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今日、父親は帰宅しないらしい。自炊は気分が乗らなかった。なので、夕飯はコンビニで調達することにした。
佐藤さんの家との、ちょうど中間地点にコンビニがある。じゃあ、チケット取りに行こうかな。個人的な物と金のやりとりだし、玄関先で渡して帰るくらいがいい。
《家いる? 今からチケットとりにいっていいかな》
《お手数をおかけします。私の落ち度で、わざわざ来ていただくのは申し訳ないです。明日は絶対に忘れません》
五分くらい経って返事が来た。
クッソ面倒くさっ! 丁寧すぎるのも、微妙に長文なのも、ことごとくウザい。
《都合悪い?》
《そういうわけでは! ただ、ご面倒をおかけするのが申し訳ないのです》
《佐藤さんの方が面倒》
反応を待たず、立て続けて送信する。
《暗いから家の中で待ってて》
暗闇に佐藤さんがヌッと浮かぶのは怖い。
コンビニをスルーしてチャリを飛ばす。無駄な荷物をぶらぶら下げて人の家に行くのは嫌なので、夕飯は帰りでもいいだろう。
前回はエントランスで別れたので、実際に階段を上がっていくのは初めてだった。ちょっと仲良くなった女の子の家にフラリと来れてしまう自分の図々しさに高揚するような、緊張しているような。足音の反響が気になって、静かに歩いてしまう。
二階の、墓場みたいに一定間隔で並んだドアの一番奥。チャイムを鳴らす。
「は、はいっ!」
ジャージの上にエプロンをかけた佐藤さんが待ち構えていたように飛び出てきた。エプロンは多分中学のときに家庭科の縫製キットで作ったやつ。違う学校でも、同じカリキュラムで同じキットを使っていたというのが訳もなく嬉しい。
どうやら夕飯はカレーらしい。奇をてらわないド定番カレーの匂いがする。僕の夕飯も決まった。レトルトのカレーを買って帰ろう。今の僕はもうカレー口だ。
「あのっ、ど、どうぞ」
と、玄関に通された。マンションのドアを開いたまま立ち話はご近所が気になるから嫌だよな。僕は「おじゃまします」と後ろ手に扉を閉める。
佐藤さんは勢いよく深々と頭を下げた。
「ほ、本当にご迷惑をっ……!」
「いい、いい。いくら?」
「に、二千円です……」
おずおずと両手で封筒を差し出される。むき身でも良いのに、丁寧だ。先にチケットを受け取った。財布から真ん中に折れ目のついた千円札を抜いて「はい」と二枚渡す。こちらもまた両手で受け取った佐藤さんは、真ん中で半分に折ると両手で包んで隠した。
「ありがとうございます……今度は、前よりも少し、上手になってると思うので……」
「うん。顔見るの楽しみにしてるよ」
「え、と……お面は外さない、かと……」
「ああ、違う違う。みんなの顔、ね。佐藤さんの顔はそろそろ見慣れ始めたな」
火が付いたように佐藤さんの顔が真っ赤になる。水をやりわすれた朝顔みたいに、しおしおと頭が床に向いてしまった。そういう顔は何度見てもいいものだ。
「いっそバチバチに化粧したら? お面と同じくらいの濃い化粧。そしたら、お面いらないでしょ」
「ど、努力……します……」
「頑張って。じゃ、帰る。夕飯、カレーなんだね。僕もカレーにしよっと」
急にお腹が空いてきた。さっさと帰ろう。
ドアに手をかけたとき、服の背面を鷲掴みにされた。肩甲骨にほど近い位置だからこそ、つれた襟首がガツンと喉仏にひっかかる。
「んがっ! ……なに」
「あっ、あのっ、あのっ……お夕飯、まだ、なんですか? よろしければ、その……カレー……」
察してくれと言わんばかりに音量が下がっていき、最終的にはミュートになった。食べていかないかと誘われているのだ。
断る理由はそりゃないけど。むしろ嬉しいくらいだけど。同級生の手料理を食べるのが家庭科の調理実習以外では初めてだから、緊張してくる。
距離感、近くね? バグってんのか? 僕たちはそんなに仲がいいのだろうか? 話すようになってまだちょっとしか経ってないぞ。それとも僕が気にしすぎなだけか。
「えーっと、親御さんがいると緊張するからなあ……」
パス! パス! ボールを渡せって意味じゃなくてスルーのパスな。他人ちの食卓なんて、どこに自分の身を置いていいかわからない。
「あ……それが、その……お母さん、今日は遅くなっちゃうみたいで。夕飯は、いらないみたいなんです」
一瞬、数段飛ばしで誘われているのかと思った。しかし、辛そうなはにかみ顔には、色っぽい調子なんか一切ない。ダルい話が待っていそうなしんどい八の字眉だ。
「冷凍すればいいんですけど、こういう感じで冷凍するときは、詰めていて寂しいというか……」
わかる。僕もたまにある。多分、親にもたまにある。
寂しさを覆い隠して、佐藤さんは慌てて口元をつり上げてごまかす。違和感のある笑顔はアンバランスでB級ホラー染みている。
「そのっ、せっかく来ていただきましたし、よろしければ……そ、そんなに大したものではないのですが、本当にフツーのカレーなんですけど、リンゴと蜂蜜は入ってます……」
言葉がじたばたと空回りしていた。自分でも何を言っているのかわからなくなっているらしく、顔は真っ赤だった。自分の中の寂しさを正面から肯定するのは怖い。
「うん。いいよ」
もういい。それ以上は言わなくて良い。全てわかった。
僕と彼女がここにいるのは偶然じゃない。お互いでたぐり寄せた必然だ。
戸惑いと遠慮が一瞬で消えた。
だって彼女は僕だ。
だろ?
「同じだよ」
「やっぱりリンゴと蜂蜜って必要ですよね」
「そっちじゃね~から」
急に力が抜けてへろへろと笑ってしまう。何がそんなにおかしいのかわからないようで、佐藤さんは目をパチパチさせていた。
「僕んちも今日一人飯なんだ。コンビニで買って帰るつもりだったんだ」
「あっ、そうだったんですね」
少し声が強張っていた。よそよそしくすら聞こえるくらいの、妙に慎重な返答だった。
「お言葉に甘えとくよ」
スニーカーの踵を踏みながら脱いで、もう一度「おじゃまします」と言ってあがる。変にそわそわした気持ちが消えたのは、彼女への邪念が消えたからかもしれない。
とはいえ、ずっと知っていた場所に来たというほどのなれなれしさもない。ウチとそうそう変わらない狭苦しさの廊下を通り、ウチより小さいリビングへと辿り着く。戸棚の目隠しのレースのカーテン、眩しい色のチェック柄の座布団、小花柄が書かれた調味料入れ。おもちゃ箱みたいな部屋だ。洗練されてはいないが、一つ一つがつつましく、一種の夢のようなものを描いている。
「かわいい部屋だね」
「お母さんが、こういうの好きなんです」
「親の趣味なんだ?」
佐藤さんは「ええ」と素直に頷いた。本人には、特に思うところはなさそうだ。それなら別にいいんだけど、仮にこれが僕の立場だと考える。無関心、もしくは完全に趣味が一致していなければ、自分の入り込む余地がなくて息苦しいかもしれない。……母親というものに対して僕の理解度が低いせいかもしれないけど。
「ちょっとお待ちくださいね。飲み物は、冷たいのしかないのですが……」
「佐藤さんと一緒のでいいよ」
「ごはんはどれくらい盛りましょうか?」
「佐藤さんと同じくらいでいいよ」
「らっきょはいりますか?」
「あー、それはいらないかな。佐藤さんはらっきょとカレーなんだ?」
「あ、いえ。お母さんが好きなので、いつも置いてるんです」
顔も見たことのない母親がそこにるような錯覚すら抱くくらい、佐藤さんと空間に対して密接だ。家の中なんてそんなもんなのかな。僕にとっての父親も似たようなものかもしれない。居心地は一向によくならず、尻が一センチ程度そわそわと浮く気分だ。
ここはファンシーショップかと言いたくなるような、好んで集めたことがわかるレトロな少女趣味のカトラリーにグラスにカレー皿。思ったよりも大盛りでカレーがやってきたのには驚いた。お店でいうならプラス百五十円の量ではないだろうか。
正面に座った佐藤さんは、緊張で照れ笑いを浮かべていた。
「え、えへへへへ……聞くの忘れてました。中辛だけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。すっごい聞いてくるね」
慎重すぎておかしくて笑ってしまった。鬱陶しいの一歩手前でギリギリ踏みとどまっている。ギリギリね!
一杯二千円のカレーというフレーズが頭に浮かぶ。買ったのはチケットなんだけど、認識がすり替わってカレーに支払った感覚だった。カレーとすれば高いけど、この瞬間は二千円払っても買えない。あれ、じゃあ、カレーを買ったわけではないな……。
じわりと佐藤さんの顔に影が落ちる。
「カレーがおいしくなくても、お友達は、やめないでくださいね……」
情緒が安定しない……。一定レベルで家事ができるなら誰が作ってもそんなに変わらないタイプのカレーなのに……。
僕は「どうしよっかな」とからかった。あからさまにオドオドし始めたので「いただきます」と一口含む。
まあ、変哲のないカレー。誰もが想像する普通のカレー。強いて言うなら、カレーは作りたてで、米は炊きたて。
「なんか懐かしい味だな」
普通のカレーこそ、古の記憶を揺さぶるのだろう。だからこそいい、というのは言うまでもないものだ。
「僕の母親が作るのと同じカレー」
「りんごとはちみつの中辛ですか」
「うん、そう。でも父親は変に凝るんだよね。急にドライカレー作ったり、やたらとスパイスやらココナッツやら入れてみたり、グリーンカレーだったりね。米もサフランライスだったりさ」
「おいしそうですね。お洒落です」
「まあ、おいしいことはおいしいんだけどね。映えるからしょっちゅう写真撮ってネットにあげてるし。も~、うざいうざい。でもさ、カレーって言われて食べたいのって、こっちじゃない?」
「ええっと……お口にあったなら、なによりです」
「うん。おいしい」
このカレーは、僕が自分で作るときとほとんど変わらない。こんなもの、どうせ誰が作ったってだいたい同じだ。そうなるように作られているのだ。でも、自分で作るよりも何倍もおいしい。一人で食べるよりも億倍おいしい。父親の愚痴を聞いて貰っているからかもしれない。気まぐれに買ってきては使い切らずに飾るばっかりのスパイスが溜まっていることまで一気に話したら、佐藤さんがニコニコして黙っていることに気がついた。
「あ、ごめん。喋りすぎた」
「いえ。あの……嬉しいです」
勘違いしそうだ。いや、勘違いじゃないと思う。好かれていることは間違いない。だけど、正しく意味を解さずに思い込んでしまいそう。少し慎重になって、言葉控えめに「どして?」と彼女を伺う。佐藤さんは、はにかんでスプーンの先を見つめている。
「話を聞く方が好きだから、たくさんお話しを聞けて、嬉しくて。それに、つぐみ君は、あんまり自分のことを喋ってくれないので」
「そう? 一財産築いたなんて言っちゃうヤツだぜ? 自分で言うのもなんだけどわりとお喋りな方じゃないかな」
「うーん……そのこと以外はよく知りません。ミステリアスです。クラスのみんなも、そう言ってますよ」
「マジか。佐藤さん、そんなにクラスのみんなと喋っているの? 嘘つくなよ」
「あ、えと……友達伝手に聞いたところもありますね……はい……直接聞いたわけでもないのに、大きく言い過ぎました……」
影を背負って俯く佐藤さん。面白いくらいに落ち込んでくれるので気持ちがいい。これだけ思い通りに言葉を受け取ってくれるなら、僕でもコントロールできる。わけのわからない相手ではない。
心の余裕ができたら、まともに話を受け取る気になれた。頭から否定するのもよくないよな。仮に佐藤さんが言っていることが全部本当だとしてみよう。
「うーん……普通に周囲と話があう程度の趣味しかないから、話が薄味なのかもね」
「そうなんでしょうか……」
「それに、家とか親のことなんか話す必用ないでしょ」
「でも、つぐみ君のお父さんの話、なんだか面白いですよ」
「だからモテるんだろうな」
悪気ない一言に、僕は思わず冷笑してしまった。
佐藤さんの瞳にきゅるんとした興味がわく。モテの話は下世話に楽しいからな。
腹の内に加虐的な苛立ちがこみ上げてくる。発散するのは簡単だ。話すだけでいい。どうぞ、重たく、気まずくなってくれ。
「父親から『友達がご飯作ってくれるから一緒に食べよう』ってメールが来るんだよ。この間のライブの日もそうだったんだけど。今のカノジョって言えばそうなんだけどね。ころころ変わる父親のカノジョの手料理なんか食いたくねえよ……」
「それは、大変ですね……再婚、ですか?」
おそるおそる尋ねる佐藤さん。僕は母親について一言も話していない。しかし、浮気ならこうは話さない。だから母親が不在と判断したのだろう。ご名答! よっ、名探偵!
「ああ、違う違う。最初はそう思って親に付き合ってたんだけど、単純に来た女を断らないだけだった。みんなすぐに別れるよ。手料理食べんのは多分趣味だな」
誰かが作ってくれた家庭料理をプライベートな空間で食べるのは、なんかいい。実際に食べてみて、父親の趣味をわからないでもなくなった。わからないままでいた方が気楽だったかもしれないけれど。
佐藤さんはすいすい進んでいたスプーンを止めて、肩を丸めていた。なにを言えば良いのか悩んでいるのかもしれない。
「ほら。家の話なんかするもんじゃない。困るだろ。ミステリアスなくらいでいいんだよ、きっと」
「……でも、話してくれて嬉しかったです」
「ま、ネタにはなるな。僕の父親、ちょっとした大人向けの漫画みたいだろ?」
「あ、ええと、そういうのじゃ、なくて。つぐみ君と、ちょっと仲良くなれた気がして」
「既にけっこう仲いいんじゃない、僕ら。佐藤さんちで一緒に飯食ってるわけだし」
スプーンの先で佐藤さんを指す。どうしてこんな時間を過ごしているのか。自分でもよくわからないくらい、信じ難かった。佐藤さんがこの状況を作ったのだから、もっと図々しくもっと不躾に堂々として欲しいものだ。
佐藤さんはきょとんとしてから、二度三度、軽く頷いた。僕の言葉が嬉しいのか、ふふっ、と小鳥のさえずりみたいに笑う。
「あの……いつでも来て下さいね」
なんでも受け入れてくれそうな、穏やかで人の良い微笑みだ。
そんなこと言ったってきっと迷惑なんだろ。そんな風に思わないのかな。いや、親がいるときはきっと嫌だ。だって僕は親に佐藤さんとの話をしたくない。だから嘘吐いてる。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嫌な気持ちがぐるぐると胃の中でカレーと一緒に回っている。
「じゃ、そうさせてもらうよ」
そうするのが、多分、一番迷惑だろうから。相手の都合を構わずにおしかけてやろう。
「佐藤さんもいつでも連絡するといいさ」
どうせ僕がブッチ切るのは父親だから構わない。あっちだって好き勝手に生きている。
嫌がらせの予告なのに、佐藤さんは、えへらえへらと子供みたいに無邪気に口元を緩ませていた。前髪がウザいな。半分くらい顔が隠れてしまうから。
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