4-4
座って待つだけなのは暇だ。でも、手伝いもいらないと言われてしまった。「じゃあ部屋が見たい」とねだったら渋られたが、最終的には根負けしたのか見せてくれた。
ベッドと、ノートパソコンが乗った机が部屋の半分以上を占めている、まさに猫の額ほどの大きさだ。乙女チックなリビングと比べ、こちらの部屋は飾り気のないシャープなものが多かった。カーテンや布団はモノトーンでまとまっている。僕にも理解しやすいというか、僕と趣味が似ていた。
その中で『フランちゃん』のグッズを飾る一角が浮いていた。付録っぽい黄ばんだポストカードとか、チープな出来のキーホルダーがひっかけられている。この壁は見覚えがあった。
「ねえねえ、この壁って動画の背景にしてるとこだよね?」
「そうですよ。窓枠にカメラ置いてるんです。最初は布団の上でしたが、安定しないので」
台所から苦笑っぽい佐藤さんの声が返ってきた。今はカーテンが引かれている窓を見る。カメラの位置が決まるまで苦戦したのだろうな。
深呼吸して、他人の部屋の生活臭を満喫する。少し埃っぽいけれど、はちみつみたいな甘くて良い匂いだ。こんな狭くて寂しいところで暮らしているのだと実感する。
「もうちょっとでできますよ。本当に、大したものではないのですが……」
落ち着かない様子で、佐藤さんは部屋を覗いてきた。別に布団に顔を埋めたりしないし、下着とか持っていくつもりもありませんて。部屋にいるだけなのにかえって邪魔になっている気がしたので、リビングに戻ることにした。ホッとした顔をされてしまった。
「ありがと。楽しかった」
「そうでしたか? なんだか緊張しちゃいました。面白みのない部屋なので」
「そんなことないけど。本当にフランちゃん好きなんだね……キャラクターのね?」
「はい。といっても、皆さんが作るみたいな祭壇とかはできないので、好きって言っていいのか悩んじゃうこともあるのですが」
「そんなことで悩むの? あれって自己満足じゃなければ人に差を見せるためだけにやってるわけだし、強火のファンって認知されたいわけじゃなきゃ必用ないでしょ」
「必用はないんですけど……名前がフランちゃんのくせに背景しょぼい、ってコメントで言われちゃったんですよね」
「削除なりブロックなりしとけばいいって。んなやつ相手にするこたない」
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、ついキツい言い方をしてしまった。撤回の仕方がわからなくてしばらく考えていたら、結論として黙ってしまった。彼女のことを良く知ったつもりになっていたけれど、本当のところ、あまりよく知らないのかもしれない。
机の上に温かいお茶と卵ベースのおじやが並ぶ。冗談抜きで大した物ではない。でも、口の傷には染みなさそう。胃にも優しい。今日は彼女も僕も顔色が悪いから、きっと丁度良いだろう。
席について、佐藤さんはしみじみと頷いた。
「うん……やっぱり、話すことって大事ですね。つぐみ君はばっさり切ってくれるから、なんだか、気持ちが楽になります」
「でもさ、動画のことって、もうバンド仲間に話せるわけじゃん。親だって聞いてくれるはずだよ」
「ええ。もちろん聞いてくれますが……」
「だから僕はもういらないでしょ」
優しい味のおじやがすっと体に馴染んでいく。自分でもこれくらいなら作れる。人の作る温かみのあるものがおいしく感じる、というのは、ただのわがままだ。
佐藤さんが口をホケッと開けて硬直した。ぽとんとレンゲにすくった分が元の場所へ落ちる。そのままレンゲもお椀の中に沈めてしまう。
「えーっと……私、なにか悪いことしちゃいましたか?」
何が起こっているのかわからない、頭の中が真っ白って言う感じの、まん丸な目。
うん。僕よりバンドをとった。二人で活動するって言って欲しかった。
「オネーサンが天音を狙ったの、僕のせいだったし」
「ウタちゃんから聞きました。つぐみ君は悪くないと思います」
落ち着いた声だった。そう言って欲しくて聞いた。僕が求める言葉を佐藤さんは返してくれる。でも、僕よりバンドをとった。
「それによく考えてもみてよ。こんなの続けてたら、親になんか言われるんじゃない。食費の監視はしてるでしょ」
「ああ……それは、確かに……じゃあ、説明しなくちゃですね」
当然という顔だった。もちろん、順番に考えていけば、それしかないだろう。そして、その次に出てくる答えも一つしかない。
「付き合ってるって思われるよ」
口にすると急にしんどい。舌の上が渋くなる。食べる気力が急に失せて、手が止まる。どうせ僕のことは弟くらいにしか思っていないし、バンドの方が大事なのだ。
妙に静かな正面を伺った。
今にも逃げたそうにしているのに、逸れない伏し目と視線が合った。
「嫌ですか?」
小さな声だった。はっきり聞こえた。一瞬で世界が反転した。手から顔からカッと熱くなる。嬉しい以上に、恥ずかしい。
「嫌じゃない」
そう答えるのも必死だった。声が掠れていた気がする。自分の鼓動で頭が揺れている気がした。
のぼせた頭の片隅で冷ややかな声がする。このままなんとなく付き合ったら、格好付かない。
「けど、まだ付き合ってない」
「あ、そ、そう、ですね」
佐藤さんは焦ったように照れ笑いを浮かべて、少し早いペースで食事を進めた。僕もつられるように食べ進める。おいしいと感じているけれど、実際のところ、味がわからなくなっていた。
帰る頃には変な汗が額に滲んでいた。ぎくしゃくした空気の中で、ちっとも会話がない。近づいた距離を確認したはずなのに、いつもみたいな楽しさがないのはなんでだろう。僕はこんなの望んでいない。初々しい甘酸っぱさとか切なさなんて求めていない。安心したい。ただ、それだけ。
「あのさ。僕、バンドなんかやめてよ、って思ってたんだ」
玄関の扉の前で、嘔吐みたいに言葉が出てきた。出しちゃいけないものが勝手に出てきたのだ。出すつもりもなかった。それでも出てくる。心の中の汚物。
佐藤さんはいつもテンポが遅い。僕がヒヤヒヤして本当に吐きそうになっているときにやっとふわふわした返事をする。
「……どうして?」
「だって遠くに行っちゃいそうだったから」
二人だけでやりたかった。心配は山ほどある。でも、一番上の一つしか言えなかった。これ以上喋ったら、自分が自分を嫌いだということを確認する作業にしかならない。情けないことに、泣いてしまいそうだ。
こんな酷いこと言われたのに、佐藤さんは本当に嬉しそうに顔を真っ赤にして、両手で頬を覆う。両思いってときよりも嬉しそうなのは癪だ、実に癪だ。ムカつく。
「わ、私、そんな自信ないです。つぐみ君っていっつもすごい期待してくれて……私には、とても応えられないような期待で……」
嫌味なくらい自信ないのがイライラする。
「でも、それが、すごく嬉しい、です」
か細くてとろけそうに甘い声。
いい子なのだ。嫌がらせみたいなことをさせても、愚直にやってみようとする。どうやって嫌いになれと言うんだ。
「私、つぐみ君のこと、どう思ってるのか自分でもわからなかったんです。ウタちゃんにからかわれて、カッとなっちゃったけど……言い当てられたせいだったんです。つぐみ君にも甘えていました。よくないですね」
ぶらさがっているだけだった手を握られる。暖かさな柔らかさに包まれて、その手が自分の体の一部ということを思い出す。祈り事みたいに、優しくぎゅっと力がこもった。
「もしもどこかに行くことになっても、それって、私一人の力じゃないです。だから、つぐみ君も一緒に行きましょう」
くいっと、抱きしめるように腕を胸元へ引っ張る。手首にふわりと胸が当たった。それだけで包み込まれている気分になった。
僕はあんなに怖がっていたのに、佐藤さんは易々と近づいてくる。あんなに逆恨みして避けようとしていた僕を、ストーカーみたいに追いかけていった僕を、一切に疑わずにいたのだ。僕も自信をつけなくちゃいけない。他人と一緒にいる自信。
「うん。ありがとう。フランちゃん」
慣れない響きに言った自分も戸惑った。でも、とびっきりの笑顔が返ってきたから正解なのだ。