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39.旅立ち

39.旅立ち


 早紀は旅行鞄を前にして、ここ最近の出来事を思いおこしていた。

加奈子が勇樹とそういう仲になっていたのには驚いた。最初に会った日以来、頻繁に連絡を取り合っていたのだという。今にして思えば、仕事が終わるといつもなら早紀を誘って“馬”に入り浸ることが多かったのだけれど、その間はそそくさと退社していた。おそらく勇樹と会っていたのだと思う。

 その頃の早紀はと言えば、姉の夫である勇馬に魅かれていて、それが悪いことでもしているかのような罪悪感に苛まれていた。人が誰と何をしているのかなどという事には到底気が回らなかった。

 そんな早紀の気持ちは和馬に見透かされていた。

 あの日、和馬があんなことを言ったのは、和馬もまた復縁が叶わず傷心していたからなのかもしれない。けれど、早紀は和馬と一緒に居て心の中に新しい何かが芽生え始めていたのだと感じていた。



 早紀が初めて和馬と会った時の印象は無愛想で失礼なヤツだというものだった。そんなヤツが勇馬を訪ねてやって来た。いかにもインチキ商品を押し売りに来たような感じだった。案の定、自分の借金を返すのに家を売る算段だった。勇馬の計らいで事なきを得たものの、早紀の中ではどうしようもない極悪人だというイメージがぬぐえなかった。

 その後、和馬はちょくちょく“馬”を訪ねてくるようになった。その度に早紀にちょっかいを出してきた。後日談ではあるが、和馬の早紀に対する第一印象は気が強くて我儘そうで面倒くさそうな女だなというものだったそうだ。けれど、そういう女が和馬は好きなのだと言った。以前、結婚していた社長令嬢もそんな感じの女性だったらしい。けれど、早紀と決定的に違ったのは彼女はお嬢様特有の身勝手さがあって、それが一向に治らなかったのだそうだ。早紀にしてみれば我儘と身勝手はどこがどう違うのかと思ったのだけれど、喧嘩まがいのやり取りを何度も繰り返していても和馬は決して怒ることはなかった。むしろそんな状況を楽しんでいるかのようにいつも笑顔で早紀を見ていた。あんなヤツ無視すればいいのにと加奈子にも言われていたのだけれど、その度に突っかかって行く自分ももしかしたらそれを楽しんでいたのかもしれない。



「一緒に行くか?」

 和馬にそう言われた時、早紀は不覚にも行けるものなら一緒に行きたい…。そう思ってしまった。


 早紀と和馬が港から戻ると、来た時とは空気が一変していた。

 雅子は勇の元に戻り、こっちの店は勇樹が後を継ぐという話がまとまっていた。そして、あれだけ勇に熱を上げていた加奈子が勇樹と一緒に店を手伝うのだという事に早紀は何よりも驚いた。

「また、あんたふざけたことを!勇樹くんとは会ってまだ一週間しかたっていないのよ。そんなんでこんな大事なことを簡単に決めるなんて、どうかしてるわ」

「あら、一週間だろうと十年だろうと、関係ないわよ」

 加奈子にそう言われて早紀はあ然とした。

「人を好きになるってそういう事だと思うよ」

 和馬がそう言って早紀の肩に手を置いて微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、早紀の気持ちは固まった。


 帰りの電車の中で皆と離れた席に早紀は和馬と座っていた。

「本当にそう思っているの?」

「何が?」

「その…。い、一緒に来てほしいって…」

「マジ?来てくれるの?」

「まだ…」

「やった!」

 早紀が返事をするまえに、和馬は立ち上がってガッツポーズをした。そして、早紀を抱きしめた。周囲の乗客たちが一斉に二人の方を見た。和馬はお構いなしに早紀を抱きしめ続けた。早紀は嬉しかった。けれど、反射的に和馬の頬を引っ叩いていた。

「OK!夢じゃない。もっと引っ叩いてくれ」

 そんな和馬の顔を見て、早紀は嬉しかった。嬉しいはずなのに、涙が溢れて止まらなかった。

「何やってるんだ」

 勇馬が慌てて飛んで来た。

「アニキ、喜んでくれ。俺、早紀ちゃんとフランスに行く」

 その言葉を聞いた瞬間、勇馬は、いや、勇馬だけじゃなく有紀や麻紀をはじめそこに居た全員が驚いて立上った。



 ひと月後、雅子が勇の元にやって来た。加奈子はそれより二週間前に会社を辞めて店の手伝いを始めていた。

「懐かしいわ。本当にあの時のままだわ」

 勇は雅子に店を見せた後、部屋に案内した。内装こそ新しくしていたけれど、当時、三人で暮らしていた部屋は雅子を温かく迎えてくれた。

「亡くなったご両親もきっと喜んでるに違いないよ」

 勇はそう言って仏壇の方を向いた。そこには雅子の両親の位牌が置かれていた。それに気付いた雅子は仏壇の前で手を合わせた。

「ありがとう。父も母もきっと感謝しているわ。勇二さんには申し訳ないけれど、あなたで良かった…」

「そんなことはあるか!あいつだってきっと幸せだった」


 勇馬は有紀に料理を教えていた。有紀がそう望んだからだ。

「最初は上手くいかないかもしれないけれど我慢してね」

「大丈夫だよ。思ったほどひどくない」

「まあ!私のことそんな風に…」

 その先は言わせない…。まるでそうとでも言うかのように有紀の唇は塞がれた。有紀はそれを受け止めて、その後、静かに唇を離した。

「ねえ、今日は雅子さんが来るんでしょう?行かなくてもいいの?」

「今日くらいは二人っきりにしてやろう」

「そうね…」

 それから、今度は有紀の方が勇馬を抱きしめた。

 数日後、この家の持ち主、楠夫妻から連絡があった。赴任先の海外に永住することにしたのだそうだ。そして、勇馬がこの家を譲り受けた。


「意外だわ」

 麻紀は拓馬に連れてこられた店でそう言った。そこは古くて小さな家庭料理の店だった。

「そうだろう?」

「こんなに美味しいオムライスは食べたことがないわ」

 拓馬は麻紀に料理を教えながら、時間があればいろんな店を食べ歩いていた。その店は拓馬の隠れ家的な店で人を連れてきたのは麻紀が初めてなのだという。

「拓ちゃんも隅に置けないねえ。こんないい子が居たならもっと早く連れてくればよかったのに」

「お母さん、俺だって、そうしたかったけど、こんないい子はそう簡単に見つけられなくてさ」

 拓馬が“お母さん”と呼んでいるのはこの店の女将だ。小さいころに母親を亡くした拓馬はこの女将に母親の面影を抱いていたのかもせれない。麻紀はふとそう思った。

「お母さん、私、ここでバイトさせて欲しい」

「あら、それは願っても無いことだわ。拓ちゃんの彼女なら何も文句はないわよ」

「やった!」

 拓馬はそんな麻紀の顔を見ながら、微笑んだ。


 チャイムが鳴ってドアが開いた。そして、和馬の声がした。

「早紀ちゃん」

 早紀は旅行鞄を持って部屋から降りてきた。

「いよいよね」

「うん。行ってきます」

 有紀と勇馬に挨拶をして玄関に向かった。有紀は早紀を見送りに玄関まで行った。

「麻紀ちゃんったら何もこんな日まで出かけなくてもいいのに…」

「その方がいいのよ。麻紀が居たら、きっと大泣きして私も出るに出られなくなっちゃうから」

「それもそうね」

 そして、有紀は和馬に頭を下げた。

「和馬さん、足手まといになるかもせれないけれど、よろしくね」

「はい。大丈夫ですよ」

 和馬はそう言って早紀の荷物を手に取った。待たせてあったタクシーのトランクに荷物を積み込むと、二人でタクシーに乗り込んだ。そして、どちらからともなく手を絡め、早紀は和馬にもたれかかった。

 いつの間にか、どんよりした空が明るく晴れ渡っていた。







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