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30.あの頃の二人

30.あの頃の二人


 最後の客を見送ると、雅子は“準備中”の札を出して暖簾を仕舞った。それから勇樹を伴って二人が待つ座敷へ赴いた。

「大体の事情は勇樹から聞いています。結論から言うと、あなた方が想像されている通りだと思います」

「それじゃあ!」

 思わず加奈子が声をあげた。そして、ある疑問を雅子にぶつけた。

「一つだけ聞いてもいいですか?」

「どうして佐々木と別れたのか…。ですよね」

「ええ、まあ…」

 加奈子にとっては…。というより、勇自身がそのことを一番気にかけているはずだし、それをクリアーしなければ加奈子も前に進めない。

 返事をしながら不安げに俯いた加奈子をよそに、雅子は微笑すら浮かべながら語り始めた。

「勇さんは本当にまじめな人でね…」



 商業高校を卒業した雅子は東京のホテルに就職した。ひと月の社員研修を経てレストランに配属された。正社員として正式に採用されるにはここでも更に半年の研修必要だった。ゆくゆくはフロア責任者を経て管理業務に進むのが雅子たちのような高卒女子の慣例だった。

 雅子が初めて勇を見たのは研修期間を終えて、正社員として働き始めた頃だった。提携先の割烹料理店からの紹介で厨房に入って来たのが勇だった。雅子の職場には自分と同じくらいの男性社員が居なかったのでよく覚えていた。けれど、雅子が直接厨房に入ることは殆どなかったので、勇とも口をきくことはなかった。けれど、厨房で先輩たちに怒鳴られながらも一生懸命働いている勇の姿は配膳カウンター越しに目にしていた。


 ホテルの仕事は年中無休だ。社員は交代で休みを貰っていた。雅子はこれまで自分が働いている日に勇が休んでいるのを見たことがなかった。

「あの人はいつ休んでいるのだろう…」

 そんなことをふと思ったこともあった。後で聞いた話だけれど、その頃は本当に休んでいなかったらしい。扱き使われていたというよりも1日でも早く一人前になりたいと、休み返上で働いていたのだと聞いたことがある。だから、あの日、偶然会った時には心臓が飛び出そうなほど嬉しかった。けれど、極力、平静を装って勇に声を掛けた。

「すごく評判の映画なんですよね」

 勇はまさか自分が声を掛けられたのだとは思わず、周りをキョロキョロ見回していた。



 このエピソードは勇から聞いた話と同じだった。加奈子はうんうんとうなずきながら、黙って雅子の話を聞いていた。早紀も勇樹も黙って聞いていた。



 それがきっかけで雅子は勇と交際するようになった。今まで休みを返上してでも働きたいと言っていた勇がそれ以来、週に一日は休みを取るようになった。それも雅子と同じ日に。二人の関係が周知の事実になるのにさほど時間はかからなかった。けれど、職場のみんなは二人を温かく見守ってくれていた。


 三年後、勇は魚料理のチーフを任されるようになった。それを機に二人は結婚した。もちろんこのホテルのこのレストランで披露宴を行った。

 雅子はその後、勇馬を身ごもり、ホテルを退職した。その後は実家に戻り、家業のレストランを手伝いながら、勇馬を出産した。

 雅子が実家に帰っている間、ほんの数時間、ただ寝るためだけに帰る社宅での生活が寂しくて勇は雅子に相談した。

「あのさあ、一緒に住んでもいいかなあ?」

「大歓迎よ。お父さんもきっと喜んでくれるわ」

 雅子が言った通り、雅子の両親は勇が一緒に住むことを歓迎してくれた。いずれは勇が店を継いでくれることを確信して。ところが、勇が料理長に就任すると、家に帰って来ること自体が少なくなってきた。



 この頃の話になると、雅子の表情が少し曇り始めてきた。勇との結婚生活の中で一番つらい時期だったのかもしれないと、早紀と加奈子は察した。

「ところで、あなたたち、勇さんの家族については知っているかしら?」

 不意に雅子が尋ねてきた。

「ええ、三人の奥さんとの間に三人のお子さんが…」

 早紀の応えに雅子は苦笑した。

「それは今の家族ね。じゃあ、勇さんのご両親や兄弟のことは聞いていないのね?」

「えっ?」

 この話は勇と雅子二人の話だけでは収まらないのに違いない。早紀も加奈子もそう考えた。







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