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終章 ― 信じるに値する者を富ませよ

終章 ― 信じるに値する者を富ませよ


老いた天野令己は、久方ぶりにかつての宿を訪れていた。

年月は容赦なく流れ、街の姿も、人々の装いも、彼の記憶とは少しずつ違っていた。だが、屋上の風だけは昔と変わらぬ匂いを運んでくる。石畳の夜気に混じる土と薪の香りが、どこか懐かしい。


令己は静かに腰を下ろし、目を細めて夜空を仰いだ。

遠く、山の向こうに散らばる光の粒――それはただの街灯ではない。かつて彼が手を貸し、志を共にした者たちが築いた宿や学校、工房、そして市場の灯だった。


弟子たちは、いまやそれぞれの土地で新しい流れを生み出している。

ひとりは芸術家たちを支えるギルドを立ち上げ、

ひとりは知識を共有する図書館の運営を担い、

またひとりは、技術を教える工房で子どもたちに手を動かす喜びを伝えていた。


彼らの営みのすべてが、令己の心に灯をともした。

金銭でも地位でもなく、人の情熱と信頼を媒介にして動く世界――

それが、彼が生涯をかけて探し求め、形にした理想だった。


風が、頬を撫でた。

その風に紛れるように、令己はひとりごとのように呟いた。


「……信じる者を、富ませよ。」


それが、彼の最後の言葉になった。


令己が初めてこの言葉を口にしたのは、まだ若い頃だった。

誰もが効率と利益を追い、信頼よりも数字を信じていた時代。

彼はそんな社会の仕組みに、どこか小さな違和感を覚えていた。


「なぜ“好き”を仕事にしてはいけないのか?」

「なぜ“信じる”が損を意味するのか?」


問い続けた果てに辿り着いたのが、「マニア資本主義」という考え方だった。


それは、情熱に価値を与える経済であり、信頼を資本とする社会の形。

好きなことに没頭し、信頼でつながり、互いの得意を交換する。

その循環の中でこそ、人は豊かに生きられる――令己はそう信じた。


金は手段であって目的ではない。

信頼は通貨よりも長く価値を保つ。

そして、情熱は投機ではなく、創造の源泉である。


令己はその理念をもって、多くの小さな実験を行った。

宿を作り、旅人の知恵と技能を交わす場を生んだ。

工房を立て、職人と子どもが並んで木を削る光景を取り戻した。

学校を興し、学ぶことを競争ではなく“共創”と呼んだ。


それらはやがて彼の手を離れ、彼が信じた者たちの手によって新たな形へと育っていった。

令己はいつしか“創業者”ではなく、“信じた人々の支援者”として名を知られるようになった。


「金を与えるな、信頼を与えよ。」

「奪うより、託せ。」

それが彼の口癖だった。


令己の死は、静かなものだった。

だがその思想は、彼の肉体よりもずっと長く、深く、人々の中に生き続けた。


彼を知る者たちは語る。


「あの男が残したのは、仕組みではない。

信じるに値するという、生き方だった」と。


利益や効率では測れない価値。

損得の勘定を超えて、人が人を信じるという尊厳。

令己が示したのは、経済を“信仰”として捉える視点だった。


経済とは、人々の信頼の総和であり、

お金とは、情熱が形を変えたエネルギーであり、

資産とは、誰かから託された信頼の記録にすぎない。


働くことは、生きるための義務ではなく、

自由を表現するための創造行為。

そこに損得を越えた“悦び”がある限り、世界は再生し続ける。


令己はよく言った。

「経済は信仰で動く。

信仰とは、神を崇めることではない。

信じる価値ある人間心のことだ。」


彼の残した“マニア資本主義”は、教義でも法則でもなかった。

それは、生き方であり、選択の態度だった。


人を疑うより、信じるほうが難しい。

だが、その難しさを引き受ける者こそ、世界を豊かにする。

令己はそれを生涯をかけて証明した。


令己の死後、世界は静かに変わっていった。

各地で彼の弟子や仲間たちが立ち上げた拠点は、やがてネットワークとなり、

“信頼を価値化する経済”として新たな仕組みを生み出した。


そこでは評価や数字よりも、「誰を信じるか」が通貨となった。

人の言葉、行い、情熱、過去の約束――それらが積み重なり、信頼の残高を形成する。

信頼が厚い者は、自然と人や資源が集まり、結果として富を得る。

だがその富もまた、次の誰かの夢を支えるために流れていく。


富は滞ると腐る。

信頼は流れると輝く。

令己の哲学は、そんな自然の理に似ていた。


彼の弟子のひとりは言った。

「令己さんの遺産は、思想ではなく、循環だった。」


そう、彼が築いたのは仕組みではなく“風”だった。

目に見えずとも確かに吹き渡る風。

誰かが誰かを信じ、託し、また次へとつなぐ――その流れこそが、彼の真の遺産だった。


夜が更けていく。

屋上に座る令己の姿は、やがて星空の中に溶けるように消えていった。

だが、彼の言葉だけは風に乗って、どこまでも遠くへと届いていく。


「信じるに値する者を、富ませよ。」


それは単なる遺言ではなかった。

世界を動かす祈りであり、人を信じることの宣言だった。


好きなことに全力を注ぎ、情熱で人をつなぎ、

信頼をもって富を巡らせる――

そんな世界の種を、彼は確かに蒔いていった。


経済とは人間の夢の総和であり、

信仰とはその夢を信じ続ける力だ。


だからこそ、天野令己の思想はいまも静かに息づいている。

誰かが心から好きなことをし、

誰かがその姿を信じ、支え、また次へと託す――

その連鎖の中に、彼の魂は生きている。


働くことは、自由の表現であり、

資産とは、信頼の貯金であり、

お金とは、人の情熱が形を変えたエネルギーだ。


経済は信仰で動く。

そして信仰とは、信じる価値ある人間心のこと。


だから――

信じるに値する者を、富ませよ。

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