受け止めきれない変化
ネイトは漆黒の世界の中で、小さな気配をはっきりと察知する。
(そばに精霊がいるのか?)
こそこそと、警戒しながら移動する動きは、精霊のそれと似ている。
しかし、精霊の気配を感じ取るには高い集中力と、こちら側も気配を消す必要があった。
これは本当に精霊だろうかと疑問を抱いた瞬間、ネイトは鈍い痛みに襲われ、強制的に意識を覚醒させられる。
「……痛い」
顔を歪めながら目を開ける。自室のベッドに横たわっているのに気づくと、ネイトは気だるく息を吐いた。
(まだ生きている。長階段を転げ落ちたっていうのに、俺もしぶといな)
げんなりしつつ体を動かそうとすると、再び右腕と右足に痛みが走る。ネイトは小さなうめき声をあげながらも、頭の中で冷静に疑問を抱いた。
(あれ? 右腕が折れていない)
痛みはあっても、右腕はしっかりと動いた。
そこだけでなく、左腕も両足も問題なく動かせることから、どこの骨も折れていないとわかり、ネイトは拍子抜けする。
(母に階段から突き落とされて骨折するのだと思っていたけど、俺の勘違いか?)
痛みを我慢して上半身を起こし、袖をまくって確認する。
右腕には痛々しい痣が点在していて、元々傷を負っていた箇所は、前よりもきつく包帯が巻かれていた。傷口から再び出血してしまったのか、真っ白な包帯が薄っすらと赤く染まっている。
続けて、左腕や両足も確認すると打ち身の痕や擦り傷がいくつも見つかり、頬に当てられたガーゼに触れるとわずかに痛みが広がった。
(でも、母さんが家を出ていく時、俺が骨折していたのは間違いない。そうなると、もう一回、階段から突き落とされるのか。次はどうやって反撃してやろうか)
大人しく骨を折られるつもりはまったくない。
非力な自分でもできる最大限の反撃方法はなんだろうと、頭の中で考えを巡らせていると、精霊の気配を感じ、ネイトはハッとする。
(さっきのは夢じゃなかったのか)
動揺しながら出窓の方へ視線を移動させる。
そこにはネイトが両手でようやく持ち上げられるくらいの大きな花瓶が置かれていて、エルザが庭から摘んできた花がたくさん飾られている。
目をそらさずじっと見つめていると、やがて花瓶の向こうで影が動き、少年の精霊がネイトの様子をうかがうようにしてそっと顔をのぞかせた。
しっかりと目と目が合い、ネイトと少年の精霊は揃って唖然とした表情を浮かべる。
次の瞬間、少年の精霊は焦った様子で、その場から姿を消した。
動揺が冷めやらぬ間に、今度は本棚の上へネイトは視線を上昇させる。
すると数秒後、先ほどの少年の精霊がそろりと顔を出し、再び唖然とした顔でふたりは見つめあうことになる。
またまた少年の精霊が弾けるように姿を消す。
ネイトは困惑するが、本棚の上からあえて視線を移動させずに見つめ続けていると、もう一度、精霊がそろりと目元だけ出して覗き込んできた。
今回もしっかりと視線が繋がってしまったからか、精霊は開き直ったように本棚の縁に立って、姿をさらす。
髪と目の色は綺麗な緑色で、貴族服に似た服を身に着けている。少年の精霊はびしっとネイトを指さした。
「貴様、なんで俺がわかる!」
「そんなの知るか!」
なぜか精霊に逆切れされ、ネイトも反射的に言い返す。
「くそっ! 生意気なやつめ!」
精霊は毒づくと、ふわりと風を纏いながら本棚から飛び降りて、一直線にドアへと進んでいく。
少年の精霊がドア横の壁にぴたりと背中をくっつけると、ちょうどドアが開いてエルザが姿を現した。
すぐにネイトが起きていることに気づいたエルザは、「ネイト坊ちゃん!」と嬉しそうに顔を綻ばせて室内へ入ってくる。
そして少年の精霊は、ドアが閉まる前に部屋の外へと出て行ってしまった。
「今のは、いったいなんだったんだ」
少年の精霊から理不尽に怒られたことに苛立つ一方で、気配を消すのが得意な精霊の居場所を難なく察知できたことが不思議でたまらない。
「なにかありましたか?」
ネイトがドアの方を見つめているため、エルザがちらりと後ろを振り返りつつ、問いかけてくる。
「いいや。なんでもない。それより俺、母さんと一緒に階段から落ちたよね。母さんは今どうしている?」
すると、エルザの表情が一気に曇り、言葉を選ぶようにして話し出した。
「奥様もネイト坊ちゃんのように怪我をしてしまいまして、今は自室にいらっしゃいます」
「怪我はひどいの?」
ネイトが誤魔化しを許さないようにじっと見つめると、エルザは「はい」と認める。
「ひどいってどれくらい? どこか骨折したとか?」
「骨折はされていなかったはずですけど……まだ眠っていらっしゃいます」
(それって、意識不明の状態ってこと?)
回りくどい言い方に、ネイトは眉根を寄せて質問を重ねる。
「落ちてからどれくらい経ってる?」
「丸二日でございます……でもきっと大丈夫です。すぐにお目覚めになりますよ。そうそう、今日はとってもいいお天気です。窓を開けて、空気の入れ替えをしましょうね」
エルザはこの話を続けるのを避けたいかのように、窓へ向かって歩き出す。窓を押し開けたあと、先ほど精霊が隠れていた花瓶の方へと進んでいく。
ネイトは己の小さな手に視線を落とす。
見つめていると、道連れにするべく掴んだミラーナの腕の感触が蘇ってくるような錯覚に陥っていく。
(俺は、母さんよりも先に意識を取り戻したってことか。前はこうじゃなかったはず。もしかして、俺が骨折しなかったのも母さんを巻き込んだから?)
確信は持てないが、以前のネイトがしなかった行動をとったのだから、なにかしらの変化があったとしてもおかしくない。
(このまま母さんが目覚めない可能性もあるってことか。そうなった場合、父さんはどう出る? その状況でも離婚を決行するか、それとも打ち所が悪かったことにして母さんを殺してしまうか)
ネイトには父がどのような行動をとるのか想像がつかなかった。
わからないのだから考えても無駄かとネイトが肩を竦めた時、廊下からばたばたと走る足音が聞こえてきた。
足音は部屋にどんどん近づいてきている上に、「お待ちください!」といった侍女たちの声まで飛び交っている。
何事かとネイトが耳を澄ましていると、ばたんと勢いよくドアが開かれた。
そこにいたのは、頭に包帯を巻いて頬にガーゼを当てたミラーナで、突然の登場に思わずネイトは目を見開く。
(意識を取り戻して、巻き込んだ俺に文句を言いに来たってことか)
そう考えたが、ミラーナはなかなか怒鳴りつけてこない。わずかに呼吸を乱しながら、たたじっとネイトを見つめている。
その表情もいつものように怒りに満ちたものではなく、ただ唖然としているかのようだった。
(……なんだ?)
ミラーナの感情が読めなくて、ネイトは無意識に警戒心を強める。
すると、ミラーナの後ろから、白衣姿の初老の男性が前へと進み出てきた。ミルツェーア家の主治医だ。
「奥様、共に落下したご子息が心配なのはわかりますが、今はご自分のことを優先してください。命を落としてもおかしくない状況だったのですよ。絶対安静です」
主治医が厳しい口調でミラーナを叱りつけると、眼鏡をかけた侍女がミラーナに寄り添うように手を伸ばし、「奥様、戻りましょう」と話しかけた。
しかし、繰り返し「奥様」と呼びかけても、ミラーナは反応しない。
眼鏡の侍女はそれに不満を覚えたらしく、八つ当たりするようにネイトを睨みつけた。
「そもそも、あなたのせいで奥様は怪我をしたのよ。あなたが原因だっていうのに、なぜ黙っているの。奥様に土下座して謝ったらどうなの?」
その主張にネイトは小さく鼻で笑ってから、ベッドを降りようとする。
エルザは「ネイト坊ちゃん」と不安そうに呼びかけ、主治医も同じく階段を落ちて怪我をしている子どもにそんなことを強要するのかと、わずかに顔をしかめた。
しかし、ネイトは土下座などするつもりはない。売られた喧嘩を買うだけである。
意気揚々とベッドから降りた瞬間、足首に痛みが走った。ネイトがわずかによろめくと同時に、横から体を支えるように手が伸ばされる。
「大丈夫?」
ネイトは己の目と耳を疑う。
体を支えている手はミラーナのもので、掛けられた気遣いの言葉もミラーナの口から発せられたもの。
それははっきりとしているというのに、目の前で起きたことを少しも受け止められない。
ネイトはミラーナと至近距離で見つめあい、少しの間を置いて、ようやくひと言呟いた。
「……は?」
それは、自分でも驚くくらい冷めた声だった。




