10^-35 その2
登場人物
ジネッタ:艦の通信士。ヴィクティンとは学生時代の友人。リームナ、マルツェラはこの航行で仲良くなった友人。
ギュント:傭兵。戦闘種族フレン星人。身体は本体ではなく、人形と呼ばれる遠隔操作可能な端末。
ヴィクティン:勅命機関勤務の男。ジネッタとは学生時代の友人。失礼な発言が多い。
マルツェラ:艦の調理士。ジネッタ、リームナの友人。さばさばとした女。
リームナ:中年女性。ジネッタ、マルツェラの友人。ゆったりとした話し方。
イェル:傭兵。戦闘種族エンデ。小柄と尖った耳が特徴。常にニコニコとしている男。
「通信士と傭兵」
生きている意味とか、人生の目標とかは不確かだけれど、
確かなものはやっぱりある。
私が今、死にたく無いことだけは、確かだ。
宴会は大いに盛り上がった。
やはりアルコールというものは人間関係の適度な潤滑油になってくれるらしい。
ただ一人、ヴィクティンのみがひたすら水を飲んでいる。ジネッタがマルツェラと一緒になって酒を勧めたがやはり断られた。
じゃあこいつはなんで宴会の誘いを快諾したのか、本気でジネッタは疑問に思う。
そんなわけで一名ほど空気を読まない人間がいたが、会は和やかに盛り上がった。
つまみがなくなりそうになったら、その場でマルツェラが調理器具をフライパン(という名称らしい。初めて見た)やら鍋やらに変形させて一品二品、手早く作ってしまった。
そんな彼女の姿を不思議に思い、ジネッタは小首をかしげる。
「今どき手料理?
自動の調理機でなんでも作れるじゃない」
食堂にある大型の機械を思い出す。この艦の食事も全て自動で作っているはずだ。
その疑問の声に、マルツェラは「よくぞ聞いてくれました」と言わんばかりに笑みを深める。
「そんな全自動でなんでもぽいぽい作っちまったら、ありがたみがないさ。
あたしは将来はどっかの貴族お抱えのコックになる女なのだよ。ふっふっふっ…」
彼女は不気味な笑いをした後、表情をげんなりとさせる。
「なのに今は調理機のメンテばっかでさ……。自分の夢ってやつを忘れちまう」
しょぼくれたマルツェラを慰めるようにイェルが告げる。
「今じゃ好みの味とか盛りつけとかも自動で出来ちゃいますからね。
需要が金持ちの道楽くらいしか無いから大変ですねぇ」
そこにヴィクティンが鋭く尋ねる。表情はいつもどおりの不機嫌そうな顔だ。
「大戦が終わった後の傭兵こそ需要があるのか?」
やっぱり失礼な奴だ、とジネッタは内心溜息をついてから睨みつける。
一方突っかかってこられた方のイェルは大人の余裕で笑い飛ばした。
「意外とあるんですよ。いまだ小規模の小競り合いは辺境でありますし。
“虫”もいますから。
知的生物にとっては天敵ではありますが、我々にしては食い扶持でもあるわけですな。
あとそうそう、『宇宙賊』なーんてのもいますからね。
護衛はまだまだ必要なわけです」
(宇宙賊ってまだいるんだ……)
ジネッタは耳をひくつかせる。歴史の授業でさらっと習う程度で、まさかまだそういう生活をしている人たちがいるとは夢にも思わなかった。
めぼしい賊は大宇宙連合の軍が片付けてしまったらしいというのはニュースにもなっていたのに。
討ち漏らした、もしくはそれほど害がないと見て、小規模な賊は放置されているのだろうか。
こちらの興味は無視して、おどけた顔してイェルは続ける。
「まぁ、あとは幽霊とか?」
ジネッタはくすりと笑ってからツッコミを入れてやることにした。
「なに?冗談にしたってサムいよ?」
『そう思うでしょう?』という訳知り顔でイェルが答える。
「それがいるんですよ。
これは僕達が給料泥棒みたいな艦内監視をしていたときなんですけど」
「イェル」
すぐに諌めたのは今まで黙っていたギュントだ。サングラス越しで表情はよくわからないが、あまり良い感情を持っていないのは声音から察せられた。
そんな彼の忠告をイェルは笑い飛ばす。
「いいじゃないですか。このくらい」
「職務上知った情報を部外者に話すのは契約違反じゃねぇか。
……俺は忠告はしたぞ。後は聞かなかったことにしといてやる」
溜息をついてギュントは明後日の方向を向いた。
意外と融通が効くのかもしれないな、と思う。今もなんだかんだ言って酒宴には参加しているわけだし。
「幽霊ってなに?この艦にいるってことかしらぁ?」
ニコニコとリームナが嬉しそうに尋ねる。どうやら興味が湧いたらしい。
イェルはまぁまぁ落ち着いてとジェスチャーをしてから、語り始める。
「これは僕達の仲間から聞いた話なんですけどね…。
そいつは……まぁ、仮にフラノーって名前にしておきますか。
フラノーが監視の当番だったときの話です。丁度夜勤帯で、艦内の人通りはまばらだし、起きてる人間の方が少ない…そんな静かな時間に彼は監視していました。
監視っていっても艦内のモニタをなんとなく見たり、異常検知ロジックにひっかかるような行動がされていないか見るくらいしかなくって…まぁ、暇なんですな。
寝ぼけまなこでモニタを見つめているわけですが、なにせ夜勤帯なもんで誰もいない光景を見つめ続けることになるんですよ。
どこにも人がいない。たまに夜勤の人間が素通りするくらいで、何の事件も起こらない。
いい加減暇で飽きてしまって、フラノーは寝てしまおうかなとも考えました。
そんなとき、モニタの端で、すっと人が通るのに気づいた。
場所は食堂への通路です。
どうせ夜勤の人間だろうと思ったのですが、嫌な予感がしたんでしょうね。
念のためその部分だけ巻き戻して一時停止して確認したんです。
そこにはぼんやりとした人影が映っていたんです。本当に影だけ。ただ制服を着ていないため操艦に関する人間ではなかった。
操艦に関係しない人間が夜勤帯に起きているなんて珍しいじゃないですか。ちょっと気になって、フラノーは人影が誰かを調べてみることにしたんです。
その人影の背格好から類推して候補とされる人間が三人ほどピックアップされました。まぁ、当然ですよね。
しかし……その三人ともがその時間は夜勤中で制服を着てましたし、それぞれの持ち場で仕事をしてたんです」
ジネッタはごくりと唾を飲み込む。
じゃあ……その人影はなんだったのだ……?
同じ事を考えたのかマルツェラが引きつった笑顔で問いかける。
「ちょ……見間違いじゃ……?」
それは愚問だ。イェルは眉尻を下げた笑みを浮かべて答えた。
「何度も確認しましたよ。フラノー以外の人間もね。
しかし映像には確かに人影がいたんです。
この艦のその場所にいないはずの、或いは他の誰かの人影が」
「いやいやいや、画像のノイズだって可能性もあるさ」
「まぁ、そうですね。
結局僕達の中でもそういう結論に至りましたよ。
そりゃそうですよね。その時間のその画像以外、どこにもその人影は映っていなかったんですから。
普通移動していれば他のモニタにも映るはずです」
それこそ本当に幽霊だから……そんな事象が発生するのではないだろうかとジネッタは夢想した。
それを後押しするような話を聞いたことがあるからだ。
「そういえば……これは同僚の中で噂になってるんだけどね」
「なになになになに!今度は何の話さ!」
耳を両手で塞ぎつつマルツェラが恐怖に怯えた顔で訴えかける。意外と怖い話が駄目らしい。
ちょっと面白くなって、でも顔は深刻にジネッタは続ける。
「あーちょっとした噂よー。ただの噂ね。
この艦ってちょっといわくつきで、昔ね、浮気相手の男が痴情の縺れで自殺に見せかけて殺されちゃったことがあったんだって。
結局、その殺した女の人は捕まったんだけどさ。
それ以来殺された男が、今でも相手の女を殺そうと艦内を徘徊してるんだって……。
私の友達もね、丁度一ヶ月前くらいかな。深夜に艦橋へ向かう通路を歩いてたの。
自分しか歩いてないはずなのに後ろから湿った足音がこつっ……こつっ……って追ってくるの。
友達は怖くなってちょっと歩く速度をあげたの。そうしたら後ろの足音もこつ、こつ、こつってぴったり付いてくる。
それから怖くなって走り始めたら、後ろの足音もこつこつこつこつこつこつこつこつっってついてくる。
もうどうにでもなれって思って、友達は足を止めて後ろを振り返ったの。勘違いに違いない、そう祈りながらね。
そうしたら………後ろには誰もいなかった。床にも足あとなんて無かった。
なーんだ勘違いかぁって思って、深呼吸でもしようとふと上を見上げたら………」
ジネッタは周囲を見渡しながらそこで言葉を貯める。
その場にいる全員がこちらの次の言葉に注目していた。
「全身血だらけの男が天井に手足を貼り付けて彼女を見て
『お前だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』」
突然叫びながらマルツェラを指さす。
「ひゃっ」
彼女は怯えるような悲鳴を短くあげて顔を強ばらせる。
………本当は思いっきり驚いて悲鳴を叫んで欲しかったところなのだが……。
気づくと、ヴィクティンとイェルも肩をびくりを震わせていた。意外と怖がりなのだろうか。
そんなことより普段は冷めているヴィクティンが、驚いたことにちょっとした優越感を感じる。
一方ギュントはこの話を下らないと思っているのか、元から恐怖という感情が無いのか、反応が無い。
リームナはニコニコとしながらぱちぱちと拍手をする。
「面白かったわぁ。実に有意義なお話ね」
彼女のその発言にギュントが冷めた声で応じた。
「宇宙の端に数ヶ月で航行出来るまで科学力が向上したというのに、未だにこの手の話は無くなんねぇな」
「フレン星人でもこんな与太話を信じる奴がいるのか?」
不機嫌な表情のままヴィクティンが尋ねる。その与太話で驚いていたのはどこの誰だと言いたくなる。
ギュントはサングラスの位置を直しながら答えた。
「俺たちはこれでも人間だからな」
「『わからないこと』や『出来ないこと』は私達から無くならないからねぇ」
くすくすとリームナが笑いながら話を続ける。
「だから、『幽霊の仕業』なんていうのが出てきちゃうのよぉ。
そうすれば説明がつかないことに、説明をつけられるわね?
未知のものなんて、まだ色々あるわよねぇ。
例えばぁ……チャネリングとかね。
アレも解明されてないことがあるわぁ」
「あー。
テレビ番組とかで見たことあるけど……」
そう言いながらジネッタは自分の中の知識を掘り起こす。
「遠隔地にいる同じ能力を持った人と一瞬でコミュニケーションをとる能力……だっけ?」
そうそう、とリームナはこくこくと頷いた。マルツェラがその様子を不思議そうに見つめる。
「……あれって結局、人形と同じように思念波のやりとりなんじゃ?
解明されてる話と思ってたさ」
「仕組みはそうねぇ。億に一人くらいの確率で思念の受信体を持つ人間が生まれるってだけの話ねぇ。
でも不思議なのはその確率。
一つの星に複数人のチャネラーは存在しないのよぉ。
各星で人数比なんてバラバラなのにねぇ?まるでそう調整されているみたく、出身星に対して一人のチャネラーが存在するのよねぇ?
これって結構不思議じゃない?」
そういえばテレビ番組でもそんなことを言っていたか。
これには大宇宙の意志がなんとか…みたいに。胡散臭い話すぎて友人との笑い話ネタにしかならなかったが。
第一、チャネリング能力を持つ人間などみたことがないため、実感がない。
「……酒が少なくなってきたか?」
突然話題を変えるようにギュントが周囲を見渡す。
それに同意するようにマルツェラが立ち上がり、考えるように腰に手をあててシートの上を見渡す。
「んー。ホントだ。
ふっふっふっ…。ここはマルツェラさんの秘蔵っこを倉庫の奥から持って来るべき?」
企む笑みを浮かべる彼女をギュントが見上げる。
「怪談・オカルト話の後に一人で行けるか?」
痛いところを突かれたように彼女はビクリと震えて胸を抑える。そして、背後に広がる暗闇を恐る恐る見た。
倉庫の奥にあるコンテナから酒を持ってくるということは、その暗闇を通って行かなければならない。
この酒宴の場所は、カンテラが中央に置かれているため、レジャーシートの上を見渡せるぐらいには明るい。
しかし、この酒宴の場所から離れてしまえばそこからはひたすら暗闇だ。
彼女は何かを振り切るように、頭を勢い良く左右に振る。
「だ、だいじょーぶよ!!だいじょーぶ!怖くないわけあるわけないさ!」
「怖いのか」
すかさずヴィクティンが大人げない指摘をしたが、マルツェラは無視をして空中を指でつつき始める。
彼女にしか見えていないコンソールがそこにはあるのだろう。
すると、彼女の胸元に掌ほどの眩しい光球が発生した。
「いいいいいいいい、行ってくるさ!」
そう言ってドシドシと、自身を鼓舞するように暗闇へと歩き始め、徐々にその姿は遠くなり、やがて暗闇に飲み込まれてしまう。
彼女のドシドシという足音はまだする。
しかしジネッタはポツリと思う。
「だいじょぶかな……」
その不安を汲み取ったのか、ギュントが立ち上がりながら言った。
「やはり、付いて行く。
イェル、単独行動の許可を」
「君にしては、気を回しますね」
嬉しそうにイェルは感想を告げる。まるで『仲良くなって良かったですね』と言っている先生のようにも見えた。
「茶化すな。
傭兵がここで働かなくてどうする。本当に給料泥棒になっちまうぞ」
「はいはい。フレン星人も大変ですねぇ。
単独行動、許可します。マルツェラ嬢を守ってくださいね」
「了解した」
それだけ答えるとギュントはマルツェラの後を追うように、暗闇の中へと歩き出す。
彼女と違い、光球は発生させていない。光などなくても、サングラスの機能で暗視が効くのだろう。
それを横目で追いながら、リームナがうっとりと呟く。
「良いわね……。
傭兵と調理士のカップルも良いんじゃないかしらぁ?」
その発言に、ジネッタは口元を両手で押さえて耳をピクピクと動かす。
「何それキュンってくる。
暗闇だし、吊り橋効果ありそう!」
「マルツェラ離婚したてでしょぅ?寂しいと思うのよねぇ」
「きゃ!優しくされたらすぐコロリね!」
きゃあきゃあと盛り上がるこちらを、げんなりとした瞳で見ながらヴィクティンが呟く。
「本気で言ってるのかあんた……」
「あはは、多くの種族の女性はこういう話題がお好きですからね」
眼鏡の奥にある瞳を細めて、イェルが快活に笑った。
そんな彼に今度は目標を定め、リームナは微笑みかける。
「そうよぉ?だからあなたのそういう話も聞きたいわぁ」
「つまんないですよ。僕は見た目以上に中年です。結婚もしてますし、子供も」
そうあっさり言われては本当につまらない。
なんとか面白いネタはないかと思い、ジネッタは少しつっこんで尋ねることにした。
「離婚歴は?」
「ないですよ」
おおお……とリームナとジネッタは歓声をあげる。
「ラブラブね」
「ラブラブよ」
驚愕の声と共に同じ感想を持った。
この時代、離婚歴などあって当たり前だ。先ほどのマルツェラも然り、リームナもそうだ。
しかしジネッタは……。
(私はまず結婚しなきゃだけどね……)
「そういうあなたはどうなんです?」
ニコニコとイェルが尋ねたのはリームナの方だった。
……良かった、こちらに矛先が向かなくて……。ジネッタは胸を撫で下ろす。
指名されたリームナはあらあら、と頬に片手をあてて語る。
「私ぃ?私も面白い話なーんもないわよぉ?
離婚が一回だけ。
旦那とは元々上手くいってなかったのよねぇ。
あんまり興味が無かったのよぉ。
まぁでも?子供が出来たときには、またちょっと違ったわぁ。
……それでも駄目なものは駄目ねー」
リームナが残念そうな笑みを浮かべる。
ジネッタはリームナ自身から、その後どうなったかをマルツェラと聞いたことがあった。
結局彼女は自分の子供にも興味が無くなってしまったのだという。
次にその存在を思い出しのは、子供が病気で死んでしまった連絡が来たときだそうだ。
死亡の手続きの一環のように、離婚の手続きを行ったとか。
リームナはその話をしながら寂しそうに笑っていた。
『若かったわぁ』
感想は簡潔だったが、その思いは語り尽くせぬほどだろう。
『私はあの子を産んだ時には嬉しかったけど…。
あの子は生きていてどうだったのかしらねぇ?
……私ったらそんなことも知らないのよ』
十分ほど過ぎ、話は尽きなかったが酒の方が尽きてくる。
しかしマルツェラたちは戻ってこないため、補給がされない。
遅すぎるということはないだろうが、ジネッタは少し気になり始めてきた。
それを察したかのようにイェルが告げる。
「ギュントがいれば大丈夫だとは思いますけどね。
あれは人形だけど一応傭兵ですから」
「この閉鎖された空間で何を心配するんだ?」
苛立つようにヴィクティンがジネッタに告げる。
「えー…」
そんな彼に抗議するような声をジネッタは上げた。
「何があるか分かんないじゃん」
「あんたは、この船に警戒するような危険な人物がいるって言ってんのか」
「えー分かんないじゃーん!
ほら、さっきの……幽霊とか……?
いるかもじゃん」
「馬鹿はいるみたいだな」
「馬鹿にしないでよ!
さっき怪談聞いて怖がってたのはどこの誰!?」
その言葉を聞いてヴィクティンが目を丸くする。彼が何かを言う前に、リームナがくすくすと笑いながら仲裁に入った。
「まぁまぁ。
じゃあジネッタ、ちょっと見てきてくれないかしらぁ?」
「まー…いーけど…」
年長者のリームナに言われてしまったならば仕方がない。なんとなく、断りづらい。
釈然としない思いを抱えながら立ち上がる。
(ヴィクティンが行けばいいじゃん……。そんで目一杯怖がればいいのよ!)
無愛想な昔の友人を横目で睨みつつ、手元に仮想のコンソールを展開する。
ポチポチと宙に浮いた画面に触れていき、灯りを呼び出す。
「じゃ、行ってきまーす」
両手を頭の後ろで組んでやる気なく、暗闇の中を歩いて行く。
跳躍空間航行中で無ければこんな面倒なことをせず、直接通信を行えばすぐに住む。
跳躍空間内では艦内通信にノイズが入りやすいため、正確に通信が行えない。
更に跳躍空間内から外に対しての通信は全く役に立たない。
通信士である自分が休暇中なのもそのためだ。
そんなわけで、直接様子を見に行くしかないのだ。
光球は自分の二歩先に常に浮かび続け、通路を照らしていた。しかし、通路の奥までは照らしきれない。
せいぜい五歩先の足元が見える程度の光だ。
上を見上げると底のない闇。後ろを見ても遠近感がなくなるような闇。
灯りがある前だけを歩いていこうと、ジネッタは気を振り絞って歩く。
気を紛らわすために、コンソールを呼び出してマルツェラ達の位置を確認。
倉庫区画の地図と生体反応が目の前に表示される。
跳躍空間内でも生体反応程度の走査が可能なのは有難い。個人識別までは行えないが。
現在地から後ろにまっすぐいったところに生体反応が三つある。……これはリームナ、ヴィクティン、イェルのものだ。
現在地から真っ直ぐ進んで左に曲がり、更に真っ直ぐいったところに生体反応が二つある。……これはマルツェラとギュントか。
生体反応が二つある場所へとジネッタはぽつぽつと足を進める。
左右には圧迫するようなコンテナがずらりと並び、まるでこちらを見張っているような圧迫感があった。
ジネッタは眉根を寄せてげんなりする。
(怪談したからかなー。なんか凄くいやーな感じ…)
灯りで五歩ほど先は見えるが、その先に何かが飛び出してきたらどうしよう…。
コンテナの中から何か飛び出してきたらどうしよう。
天井から何か落ちてきたら?
よく耳をすませば、実は後ろからついてくる足あとがあるんじゃないか?
嫌な想像を散々してから彼女は頭をぶんぶんと二回振る。
「うー」
幽霊なんているわけない。
いるわけないのだ。
そう思い、自分を鼓舞する。
そんな思いと格闘しているうちに十字路に差し掛かる。
ほら、もう少しでマルツェラとギュントと合流出来る。そうしたらこの心細い気持ちも吹き飛ぶことだろう。
(そーよそーよ!
なーんだ、ビビってたのがバカみたいじゃん!)
そう思うと足取りも軽い。
すたすたと先ほど生体反応があった場所へと向う。
(確かここら辺り……)
しかし。おかしい。
マルツェラとギュントは二人でいるはずなのだ。
普通、二人でいれば会話ぐらいする。
しかし、話し声が聞こえない。
(きっと、たまたま、よね?)
そんな言葉で襲い掛かる恐怖と戦う。
生体反応はある。だから多分大丈夫だ。
突如灯りが照らす通路の風景が変わる。異物が何か入り込む。
(なに?)
何かが通路に落ちているらしい。
コンテナから取り出した食料だろうか?それとも酒?
更に灯りだけを先に移動させて、内容を確認する。こちらの意思に反応して光球が動いた。
そして白い光に照らされたその物体は……。
「マル……ツェラ……?」
金髪の三つ編み、間違いない。
うつ伏せになって倒れている。
(なんで……?)
酒に酔って寝ているわけではないことはすぐに分かった。
金髪が、赤い血に濡れている。
(え…?)
なんとかしなければ。
そう思い、竦む足に前へ進めと命令する。
「退け!」
男の声が歩みを邪魔した。ギュントだ。
声の主を探そうとジネッタは周囲を見渡す。ジネッタの意思に反応して光球も動きまわる。
灯りが照らした先を何かが横切った。
続いて声が近づく。
「ここは危険だ!
退却しろ!」
見ると目の前にギュントの屈強な身体があり、自分の両肩を掴んでいた。
状況が……よく分からない……。
「何者か分からねぇが敵襲だ!」
敵?
この艦に?
なぜ?
しかし、敵襲があった証拠が、倒れたマルツェラという形で残っている。
いるのだ。
この艦に、いやこの倉庫区画に。
「でもっマルツェラがっ」
「お前までああなるぞ!」
苛立った声と共に、ひょいとジネッタの足が宙を浮く。
ギュントの右手がこちらの上半身を抱え、左手がこちらの膝を抱えて、抱き上げられている格好だ。
「きゃ……」
「動くな」
それだけ短く命令すると、ギュントは通路を蹴る。
たったそれだけでジネッタの身体に吹き飛ばされそうな風が叩きつけられた。
違う、風が叩きつけてきたのではなく、こちらがそれだけの速度で移動しているのだ。
「ひっ」
「すまん、出力を上げすぎた。
今度は上手くやる」
たった一蹴りで数十メートルは移動した。すかさず二歩目。
先程よりもマシなものの、前髪が、ポニーテールが一瞬で後ろに吹き飛ばされるような風が叩きつけてくる。
「ちょ……。
マルツェラは!?
敵って!?
どういうこと!?」
「知らん!
俺が見たのは倒れたマルツェラと、俺に襲いかかってきた『何か』だ」
わけが分からないわけが分からない!
少し前までただの宴会をしていただけなのに、今はわけの分からない何かに巻き込まれている。
敵はなんだ?
宇宙賊?いや、跳躍空間内では向こうのレーダーも狂っているはずだ。襲撃するなら跳躍空間脱出直後になる。
じゃあ……“虫”?
もうさっぱり分からない!
ギュントに抱えられたまま暗闇を移動する。光球はちゃんとこの移動速度についてこれているため、暗くはない。
しかし少し先にはもう闇が広がっている。
その闇が、こちらに喰らいつこうと待ち構える化け物にすら見えた。
化け物が、嗤う。
……ははははは……。
(え……)
本当に笑い声が聞こえる。確かに聴覚にその声は届いた。男の笑い声だ。
何かがいる。
その何かは笑っている。
手が、自然と震える。
しかし……その手がしっかりと握られた。
見るとギュントがこちらを抱えながらも、こちらの手を握っている。
その行動が意外で、ジネッタは目を丸くして彼の顔を見た。
相変わらずサングラス越しで目は見えないし、口元は真一文字に結ばれていて、無表情に見える。
だけど。
「大丈夫か?」
ギュントが冷静な声で確認を行う。それも、また意外な行動だ。
彼は冷血なフレン星人のはずなのに。
「え……うん……」
「あと少しでイェル達と合流出来る。そうしたら、倉庫区画から逃げろ」
人形の手とはいえ、生体反応を発するぐらいに人間のそれと限りなく近い。
だから温度がある。その温度が震える手を温める。
頑張れ、と応援されている気がした。気のせいだろうが。
例え気のせいでも、その手の温もりが今は有難い。
彼の存在が心強い。
落ち着いたジネッタの心に呼応するように、暗い通路の先に灯りが見えた。
先ほどまで皆で飲んでいた宴会場の灯りだ。
その灯りが希望そのものに見えて、ジネッタは安堵の溜息をつく。
助かった。日常に戻ってこれた。
「おかしい」
ぽつりとギュントが呟いた。その違和感はすぐにジネッタにも理解出来た。
なぜ…。
なぜだ。
ギュントはレジャーシートの近くまで来ると、ジネッタを下ろす。
ジネッタはそのまま腰が抜けたようにその場に座り込んだ。
「え?」
その場には、
リームナも、
イェルも、
ヴィクティンもいなかった。
誰もいない。
ただ代わりに先程までと違うものがある。
血だ。
少量の血が線を描くようにレジャーシートの上に零れていた。
それからコップやつまみの皿がひっくり返っている。
何かに襲撃されたかのように。
一体、この短い時間で何が起こったというのだ!何が変わった!
ギュントは不審に呟く。
「イェルがいて……このザマだと……?」
そのつぶやきを聞いてジネッタは思う。
この場にいる戦力だけでは心許無い。少なくとも敵と抗戦するには危険があるのではないか。
震える唇をなんとか動かしながらギュントに訴える。
「た、……誰かに……助けを……」
傭兵はイェルとギュント以外にもいる。その人達にも来てもらえば敵をなんとか出来るのではないのか。
ギュントは一つ頷くとしっかりとした口調で告げた。
「同意見だ」
倉庫区画の出入り口に向った二人を待っていたのは絶望だった。
ギュントが扉に手を触れるが……。
「開かない…!?」
ジネッタの身長の五倍はある扉は沈黙を保ったままだった。
ギュントが八つ当たりをするように分厚く大きな扉を蹴るが、まるで反応しない。
半歩後ろでその様子を見ていたジネッタはその場に座り込む。
ギュントは諦めずに扉のコンソールを叩き、艦内との通信を試みようとしているようだったが、何も言わないところから、その試みは失敗したようにみえる。
閉じ込められた。
しかもこの場所にはマルツェラを襲い、イェル達を襲った『何か』がいるのだ。
冗談じゃない。そんな恐ろしい場所にいられるものか。
(きっと私も……マルツェラみたいに……)
また手が震え出す。寒くないのに、とても寒い。
「仕方ない。
敵を迎え撃つ」
宣言するようにギュントが告げる。
それはそうか。それしかない。
しかし。
瞳だけで見上げて、ギュントに訴えかける。
……私は……どうすればいいのか……。
ギュントはこちらを安心させるような笑みを口元に浮かべると、ぽん、とこちらの頭に手を載せる。
「心配するな。
お前は安全なところに隠れておけばいい。
敵は俺が駆逐する」
そっけない言い方だが、この状況ではありがたさに涙が出てくる。
扉のコンソールを使って、倉庫内のコンテナを調べ、丁度空きの空間があるコンテナが倉庫の端にあることを発見した。
出入り口を背にして右手側にずっと歩いて行くとあるコンテナだ。
ギュントの持っている認証コードでコンテナの扉を空けることが可能だった。
ギュントが手をかざすと一見扉のないコンテナの壁に一筋の光が走り、縦長の長方形が描かれたと思うと、その空間分の壁が消えた。
そこを通ってジネッタはコンテナの中に入る。真っ暗だ。微かに残る香辛料の香りから、このコンテナが食料品が貯蔵されていたものだと分かる。
ギュントは扉の上部に手をかけると中を覗きこむようにして告げた。
「一応中からも開くが……俺が戻るまで出るな。
最悪、跳躍空間を脱出しちまえば艦内の無線通信が可能になる。そうしたら助けを呼べば良い」
「待っ……」
心細さからつい制止の声をあげてしまう。
だって。
ギュントがこのままどこかに行ってしまえば、自分はこの暗い空間で一人ぼっちになってしまう。
しかし、その心細さすらギュントは笑い飛ばす。
「心配するなよ。
マルツェラもきっと助けるし、俺は必ず戻ってくる。
俺はこれでもかつての最強戦闘種族だ」
それだけ告げて、コンテナから離れていく。それと同時に壁が閉じられコンテナが完全な密室になる。
暗い。
孤独だ。
寒くはない。服の設定温度が自動で調節されている。
コンテナの中に座り、壁に背を預けて膝を抱える。
何が……どうして……こうなったのだろうか………。
少し前まで楽しく皆で語り合っていただけなのに。
こんなっ。こんな宴会を開くなんて、参加するだなんて言わなければ良かった。断れば良かった。
それが浮かれて。
ヴィクティンが来るって言って…。
更に強く膝を抱える。
今どうしているだろうか。
無事だろうか。
『何か』に襲われて、それからどうしたのだろうか。
あれだけ失礼な発言を繰り返すような奴なのに、何故か会いたいと思う。
変だ。
理由がない。
それでも、今この瞬間に思い出すのは無愛想な彼だった。
たまたま久々に会っただけの、学生時代に少し話しただけの、そんな人物に?
明らかにおかしい。
しかし会いたい。
(会いたいよ……怖いよ……)
どうしてそこまで彼のことを思うのだろうか。あの冷血な彼が助けにくると思うのだろうか。
ジネッタは自分の記憶を思い起こす。
学生時代の彼は……そう、信頼がおける人物だった。
ヴィクティンと出会ったのは学生時代だ。
最初はなんて声かけたっけ……?
確か、構内の情報室で。
「キミ、パーシル君のおにーさんでしょ?」
初対面のヴィクティンに対して、気後れもなくそんなことを言った。
長机を挟んで向かい会うように座る彼は、宙に浮かぶコンソールをクローズし、眉間に皺を寄せて答える。
「失礼なヤツだな。
名前も調べずに話しかけてくるのか」
「知ってるよー。
ヴィクティン・ピェルス・ブディーカさん」
「話し振りから私に用があるとは思えないな。帰れよ」
「アナタに用があるの、ヴィクティン」
「はぁ?」
「アナタと友達になりたいの」
ああ、そう言った。確かに言った。
ヴィクティンと友達になりたかったからだ。
そこまで思い出してからぽつりと思う。
なぜ?
何故友達になりたかったのか?
記憶の中のヴィクティンは皮肉気に笑う。
……この艦で出会ってからヴィクティンが笑ったところをみたことが無いジネッタにしては、それは懐かしいものだった。
「あんたの意図は理解出来た。
将軍を殺すためにはまずは駆る馬から殺さないとな」
その言葉に記憶の中の自分も笑った気がする。
しかし、今の自分にはヴィクティンの例えの意味が分からない。
「さぁ、どうだかね?
そういう理由でもいいでしょ?可愛い女の子と話せるなんて貴重な時間の使い方だと思わない?」
「私は弟と違って異性に興味が無いからどーでもいいな」
「なにそれ?
同性になら興味あるの?」
「価値観の多様化は面倒だな。
性欲が無い。
コレでいいか?」
「それ、女性の前で言うセリフじゃないよ?」
「当たり前だろ。
異性と認識してないからな」
してやったり。そんな顔でヴィクティンが笑う。
やっぱり失礼な奴だ。しかし、今より笑っていた。
その次の日も、その次の日も次の次の日も。
情報室で彼と会い、下らない会話をした。
「あんた、よっぽど暇なんだな」
呆れた口調でヴィクティンが感想を告げる。
彼は授業の調べ物のついでだろうが、こちらの会話に律儀に付き合うあたり、お前も同じだろうとちょっと思う。
ジネッタはヴィクティンの口の悪さを気にもせずに、笑って尋ねた。
「他人に興味があることがそんなに悪いの?」
「犬か。
節操が無い」
「ぶー。失礼よ」
「訂正する。豚か」
「ちょっ!
撤回しろ!」
ぽかぽかと彼の頭を叩く。
発言も態度も、本当に酷いやつだ。
それでもその発言に変な下心も無いし、何より彼は楽しそうだった。
だから、話が楽しい。
「ヴィクティンはさ、何になりたいの?」
「大志を抱くような性格に見えるか?」
「誤・魔・化・す・な。
これでも私、将来の進路とか悩んじゃってるわけじゃん?
参考にしたいんだけど」
彼の額を指で弾いてからむすっとした顔をして彼に真面目な回答を促す。
彼は心底悩むように顔を険しくした。
「難しいな」
まず一言感想を述べて、彼は続けた。
「私は、私が夢を持ってもいいと思えればいいのにな。
ただ生きて死ぬだけでなく、これをやりきったと思えるような何かがあればいいのに。
私が、意味のある存在になれたらどんなにいいことか」
難しいという割には、ずっと昔から用意していたセリフのようにすらすらと彼は答えた。
それはつまりずっと考えてきたことと等しいのだろうが。
しかしその言葉の意味が理解出来ないため、ジネッタは小首をかしげる。
「なにそれ?
電波系?」
その感想を聞きヴィクティンは半眼で答えた。
「人がせっかく真面目に答えてやってるのにその感想かよ。
あんた最低だ」
「夢を持ってもいいって……別に許可とか必要ないし、持てばいいじゃん。
持ちたいんでしょ?」
驚いたように彼は目を見開く。……そんなにおかしいことを言っただろうか?
誰でも思う、至極真っ当な意見のはずだが。
「そう……か……」
呆然と彼はそんなことを呟いた。
その後も彼とは頻繁に会っていた気がする。
たまに彼の弟とも会話をしたり。
(あれ………何か………おかしい……)
回想にノイズのように違和感が混じる。
そんなに時間を割いて、自分がヴィクティンと会っていたのは何故だ?
ただの友達にそこまで会いに行くか?もっと元々仲がいい人間は他にもいたではないか。
そもそも彼と友達になりたいと言った理由は?
そして彼と疎遠になった理由はなんだ?
思い出はある。だから過去に自分がそのように行動したのは間違いない。
しかし思い出の中の自分の行動に納得が出来ない。理解出来ない。
なぜなら動機がないから。
動機。
理由。
それらをいくら考えても思いつかない。いや思い出せない。
忘れてしまう程度の、そんな下らないことだったのかもしれない。
しれないが…。
ふとジネッタは顔をあげる。
自分が暗闇を見つめていただけでなく寝ていたことに気づく。
ギュントと別れてからどれくらいたった?あれからどうなった?
終わったのか?
決して安全ではない状況なのに、酒と疲労で寝てしまった自分の行動に恐怖する。
身の危険を感じ、頭を叩き起こす。立ち上がる。
コンソールを宙に呼び出して時間を確認すると、大体ギュントと別れてから一時間ほどたっている。
……全てはもう終わったのだろうか?
そう思いながら倉庫区画内の生体反応を確認。自分を含めて六つ。つまり全員無事ということか。
終わったの……か。
それならばギュントがここに戻って来ないのはおかしい。
(悩んでても仕方ない、行動あるのみ、でしょ)
コンテナの壁面に触れると、すっと壁が消えて人が一人通れる程度の長方形の穴が出来る。
そこから飛び出し、床に着地し、周囲を見渡す。
相変わらず暗い。ついでにコンテナ内より寒い。服の温度が自動で上昇し、体温を調節し始める。
光球をコンソールから呼び出す。
とりあえずは生体反応が多く存在している場所を頼りに歩き始める。
入り口がある面を背にし、ここからまっすぐ歩いていけば辿り着くはずだ。
ブーツがこつりこつりと、床をリズムよく叩いていく。後に続く足あとは無い。だから自分一人だけが歩いていることが分かる。安心する。
自然と握った拳に汗が滲む。
この先に生体反応があることは分かっている。その反応がヴィクティン達である可能性が高いことも分かっている。
しかし。
もし違ったら?
この倉庫区画にマルツェラを襲ったような『何か』が潜んでいて、それに皆が全て殺されていたら?
無い。無い。あり得ない。あり得るはずがない。あり得て欲しくない。
早く確信を得たくて徐々に歩く速度が上がる。
誰かに会って早く早く安心したい。
そして、ようやく話し声が聞こえてくる。小声のためよく聞こえない。
でも人がいることは確かだ!助かった!!無事だったんだ!
小走りにジネッタはその声の方向に向かう。このまままっすぐだ!
声が話す内容が理解できるくらいに距離が縮まる。
「…。
目撃者は全て消してもらわないとね」
(え……)
そしてその発言の、内容は、つまり、どういう…。
しかもその声はヴィクティンでもイェルでもギュントでもない男の声だった。
だれ?
進む速度を落とし、更にその先の会話を聞こうとしたところで、数歩先を行く光球が何かを足元に照らしだす。
見たくない。
見てはいけない。
しかし見なくては分からない。
ジネッタは身を固くし、それを見る。
ああ。
イェルだ。
イェルがコンテナに寄りかかるように倒れていた。
そして。
「あ……あ……」
見えたのがただのイェルだったら良かったのに。
ジネッタの口からは最早意味のない言葉しか出て来なかった。もうこの状況をどう理解していいか分からない。
イェルの口から黒紫色の触手が生えたスライムのような塊が這い出ようとしていた。
「あ………」
生きているように触手がゆらめき、ソレは光に気づくと悲鳴のようにぴぃと鳴いてイェルの中に戻る。
こんな、
こんなの、
現実じゃない。
悲鳴をあげる寸前のところで誰かの声が遠くからした。
「おーい、調子はどうだ?」
その声の主が光に照らされる。
柔らかそうな内向きのクセがついたくすんだ茶髪に、丸っこい顔を持った男がそこにはいた。
誰……?
しかし声は聞いたことがある。少し前に「目撃者は全て消す」と言っていたあの声だ。
じゃあ男を目撃した自分はどうなる?
理解するが早くジネッタは全力で背後を振り向き、光球を消す。
そして走り、叫ぶ。
「嫌ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
走る、走る、走る、走れ!
そうじゃないと自分は殺されてしまうのだ。それは嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
滅茶苦茶に通路を走る。叫びながら走る。もう今自分がどこにいるか分からない。
分かってることは捕まると殺されるということだ。
あの生物はなんだ!?
あの男は誰だ!?
だって、だって生体反応は六人だったはずだ!なんでそれ以外の人物が存在しうる!?
宴会でしていた怪談を思い出す。監視カメラに映っていたという影。
この艦に残った怨念。
生体反応が無い存在。
すなわちあの男は。
そこまで考えたところで、ジネッタは何かにつまずき、転ぶ。
「うっ」
床を滑るように転ぶが、すぐに何につまずいたかを確認しようと光球を呼び出す。
つまずくようなものなんてあるのか?
光球に照らしだされたそれは…。
「嘘だ……」
ギュントが、サングラスをかけたまま倒れていた。微動だにしないということはつまり、そういうことなのだろう。
一番信頼を寄せ、頼りにしていた存在が、今ここで倒れている。
何も終わっていなかった。
謎の男がいる。
謎の生物が存在する。
つまりは、ここはもう、安全の確保など望めない空間ということ。
こつ。こつ。こつ。
遠く足音が、した。
危機感に駆られジネッタは立ち上がろうと力を入れるが、足が竦み腰が抜ける。動けない。
こつ。こつ。こつ。こつ。
近づいてくる。早く、早く動かないと…、逃げないと。
こつこつこつこつ。
近づくペースが速くなる。足音が大きくなる。
いやだ、もう来る早く逃げないとほらいつもどおりに立って。それなのに力が入らない。動けない!
泣きそうになりながらジネッタは身を捩るが、身体が立ち上がり方を忘れてしまい、何度挑戦しても立てない。
こつこつこつこつ。
嫌だ嫌だ許して死ぬのは嫌だ動け動け身体よ動け早く早くお願いだから!!
こつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつ。
こつん。
足音が目の前で、止まり。
ジネッタは喉から血を流さんばかりに絶叫した。




