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「お前はまったく阿呆だね」
「申し訳ありません」
用意された部屋に引っ込んだ後、グロリアは公子の説教を受けていた。
彼女はソファに座らされ、大きな身を肩をすぼめるように小さくする。その前に立ちはだかる公子は、扉の外に声が漏れないほどの小声ではあったものの、何より表情に鬼気迫るものがあった。
「本当に脱ごうとするなんて、その口は何のためについているんだい?」
「はい……返す言葉もありません」
彼の皮肉に抵抗することも出来ず、グロリアは己の不器用さにしょんぼりするしかなかった。
もっときちんと言葉で相手に分かってもらえるよう努力が必要だったのに、グロリアは馬鹿正直に宰相の娘の言うことを聞こうとした。そのせいで公子に危険な橋を渡らせてしまったのだ。
「いいかい、この仕事で忠義を向ける相手は、伯爵令嬢ではなくお前の兄だ。それを決して間違わないように」
更にこう付け足された。
「だからお前は、お前の兄が望まないことはしなくていいのだよ。お前の兄があの場にいたならば、決してグロリアにボタンを外させることはなかっただろうね」
そこでようやく彼女は理解した。兄に頼まれたこととは言え、兄が許さぬことはしなくてよいのだと。グロリアは、自分の考えがそこまで及ばなかったことが恥ずかしかったが、同時にここにはいない兄と、まさにここにいる公子に己が守られているという気持ちを強く抱くことが出来た。それは、とても心強いことだった。
納得のいったグロリアは、それを伝えるために何度か公子に頷いて見せた。ありがとうございますという感謝の気持ちを込めて。
だが、彼ははぁぁと深いため息をつくだけだ。よほど腹が立ったのだろうとグロリアは恥ずかしくてその身を縮めようとした。
「しかし、聡明なお前の兄でも予測出来ないことはあるのだろうよ」
憂鬱そうな公子の表情。一体、何が彼をそんな表情にするのかと疑問に思っていると、公子は憂鬱な表情のまま部屋を見回した。
「まさか、お前と僕で……一部屋とはね」
部屋に並べられたベッドは二つ。公子は性別と身分を隠しているために、当然のごとくグロリアと扱いは同じだった。
公子という本来の身分的に、こういう扱いはつらいのだろうとグロリアは考えかけてはたと思考を止めた。何か、大事なことを考え忘れている気がした。
「グロリア、お前がいますべきことはぼーっとすることではなく、己の貞操の心配だよ?」
事態を完全に理解するより先に公子に核心を突かれ、グロリアは思わず目を見開く。彼がそんな非紳士的行為に及ぶはずがないと、深く信じていたためだ。
「で、でも公子様はそんなことはなさいません……よね?」
「……」
噛み合わない空気が流れる。公子の唇の端が、ひくっと痙攣したようにグロリアには見えた。
「グロリア……家族以外の男がもしお前に『何もしないから大丈夫だよ』なんて言ったとしても、それを信じた方が愚かだからね?」
静かな口調ではあるが、迫力に満ちた気が公子の方から漂ってくる。異を唱えようものならそのままガブリとやられそうな気配に、グロリアはただひたすらに頷いた。
「だから僕は、夜に宰相令嬢の部屋の前で夜番をして、グロリアと入れ替わりでちょっと眠ることにする。まあ適当に令嬢の扉の前で寝るよ」
「そ、それでは疲れが取れません、私なら平気ですから、隣のベッドで!」
「僕を、お前の兄に顔向けの出来ない男にするつもりかい?」
もはやグロリアに反論など出来ようがなかった。その日から、公子との妙な護衛生活が始まる。
まず妙だったのは令嬢の反応だった。
開幕から公子がパッドをかなぐりすてるという暴挙をしでかしたために、公子の顔を見る度に顔を赤らめて避けるような素振りをする。やむを得ないことだとグロリアは思った。
それから令嬢の他の護衛。屋敷の周囲や遠巻きに、男の護衛が山ほどいた。普段とは違う女たちの護衛に、若い男の護衛は浮き足立っていた。
正確には──公子の存在に。
ズボン姿であっても、公子の立ち居振る舞いはとても上品だ。元々の生まれと行儀作法のおかげもあるのだろうが、その品の良さが公子の女装に箔をつけている。
「ねえ」と何度となく男が公子に声をかけては、すげなくかわされているのを見て、グロリアはただただすごいものだと感心していた。
とばっちりがグロリアに来ることもあった。
「ねえ、一緒にいるあの子、何て名前なの?」と聞かれて、グロリアは困った。名前くらい答えるのは簡単だ。けれど、どう考えてもこの男は公子に対して下心を持っている。答えない方がいいということは分かるのだが、かわしかたが分からない。
おろおろまごまごしていると、「それくらいいいだろ?」ともっと近づいてくる。壁際に追い詰められそうだが、同じ仕事場の人なので殴りつけるわけにもいかない。どうしたらいいのか分からずに硬直したところで、真横からぐいっと強い力に引っ張り出された。
公子だった。
「私の大事な友人に妙なことをしたら、切り刻むよ」
声だけは吐息ばかりの微かなものであったが、その瞳のエメラルドは挑発的だった。「ちが、ちがいます」とグロリアが事情を説明しようとしたが、公子はそんな言葉に耳も貸さずに彼女を痛いくらいの力で引っ張ってゆく。
物陰までグロリアを連れ込むと、「ああもう」と小声で公子が大きなため息をつく。
「す、すみません、逃げそこねてしまって」とグロリアが弁解の言葉を口にすると「そうじゃない」と公子は言った。
「あの場面で『大事な友人』としか言えないこんな自分の姿ににうんざりだよ」
公子は腹立たしげに今の自分の姿を嘆くが、グロリアの目にはとても頼もしく映っていた。
日が進むに連れ、周囲は公子を遠巻きにしながらも頬を染めるようになった。令嬢も、護衛の若い男も。彼の気高き態度が憧れのようなものを抱かせるのだろうと、だんだんグロリアも分かってきた。
対するグロリアは、令嬢と近しくなれた気がしていた。もはや彼女を男だと間違うことなく、どこへ行くにせよ「グロリア、行くわよ」と呼ばれるようになった。公子より声をかけやすいというのもあったのだろう。
ある折に、「どうして女なのに剣を持つようになったの?」と聞かれた。
「そうですね、子供の頃は兄や父の真似をして、よく分からずに握っておりました。ある時、そんな私の真似事の剣を必要としてくださる方からお声をかけていただき、それから……」
グロリアは、いつでもその時代へと記憶を遡らせることが出来た。
「それから……その方々をお守りするために剣を握るようになりました」
激しくも美しい金と銀の元で、グロリアは戦った。決して死ぬまで忘れ得ぬ大事な記憶である。
「私にはその気持ちは分からないわ」
令嬢は、首を傾げて肩を竦めた。
「それでよろしいのです。きっと私にも、お嬢様の気持ちを知ることは出来ないでしょうから」
グロリアが微笑んで答えると、令嬢は拗ねた顔をした。
「私の周囲にいるものは私の顔色を伺うものよ。お前といいもう一人といい、ちっとも優しくないのね」
令嬢の言い様に、少し離れたところの公子が小さく笑っている気がした。グロリアは困りながらこう答えた。
「お嬢様、優しさというものは、多分……そういうものではないと思います」
その時は分からない顔をしていた宰相令嬢だったが、後にグロリアの力強い優しさを見ることとなるのだった。