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僕はスマホで動画サイトを開いた。ダラっと画面を見るだけで、急に盛り上がっている動画は勝手に集まってくる。
「……駅で……のため、……分の遅延が発生し……」
通勤ラッシュ。駅のアナウンスに不満のざわめきが満ちた。横のおじさんがため息をつく。ドブみたいな息がシャワーの如く降りかかった。くっそダル~。
今からでもタクシーに切り替えようか。いや、駅の入り口に戻ってタクシー乗り場に行くのが既にダルい。ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗らなくて済むけど、どうせ行くのは楽しくもない学校だ。
「はあぁぁぁ………………」
あまりにも陰鬱なクソデカため息が、少し上の位置から聞こえてきた。いかほどの不幸なブスだろうとワクワクして振り返ったら、同じクラスの女の子だった。彼女は佐藤さん。名前は忘れた。
いつも俯いていて、ホラー映画の幽霊みたいな長い黒髪が顔を隠している。猫背でぐしゃっとした立ち姿だが、頭の位置は平均身長より少し高いだろう。一回り大きなブレザーやベストのせいで体が土管みたいに見える。部活で使うのか、でかくて黒い楽器ケースらしきものを抱えていた。
同じ駅なのか。家、近かったんだな。
話しかけて勘違いされたくないから放っておく。だって僕は女の子みたいに可愛いのだ。他人に何度も言われているから、きっとそう。小中では、もう少し身長が伸びたらモデルになったらいいんじゃない、ともね。高校生の現在、150付近で止まっている。
興味が失せた。再びスマホの画面を見る。
おっ! サムネイルのおっぱいがすごい!
僕は動画を開いた。女の子がギターを弾くだけ。顔は出ていないけれど、Tシャツ越しの乳がデカくてなんとノーブラ。弾いているのは流行の曲だ。音楽に興味がないから腕の善し悪しはわからないが、コメントでは上手いと書かれていた。
それにしても――変な靴下はいてるな。
毛玉の浮いた靴下はパチもんのキティちゃんみたいな顔がでかでかと乗っている。コメントの有識者が十年ほど前のアニメのキャラクター『フランちゃん』だと教えてくれた。そのキャラの名前を取ったのだろうか、投稿者の名前も『フラン』だった。
*****
「なあつぐみ、俺にもFX教えてくれよ」
的場つぐみは僕の名前だ。こんなの、どう考えても女の子じゃん。
これはいわゆるネタフリだ。ちょいちょい同じ言い回しで話しかけられる。そこで、僕は決まってこう返す。
「うん。講師料は一時間三万でいいよ」
三本の指を立ててね。世のコンサルが対面で話すときは一時間あたり三万円くらいってネットで見た。
「この守銭奴が!」
嬉しそうに数人からつつき回される。どうにも女の子の代わりとして可愛がられている気がしてならない。
人避けのエグい冗談のつもりだったのに、ツッコミがうまかったせいでうっかりドッとウケた。以降、漫才扱いだ。
数年前、海外で流行った簡単に投資できるアプリが国内へ輸入された。電子マネーなので中学生でもお小遣いの範囲でできてしまいトラブル多発。問題になってすぐに十八才以下は使用制限がかかった。僕はそこで大当たりの勝ち抜けをした。中坊の身の上で一財産作ってしまったのだ。
「ちょっとは奢ってくれよ」
おふざけ混じりによくそんなことを言われるから、人付き合いは好きじゃない。
「や~だよ」
僕は舌を出して教室を出た。どうせならコンビニまで行こうかな。片道十分程度だ。休み時間の外出は校則で許可されている。
靴箱に佐藤さんがいた。今日はタイミングがぴったり合っている日だ。ジャージに着替えてはいたが、相変わらず黒くてデカイい楽器バッグを持っている。
佐藤さんは、上履きを脱いで靴箱へ戻す。
「あ!?」
僕は思わず大きな声を出した。
「ぴえっ!?」
佐藤さんはお腹を押すとピーピー鳴るアヒルのおもちゃみたいな悲鳴をあげて硬直した。丸く開いた口が髪の隙間から覗いている。
「その靴下、フランちゃん?」
佐藤さんの靴下は直近で見かけたものだった。ケバケバに傷んだフランちゃんは、ジャージになる際に履き替えたものなのだろう。
その場へしゃがみこんでしまう佐藤さん。膝を抱えるスタイルだが、パーになった両手の平は靴下を覆い隠していた。
「あっ、あの……そ……」
「えっ、じゃあさ、その黒いやつってギターだったりする?」
言葉による返事はない。蚊の鳴くような声なので、昼休みの雑然とした環境音でかき消されて聞こえなかったのだ。こくんと頷いたのは見えた。
「ちょっと立ってくれる?」
「え? なん、で……」
「はい立って立って立って! 立って!」
手を叩いて囃し立てると、佐藤さんは絶望に打ちひしがれたノロい動作で立ち上がる。夜道で見たら幽霊だな。自分より体のでかい幽霊に出くわしたら怖いかもしれない。
「ジャージの前開けて」
ジャージは体の線を土管型の直線に収める服だ。脱がないとわからない。
もう返事はなかった。言われるがままに佐藤さんはジャージのファスナーを下げる。
この乳、たいそうデカい。彼女で間違いない。この乳は今日見た乳だ。佐藤さんにはぜんぜん興味なかったけれど、一気に普通にイケる子に格上げだ。
「やっぱそうだ。佐藤さん、フランって名前で動画あげてるでしょ」
佐藤さんは棒立ちで硬直した。そして震え始めた。なんだこの間という無言。変なやつ。大丈夫か、これ。社会で生きていけんの?
「今朝見た。たぶん君もっとバズれるよ。楽しみだね」
「そ……すか……ありが……ます」
「声ほぼ聞こえないんだけど。まあいいや。応援するよ。じゃ」
いやあ、びっくりした。世間って狭いな。なんて余韻を噛みしめる前に、佐藤さんに行く手を遮られてしまった。僕は履き替えのスニーカーを手にぶら下げる。
「ん? なんか?」
小川流れる音みたいな中音域の微かなささやき。小さすぎて聞き取れない。
「もうちょっとおっきい声で言ってくんない? さっきからぜんぜん聞こえない」
「ヒッ」と悲鳴染みた声。「あ、あっ」と、あえぐ声。挙動不審。どうでもいいけど、心の一つや二つ、病んでいるのか?
面倒くさいから横をすり抜けて靴を放り投げた。待つ義理は特にない。靴の片方がヘソ曲がりに跳ね返って、コロンと横を向いた。
「ま、待って……!」
シャツの背中を掴まれる。首元がつれて苦しい。怒ってもしょうがないけど、はっきりしなくてイライラしてくる。
「うん。だからなに? 言うんなら早く言ってよ。僕にも聞こえる声でさあ」
今にも泣き出しそうな腹式呼吸で大きく息を吸い込む音。もし泣くなら僕は後で悪口を言いまくるぞ。どうせ友達いないタイプだろうし、学校来れなくなるかもしれないね。喧嘩を買うつもりで振り返る。
あれ? けっこう、顔、可愛くない?
白くてキメの細かい肌。重たそうな長い睫。黒目がちの大きな二重。瞳の下にはくっきりとした青い隈。血色が悪く、青みがかった、小さくて形のいい薄い唇。化粧と服装でなんにでもなれそうな整った顔立ちだ。
「……なっ、なんで、あんなに急に閲覧数が伸びたか、わからなくて……今まで投稿してても、あんな風には……」
つっかえつっかえだけど、ちゃんと普通の大きさの声を出してくれた。緊張のせいか顔が引きつっている。
「ああ。多分おっぱいじゃない?」
「え、えっ……? 服、着てるのに……」
「ノーブラTシャツとか裸よりエロいだろ。意見は分かれると思うけど僕は好き」
佐藤さんは顎が外れるくらい口を開いたまま硬直してしまう。使い始めて三年経ったロースペパソコンみたいな感情の処理能力。ショックを受けるだけでやりかえしてこないなら、いじめるのは楽しいかもしれない。
「ギターの腕、は……?」
しばらく間を置いて真っ青な顔で言った。
「楽器の腕を聞かれても……そういうの僕よくわかんない。音楽は興味ないし」
「な、なんで、動画、見た、すか……?」
「今伸びてるって表示されたから。ああ、でも、流行の歌は伸びやすいよね。曲から検索してくるからね」
佐藤さんは暗い顔して黙った。いつの間にか背中も開放されている。僕はスニーカーに足を通してトントンした。
「もっとバズりたいならビキニでギター弾けばいいんじゃない? 前髪は上げて化粧して顔出しすれば投げ銭もじゃんじゃん来るよ」
特に反応もない。佐藤さんは木のように佇んでいた。だから放っておく。
昼、何食うかな。ちっとも思い付かない。食事は面倒くさい作業だ。身長が伸びるという神話に縋って、牛乳と、十円引きの菓子パンを買って戻った。いつも通り職員室の前にある花壇のヘリに腰掛ける。
スマホを開くと、《今日は一緒にご飯たべようね》とハート付きのメッセージが届いていた。これ、父親だぜ? いい加減にしろ。
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父親と夕食を共にする日は「今日楽しいことあった?」と飯の写真を撮りながら聞かれる。今日のメインはアクアパッツァ。
例の動画を見せようとスマホを開いたら、既に非公開だった。僕の言ったことに、そんなに傷ついたのだろうか。
「謝っときなよ」
なんてやんわりと説教された。
うん。不愉快。絶対に謝らないぞ。
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