愛の讃歌は、あなたが送ったセレナーデ
この年は残暑が厳しい年だったが、十月も半ばになると、夕方の頃は肌寒さを覚えるようになった。
里子はバス停で帰宅のバスを待っていた。
「大野君?」
そう声をかけたのは同じ会社の安田だった。
「大野君もここ使ってたんだね。いやぁ今日は珍しく早く仕事が片付いてね、こんな日くらい早く帰らないとね。」
里子は今年新卒で入社して以来、ずっとここからバスに乗っているが、安田がこのバス停を使っていることを知らなかった。
安田はその後も外回りの仕事であったことを少し話し、里子はそれに相槌を打ち、ほどなくしてバスがやってきた。
二人とも同じバスに乗り込み、安田は後ろの方に、里子は真ん中辺りの窓際に座った。
窓の外を眺めながら、里子は笑みを浮かべた。
会社の人とあんな風にしゃべったことがなかった里子は、嬉しかったのだろう。
元々、無口な方なのだ。
このバスはラジオが流れていて、里子の乗る時間帯には決まって『愛の讃歌』がかかる。
里子は、いつのまにかこの歌が好きになっていた。
里子の朝のルーティンがある。
会社に着くと、制服に着替える前に社長にお茶を淹れ、制服に着替え、事務所の中を掃除機をかけて、自分のデスクに座り仕事を始める。
ほどなく社員が出社して来る。
里子の会社は空調関係の下請けで、社長を除くと、営業が5人、経理が2人、メンテナンスが2人だけの小さな会社だ。
里子は大学からの新卒で、やっとの思いでこの会社に就職することが出来た。
朝の朝礼が終わり、里子が営業やメンテナンスの社員達の為にお茶を淹れに給湯室へ入ると、営業の5人と経理の冴島奈美は談笑を始める。
談笑の内容は日々様々だが、里子への陰口も多い。
「暗い」「イライラする」「つきあいがわるい」
といったような内容である。
里子が入社した当初は、お茶汲みも奈美の仕事だった。
奈美は高校卒業後に入社して今年で3年目で、里子より一つ年下になる。
メンテナンスの安田と黒部は、毎日のようにすぐに会社を出て外回りの仕事にでかける。
安田は毎朝の営業と奈美の談笑をよく思ってはいなかった。
里子の陰口にも薄々は気づいていたが、「俺に関係ないこと」と、聞かぬふりを決め込んでいたのだ。この談笑は1時間近くかかることもあるが、大体は最後奈美と営業の副島の二人が残る。
営業が出払うと、会社には経理の二人と社長だけになる。
たまに途中でメンテナンスのどちらかが昼食をとりに一旦帰ってくることもある。
その昼食時間のこと
昼食時間は奈美が外に出かけるので、会社には里子が一人で、自分で作ってくる弁当を黙々と食べている。社長は先に外で済ませてきたようで、楊枝をくわえたまま帰ってきた。
社長が里子を見つけると近寄ってきた。
「大野君はそれ毎日作って来てるのかい?」
「あ、はい」
「ほぉそりゃ偉いねぇ」
社長は50を少し超えたくらいで、相応に恰幅もよく、人当たりも悪い方ではない。
朝お茶を持って行っても「おはよう」「ありがとう」と気さくに声をかけてくれる
「その卵焼きは旨そうだな。いっこもらっていいかい?」
里子が無言のまま弁当箱を差し出し、社長が手づかみで頬張った。
「ん?おぉ、これは中々・・・」
その反応には、思わず笑みがこぼれてしまった。
「おつかれでーす」
安田が昼休憩に戻ってきた。
社長が、おぉ戻ってきたなと安田と里子を社長室に呼び、応接用の椅子で一緒に食えと言う。
「お得意さんから最中を貰ったから君らにもおすそ分けだ」と言い、社長自らお茶も淹れてきた。
「んで武夫、脇本さんトコのトラブルって何だった?」
「いや、もうくだらないことだったんで・・・・」
しばらく社長と安田が仕事の話しを始めた。社長は安田と二人の時は武夫と、下の名前で呼ぶらしい。そのやりとりを聞いてた里子に社長が、
「あぁ、そうか知らないんだよな。武夫は俺の高校の後輩でさ、二人とも野球部出身なんだよ」
後輩と言ってもだいぶ離れていて、安田が自分の一回り上という事を教えてもらった。
その後は、安田に結婚相手がいないだとか、彼女はいつ作るんだとか、安田も楽しそうに喋っていた。
里子も横で聴きながら、時にクスッと笑っていた。
そうして割と楽しい時間も過ぎ、安田もまた仕事に出掛けようとしていた。
談笑の終わり際に、明日の昼は何か外に美味いものを食いに行くから、2人に明日は昼は何も持ってこなくていいからと言って、また社長室にこもった。さして何気もないことのようだが、里子には珍しいことである。
昼御飯でさえも人に誘われることがひどく少ないのだ。
明日が待ち遠しい里子だったが、夕方にそんな気分は一変した。
定時の五時三十分を回り、帰宅の時間だというのに里子は帰れる気が全くしなかった。
副島が里子を怒鳴りつけている。
原因は、副島が奈美に頼んでおいた仕事をやっていなかったのであるが、奈美はそれを里子に頼んでおいたのだという。
もちろん里子には全く身に覚えがなく、だからといって里子の性格上私ではないと言い切れないから、副島の説教を黙って聞き入れるしかない。
当の奈美はしっかり定時で退社している。
副島は最近営業もあまり振るわず、更にこの仕事の不備で苛立ちを里子にぶつけていたようだった。
その説教が一時間にも及ぶかというところで安田が帰ってきて、すぐにその異常を察知し、どうしたのかと副島に聞くと、副島は書類を何枚か差し出し事情を説明した。
安田は書類にあらかた目を通すと、ふぅとため息をつき、
「なぁ副島、大野君が今何ヶ月目だと思ってるんだ?こういう大事な仕事は責任を持ってお前がやるべきだろ」
今度は安田が副島に説教を始めた。
「大野君はもう帰りなよ、ご苦労様。大変だったね」
安田は元々営業畑の出身だったらしい。それが少々意外ではあったが、何より副島の説教で、内心はボロボロだった。家に帰りサッサと風呂に入り、夕飯もたべずに自分の部屋に入った。母親からの、どうしたの?ご飯はたべないの?という問いかけにも適当に躱した。
部屋の机を見ると、シールの剥がれた痕が残っている。かつて」ここには高校の時付き合っていた彼とのプリクラが貼ってあった。
このシール痕を見るたびに、脳裏に
「あぁ里子?あいつ暗いし面白くないからいいよ。」
という言葉が未だに鮮明によぎってくる。
椅子に座り、シール痕をなぞると、自然と涙が流れてくる。
次の日、またいつものように出社すると、奈美が更衣室で携帯電話をいじっていた。
奈美がこんなに早く出社するのは珍しかった。
いやな予感がしたが、そのまま制服に着替えようとすると、奈美が寄ってきて。
「ねぇ、昨日大野さん副島さんになんて言ったの?」
「別に何も・・・」
「あ、そう」
不機嫌そうに相槌を打ち打って
「あのさ」
「はい?」
「あの仕事私が受けたってのはわかってるでしょ?だったらそれを考えて上手に取り繕ってくれないとさ、結局私に降りかかってくるわけ、わかる?」
あまりの理不尽な物言いにただ呆然と聞いてることしかできない。
「昨日あの後電話がかかってきて、副島さんに怒られるわ、安田さんに説教されるわ。
まぁ副島さんはともかく、安田さんには嫌われたくないから泣いてごまかしたけど」
奈美はそこまで口を滑らせてしまったことにハッとして、
「あんた余計なことしゃべらないでよ」
最後に、
「あんた暗いしムカつくんだよ」
と吐き捨てて、事務所に戻った。
里子も着替えて事務所に戻ったが、仕事は手に付かなかった。
今日は社長が急遽、出張が入り、朝礼は無かった。
そして相変わらずの談笑が始まる。昨日副島が奈美に説教をしたという話しだったが、何事も無かったかのようだった。
昼になっても里子は気分が優れず、作ってきたサンドウィッチに手を付ける気になれなかった。
安田がまた昼に帰ってきた。
里子のデスクに乗っているサンドウィッチを見て、
「あら大野君、作ってきちゃったの?今日一緒に外行くって言ったのに」
昨日あれだけ楽しみにしていたのに、そんなこんなですっかり忘れてしまった。
しかし、社長は出張でそのことを不思議に思っていると、
「社長から今日の昼の分貰ってるんだよ。
んじゃしょうがないから、そのサンドウィッチもっておいでよ」と言ってメンテナンス部の営業車の助手席に乗せてもらい、安田は途中でコンビニのサンドウィッチを買って近くの公園のベンチに座った。
「冴島君に色々言われなかった?」
何故知ってるのかと思い、安田の顔を見た。
「分かるよ。大野君の顔が今朝からずっと優れないからさ」
安田は里子の膝に手をポンポンと乗せ
「ゴメンな辛い想いをさせてしまって。冴島君の言ったことなら気にしなくていいからな」
里子はうつむいた。そしてつきものが落ちたかのように力が抜け、ボロボロと涙がこぼれていった。
安田は里子の表情を見ることは出来なかったが、里子の肩に手を添えて、
「辛かったろ?ん?」
里子はこんなに泣いたのも男の前で泣くのも初めてだった。「あ、これ美味しそうだな。貰っていい?」と里子が作ってきたサンドウィッチを一つ貰おうとすると、里子は全部どうぞと差し出した。そうかい?と安田は代わりに買ってきたサンドウィッチを「後ででも」と渡した。
そのおかげで気持ちが楽になった里子は、昼からの仕事をこれまでのようにスムーズに終わらせることができ、定時に帰宅した。
安田は、大体七時か、遅い時は八時九時に帰宅ということも少なくない。
家には病気がちの母親がいて、二人で暮らしている。
母親はいつも夕飯の支度をして待っているが、安田はこれをよく思っておらず、
「母ちゃん、もう無理するなよ。頼むからさ」
「別にこれくらいいいじゃないか、重病人でもあるまいし」
仕方なく・・・と言っても心底では嬉しいのだが、そしてその夕飯を平らげて、片付けをすると、母親を早々寝床につけて、自分も早くから床に就くが、そう早くも寝れず、その間はいろんなことを考える。
安田のうちは、安田が中学生の頃から母親と二人で暮らしている。
母親の手一つで高校まで行かせてもらい、好きな野球までやらせてもらえていた。
決して裕福じゃないから、母親が昼も夜も働きに出て無理をしていた為に、体を壊してしまった。
高校を卒業してからは、安田にある程度収入もあり、母親の度々の入院費用も出せるようになったが、母親の病状は回復したり悪くなったりの繰り返しである。だから、無理をさせられないのだ。母親の寝息を聞いて安心していると、不意に昼の里子のことがよぎった。
今まではただ大人しい子くらいにしか思っていなかったから、昼のあの光景を思い浮かべると、
「よっぽどいろんなことを溜め込んでたんだろうな」と、なんだか不憫に思えてきた。
「家も近いようだし、今度飲みにでも誘ってやろうかな」
左手を数回握って、里子の肩の感触を思い出していた。
次の日の朝礼後のいつもの談笑に、ついに安田が我慢出来ずに、
「おい!副島!冴島君!」
声を荒げ、
「大野君に言いたいことがあるんだろう!俺が聞いてやるからはっきり言ってみろ」
事務所の中は一気に張り詰めた空気に包まれた。副島も奈美もこれまで見せたことのない緊張した面持ちで、声も出せず安田を見ている。
「言えないんだったら、もう行くけど、陰口なんて卑怯なことするなよ」
それが社長室まで聞こえたらしく、
「おい武夫どうしたんだ?」
思わず社長も下の名前で読んでしまった。
安田は社長室に呼ばれて、数分後いつものように仕事に出かけた。
そのあと、副島達も呼ばれた。里子はこの一部始終に驚きもしたが、安田がそうやって守ってくれたことが嬉しかった。
昼休憩の時に、里子は社長室で昼食をとるように言われ、社長から励ましの言葉をもらって、
「大野君、今日終わったら軽く飲みに行かないか?」
はい、と小さく返事をした里子の表情からはあまり読み取れなかったが、それが待ち遠しくてしょうがなかった。
社長が招待してくれたお店は里子の家からすぐのところだったので、一旦帰って着替えていった。
いつも黒縁のメガネをかけているが、縁なしのメガネに変えて、普段はノーメイクの里子が薄っすら化粧をしていった。
店に入ると、社長と安田が先に幾らか飲んでいたようだ。
「あ、きたきた、サッちゃんコッチだよー」
社長が上機嫌で手招きしてきた。
最初だけということで、コップ一杯だけビールを飲まされた。
「サッちゃんさ、今まで気付かなくて悪かったね。まさかそういうことになってたなんて知らなくてさ」
安田が社長に先に話していたらしかった。
里子はビールを半分飲んで顔を赤くしていた。
社長はさらに饒舌にいろんなことを話し始めた。
「サッちゃん今日なんだか雰囲気違うよね?」
「サッちゃん彼氏はいるの?」
「サッちゃん会社やめないでくれよ」
社長一人でしゃべっているから、二人ともただ頷いているだけだったが、それが里子には嬉しくて楽しかった。
社長も相当酔いが回ったところで、奥さんが迎えにきた。
店を出て社長を見送るところで、
「おい武夫、サッちゃんをちゃんと送ってやれよ」
「お前ら結構似合ってるぞ。サッちゃんを嫁にしちゃえよ」
酔いに任せて、言いたい放題である。安田も苦笑いしながら走って行く車に手を振った。
「さぁ帰ろうか」
と、歩き出すと、里子がよろめいて車道に飛び出しそうになった。
安田が反射的に手を掴み、引き寄せたが、どうやらコップ一杯のビールで酔ってしまったらしい。
「ちょっと休んで行こうか」
公園のベンチに腰掛けた。
しばらくは沈黙が続いた。
先に口を開いたのは里子だった。
「今日はホントに色々ありがとうございました。」
「ん?いやぁ、俺も朝のアレは正直気分悪かったからね。」
それからまたしばらく押し黙った後、
「今日はいつもの大野く・・・里子ちゃんじゃないみたいだね」
里子は安田に視線を向けた。
里子も当然ながら、普段着の安田を見たことが無かったから、こうやって見ると、精悍な顔立ちや割と長身で、ジーンズとポロシャツだけだがいつもの雰囲気と違った。
「ねぇ」
「はい?」
「チョットだけメガネを外したところ見てもいいかい?」
気恥ずかしそうに下を向いてしまった里子に、
「こっち向いて」
再び安田に視線を向けた里子からメガネを奪った。
「綺麗な目をしてるんだね」
里子の紅潮は、お酒のそれなのか分からなくなっていた。
「里子ちゃん、目を閉じてみて」
そうして・・・・・
満月の夜は、二人を灯す柔らかなスポットライトのように安田と里子を照らしていた。
次の日からの里子は、昨日のこともあり、会社でも必要以上に縮こまることなく、会社での業務も自信を持ってこなすことが出来た。
奈美と副島達の談笑の中にも里子の話題はほとんど上がらなくなった。
あの日から暫く、里子と安田は目を合わすだけでお互い気恥ずかしそうにしていたが、安田がその後もたまに食事に誘ったりすることで、また自然な振る舞いでいられるようになった。
安田達の異変にすぐに気づいたのは奈美だった。
実は奈美もこの会社の中では、安田に一目置いていて、しかも、恋慕の情も抱いていた。
いつぞや、安田にあれだけ声を荒げられて注意を受けて以来、奈美は里子のことをずっと忌々しく思っていたし、最近の2人の態度、更にいつかは昼時に、里子と安田がつれだって昼食から帰ってくるところをバッタリ見かけて、奈美のプライドも傷つけられた。奈美の中では、安田への情念と里子への憎悪が同時に育ち始めていた。
ある日の昼休憩の時に、里子が携帯電話で話していた。
ちょうどそこへ奈美が帰ってきて、その電話の内容を聞いていた。
そして、それが安田からの誘いだと勘付いた。
里子が電話で話し終わったのを見計らい、奈美が切り出した。
「大野さん、この前はゴメンね」
奈美からそんな言葉が出てきて、里子は少々面食らっていた。
「今日仕事終わったら、お詫びも兼ねてご馳走させてもらえないかな?もうお店も予約してあるし、駅前で待ってるね。」里子の性格で断れるわけもなく、言われるがままに、奈美が予約したという店に入った。
安田は仕事が遅くなる為、家を出る時に連絡をくれるというので、その間だけ奈美に付き合って、連絡がきたら中座すればいいだろうと思い、腹ごしらえも兼ねて、奈美とのひと時を過ごした。
奈美から色んな話しを聞かされている間も、時間が気になって上の空でしか聞いていない。
「ねぇ聞いてる?」
と言われて、ハッとするものの、もうそろそろ連絡が来る時間だから、そわそわしている。
奈美には分かっていた。
安田からの連絡を今か今かと落ち着かない里子を見て、内心は忌々しいことこの上なく、
しかし、そんな表情は微塵も見せない。
奈美にはこの後ちょっとした計画を立てていた。
里子の携帯が鳴ったようだ。
「チョットすいません」と席を立ち、店の外で連絡を取り合っていた。
席に戻って、奈美にそろそろ行かないとと告げると、
「え?どこ行くの?何の用事で?せっかく私が誘ったのに途中で出て行くの?信じられない」矢継ぎ早の口撃に、里子はまた座らざるを得なかった。
それから三十分が経っただろうか、安田からまた携帯に連絡があり、また店の外に出ようとすると、
「ちょっと、さっきから何なの?誰なの?」
里子は、いや別にと、電話の相手が誰なのかいうわけにもいかず、また押し黙ったまま更に1時間経過した。
その間も、何度も着信があったが、出ることも出来ず、それからすぐに、
「しょうがない、大野さんも用事があるみたいだし解散しよう」と、やっと開放され、すぐに安田との待ち合わせ場所タクシーで向かった。
その中で、薄く口紅を塗り、メガネを外して髪の毛をある程度整えたところで、待ち合わせ場所に到着したが、安田の姿が無かった。
約束の時間は二時間も過ぎていた。
そこへ安田が現れた。里子はホッとしたが、安田の顔が険しいことに気づいた。
「どこに行ってたんだ?」
問いかけにもどう返せば分からなくなっている里子に、ため息混じりに、
「今日はもういい。遅いから早く帰った方がいいよ。それじゃあ」と、安田が街の方へ歩いて行くのを目でずっと追いかけていた。安田の姿がとらえられなくなると、ようやく自分も帰路に歩き出した。
里子は自分の性格が今日ほどうらめしいと思ったことが無かった。肩をなでおろし、足取りも重かった。
同じ日の夜、副島と取引先の打ち合わせも兼ねた飲み会があり、店の前で、
「専務、今日はありがとうございました」
と、挨拶をして店を出た。
今日は商談が成立したこともあって意気揚々であった。
上機嫌で街中を歩いていると、ふと目に留まった女性がいた。
不思議そうに首を傾げた。
「どこかで見たような・・・」
もう一度引き返してその女性の顔を見ると、向こうから、
「あ、どうも」と頭を下げられた。
「ん?里子ちゃん?」
「はい」
「そうかぁ、いやメガネをかけてないからわからなかったよ。」里子は上の空でただ頷いているだけだった。
副島は時計をチラッと見て、
「里子ちゃん、良かったらその辺で一杯どう?」
「はぁ・・・」
「よし、じゃあ行こうか」
半ば強引に連れられて、小洒落たバーに連れられた。
二人の飲み物が運ばれてきた。
里子がこういった店は初めてだということで、里子の飲み物は副島が適当に注文した。
フルーティーな口当たりのカクテルだったので、飲みやすかったのか、アルコールに弱い里子も半分くらいはすぐになくなった。「あれ?案外いける口だね。次も同じのでいい?」
と、早々に同じものをオーダーした。
里子は、安田とのことがあって、深く沈んでいる。
副島は里子が不機嫌なのか何なのかが分からなかった。
ただ副島にも負い目がない訳ではない。
朝の談笑や、いつぞやは勘違いで怒鳴りつけてしまっているから、どれかが癪に触ってるのか、それともその諸々が積み重なってすっかり嫌われてしまってるのか、そんな考えが副島の脳裏に渦を巻いている。
「いつかはホントゴメンね。いや勿論悪気で言った訳じゃないし、奈美ちゃんに妙なこと吹き込まれなければ、そもそもあんなこともおこらなかったんだけどね」
相変わらずうつむいている里子は、相槌だけはうっているものものの、頭ではさっきから安田のことで一杯である。
「ホント申し訳なかった。だからネ、機嫌をなおしてさ」
その時初めて副島が何を話してたかに気付いた。
「あ、いえ、別に気にしてないです。済んだことですから。」
「ホント?」
里子がコクッと頷くと、良かったと肩をなでおろした副島は、
「よし、今日は僕がもつから好きなだけ飲んでくれよ」
里子も作り笑いで頷き、三杯目のカクテルをオーダーした。
店を出ようとしたが、里子の足元は全く定まらない状態だった。
カクテルというのは、飲みやすいが酔いも回りやすいものだ。
「おいおい、大丈夫か?」
フラつく里子の腕を支えて
「ほら、しっかり腕につかまっときなよ」
その光景は、カップルであるかのようにも見える。
冴島奈美は、里子と安田の待ち合わせ場所まで密かに里子を尾行していた。
さっき里子を足留めしたのは計画のうちであった。
しかし、待ち合わせ場所に里子が遅れて、それを原因に二人の間に軋轢が生じて、今日の二人の予定が物別れに終わるという保証はどこにもない。
計画というよりは、一つの賭けであった。
ただ、今日の賭けは見事に的中した。
奈美は、里子と安田の雰囲気を察知し、安田が一人別の方角を歩いて行くのを見て先回りした。
「安田さん」
と、声をかけると、
「冴島君か、今日はどうしたんだ?」
「さっきそこで友達と食事に行ってて、その帰りです。」
「そうだったのか。明日も早いし・・・それじゃあ明日また会社で」
と、帰ろうとすると、
「あの、チョット」
呼びかけられた、
「ん、どうした?」
「ほんの少しの間でいいんですけど、どこか寄りません?」
安田は携帯電話で時間を確認し、ちょっとだけならということで、目の前の居酒屋に入った。
とりあえず生ビールを先に注文して、乾杯した。
安田は仕事が終わってからまだ何も飲んでなかったので、最初の一杯は2口で飲み干し、2杯目を注文する時に、軽いおつまみも一緒に注文した。
「いい飲みっぷりですね。」
「そりゃあ何も飲んでなかったからね。」
すぐに二杯目が運ばれて、次々におつまみも並んでゆく。
「大野さんとはどういう関係なんですか?」
ビールを飲み込む最中の質問だったので、少しふきこぼしそうになった。
「いやぁ、何というか、たまに食事に付き合ってもらってるっつーだけだけど、何か気になるかい?」
「だって、最近大野さんがなんだか楽しそうにしてるし、頻繁に安田さんと連れ立ってるのを見て、なんかうらやましくて・・・・」
「ふうん」
安田は男女の機微にはすこぶる鈍い。
「安田さん、今まだ誰とも付き合ってるとかじゃないんだったら、私とお付き合いさせてもらえませんか?」
「え?お付き合い?」
安田の心中は、かなり動揺していた。
「私、ここに就職してからこれまで、何人かの人と付き合ってきたんだけど、みんな長続きしないんです。何でか分かってもらえます?」
奈美の目が潤みを帯びてきている。
「誰と付き合っても安田さんが頭から離れないんです。」
溢れ出た感情が抑えきれずに、ついにひとしずく頬をつたってこぼれ落ちた。
「安田さんに出会ってから、私には憧れであり、呪縛のようでもあって」
「冴島君・・・」
「今日答えが欲しいとは言いません。」
奈美のグラスのビールは泡がほとんど消えて、幾分ぬるくなっていたようである。
それを一気に飲み干した。
「今日は酔っちゃおうかな。安田さんもついてくれてることだし。」
「おいおい、ほどほどにしててくれよ」
安田の制止も虚しく、ものの二時間くらいですっかりできあがってしまった。
店を出ると、奈美が酔いに任せて腕を組んでくる。
仕方なく安田はタクシーが拾えそうな通りまで奈美を支えながら歩いた。
ふと反対の通りを見ると、同じように女性を支えながら同じ方向に歩く男の姿があった。
「副島か?」
それに気づいた副島が、
「安田さんもですか」
と、次の横断歩道で副島が安田の方に歩いてきた。
安田が里子に気づいたのは、その横断歩道を歩いて来ようと踏み出した辺りだった。
「里子ちゃん・・・」
副島が、
「さっきそこで里子ちゃんとばったりあったもんだから、ついでに一杯付き合ってもらってたんですよ」
奈美は「里子ちゃん」という言葉に反応して、副島と安田と里子に目をやった。
良いが回っていた奈美だったが、その異様な状況を把握するのに、さほど時間はかからなかった。
里子は安田に気付くと、副島から離れて一歩後ずさった。
安田も奈美の手をふりほどこうとしたのだが、奈美はしがみついたまま離れようとしなかったばかりか、これ見よがしに更に安田と密着してきた。
この異常な状況をやっと気づいたのは副島だった。
「えっと、んじゃあまぁ、今日はこれで失礼しますよ。」
「んと、そうだな。じゃあまた会社で。気をつけて帰れよ副島。」
それは遠回しに、里子に言ったつもりの言葉であった。そこへ偶然タクシーがきたので、安田と奈美がそれに乗り込み、副島はそれを見送った。
タクシーの窓を挟んで里子と安田の目が一瞬合ったが、すぐに目を逸らした。お互いにバツ悪そうで、それを横で見ていた奈美は小悪魔のような薄ら笑いを浮かべていた。
里子と副島は、近くの公園のベンチに腰掛けた。
今日は色んなことが一気に降りかかってきて、更に酒も入ってる頃から、心労も疲労も困憊であった。
副島はさっきの安田と里子の態度が物凄く気にかかっていた。
「そういうことになってたのか」
こういうことを知ると妙に里子のことが気になってしょうがない。
遠くに目をやると、一組のカップルが卑猥なことを始めている。
再び里子に目をやると、ショックを隠しきれないようで、虚ろである。そしてそれは今の副島には憂いにも映る。
憂いのある女は時に異様な魅力を纏うものである。
そっと肩に手をやったが抵抗するそぶりもない。
「大丈夫か?」
「え、まぁ何とか」
里子が髪をかきあげると、副島の欲情は抑え難いほど絶頂にあった。
もう一方の手が腰の辺りに触れると、ピクッと反応し、里子が初めて抵抗を見せた。
だが、副島の欲情はとどまるところを知らない。
男の力で押さえつけようと、里子に抱きついた。
里子は初めてその異常性に気づき、全力で抵抗し振りほどいたら、公園の外へ走って逃げた。
副島はそのあとを追いかけて、公園の外で里子に追いつき、また抱きつこうとしたが、公園の外には人がチラホラいて、2人に視線が集中していた。
副島もそこで我に帰り、里子はいいタイミングでタクシーを拾って乗り込んだ。
副島は咄嗟に謝ろうとしたが一歩遅かった。
仕方なく歩いて帰る途中で、ジワジワと後悔の念が襲ってきた。
里子は家に着くとグッタリとうなだれた。
机にはプリクラの痕。
高校二年生の夏休みのことを思い出す。
里子は大学進学を決めていたので、夏休みといっても毎日自由な時間というわけではなく、休みの半分は勉強につぎこんでいた。
この頃の里子は今ほど暗いわけではなかったが、相変わらず無口ではあった。
里子には彼氏がいた。
机にはその彼とのプリクラが貼ってあり、勉強の合間にそれを眺めることもあった。
その夏休みのある日携帯に彼からの着信があった。
「あぁ清美?今からそっちに遊びに行っていい?」
清美とは同級生である。
彼は間違って電話を掛けていることに気づかず、里子はショックだったが、気づいていない今がチャンスと、真意を確かめるべく、
「里子はどうするの?」
と質問してみたが、その答えは里子に絶望感を与えてしまった。
「あぁ里子?あいつ暗いし面白くないからいいよ。あいつが勝手に彼女だって思ってるだけだから」
それを聞いた途端着信を切った。
それから、間違いに気づいたのだろうが、彼から何度も着信があった。
それが脳裏によぎった。
『結局いつもこんなだ』
失意の中、気を失ったように眠っていた。
次の日、
いつもと同じように、朝礼後、里子が給湯室に入ると、
「お茶はいった?」
奈美の声がした。
一ついれ終わったのを見計らって、
「安田さんの分は私が持って行くから、あとはお願いね」
里子は気が重かった。
安田のことをきにかけていただけに、奈美が積極的に安田と接近していくのを見ていると、凄く羨ましかったり嫉妬したり、正直平然とはできないのである。
「あの、里子ちゃん・・・」
今度は副島が給湯室に入ってきた。
里子は昨日のことがあって、副島には警戒感を強めている。
「里子ちゃん、昨日はゴメン。今も何であんなことしたんだろうって後悔しまくってるよ」
詫びをいれてきている副島だったが、だからと言って簡単に信用できるものでもない。
そうやりとりしてると、事務所の方から社長の声がした。
「安田君ちょっと社長室に来てくれないか。
それと・・・・大野君はどこ行った?」
その声が聞こえて、給湯室から事務室に顔を出した。
「おお、いたか。大野君もちょっと社長室に来てくれ」
そう言われ、お茶を急いで配り、安田と社長室に入った。
社長室に入る時一瞬目が合ったが二人とも気まずく、目をそらした。
「武夫、今日から一ヶ月か、二カ月になるか・・・まぁとにかく営業にまた回って欲しいんだ。」
「はぁ、またですか」
「いや、そんな顔せずにさ、というのもな・・・」
その理由とは、今この会社が持っている顧客が、今建築中のビルのテナントに入るのだが、その顧客からの紹介でそのビルの空調設備の一切がまだ決まってないらしく、そのビルのオーナーに営業をかけてみればという提案があったという。
そしてその営業にはかつて営業では優秀であった安田にこの商談を任せたいのだという。
里子が呼ばれた理由は、
「サッちゃんには、武夫のサポートに回って欲しいんだ。」
実は社長は里子の仕事にはかなりの高評価をしていた。まだ半年のキャリアだったが、奈美と比べると、仕事にムダムラが無いという。
「という訳で、明日からはこの商談に2人とも専念してくれ」
当分の間、メンテナンス部には副島を入れるという。
二人が社長室を出ると、すぐに副島が社長室に呼ばれた。
「あ、あの・・・ヨロシクおねがいします。」
「あぁ、何か変な展開になってきたけどヨロシクな」
安田は自分の顔を二度はたくと、さっきとは別人のように凛とした表情で、
「大野君、やるからにはハンパはしないぞ、そのつもりでついてこいよ!」
「はいっ!」
昨日あんなことがあったのに、里子の脳裏からそのことが一気に消し飛んでしまったかのような安田の一言であり表情であった。そのあと社長室から帰ってきた副島は逆に浮かない表情で、自分のデスクに座るなり、両手を頭の後ろに組み、ため息をついた。安田は副島を見ると、
「副島、色々引き継ぎたいから会議室に来てくれ」
会議室に副島を引き入れる時、安田は副島の肩をポンポンと叩いた。
里子の元にメンテナンスの黒部が歩み寄ってきた。
「大野さん、もしかして安田さんと組むんっすか?」
「えぇ、はい」
「そうなんっすか。あの人営業となると人格変わっちゃうからなぁ」
「そんなに?」
「ええ、なんせ昔は安田軍曹なんて呼んでた人も居たらしいですからね」
里子はかなり不安にかられた。
「大変だろうけど頑張ってくださいね」
笑顔で肩を叩いた黒部は颯爽と外回りに出た。
さっきは少し期待感があったが、今はその期待も失せてしまっていた里子だった。
『いや、でも頑張らなきゃ』
そう自分に言い聞かせる里子だった
安田と里子のデスクは隣同士になった。それにより色んなことを綿密に連携を取れるようになり、効率的に仕事がはかどるようになった。
里子も最初の二日くらいは安田に色々なことを教わったが、社長が判断した以上に能力が高く、安田の行動を先読みして書類を用意したり、時には先方に自ら連絡を入れ安田の仕事を少しでも軽減できるように務めた。
これにはかつての安田軍曹も舌を巻いた。
いつしか二人の間には絶大な信頼関係が生まれ、そこには他人の入る余地がなかった。
その二人のやりとりに羨望や嫉妬の視線を向けるものが二人。
つい最近まで安田の争奪レースに一歩先んじてたと思っていた奈美。
一時的ではあるが、それが大事な商談であるという屈辱的な理由で営業の座を奪われ、最近気になり始めていた里子までも奪われてしまったという喪失感を感じずにはいられない副島。
今二つの憎悪の念が、安田と里子に向けられていた。
ある日の夕方の終業直前、安田から
「大野君」
「はい」
「明日なんだけどさ」
「明日?」
「一緒に営業に付き合って欲しいんだ」
「わ、私がですか?」
「そう、最近何だか君が心強く感じてるわけでさ。んで、明日はスーツで出社してくれないか?社長には俺から話しておくから」
と言われた。
里子はこの会社で経理担当として入社したから、まさか自分が外回りに出させられるとは思ってもなかった。不安と緊張が今から駆け巡っていた。
安田は先に退社し、入れ替わりに黒部が帰ってきた。
里子もそろそろ帰ろうと席を立つと、黒部がまた歩み寄ってきた。
「大野さんすごいっすねぇ」
「え?」
「いやぁね、安田さんがいったん営業を退いてからも、ちょくちょくこうやって営業に駆り出されることがあるみたいで、去年も数ヶ月こんなことがあって、僕は初めて安田さんが営業で仕事してるとこ見てたんですけど、そりゃあもう厳しくて厳しくて、一緒に組んでた営業の人は、一人が耐えきれなくて途中で会社辞めちゃって、替わりのもう一人は商談が決まった頃に胃潰瘍で入院しちゃって・・・」
今の安田からは想像もつかないことばかりだった。
「そのもう一人ってのは副島さんなんっすけどね」
「副島さんが・・・」
「だから、今あんなに穏やかに営業してられるのは大野さんのお陰なんでしょうね」
これには意外だったと同時に、里子にとっては物凄く嬉しいことだった。
「しかも、こう言っちゃアレなんですけど、安田さんとお大野さんって結構似合ってると思うんですよねぇ。」
「いや、チョッとそんな・・・」
「え?別にいいじゃないっすか。イヤっすか?」
「別にイヤじゃないけど」
「んじゃいいじゃないっすか。」
里子がこれまで感情をあまり表に出さなかったが、その時の狼狽えぶりは今までの里子にはないものだった。
「ハハハ、そんじゃ僕帰りますよ」
陽気に帰っていった黒部は今年20歳になって益々元気な男の子である。
次の日、里子と安田はオフィスビルの前にいた。
このビルの中に、「斉木ビルメンテナンス」という会社が入ってて、ここが今日2人で商談に行く会社である。
この会社は最初こそ小ぢんまりとした会社だったらしいが、ここ十数年で事業が拡大し、この度自社ビルを構えることになったという。
里子は手提げ鞄の他に、紙袋を持参していた。
安田は「はて?」と不思議に思っていた。
社長室に入ると、
「おお、いらっしゃい」
斉木社長自ら温かく迎えてくれた。
「お嬢さんが大野さんか、噂は経理の子から聞いてるよ。えらい優秀らしいじゃないか」
連れてきて正解だったと安田は確信した。
「あの、つまらないものですが」
と言って里子が紙袋に入った菓子折りを社長に手渡した。
包みには「風呂敷饅頭」と書いてある。
「これを君が?」
「あ、いえ安田に言われてお取り寄せしました」
もちろん、安田には覚えのないことだった。
「そうか安田君、僕がこれ好きなのを調べてくれたんだな。いや、流石だなぁ」
「あ、ええ、気に入って頂けて幸いです」
安田は冷や汗を流しそうになった。
お陰で、商談の方は上々に終わった。
会社を出て時計を見ると午後一時を回っていた。
商談の報告を社長に報告すると、よくやったと言われ、
「今日はそのまま上がっていいぞ、ご苦労さん」
とのことだったので、2人でゆっくり昼食を取ることにした。
「大野君があそこまで気を利かせてくれるなんて、本当に感謝するよ」
「あ、いえ」
相変わらず無口な里子だった。
テーブルにはお互いの料理が並べられ、昼間だったが、安田はワインを一杯注文していた。
「そう言えば」
「・・・」
「あんなことがあって以来、一緒に昼食をとるのも久しぶりだね。」
そう、あの夜のことである。
「俺、冴島君とは何でもないから。」
「そうですか」
「今日はそれだけ言っておこうと思って。信じられないかもしれないけど・・・」
「分かってます」
安田は里子の方を見た。
「今日まで一緒に仕事をしてきて、安田さんなら信用していい人だと思えるようになったので、信じます」
安田はこの一言だけでも、営業に戻って良かったと思えた。
そして胸の内にあったものをここで伝えた。
「大野君、いや、里子ちゃん。今の俺には君が必要なんだ。良かったら俺とつきあってくれないか」
里子の返事は決まっていた。
「いえ、あの、私こそよろしくお願いします。」
安田は胸につかえていたもの流し込むように一気にワインを飲み干した。
しかし里子から意外な一言が飛び出した。
「でも、先ず今の商談が全て終わってからにして欲しいんです。」
安田軍曹は目が覚める思いだった。
里子に諭されるとは思いもよらなかったからである。
「そうだな、ちょっと俺も浮かれてたよ。まさか里子ちゃんに諭されるなんて、俺もやきが回ってるな」
とは言うものの、里子に頼もしさを感じずにはいられない安田だった。
その日の昼食時、
「おつかれでーす」
と、副島が会社に帰ってきた。
片手にはコンビニで買った弁当を下げている。
奈美がそこに居合わせた。
「副島さん、それ持ってどこか公園にでも行きません?」
と、公園で二人弁当を広げた。
「副島さん」
「ん?」
「最近あの二人見てどう思う?」
副島の箸が止まった。
「やっぱり副島さんも思ってることは私とあんまり変わらないらしいね。あの2人どうにかして引き裂きたいよね。」
副島が恐ろしいものを見るように、奈美を見た。
「奈美ちゃん何か企んでるね?」
「まぁそりゃあ色々と」
「んで勝算はあるのか?」
「ほとんど賭けに近いかもね」
小悪魔のような表情で副島に目をやった。
副島は逆に話にならないと目を背けたが、
「もう今は勝算だとか言ってる暇はないと思うけどなぁ」
その一言で、あの二人を放っておくと、トントン拍子に話が進んでしまうことを容易に想像出来た。
何より、安田に営業の座を奪われたのが副島にとっては忘れられない屈辱だ。
何としても一泡吹かせたいというのが副島の本音だった。
「その計画に乗ろう。俺は何をすればいいんだ?」
「それなんだけどね・・・」
奈美の計画にまだあまり信用できない表情で聞く副島だった。
師走に入った。
安田と里子が掛かっている商談もそろそろ大詰めというところまで差し掛かっている。
それは詰まり、2人のコンビもそろそろ解消ということを意味する。
いつものバス停で里子は帰りのバスを待っていた。
今日は定時で上がった。
久しぶりにこの時刻帰ることが出来た。
「里子ちゃん」
「あ、安田さん」
安田も定時に上がれたようだ。
この商談が始まってから、二人はたまにこのバス停で鉢合うことがある。
バスに乗り込み、安田は後ろの方、里子は真ん中あたりに座った。
途中で久しぶりに「愛の讃歌」が流れてきた。
里子は久々のメロディーに、窓の外を見ながら聞き入っていた。
その曲が終わった頃、安田が里子のすぐ後ろに座ってきた。
「里子ちゃん」
「はい?」
「今日ウチに来ないか?」
「え?」
「まぁウチって言っても、母さんと2人で住んでるみすぼらしいウチなんだけど」
みすぼらしいかどうかは問題ではなかった。
安田が里子を家に呼んでくれたことが嬉しかった。
そうしてると、安田のいつも降りる停留所に差し掛かったので、返事もそこそこに降りた。
「仕事のことなら大丈夫だよ。あそこまで詰められたらあとは一気に決められるから」
安田はかなり自信を持っているようだった。
安田の家に入ると、母親が出てきた。
「どうも、武夫の母です」
丁寧で気の優しそうな人柄だった。
食卓には夕餉の準備が出来ていた。
いつもなら身体に触るから夕飯の支度もやらなくていいと言っている安田も、この日ばかりは甘えて準備をしてもらっていた。
「噂通りのお嬢さんだねぇ」
夕飯を食べながら、安田の母が色々語る。
「最近はよくあなたの話題を口にするんですよこの子は。」
「チョッと母さん!」
「イイじゃないか。ずっと仲良くしてやってくださいね。なんならこの子の嫁にでも・・・」
「母さんもうその辺でイイよ。」
会社でも、一緒に昼食に行った時も見せたことのない安田の恥ずかしそうな表情を見せた。
それからまた色々な話が面白くて三人とも時が過ぎるのを忘れていた。
ふと時計を見ると、最終のバスの時刻を超えていた。
「大野さん、何だったら泊まってらっしゃったら?」
「そうだなぁ、里子ちゃんさえ良かったらだけど・・・」
最初はタクシーで帰るからと断ったが、安田の母がパジャマや風呂の道具を揃え始めたので、断るに断れなくなり、この日は泊まることにした。
里子は安田の部屋で寝ることとなった。
「うちの母さんさ、あれで実は病弱でな・・・」
それから、小さい頃に父親を亡くしたことや、それからの生活など色々なことを語った。
隣では里子の鼻をすする音が聞こえる。
見ると、母親から借りたパジャマの袖で涙を拭っていた。
「ゴメンな。なんか湿っぽい話になってしまって」
里子は無言で首を横に振った。
しばらく沈黙が続いて、すると布団の中から安田の手が里子の手を探って来た。
探り当てたその手はゆっくり力を強めて握ってくる。
その手を里子も優しく握り返し、その手が引き寄せられた。
そうして互いの手は互いの体を触れていった。
隣の部屋では母親の寝息が聞こえている。
寒さが身に染みる季節に、二人の吐息は激しく、お互いの身体を触れる手からは迷いがなくなっていた。
それから数日後、社長室に一本の電話があった。
そのあと社長室から飛び出して来た社長が、
「武夫、サッちゃん・・・あ、いや安田君、大野君!!」
「社長?!ということは?」
「明日正式な見積もりを持ってこいって言われたぞ・・・・商談成立だ!」
これには社員のほとんどが狂喜乱舞した。
社長が一番舞い上がっていて、
「よし、ということで今週末は忘年会を兼ねた打ち上げをやるぞ!黒部、場所の手配任せたぞ」
安田と里子は手を取り合って喜んだ。
それを見て黒部が、
「あれぇ?二人とも・・・」
それにハッとした里子と安田は握っていた手を離し、顔を紅潮させていた。
「別にイイじゃないっすか安田さん。もう手遅れっすよ。大野さん、安田さんを幸せにしてやって下さいね~みたいな」
「黒部!お前はもう許さんぞ!」
黒部を追い回す安田を無邪気な子供を見るような目で追う里子だった。
ただ、それを最期に一波乱起こすべく、二つの不穏な空気が漂っていた。
今年入社した里子は忘年会が初めてだった。
忘年会は毎年、近くの旅館を借りて、一泊するのが慣例となっている。
この日ばかりはみんな、日頃の鬱憤を晴らすべく、飲めや歌えやの大騒動である。
いつもながら寡黙ではある里子にも、次々に社員たちが酌をしにくる。
もちろん、酒に弱い里子はソフトドリンクや烏龍茶で参加している。
副島は会の序盤に宴会場を出たきり帰ってくる様子がなかった。
奈美が安田の元へやってきた。
「安田さん、副島さんがトイレに入って動けなくなってるみたいなんですけど・・・」
そう言われて、介抱するべく外のトイレに行ってみることにした。
奈美も途中まで一緒に行ったが、
「安田さん、私もう一人手を借りてきます。」
そう言って、宴会場に戻ると、今度は里子に、
「副島さんを介抱するのに、もう一人必要だからって安田さんが言ってるから、一階のロビーに行ってあげてくれない?」
「あ、はい分かりました。」
と言って、里子は一階に向かった。
その様子を黒部がなんとなく不思議そうに見ていた。
里子が一階のロビーに行くと、待っていたのは副島ただ一人だった。
副島はそんなに弱ってる風でもなく、むしろ素面のようでもあった。
「やぁ里子ちゃん、来てくれたね。」
「は、はい大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。それよりそこに座らないか?」
二人ロビーのソファに腰掛けた。
「里子ちゃん、俺来年早々に会社をやめようと思う」
ここ数ヶ月営業から外されたことと、実家から帰って農業を継いでくれと言われたことでそういう決断に至ったと里子に打ち明けた。里子には書ける言葉もなく黙ったままだった。
「ねぇ里子ちゃん」
「はい?」
「それでなんだけど・・・・一緒にウチに来て欲しいんだ」
そうくることをある程度予想していたから、里子にはあまり動揺は見られなかった。
しかし、その返答には困っていた。
「今すぐ返事を欲しいとは言わないんだ。ゆっくり考えてくれ。」
しばらくの沈黙の後、
「さぁ、戻ろうか」
と、再び宴会場に足を向けた。
安田は迷っていた。
副島が何階のトイレにいるのか分からなかったので、しらみつぶしにトイレを一つ一つあたっていた。
最後に一階のトイレをあたろうと階段を降りていると、後ろから奈美がついてきた。
「トイレを探しても副島さんはいませんよ」
「ん?どういうことだ?」
一階と二階をつなぐ階段の踊り場で、奈美が安田に抱きついた。
「お、おい何してるんだ?!」
奈美の体を引き剥がそうとするが、奈美も中々離れようとはしない。
奈美は安田の顔をじっと見た。
「ちょっと、もうやめてくれよ!」
構わず奈美は安田の唇を、いとも簡単に奪った。
安田も拒んでいたが、理性を失いかけていたのか、やがて抵抗をやめてしまった。
そこへ運悪く里子と副島が、宴会場に戻るべく、階段を登るところだった。
安田は里子たちを見つけると、
「待ってくれ、これは違うんだ」
里子はそんな安田に目を合わすことができなかった。
その踊り場で、無言ですれ違った。
安田、里子、奈美、副島が宴会場に顔を揃えたのは会も終盤に差し掛かった頃で、安田と里子には笑顔は戻らなかったが、奈美と副島は時折目線を合わせ、不敵な笑みを浮かべていた。
年が開けた。
安田は営業からメンテナンス部に戻っていた。
社長からは、営業でずっとやる気はないかと言われたが、斉木ビルメンテナンスを副島と里子に引き継いだ。
副島はそれとなく辞意を社長に伝えた上で、安田から引き継いだ仕事の最終調整に里子とかかっていた。
そのせいか、このところ副島と里子の距離が縮まったかのように、自分ばかりではなく、周囲からもそう見られていた。
「それじゃあいってきます。」
朝礼を終え、安田が早々に会社を出た。
会社を出る間際に、安田の激しい咳払いが聞こえてきた。
この日は幾度となく咳払いをしていたが、本人曰く、正月にこじらせた風邪が治ってないのだという。
里子はそのことが気がかりであったが、忘年会以来、言葉を交わすこともなく気まずい雰囲気が続いていた。
それを機に急接近してきたのが副島だったというわけだ。
最近は安田が昼によく帰ってくるようになった。
奈美が安田のために作ってきた弁当をこれ見よがしに会社で広げて、仲良さそうに食べている。
最近は安田が帰ってくるまで奈美が会社で待っていて、一緒に帰ることもしばしばである。
このことに里子も安田もお互いに気にしていた。
でも、元々は生き方の不器用な二人、お互いにどう切り出していいかも分からない。
結局為すがままに、ただ時間だけは過ぎいった。
定時に珍しく、里子、安田、奈美、副島、そして社長に黒部が揃っていた。
奈美はこの日は珍しく、黙々と仕事を進めていたのは、どうしても定時に帰りたかったかららしい。
安田も今日は定時で上がる予定だった。
奈美は里子に、
「ごめんなさい、今日はちょっとこれでどうしても上がらないといけない用事があって、あと残りのコレやっててもらっていいかしら」
と書類を渡して帰った。その帰り際に、
「安田さん、例のところで待ってますね」
と言っていたので、今日も安田と何かあるんだと思うと、やり切れない気持ちで、とても渡された書類に目を通す気にもなれない里子だった。
そこへ副島が歩み寄ってきた。
どれどれと、里子のデスクにあった書類を取って目を通すと、
「里子ちゃん、これ二人で片付けようか」
と、それに取り掛かった。
「すいません」と礼を言ったあと、中々やる気にはなれなかったが、里子も取り掛かり始めた。
副島が協力してくれたおかげで、予定よりだいぶ早く終わることができた。
変える支度をしている副島に今度は里子が歩み寄り、
「どうもありがとうございました」と、言うと、副島が腕時計を見て、
「里子ちゃん、これから誰かさんたちみたいにうちらも軽く一杯行かない?」
と言ったが、里子はいつかの公園での出来事を思い敬遠したが、
「大丈夫、今日は俺もあんなことはしないから、ね」
と言われ、仕事を手伝ってもらったことも負い目になっている里子は、渋々付き合うことになった。
場所は会社のすぐ近くのイタリアンレストランだと言うので、副島は先に行ってるからということで、里子も帰り支度を始めた。
デスクの上にある荷物を取り、会社を出ようとしたところで、黒部に呼び止められた。
「大野さん、ホントに今のままでいいんですか」
いつものお調子者の黒部の表情が、この日は真剣だった。黒部が心配して言ってきてくれているのは里子にも痛い程伝わってきている。
しかし、里子にはどうすることもできない。
「ありがとう」
親身になって言ってきてくれている黒部にもこれしか言うことができなかった。
そして、それを振り切るかのように会社を後にした。
チラッと見えた社長室では、社長がテレビを見てくつろいでいた。
レストランのテーブルの上には、パスタやピッツァが並べられ、ワインも一本あった。
「里子ちゃん、僕は今の商談が片付いたら、いよいよ田舎に帰ろうと思う」
副島がこういうことをいうのは、前の忘年会で一緒についてきて欲しいと言われた時に保留していた返事が聞きたかったのだ。それは勿論里子にもヒシヒシと伝わっている。
とは言え、里子の胸中から安田の存在が消えることはない。
逆に会えない思いと、奈美への嫉妬で、益々思いが強くなるばかりだ。
「もう少し返事待って下さい」
色んな物が渦巻いていて、今の里子にはこう言うだけで精一杯だった。
「そうか・・・・まぁでも早いこといい返事が聞きたいな」
そう言って、この日は何事もなく帰ることができた。
最終のバスが出てたので、それに乗り込もうとしたところで、携帯電話に着信が入った。
安田からだった。
バスに乗り込むのをやめて、ベンチに腰掛けながら、もしもしと話しかけると、いつも冷静沈着な安田が動揺を抑え切れない様子で、
「里子ちゃん、うちの母さんが病院に運ばれてしまって・・・こんな事で電話なんか掛けてしまって、その・・・」
安田がパニックになってるのが分かって、里子は逆に冷静になった。
「言いたい事は分かりました。今から病院に向かいます」
「すまない、ありがとう」
他に身寄りがない安田は、前に家に呼んだ里子にしかすがるところがなかった。
里子はすぐにタクシーで病院に向かった。
安田は処置室の前のベンチに掛けていた。
里子を横に座らせ、ふぅと溜息のあとに口を開いた。
「今日明日がヤマって言ってたよ。」
里子は掛けられる言葉を見つけられずにいた。
「今日はありがとう。こんなことホントは里子ちゃんに頼めた義理でもないのに・・・」
「いえ、いいんです・・・・こんなときだから・・・」
安田は里子の顔を見つめ、手を握った。
「里子ちゃん、あの夜の・・・忘年会の夜のことなんだけど、あれ実は・・・」
「分かってます。私もあんな場面に出くわして、冷静でいられなくなってて・・・安田さんがそんな人じゃないことくらい分かってたのに・・・」
里子は安田の顔を見上げ、握られていた手を握り返した。
安田もやっと落ち着いた表情を取り戻し、里子に微笑んだ。
突然、安田が咳き込んだ。
そう言えば風邪をひいていた様だったことを思い出し、里子は安田の背中をさすった。
「ご、ごめん。あぁもう大丈夫だよ、ありがとう」
里子も安田にようやく気遣えることが、嬉しくもあった。
処置室から医師が出てきた。
「お母さんが意識を取り戻しました。これから病室のほうへ移しますので、そちらで面会して下さい」
その言葉に安田の体の力がスっと抜け落ちた。
「良かったですね。」
「ああ、ありがとう里子ちゃん」
相変わらず咳き込みながら病室へ向かう安田を支えながら、里子は幸せと不安の両方を感じていた。
「あら、里子ちゃん来てくれてたんだね」
安田の母は、幾分弱々しい声で激励してくれた。
腕から点滴が繋がっている。
「母さん、良かったよ意識が戻って。」
安田の声が少し潤んだように聞こえた。
「でも、まぁ・・・・」
自分で長くないと言いたげな母に、何も言い返せない安田だった。
それを黙って観ていた里子に、安田の母が視線を向けた。
「ねぇ里子ちゃん、ウチの武夫はね、里子ちゃんのことが大好きなんだよ」
安田はいきなりの母親の言葉に驚きを隠せなかった。何を言い出すんだという制止を超えて更に、
「里子さん、武夫のことよろしくお願いします。」
起きる体力がなかった安田の母は、それでも精一杯、里子に頭を下げている。
里子はそんな安田の母に応えるべく、手を取り、
「安心して下さい、私が安田さんを生涯支えていきます。」
安田の母の両目から涙が溢れ出た。
その目を拭う安田も、里子も目を潤まていた。
次第に安田の母が寝息をたてだしたので、病室から出た。
「里子ちゃん、ありがとう。母さんも安心しきったみたいだ」
と言いつつ、二人の頭の中には今の複雑に絡み合った関係が重くのしかかっていた。
「それじゃあ、私はこれで・・・」
「ああ、今日は助かったよありがとう」
里子はタクシーを拾い、病院をあとにした。
二日後、会社には里子と副島しかいなかった。
黒部は朝早くから会社を出て得意先を回っている。
他のものは社長以下全員、告別式に出払っていた。
安田の母が、前日の早朝に亡くなったのである。
副島と里子はプロジェクトの最終調整と、告別式に出ている者の為の仕事に追われていた。いよいよ斉木ビルメンテナンスにかかっている仕事も大詰めである。
この仕事が終わるということは、つまり副島のここでの仕事も終わるということ。
雑然としていた副島のデスクは、どんどん整理されていって、今はファイルが数冊しかない。
里子はここで人が辞めるのを初めて目の当たりにするから、何はともあれ寂しい気分がしていた。
そう思いつつも、ドンドン仕事を粉して六時を回る頃にはあらかたの仕事は片付いていた。
それらの仕事を整理して、帰りの身支度を始めようとしたとき、横からスっと航空会社の封筒を差し出された。
横には副島がいた。
丁度そこへ、外回りから黒部が帰ってきた。
黒部は何となくその空気の異様さを察知し、早々にロッカールームへ入った。
「今月末に田舎に帰ることにしたよ。」
封筒の中には航空券が入っていた。
「その日空港で待ってるよ」
里子は終始何も言えなかった。
副島も言葉少なで帰っていった。
ロッカールームから出てきた黒部が、
「今から安田さんちに線香あげに行くので、一緒に行きましょうよ」
と言ってきた。
しかし、里子は今日の仕事為に昨日の通夜に参加していた。
そのことを黒部に話したが、
「いや、大野さんは行くべきです。安田さんは待ってる筈です」
そういうと、半ば強引に里子を連れ出した。
自宅の門扉は弔問客の為に開放してあった安田家に、黒部と里子が二人入っていった。
遺影と骨壺の置かれている祭壇の前で、安田は一人座っていた。
二人に気づいた安田は、精一杯の笑顔で迎えた。
「わざわざ済まないな。」
黒部のあとに続いて、里子が線香をあげた。
前日の抜け殻になった安田の母、この日の小さい骨壷が入った箱の中に収まった安田の母を見て、以前この家で笑顔で迎えてくれたあの顔が脳裏に浮かび、胸の詰まる思いだった。
そしてそういう思いは、安田の方が何倍にも強いと思うと、今気丈にしている心中を察するに余りあった。
黒部が口を開いた。
「二人とも今何を考えてますか?」
その問いに里子と安田が目を合わせた。
「僕にはもう二人の答えはとっくに出てると思うんですけど。」
黒部が里子と安田の手をとり、涙を浮かべながら、
「何があったか知らないけど、これ以上お互いに苦しみ合うのはもうやめましょう」
この後黒部は言葉にすることはできず、うつむいたままだった。
そんな、黒部の真っ直ぐな思いに、里子と安田は答えられずにいた。
「ありがとう黒部。」
それしか言えず、里子の方も押し黙ったままだった。
帰りのタクシーで、
「すいません、出しゃばったこと言ってしまって。」
そんな黒部が可愛い弟のようだった。
「いや私こそありがとう」
里子のバッグの中には、あの航空券が入っている。
年が明けたと思ったら、早いものでひと月経っていた。
里子がいつものように出社すると、副島が出社していて自分のデスクを整理していた。
それまでは雑然としていたデスクが見る影もなく、ほぼ空に近い状態でまっさらであった。
その間、挨拶した時ともう一度だけ目が合ったが、どこかさみし気で、またどこか憂いが篭っていた。
そうしていると、安田も奈美も出社してきて副島が次々に挨拶をして回った。
一通り挨拶を済ませ、デスクにあった最後の荷物をボストンバッグに詰めると、感慨深げに溜息をついた。
里子はその様子を仕事をしながら見ていた。
つい最近までバッグの中の航空券を使うことなど微塵も考えてなかったが、さみしげな副島の姿を最期に目の当たりにすることで段々揺らぎ始めていた。
飛行機が飛び立つのは昼過ぎであったが、余裕をもって行くために副島は早目に会社を出るべく、
「ありがとうございました」
と、最後に一礼して玄関扉に手をかけた時立ち止まった。
急にそこから振り返り、里子の元へ歩み寄った。
「空港で待ってる」
その表情からは、仕事で見せていたような気の抜けた、不真面目さも垣間見られたいつもの副島とは別人になったような真剣さが感じとられた。
それだけいうと、あとは迷いもなく空港へ向かった。
里子は動揺していた。
その一部始終を見ていた安田も内心は狼狽している。
黒部もそれを傍で見ていた。
奈美が里子の元へ寄ってきた。
「大野さん、いつまで人の心を弄ぶ気なの?」
「そんなつもりじゃ・・・」
「いいから、早く追って行きなさいよ、ほら早く!」
言われるがままに、会社を出てタクシーに乗り空港へ向かった。
里子にはこのあとどうすればいいか分からなかった。
一方、会社では黒部が安田と簡単な打ち合わせで、今日は一緒に出かけることにした。
二人で会社を出た途端黒部が安田に、
「さぁ早く乗ってください」
と語気を強め、背中を後押した。
「ちょ、どうしたんだお前」
安田が問うと、
「空港に行きます。飛ばしますんでしっかり捕まってて下さい」
「お前、空港ってチョッ、うわぁ」
三十過ぎの安田が、二十歳になったばかりの黒部に引っ張られるように空港に向かった。
「安田さん、大野さんを絶対連れ戻してきて下さい。」
黒部の真剣な表情に、それまで狼狽えっぱなしだった安田の表情からも迷いが消えた。
里子がタクシーを降りて、搭乗口にゆっくりと歩を進めた。
空港は広いから、副島をなかなか見つけられずにいた。
仕方なく、搭乗手続きから先に済ませていると。後ろから副島の声がした。
「来てくれたんだね」
その声を聞いた時、ふと安田のことが浮かんだ。
これで安田とは永遠に終わる。
そう思うと、ここから今にも逃げ出したいそんな気になっている。
手荷物検査場に近づき、このゲートが運命の分岐点のような気がして覚悟を決めようとした時、
「里子ちゃん!!」
聞き覚えのある声が後ろから聞こえてきた。
その声の方を振り返ると、安田と黒部の姿があった。
副島はその姿を見た瞬間、里子を引っ張ってゲートをくぐろうとしたが、里子はそれを力一杯振り切り安田の元へ駆け寄った。
里子は安田にしがみつくように抱きつき、安田も里子をしっかりと抱きしめた。
「間に合って良かったよ」
「うん、もう私をここから離さないで」
多くの人の目があったが、二人には全く見えてなかった。
それを見ていた副島は、諦めたように黒部に苦笑いを向け、黒部はそれに応えるように深々と頭をさげ、やがて副島は手荷物検査のゲートに吸い込まれていった。
「安田さん」
「あ、おう黒部、今日は本当にありがとう。お前には感謝してもしきれないよ」
「いえいえ、んであとの仕事は俺がやっときますんで、二人はタクシーか何かで帰ってください」
そういうと、黒部もエントランスの方へ向かった。
その黒部の後ろ姿を、エントランスに消えるまでふたりずっと見つめていた。
「あいつは凄い奴だよな」
「うん」
安田より一回り以上若い、里子からしても年下のその背中が、今は一際大きく見える。
「さぁ行こうか」
と、二人タクシーに乗り込み、会社に戻る途中安田が里子を見ると、何故か顔面蒼白だった。
「どうした?」
と、伺うと、吐き気がするのだという。
そこで急遽、近くの病院に向かった。
診療を終えると、先生が
「私の知ってる産婦人科を紹介しますので、そこへ行って下さい」
妊娠してる可能性があるという。
安田は少々疑心暗鬼になった。誰の子なのかという不安にかられている。
産婦人科でまた診察してもらうと、妊娠3ヶ月だという。
里子の方は嬉しそうである。不安そうな安田に声をかけた。
「あの、お母さんにご馳走してもらった日のこと覚えてる?あの日のことだと思う」
嬉しそうに自信をもって言う里子の顔を見て、安田は安堵の表情を浮かべた。
もちろん安田もあの日のことはしっかり覚えている。
安心しきった安田は急にまた咳き込み始めた。
大丈夫かと背中をさすっている後ろから、他の先生が、
「ちょっと診てさしあげましょうか?産婦人科といっても風邪くらいなら診れますから。」
ひょんなことから、安田も産婦人科で診察を受けることになった。
安田が診察室からでてくると、里子がさっきの診察の件でと再び呼ばれた。
「旦那さんなんだけど、一度ちゃんとしたとこで検査を受けた方がいいかもしれないね。」
まだ旦那じゃないですと言いたかったが、それよりもただの風邪じゃなかったということに、不安を感じずにはいられなかった。
それからひと月ちょっとの間に、会社では色々な変化があった。
あれから奈美が休みがちになっていた。奈美が休んだ日の仕事は里子にお鉢が回ってくる。
そうなると、里子もテンテコ舞いである。
それを見兼ねた社長が、一人パートタイマーで事務員を雇った。
黒部にも変化があった。
まずは、年上の女性とと付き合い出したらしい。そして、四月になって新しく後輩ができたこと。
それにより、黒部はメンテナンスの主任というポストをもらった。それを押したのは他ならぬ安田だった。
その安田は、副島が抜けたこともあり、営業とメンテナンスの両方をみる形で、新たに取締役の座に就いた。
里子と安田の関係は、この頃には周知のものとなり、妊娠のことも誰もが知っていた。
それを知るあたりから、奈美は休みがちになっていた。
里子と安田の生活にも変化があった。安田の家で、里子が一緒に住むようになった。
二人にとって、今の同棲生活は夢にまで見たものだった。毎日が楽しかった。
仕事も私生活も順風満帆ではあったが、ただ一点。
まだたまに咳込む安田の身体が気がかりで、あの産婦人科医の言葉が重くのしかかる里子だった。
ある休日の夜、安田と黒部と黒部の彼女で居酒屋にいた。
安田と里子の二人に彼女を紹介したいということで、黒部が招待したのだった。
里子は家の方の用事で来れなかった。
看護士をしているという彼女は黒部の一つ上だという。
「黒部にはちょっと勿体無いんじゃないか?」
「安田さん、そんな言い方ないじゃないですか。なぁ清美」
彼女の名前は清美というらしい。
「違うよ、安田さんは私どうこうじゃなくて、竜夫にもっとしっかりしろって言ってるんだよ」
「いやいや、そんな意味でいったんじゃないからな黒部」
黒部の下の名前は竜夫という。
この清美という女は、割とものをはっきり言うタイプらしく、安田も、さすがの黒部さえタジタジだった。
「今日はもう一人さ、大野さんっていう人にも来てもらうつもりだったんだよ。清美にも見てもらってさ、もう少し、大野さんのしとやかさを見習ってもらいたかったんだよな」
そこは黒部もうろたえてばかりではなく、言いたいことは言うが、しかし
「それは良ござんしたね。んじゃそういう人と付き合えば?」
更に輪をかけて勝気な清美に、黒部も謝るしか術がない。
「ま、まぁまぁ、いいじゃないか二人とも。なかなか似合ってると思うよ。黒部にはあれだな、このくらいの女性のほうがいいかもしれないよな。しかも綺麗な人じゃないか」
清美は勝気ではあるがシャイでもある。安田のその一言に顔を紅潮させ、
「そんな、安田さんも人からかうのよくないですよ」
「別にからかってはいないよ、綺麗なものを綺麗と言ったまでで」
「・・・・・なんだか安田さんに惚れそうなんだけど私」
これには黒部も慌てた。
「ちょっちょっと待てよ、安田さんにはちゃんと素敵な人がいるんだから」
「あれ?竜夫、嫉妬してる?」
「別に嫉妬なんかしてないよ」
清美にとっては彼女ではあるが、かわいい弟のようでもあるのだろうか。
そんなこんなで、楽しい時間は瞬く間にに過ぎていった。
その居酒屋を出て、タクシーを拾い、それじゃあとタクシーに乗り込む時に清美が、
「安田さん、何か体調わるいことないですか?」
と聞いてきた。清美は看護士の仕事をしているため、人の体調には普通の素人よりは敏感である。
居酒屋にいるときに何度か咳払いしていたのを、清美は見逃さなかった。
「いや、特に何も変化はないけどな」
「そうですか。すいません呼び止めてしまって。」
「安田さん、今日はありがとうございます。今度は大野さんも一緒にまた飲みましょうよ」
わかった、それじゃあ とタクシーに乗り込み安田は居酒屋をあとにした。
タクシーが行くのを眺めながら、清美は首を傾げた。
それを横目で見る黒部も清美を不思議そうに見ていたが、余計な詮索はしなかった。
次の日、安田はスーツで出社していた。
というより、このところはほとんどスーツでいる。
取締役になった安田は、メンテナンスだけの時と比べると少し忙しくなった。
黒部は外回りに出る準備をしながら、安田の方をチラチラと見ている。昨日の清美の態度をみてから、安田のことを気にかけている。
里子も同様だったが、黒部が頻繁に安田の方を見るので、何か気にかかることがあるのかと黒部の方を不思議そうに見ていた。
この日は奈美も出社していた。
いろんなことがあって、奈美はすっかり無口になっていた。里子が例の商談のアシストや、奈美が休んだ時のバックアップ、パートタイマーの教育と、着々と実績を積んだため、今では何となく里子が奈美よりも頼りにされていて、事実上事務の方は里子を中心に回っている。
「黒部主任、ちょっと・・・」
社長が黒部を社長室に呼んだ。
「なぁ、最近武夫の様子がちょっとおかしくないか?」
「どういう風におかしいと感じてるんですか?」
「まぁ、何というか特に喋るときなんかたまに力が抜けたようになる感じなんだよな」
黒部は今朝からずっと清美の態度を気にかけていたため、そのことを思い切って社長に話した。
それを聞いて、社長は安田を社長室に呼び、
「武夫、今日はこのまま上がって病院で検査を受けて来い」
「そんな暇はないですよ、色々やること山積みなんですから」
「いいから行って来い!これは先輩の命令だ」
更に里子を社長室に呼びつけ、付き添ってやるようにと言って、二人の背中を押し社外へ追いやった。
「二人とも検査が終わるまで帰って来なくていいぞ」
そういうと、社長は事務所に戻り、
「さぁ、みんな聞いてくれ、今日は訳あってこれから俺が陣頭指揮を執るぞ!まず冴島君が・・・・」
この素早い対応に黒部も安堵の表情を浮かべた。
この町では割と大きな総合病院の、外科医師内藤良三は、レントゲン写真を見ながら深いため息をついていた。
かつての高校の同級生が内藤を訪ねて、自分を頼ってきてくれたのに、そのレントゲン写真を見る限り内藤は手の施し様がないと感じていた。
「先生これ・・・」
看護士がそのレントゲンを見ても、異常を感じるほどだった。
その看護士が、レントゲンの患者を呼び入れた。
「安田武夫さん、第一診療室へお入りください」
ちょっと前に二人が再会した時は、久しぶりということもあって握手を交わし、内藤も笑顔で迎え入れたが、一旦レントゲンを撮ってもらい、再びの診療というところで内藤の表情からその笑顔が消えていた。
「なぁ安田、さっきのは嫁か?」
一緒に連れていた里子のことである。
「あぁ、まぁそんなところかな」
というと、里子も診療室に入れられた。
レントゲン写真の、白く陰になったところを幾つか指差し
「これはな・・・・言いたくないが、全部癌細胞なんだ」
安田はそれを聞いてもまだ自分に置かれている状況が把握出来なかった。
というより、その状況を受け入れきれずにいた。
「つまり、癌が至る所に転移してしまってるんだよ。」
安田はそれを聞いて肩を落とした。
「それで、俺はあとどのくらい生きられそうなんだ?」
「・・・・半年生きられてせいぜいというところかな」
内藤も今までこのような宣告をしたのは初めてではなかったが、まさかかつての同級生にこんな重い告知をするとは夢想だにしてなかった。
内藤はこの日ほど自分の職業を恨めしく思ったことがない。
「そうか、半年かぁ・・・・」
ふと、里子の方を見ると、下を向いたまま動かない。
それでも安田は、今ある気力をふり絞り、さぁ行こうかと、里子を抱えて椅子から立ち上がった。
しかし、安田自身、今にも倒れたい気分である。
「安田」
内藤もすっかりうなだれて、
「すまん、今日は俺もなんと言ってやればいいか言葉が見つからないよ。」
思い改めるように両手で顔を二回はたき、
「改めて色々腹が決まったら教えてくれ、俺も全力で協力するよ」
「ああ、世話かけたな」
そう言って病院を後にした。
里子はそれから何も考えられず、呆然としていた。
安田は尚更深刻だった。
自分の余命の宣告をされて、そうすんなり受け入れられるものではない。
ただ、それでも横で里子がうなだれているのを見ると、里子が不憫でならない。
里子の肩に手を掛け肩を抱いた。
里子はその肩を時折しゃくっている。
しばらく歩くとレンタカーの看板が見えてきた。
「なぁ、今から海に行こうか」
返事の余裕すらない里子の手を引っ張り、レンタカーの手続きを済ませて海へ向かった。
昼過ぎの外の風を窓をあけて浴びながら海へ走らせる。
その風が、武夫の頭の中から徐々に憂鬱を吹き飛ばしてくれた。
里子の心は何をやっても晴れない。
今、隣で車を運転している、最愛の人がもう半年すると逢えなくなる・・・・・
二人のそんな思いを乗せて、車は徐々に海へ近づいている。
潮風が濃くなってきた頃、海が見えてきた。
今日は風も強くなく、波が穏やかであった。
海水浴場に着いた。
ちらほらとサーファーがウェットスーツを着て波に乗っているだけで、人はそんなにいなかった。
しばらくは何も言わず、無言で浜辺を歩き、適当なところに腰掛けた。
陽はだいぶ沈んできていて、空が赤く染まり始めていた。
里子の肩を抱き引き寄せると、里子は武夫の腕を強く掴み身体を預けた。
陽が落ち、暗くなるまでそうしていたが、武夫がポツリ、
「大変なことになってしまったな・・・・」
里子が掴んでいた腕を激しく揺さぶった。
「何で、、、何でそんな他人事みたいに言うの?!」
いつも大人しい里子がいつもと違い声を荒げた。
「武夫さん、もうあと何ヶ月もしたらこの世からいなくなっちゃうんだよ?!」
そういうと今まで溜まっていた感情が吹き出てきたように、声をあげて武夫の腕の中で泣きじゃくった。
「武夫さん、、死んじゃいや、、、ずっと一緒にいたいの」
そんな里子に、もうどうすることもできない歯痒さを噛みしめながら、今の武夫にできることは抱きしめてやることしかなかった。
「里子、俺もお前の傍にいてやりたいよ。」
その声は時折潤んでいた。
そのまま浜辺に寝そべり、お互い抱き合った。
里子は自分の手から武夫が今にも離れていきそうな気になり、力いっぱいに武夫を抱きしめた。
それから一時間は経っただろうか。飽きることなくずっとそうしていたが、里子が武夫の顔を見つめ、言葉を発した。
「武夫さん、結婚しよう。私と一緒になってください。」
武夫は複雑だった。結婚してもすぐに里子を未亡人にしてしまう・・・・そう考えると、二つ返事でというわけにもいかなかったが、里子のお腹の中には自分の子が宿っている。
「本当にいいのか?俺は、もしかしたら今年のうちにこの世からいなくなるかもしれないんだぞ?」
あれだけ泣いたあとだからか、里子は幾分すっきりした顔をしていた。
「うん、いいの。武夫さんと、あなたと少しでも一緒にいたいの。」
「そうか・・・・」
夜空の星を見ながら色々考えていた。
その中で、一際光る星が妙に武夫の心をくすぐるようだった。
まるで後押しされているように。
ふいに、武夫が立ち上がった。
「里子、ちょっと立ってくれるか?」
里子は不思議そうに立ち上がった。
「普通プロポーズって男がするもんだろ?」
そう微笑みかけると、里子も納得したようにわらった。そして、改めて、
「里子、俺と一緒になってくれ。時間は凄く短いけど、その間だけでも俺は里子を幸せにしてみせる。」
里子は泣いているのか笑っているのか分からない表情で、
「ありがとう、武夫さん。私・・・・・」
「ん?」
「武夫さんが好き!・・・大好き!!」
そういうと、割と背の高い武夫の首を両手でまわし抱きついた。
武夫も里子を抱きしめた。
空を見上げると、さっきあんなに光っていた星が見当たらなくなった。
判断しきらない自分の背中を、あの星が押してくれて、潔く消えたような、そんなメルヘンな気分にさせられた。
それから二ヶ月過ぎた頃、ささやかながら結婚祝いが開かれた。
居酒屋の座敷の部屋を貸切にして、二人を真ん中に里子の親や親類、会社から社長や黒部、そして何があるか分からないということでお祝いを兼ねて内藤良三の姿もそこにあった。
その月武夫は退職願いを出し今日それが受理された。
会社の人間にとっては今日は歓送会も兼ねている。
「武夫、今までお疲れ様。ありがとうな色々」
と、全く言葉にはなっていない。
元々人情家の社長は終始泣きじゃくっている。
それをフォローするのは、あの頼れる若き主任、黒部である。
「社長~、今日は安田さんと大野さんの結婚祝いでもあるんですよ~。そんなしみったれた顔しないで下さいよ。ねぇ!大野さん」
何を言っても憎めない黒部はこういうとき一番頼り甲斐がある。
社長も今では、黒部が一番可愛いと言っている。
「なぁ、武夫、サッちゃん」
まだ泣きじゃくりながらだったが、
「ちょっと早いけど、サッちゃんも産休に入ったらどうだ?」
「え、いや、武夫さんだけならまだしも、私までってなると会社にも負担かかっちゃうし」
「大丈夫だよ、里子ちゃんのおかげで、あのパートのおばちゃんもだいぶ仕事できるようになったし、冴島君もいるし、確かにちょっと不安だけど、そうなったら俺もまた頑張るからさ。な?な?」
「そうですよ、休んでくださいよ。いざとなったら僕が取締役になってみんなを引っ張っていけばいいことだし。」
黒部が調子のいいことを言うと、社長が必ず頭をはたく。
ただ、そんな黒部を社長も気に入っていた。
その光景を見ながら、武夫はいずれ黒部がこの会社を引っ張っていくと思い、そう思うと安心できた。
「そうだな黒部もいることだし、里子、言葉に甘えさせてもらうか?」
そう言われ潤んだ声で、頬に涙を伝わせながら、社長の温もりに感謝した。
「バカヤロウ、泣く奴があるか!こんなめでたい席で」
と言いつつ、社長自信がまた泣きじゃくっていた。
結婚祝いというのに、武夫はこれで長年勤めた会社を去ると思うと、寂しさがこみ上げてきた。
宴が終わり解散した。
その日参加した面々は居酒屋の玄関先でまだ立ち話をしている。
社長の奥さんが車で迎えに来たので社長はそれに乗り込み、
「それじゃあ元気でな」
「ありがとうございます」
と黒部がドアが閉じようとした時、武夫がそのドアをつかんで、
「社長、また会いに行っていいですか?」
そう言われると、社長は一旦乗り込んだ車から降りてきた。
そして潤んだ目で武夫を睨むと、力強く武夫を抱き寄せ、
「バカヤロウ!武夫、いつでも・・・・いつでも会いに来い!お前が死んだって構うもんか、枕元にでも何でも会いにこい、バカヤロウ!」
その光景が、その日参加したほぼ全ての者達の涙を誘った。
里子はもちろん、内藤良三も、黒部でさえも、
「お前は俺の親友だ、そのことを忘れるなよ」
「社長・・・・」
社長は再び車に乗り込み、目頭をハンカチで押さえながら車で帰路へ向かった。
それから親族や黒部らを見送り。
全てを見送ったところで里子と武夫もタクシーで帰った。
「俺はいい人に出会ったな。社長っていい人だよな」
タクシーの中で里子に語りかけた。
里子は笑顔でうなずいた。
「さぁ、これから俺たちの時間が始まるな。今日からヨロシク頼むよ」
「ええ、こちらこそ」
二人を乗せたタクシーは、武夫の家に向かった。
その中で里子は疲れたのか、眠ってしまっていて、その表情は幸福感に満ちていた。
その後の里子と武夫の生活は幸せの絶頂だった。四六時中顔を合わせても飽きがくることなく。
家の中でも、どこか出かけるときも、買い物に行く時も、
しかし、武夫の病魔は確実に武夫の身体を蝕んでいく。
ある日の夕方、新聞のテレビ欄をみていた武夫が突然吐血し、意識を失った。
里子はすぐに救急車を呼び、内藤の勤務している病院へ搬送された。
集中治療室では、同級生の内藤が治療を施している。
治療室の横の椅子に腰掛け。治療が終わるのを待った。
内藤が治療室から出てきたが冴えない表情を浮かべている。
「里子ちゃんゴメン、俺の力じゃもうどうすることも出来ない。」
頭を下げている内藤に、
「武夫さんの意識は?」
「まだ少し残ってる。行って声を掛けてあげてくれ。」
治療室に入って武夫を見ると、ほんの数時間前、新聞をみていた同じ人とは思えないくらいに、顔は蒼く、酸素マスクをつけたままの状態でベッドに寝かされていた。
里子は武夫の手を握った。
武夫は里子の手を感じ取ったのか、今残っている力で握り返してきた。
「武夫さん、聞こえる?」
うっすら目を開けた武夫は微笑みを浮かべたまま弱弱しく頷いた。
そしてその手を里子の大きくなったお腹に当てた。
その手に自分の手を添えて、
「もうこの子を見れないのかな。」
武夫は首を振っている。
「私、武夫さんがいなくなってもちゃんと育てるね。安心して。」
武夫が口をパクパクと開けている。
内藤が酸素マスクを外すと里子は近づいて聴いた。
「ありがとう」
かすれた声で言っていた。
「私も、ありがとう。幸せだったよ」
武夫は満面の笑みを浮かべたが、それで力を使い果たしたかのように息を引き取った。
内藤が脈をとり臨終を告げた。
その内藤も同級生の最期に、
「武夫、ゆっくりな」
その声は潤んでいた。
その後は集中治療室にただ、里子のむせび泣く声だけが響いていた。
それから間もなく里子は無事男の子を出産した。
その出産後間もなく、会社に辞表を出した。
出産祝いに駆けつけた親戚の叔母から、退院したらうちの花屋で一緒に働かないかと言われ、そこで働くことを決めた。
「そうか。それもいいかもな」
社長の寂しげな表情を見るのは辛かった。
「社長、また遊びに来てもいいですか?」
また、社長が泣きはじめて、
「ああ、この辺に寄ったら必ずうちに来いよ。なんたって親友の嫁で元部下で戦友だからな」
社長室を出て、みんなにあいさつをして回り社を出ようとすると、奈美がボソッと、
「あなたに関わるとみんな不幸になるのよ。」
その一言に社に残っていた者が戦々恐々とした表情になった。
「だってそうでしょう?安田さんは死んじゃうわ、副島さんは辞めちゃうわ、元は全部あんたのせいじゃない!」
声を荒げ里子に指を指して罵倒し始めた。
そんな奈美の下に里子が歩み寄ると、次の行動に見ていた者全てが驚愕した。
奈美の頬を里子が叩いたのである。
結構強い威力だったせいか、奈美はよろめいて倒れた。
「何するのよ!?何なの一体?」
里子は奈美の顔に近づいて声を荒げた。
「あなた、一度でも本気で人を愛したことあるの?!そんな上辺だけの人間には、私たちのことなんて到底わかりっこないんだから!!」
そこにはもう、陰険な陰口を叩かれて口をつぐんでた頃の里子はいなかった。
相変らず無口だが、里子は強くなっていた。
奈美を見下ろしていた視線を上げ、社の人たちにお辞儀をして颯爽と社を出た。
社長はその様子に満足気に頷いていた。
そんな里子の後姿に社長が祈るように呟く。
「頑張れよ」
三年後・・・・・・・
そろそろ師走という頃、街は早くもクリスマスムードで、街路樹には電球が巻かれ始めている。
里子は叔母さんの店の花屋で働いている。
軽自動車の配達車で店に戻ると、叔母さんが店の花の水を入れ替えている。
「叔母さん、それ私がやっておくから先におやつ行ってきてよ。」
「そうかい?それじゃ、あと頼むよ」
そして、配達から帰ってきても忙しく店を切り盛りしている。
店にはポータブルのラジオがありそこから、毎日色んな音楽が流れてくる。
最近は、里子の歳相応に最近の曲もなんとなく覚えている。そんな毎日が充実感を与えてくれる。
そのラジオから耳慣れた曲が流れてきた。
それは、あの日最初に武夫と同じバスに乗り、同じ空間で聞いた曲だった。
『あなたの燃える手で わたしを抱きしめて
ただ二人だけで 生きていたいの
ただ命の限り わたしは愛したい
命の限り あなたを愛するの
頬と頬よせ 燃えるくちづけ
交わすよろこび
あなたと二人くらせるものなら
なんにもいらない
なんにもいらない
あなたと二人生きていくのよ
わたしの願いはただそれだけよ
あなたと二人・・・・・・』
そう、「愛の讃歌」である。
あれ以来子育てと仕事で忙しく働いてきた里子が久しぶりにこの曲を聴いて胸が熱くなった。
『武夫さん・・・・』
武夫との楽しかった日々が思い出され目を潤ませ、何度も何度も袖で涙を拭いた。
保育園のバスが止まり、子供が3人降りてきた。その中に里子の子供がいる。
「お母さーーーん!」
元気一杯に呼ぶ声はさっきまでの気分をすぐに明るくしてくれる。
「武春ーーー!」
子供の名前は武春という。勿論武夫から一文字とって付けた名前である。
毎日こうやって帰ってくると、武春を抱きかかえる。
里子は抱きかかえながら、
「二人で強く生きていこうね」
「うん!」
武春はあまり意味を分かっていなかったが、里子はそれでも頼もしさを感じずにいられなかった。
「さ、手をあらっておやつをたべておいで」
「わかった。おばちゃーーん」
そういうと奥の部屋へ行った。
その後姿を、しばらく見た後、また店先に戻った。
午後四時を回ると暗くなり始めた。
「クリスマスか・・・・」
色んな思いで呟くと、一つ深呼吸し、背伸びをして、また仕事にとりかかった。
街路樹のイルミネーションが早くも点灯し始めた。
暖冬と言われた今年もようやく空気が冷たくなり始め、コートを着る人たちもちらほら出てきた。
冬はもうすぐそこまできている。




