゅむと踏みつけることになった。「やるな」と笑ってそれでも公子は彼女の手を離さなかった。
「僕は愛人の子でね」
足を動かすのに頭を使っていたグロリアに、彼はそう切り出した。
「本妻にはその時、娘しかいなかった。母は僕が生まれた時に女だと偽った。そうしなければ本妻に僕が殺されると思ったんだろう。まあ育ってく途中で、自分が男だって自力で気づいたけどね」
王女は全てを知っていて、強く生き抜く鍛錬が出来、ドレスを着ずに済み、家の外に居場所を作るために公子を騎士団に誘ったという。
秘密を知る者は少なければ少ないほど良い。しかし二人で騎士団を名乗るには少なすぎると、王女は忠義に厚く愚直な将軍の娘に目をつけて呼び寄せた。そしてグロリアは彼女らのお眼鏡にかなった、と言うわけだ。
だが、秘密を共有するどころか、グロリアはまったく疑うことなく二人に尽くした。
これは、ある意味王女らの誤算でもあった。本来であれば、早い内にバレることを覚悟していた彼らは、逆に全てを信じきってしまったグロリアに本当のことを打ち明けるタイミングを完全に逸してしまったのだ。それゆえ、彼は最後まで男であることを隠し続けることとなった。
王女の結婚で騎士団は解散することになったが、実はもうひとつ事情があった。結局、公爵の正妻に息子が生まれなかったため、彼は公子として生きる道を選ばねばならなくなった。
これまで正妻を気遣って隠されていた後継者が、遅まきながら十九歳で社交界にデビューしたという筋書きである。
存在したはずの金の公女は、病気により遠方で療養という形になっているが、人が忘れた頃に死んだことになるだろうと、公子は過去の自分の葬式でも思い浮かべているような苦い表情になった。
「長く苦労なさったのですね」と、グロリアが言葉をかけると、その表情が笑みに変わる。
「そうでもないよ。楽しい八年間を過ごさせてもらったからね。本当に……夢のような八年だった」
金の公子の言葉に、グロリアも涙が浮かびそうになった。まさに、彼女が抱いていた気持ちと同じものを、彼もまたあの場所に抱いていたのだと思うと嬉しくてじんわりしてしまうのだ。
「私のお仕えした方は、この手の持ち主でいらっしゃいます。それだけは変わりません」
涙目でグロリアがそう告げると、
「お前の泣き顔は良くないね」と、むかしむかしに言われた言葉が、男の声で囁かれる。
「だから、笑っているといい」
ただ──あの頃にはなかった言葉が付け足された。
「ところで……」
涙を引っ込めようとしたグロリアに金の公子がそう続ける頃、一曲目が終わった。ダンスが終わったのだからまた壁際に戻ろうとした彼女を、公子はやはりあの手で引きとめて、そのまま二曲目に入る。
「ところで……見合いの話をお前は見たのか?」
公子の話は、先ほどまでとは打って変わった奇妙なものだった。
「いろいろ来てはいるようです。父や兄が良いところを決めてくれるでしょう」
確かに縁談の話は来ているので、グロリアは正直に現状を告げる。しかし、彼女の想像を大きく越える言葉が、次に投げかけられることとなった。
「よその話ではなくて、僕がお前に送った見合いの話だよ」
思わず踊りの足が止まり、勢い余った公子がぶつかってくる。慌てて彼は、グロリアの身体が倒れぬよう身を支えてくれた。
「はっ!? ぞ……存じませぬ」
頭が真っ白になりながら、しどろもどろに返事をすると、公子はぐいと強い力でグロリアを踊りに引き戻す。そして、まっすぐに彼女を見詰めた。戦場で剣を構えた時のような本気の気配に、グロリアはぞくっと背筋を冷たくする。
「では夜会から帰ったら、僕の名を探して父君に言うといい。『この方に致します』、と」
「え、あの」
「僕はね、ずっとお前の名を呼びたかった。最初の頃は子供過ぎてひどい呼び方しか出来なかったからね。でも、ちゃんと呼ぼうと思った頃にはもうこんな声だよ」
「先ほども……ゴリ子と呼んでらっしゃったような……」
「あれは……だって、ああでも言わないと気づかないと思ったんだよ。一緒に過ごした八年間をなしにされるなんて、とんでもないからね」
公子は低い声で少し悔しそうにそう言うと、彼女の腰を支えて大きくターンした。
「勿体無いお話です」
遠心力で遠くに持っていかれないように、反射的にグロリアもまた彼にしがみつく形になっていた。
「親が決めたら誰でもいいと言っていただろう? 僕にしなよ。そうしたら、ずっと二人であの八年間の話が出来る……王女のことも語らえる」
それは何と甘美な誘いであったか。他の誰とも共有することの出来ない日々が、グロリアの目の前にぶらさがったのだ。王女という、これから遠く離れてしまう大事な人の存在と共に。
思わず、彼女は握り合っている手に強い力を込めた。
「大丈夫、力ならもう負けないよ」
もっと強く握り返されて、グロリアは自分の頬が赤くなるのを感じていた。
※
かくして、隣国への王女の輿入れの日。
騎上の王女のすぐ側につき従ったのは、金の公子と白百合の旗を背負うグロリア。 国境で王女が隣国に預けられると、旗は降ろされることとなる。
「その旗……お前にあげるわ、グロリア」
最後にそう笑って、王女は嫁いで行った。
「おおおじょざばあああああ!!」
「もう泣くのはおよしよ……ほら」
帰り道。あまりにグロリアが泣くので、騎馬では危険だろうと公子に馬車に乗せられた。どうしても涙を止められないグロリアの顔に絹のハンカチを押し当てて公子は涙を止める手伝いをしてくれる。
「王女殿下はお強い方だ。隣国でもきっとすぐにのし上がっていつの間にか旗印になってらっしゃるだろうよ。その矛先がこっちに向かってこないことを祈ろう」
「王女様はそんなごどはぼすあそヴぃchsぢお」
「冗談だよ。分かってるから、ほら泣き止んで」
それから十年の時は流れて。
隣合う二つの国に、同じ名を持つ騎士団が出来ていた。白百合の旗を掲げ、女性だけが所属している。 片や王妃自らが率い、片や公爵夫人が率いていた。
一年おきの合同演習の日を、互いに心待ちにして日々精進し続けているという。
『本編 終』