転換と2日間
五日目。(金曜日)
彼女は学校に向かいました。
薄い鞄の中身はまたもや一つだけ。
小さな。
小さな小さな自分の武器。
学校が始業する直前に家を出て、学校への道のりを歩きます。
もちろん授業には間に合いません。
間に合わなくてもかまわないのです。
彼女は間に合うために──授業に出るためにそこ向かうのではありませんでした。
道のりのことはほとんど覚えていません。
彼女の学校の制服が、いくつか自分を追い越して行った気がしたぐらいです。
校門をくぐると、体育館から遠く歓声が聞こえてきました。
聞きなれた、けれど、どこか馴染みのない、彼女のクラスの皆の歓声。
彼女はそちらへは向かわずに、誰もいない教室へ足を進めます。
昇降口で靴を脱ぎ、内靴は履かずに靴下のままで廊下へ。
廊下は静かで、時折大人の低い声が聞こえるだけでした。
彼女の教室は昇降口の目の前の階段を上ってすぐ。
どの教室の前も通ることなく行けるその場所を、彼女は気に入っていました。
電灯の点っていない教室。
朝だというのに仄暗いその雰囲気は、なんだか沈みこんでいきそうな感覚を与えてきて。
彼女はそれを呑み込んで、ロッカーへと向かいます。
不格好なハチの巣の様なロッカーには、それぞれの巣穴の上に金属のプレートが貼り付けてありました。
それはネジと接着剤で留められています。
固く。強く。未練のように。
彼女はそのことを知っていました。
最初の最初、一番目に一度外そうとしたからです。
けれど、彼女にはその手段が無く、彼女の家にもそのための道具はありませんでした。
だから彼女は今日までそれを放置してきました。
しかし、残すわけにはいかないのです。残せないのです。と彼女は呟きます。
そして、鞄からそれを取り出しました。
小さな武器。
カッターナイフ。
彼女はそれを金属片にあてると、力を込めて削り始めました。
ッガ、ガッガ、ガガガ。
無骨な音を立てながら、しかし次第にスムーズにリズムを刻み始めます。
ガリガリ、ガリガリガリガリ、ガリガリガリガリガリガリガリガリガリ。
いや、それはリズムと言えるほどのものではなく、単なる音──音の連続。
ひたすら削る音。
そして、唐突に。
カラーン、と違った音が響きました。
彼女にとってもこれは予定外。
ネジ穴部分の金属盤がそれぞれ折れ、接着剤も弱くなっていたのでしょう、はがれて床に落ちたのです。
まあ、いいでしょう。彼女は呟きます。
拾い上げた小さな欠片二つと、引延ばされたスパナのような形になった大きなプレートを見て、彼女は満足そうに息を吐きました。
そしてそのプレートをカッターナイフとともに鞄に放り込みます。
瞬間、その刻まれるべき銘を失った金属の板が侘びしく光を反射して、
それを見て……教室の前のドアの隙間からのぞいた何かが、彼女を見ながら寂しく唇を噛みました。
しかし、歩き始めた彼女はその光を見ることも出来ず、その何かにも気づきません。
もと来た廊下を戻り、昇降口で靴を履き、駐車場を横切り、校門をくぐりました。
同時に、一時間目の終了を告げるチャイムが、その小さな背中を押しました。
六日目。(土曜日)
朝起きて、学校に来て、それから少しだけぼうっとして。
そうして、本来の目的へ。
彼女は、誰もいない校舎を歩いて外に出ました。
本来ならば休日であっても、部活動や講習に参加する生徒で溢れていますが、今日に限ってはそうではありません。
喧騒で埋め尽くされるべき空間を、静寂が支配する。そんな日。
彼女は孤独を体現するように校庭の中心に立ち尽くしていました。
彼女の目的は、たった一つ。
埋めつくすために。
残った全てを。
塗りつくしても。
燃やしつくしても。
流しつくしても。
吊るしつくしても。
削りつくしても。
消えなかったものを。
埋めつくすために。
彼女は穴を掘りました。
彼女は穴に投げました。
彼女は最後に、ポケットに残った金属の欠片を取り出して──投げ入れました。
昨日まで、彼女の教室で鈍く、彼女の名前を象徴していたあの欠片を。
これで──全て。
ようやく終わりました。と彼女はぽつりと呟いて。
そして。
彼女は穴を、埋めました。
その跡をただただ見つめる彼女の瞳は、もう、なにも考えてはいませんでした。
六日目。(土曜日) 夜。
彼女は夜になるのを待って、学校を出ました。
人の通らない道を、街灯が落とす光の円を辿るように歩いていきます。
テクテクテクテク。
足取りは変わらず。重くもなく、軽くもなく。
今日は満月。
けれどもいつものようには空を見上げません。
どうせ曇っていることを知っているからです。
曇った夜の空は息苦しい。
だから彼女はあまり好きではありません。
そうして、道程を半分ほど来たあたりのことでした。
ぱちり、と。
暗闇と目があいました。
彼女は思わず立ち止まります。
視線の先、光の円錐の隙間の暗く昏い闇には、何かが。
『影』が立っていたのです。
こちらも動きませんし、向こうも動きません。
けれど、なぜだか恐怖は感じませんでした。
ただ、何かを言い出しそうな気配だけが暗闇を包んでいます。
最初に動いたのは影でした。
影はそこの公園に行こうと、彼女を誘いました。
その声は聞いたことのあるものだったので、彼女もそれに肯きました。
二人で公園のベンチに座ります。
影は、彼女を知っていました。
彼女も、影を知っていました。
今よりもずっと小さなころから知り合いで、今でも同じ時間を生きています。
けれど、いつしか影も彼女に気づいてくれなくなってしまいました。
彼女にはその理由は解かりません。
けれど彼女はそれも自分が悪いのだと思っていました。
それを彼女は呟くように影にいいます。
すると影は首を横にふり、うつむきました。
全部自分が悪いんだと、全部自分の勇気の無さが罪なのだと、そうやってぽつぽつと言葉を紡ぎます。
仕方ないのです。と彼女は言いました。
あの流れはあまりに大きく、強すぎて、一人の人間が逆らうには限界があると、彼女は思っていました。
だから彼女は影を責めません。
自分だって、それに流されて、自分自身を削っていくことにしたのですから。
自分を自分の中にしまって。
自分にされていることの意味が解からないと、周囲に振舞って。
何故、何、如何して、を全部しないことにしました。
苦しいのに無理やり笑って、
泣きたいのに咳をして誤魔化して、
痛いのに平気な振りをして、
そうやって自分を騙してきたのです。
現実に、影に会うまで自分は自分を騙せている、と二重に騙してきました。
けれど、今、回想するように彼女は自覚し、それを影に伝えました。
すると影は、ごめん。ごめん。と、謝罪の言葉をこぼし続けます。
その言葉はどこか温かく、少しだけ息苦しさが和らぐ心地がしました。
影はそんな彼女を見ずに、これからのことを話します。
これから先は、学校の外では出来る限り話かけること。
いきなりは無理だけど、学校でも努力すること。
学校で話せなくても、自分が彼女を嫌っている訳ではないということ。
それから、彼女を自分がどう思っているかということ。
彼女にどうしてほしいかということ。
彼女は、それを聞いてもなにも答えませんでした。
けれど、ひとつだけ。
影の言葉とは関係のない、けれど、どこか繋がっているような言葉を呟きます。
……私は歌を聴いたのです。
歌? と影は聞き返します。
そう。私とよく似たお話の歌。
だから、私は──夢が欲しいのです。
なんとなく、そう思ったのです。
彼女は切なそうに遠くを見ながらそう言いました。
××──。影はそんな音を口から出します。
彼女は一瞬キョトンとして、それからそれが自分の名前だったことに気づいて。
確かに、彼女は名前を無くすことに半分成功していたのでしょう。
なぜだか昔ほど嫌いではありません。
その響きは昔よりどうでもいいものになっていました。
クスリ、と彼女は笑います。
その表情を見て、影は不思議そうに首を傾げます。
それじゃあね。と彼女は影に言って、すぐに背を向け歩き出しました。
影は少し迷ったあと、またな、とその背中に向かって声をかけました。
彼女はその言葉に少し驚いて、けれども、足も止めず振り返りもせずに、進みます。
ふと、自然に空を見上げました。
予想したとおりの曇り空。
それでも、僅かに薄くなった雲の幕を通して、蒼い光が少しだけ差し込んでいました。
七日目。(日曜日)
昔から日曜日はお休みでした。
それは今も変わりません。
けれど休まず彼女は考えます。
昨日までの疑問と、
昨日の夜の出来事を。
影との会話の真実を見極めようと、布団の中で考えます。
影の言葉は真実だろうか。
ゴロン。
嘘だったらどうしよう。
ゴロンゴロン。
本当だったらどうしよう。
ゴロンゴロンゴロン。
一つ考えるごとに寝返りを繰り返します。
ゴロンゴロンゴロン。
ゴロンゴロンゴロン。
気づいてしまった苦しみや、思い出してしまった自分自身を説得しなければなりません。
彼女は人間に戻ってしまいました。
少しだけ、影に八つ当たりをして、また寝返り。
ゴロン。
気づかなければ、思い出さなければ、決めたことを考え直す必要なんてなかったのに。
昨夜の影は鍵のようなものなのだったのだな、と彼女は思います。
では、明日からの影はいったい何なんだろう、と彼女は考えます。
影は一時の幻想だろうか。
私の決意を帳消しにするために嘘をついたのだろうか。
私のように。
自分の考えにチクッとして、
ゴロン。
寝返りを一つ。
……それとも永遠なのだろうか。
影の存在は永遠なのだろうか。
それはあまりにご都合主義すぎはしないだろうか。
彼女は世界を知っています。
そうそう簡単に都合のいいことは起こりません。
デウス・エクス・マキナ。
物語の世界では、全ての要素を無理矢理繋げて最後には辻褄を合わせます。
けれど、ここでは。
この世界では、辻褄なんて合うほうが珍しいのです。
だからせめて、頭の中でだけでもそれを合わせようとします。
どうしてあのタイミングで私に話しかけてきてくれたのだろう。
そこにはどんな意図があって、
運命の糸は何を結びつけようとしたのだろう。
そんな曖昧な言葉が脳裏に浮かぶときは、彼女も混乱しているときです。
それが自分を納得させて騙すための武器であることを彼女は知っていました。
けれど、彼女はそれを拒みませんでした。
知っていながら騙し、騙されることを選んだのです。
そして──
ああそうか。そうだったのですね。
そうして、彼女は、一つの結論を導き出し、
いつのまにか、寝返りはしなくなっていました。
To be continued
お読みいただきありがとうございました。
少々突飛な展開ですかね・・・
でも、劇的な変化は、得てして終わりの始まりですよね。
この物語の終わりの引鉄は、影です。
そんな訳で、次回が最終回。最後までお付きあい下されば幸いです。




