3. 反発する社会
快晴のある日、第77飛迅独立部隊 隊長のクーガルは急いでいた。かつて最速と言われたその男は、やや細身の高身長で5分刈りの25歳である。高所にある都市中央の鐘を鳴らし、全てのヒトに牙人の侵攻開始を報告した。すぐに緊急会議が開かれ、王、イゼルグ司令官、各隊長、親衛隊長が出席した。侵攻する牙人が大規模であることが報告され、その後すぐに防衛の戦略方針が決定された。
第77飛迅独立部隊は、牙人の補給線(装備・食料供給)を断つことを目的として、潜伏し、待ち伏せ・奇襲戦法を採る。第15西門守衛部隊は、第62西門援護部隊のすぐ隣の外壁上、門の直上に配置され、主に破城槌を相手にすることを想定する。第21東門側辺部隊は東門と、北側と南側の岩場の守備を担当する。農民は、外壁の外にある農地を荒らすことで、敵の食糧を少しでも減らし、その後、軍のバックアップを行う。
ティオは駐屯所で休んでいる間に、遠くの方で鳴る鐘の音を聞いた。これは緊急時の合図であり、軍部だけでなく、都市の人々全員が戦時のための準備を求められるものだ。全員で戦争をするのだ。キアン隊長が緊急会議を終えて駐屯所に来た頃には第62西門援護部隊の隊員は全員待機していた。キアン隊長は言う。
「全員いるな。第77飛迅独立部隊によって牙人の動きが活発化しているという報告が得られた。本日の午後には戦闘開始となると予想する。」
第77飛迅独立部隊は物見、諜報を行う身体能力向上を得意とする最速の隊である。その隊によって事前に敵の行軍を察知できた分、時間に余裕は得られたが緊張する時間はずっと長くなった。ティオは初の実戦である。それを思うと変な汗はかくし、手は震える。牙人を見たことはあったが、かなり巨体であったように思う。力はヒトよりずっと強い。ヘタをすれば一撃で吹き飛ばされる。自分はその一撃をどうしのぐのだろうか。一瞬出遅れれば命取りではないだろうか。それを思うと体が思うように動かなくなる。視野は狭くなる。いろいろな心配事が頭をよぎって体に力が入る。やがて...待ちくたびれる未来が待っているが。そうしているとキアン隊長が、ティオの姿を見るや否や背中を叩いて言った。
「怯えているのか?軟弱者だな!これはチャンスだ。お前の活躍する場所はここしかないんだぞ。皆もそう思うよな!」
他の隊員も緊張していたのだろう。だがその言葉でほぐれるところがあったらしい。場が少し和んだように感じた。
「持ち場につけ!」
キアンは大声を上げた。全員に気合いが入る。持ち場とは西門だ。西門側には外堀があり橋がかかっている。橋を回収し、城門のロックをして、持ち場の西門付近の外壁に階段から登り、待機状態に入る。これは何度も行った戦争準備だ。皆が素早い。キアンは誰よりも早く外壁の門の真上に行き、皆の姿を確認した後、言った。
「敵はすぐそこまで来ている。瞑想して心を落ち着かせろ。その時になったら俺が教えてやる。」
第62西門援護部隊は、静かにその時を待った。
ティオは立ったまま瞑想していた。不思議とこんな時でも落ち着く。今の自分のコンディションが100%ではないことは明らかだったが、この間に回復させたいところだ。そう雑念が湧いてくるが、目を閉じ、そして再び目を開き、瞑想を再開する。牙人は恐ろしい、そう思っている。だが今この自分は極めて自然だ。牙人からしてみたら、神契士は恐ろしいと思われているのだろうか。いや、その通りだろう。ある意味フェアだ。むしろ防衛側が有利な戦いなんだ。あれこれ考え、心が乱れつつ思案に暮れつつしているうちに、キアンは大声で言った。
「目を開けろ!敵から目を逸らすな!全員構えろ!」
外壁上から敵部隊を見ると1000はいるのではないだろうか。第62西門援護部隊、第15西門守衛部隊の神契士は矢を放ち続けていたが、牙人は背負っていた木製の盾を構えながら、木製の大きな板を次々と持ちこんで、堀に橋を架けたり、ハシゴを使って外壁を上ろうとしている。それを防ごうと隊員らは弓矢で狙撃している。しかし接近を許してしまい、ティオは弓を消して槍を生成し、外壁を上ろうとする牙人を上から突き殺して返り血を浴び、手に汗を握り、滾り、手応えを感じた。
「勝てる!やれるぞ!」
しかしいつの間にか、堀の向こうに弓隊が並んでおり、矢の雨が降り注ぐようになる。投石機も出てきており、時折、頭サイズの石が物凄い速度で飛んでくる。投石は外壁に当たると大きな音を立てつつ壁を揺らすほどの威力があった。盾で受け流すと腕が痺れる。ティオは盾を構えて矢を弾き返しつつ投石を受け流すことができていたが、何度か弾いている内に、タイミング悪く飛んできた1本の矢を右肩に受けて膝をついた。激しい闘争心と、牙人と自身の血の臭いから何か得体の知れない黒い本能に触れた。
「...殺す。ぶっ殺す!!!!」
血が沸きたつような毛が逆立つような感覚がして力がみなぎり、神契士の力が大きくなった気がした。同時に牙人を力ずくで屈服させたい、踏みにじりたいという欲求が高まり、恐怖に怯える顔が見たくなった。もはや手を合わせなくても殺すための道具が出せる。そう感じて両手にククリ刀を作り出す。投げられた刃はハシゴを上る牙人の両肩を切断して消え、牙人は悲鳴を上げて落ちていく。ティオは狙い通りの出来に不敵な笑みを浮かべつつ、次の武器、両手剣を生成した。
「ティオ?」
異変に気づいたキアンは、これまで無かったことに対応ができず、思考を巡らせている。一方、ティオは声をかけられたことに気づく素振りをすることなく、外壁を飛び降りつつハシゴを寸断した。
「外壁から降りるな!」
キアンは飛んでくる矢を盾で跳ね返しつつ壁の下を覗きこんだが、ティオは持っていた剣をぶん投げて、双剣を生み出しつつ、牙人に回し蹴りを喰らわす。体勢を崩す牙人に飛びかかりながら首を裂き、盾を突き出してくる牙人を回り込みながら切り裂く。望み通りに縦横無尽に斬り殺していくが、10人目の牙人はティオの剣を受け止め、その隙に別の牙人がティオの頭を棍棒で殴打する。ふらついたティオに、さらに畳みかけるようにティオを殴る牙人が複数現れ、キアンからはティオの姿が見えなくなった。キアンは全員に言う。
「壁の下に降りた者には、目をくれてやるな!命令違反者が死ぬのは当然だ!!」
直後に牙人の集団が爆発して肉片が飛び散った。中から血塗れで立つティオが現れ、次の瞬間ティオを中心とした金色の風が血を全て吹き飛ばし、再び手を合わせることなく双剣を生み出して、牙人を斬り飛ばしていった。もはや戦況は神契士の圧勝のように思われたが、ティオは牙人の後列へと突き進んでいく。一方、外壁付近の牙人はティオを追うことなく、壁の上に到達することに専念している。西門付近の守備は第15西門守衛部隊の指揮で行われて機能しているが、外壁担当の隊員はティオの暴走で動揺していた。道具生成は本来、手を合わせなければいけないのに、それをすることなく生成しているように見えた。神契士の力を引き出し過ぎているので、いつ神隠しに遭ってもおかしくない。しかしなぜ、どうもならないのか?なぜ訓練の時にその力を出さないのか?なぜ命令を無視して敵陣深くに単独で入って行くのか?あまりにも無謀ではないか。考えてもまるで答えが出てこなかった。しかし、目の前の敵は待ってはくれなかった。投石機から放たれる石はすでに尽きているようだが、敵の弓兵はさらに数多く集まってきており、多数の矢がほぼ同時に降り注ぐようになっている。しかし背後を見るとこちらにも増員が来ていることが分かった。
「覚悟を決めろ。ここが正念場だ!敵に攻撃を諦めさせる一撃をくらわせてやれ!」
キアンは言ったが、皆、覚悟など当の昔に出来ているだろう。やがて友軍の矢が頭上を越えるようになる。その時、キアンは友軍の矢を背中に受けた。キアンは腹から突き出した矢先を見て、突然の予想外の出来事に気が動転した。汗が溢れ呼吸が乱れたが、すぐに落ち着きを取り戻し、矢先を切り取るハサミを生成しようとする。しかし、うまく力がでないことで、再び気が動転した。体に刻印された契約紋の一部を損傷して神契士の力が弱まったのだ。
「手を貸してくれ。」
膝をつき助けを求めたが、キアンが言葉にするより早く、隊員は隊長の矢の両端を切り取り、外壁上から階段付近まで連れていった。訓練通りである。そうこうしているうちに、牙人の矢は降ってこなくなった。牙人の軍は一度撤退することにしたらしく、追撃を警戒する態勢を整えつつある。第15西門守衛部隊 隊長のルージュはそれを見たが追撃しないことを選び、キアンが担架で運ばれようとしているのを遠目に見た。ルージュはスタスタと歩いて近づき、溜息混じりに言う。
「元気そうね。...いやはや、しかし情けない。鍛錬が足りないんじゃない?」
しかしキアンがルージュの顔を覗き込む頃には、ルージュは優しく微笑んでいた。キアンは苦笑いをすることで返事をした。すぐにキアンは医務室に連れていかれた。ケガ人は思いのほか少なく、死者も数名で済みそうだった。
「ティオ?!」
ウルテガは突然大声で呼び、ルージュはその外壁の向こうの知らない名前の男を見る。ボロボロの隊服の男がウルテガの目線の先でこちらにゆっくり歩いてきていた。牙人は草原から木々のあるエリアまで退がっていた。しかしそこから動くようには見えない。またすぐ戦闘が始まってもおかしくないということが分かる。一方、ティオは西門が補強されているためくぐれないので、仕方なく外壁を登ることにする。踏み台を左右に用意し、登りながら高さを追加していき、それでも足りない高さは跳躍することで補った。
「さっき独断専行した男がまさか生きているとはね。どういうカラクリなんだ?」
ウルテガは軽いノリで聞いているが、ルージュも含めて全員が聞きたいことだった。
「いや、ガラにもなく血が熱くたぎってしまった。キアン隊長には申し訳なく思っているんで、探しているんだけど...。」
ティオは自分がしたことを大して重く見ていないようだが、実際は違う。ルージュは説教をしようと思ったが、それは自分の役目ではないと判断してティオに言う。
「さっきキアンは担架で運ばれていったわ。あなたにも責任はあるわ。医務室にでも行ったら?」
ルージュの冷ややかな態度にティオは戸惑った。
「はい、失礼します。」
自分の振る舞いを見直さざるを得なくなった。ティオは敬礼し医務室へと走る。
ティオが医務室に入ると、キアンのベッドの傍にイゼルグがいた。開口一番、イゼルグは小さな声で言う。
「どういった要件かな?すまないが、外してくれないか。」
ティオは、翌日、謝罪するために再びここに来る旨を伝えて立ち去り、本来の任務をしないでここに来たことを思い出して青ざめた。皆ヘトヘトだったが、案外おおらかで任務に戻ることができた。牙人が一旦引いたので、一時帰宅の許可が下りた。しかし鐘が鳴ったら、再び現場に戻る必要がある。ティオが帰宅して少ししたら、ウルテガが話しかけてくる。
「体調はどうよ。」
「悪くはないが、さすがに疲れた。ウルテガはケガしてないのか?」
「無傷ではなかったがもう治った。ティオは?」
「僕も同じく無傷ではなかった。この通り服はボロボロさ。」
ティオは着ていた隊服を自慢げに出して見せた。10箇所以上破れており、さらに、契約紋のある部分も裂けている。契約紋のある皮膚を負傷すると、神契士の力が使えなくなるのが普通だ。
「普通それだけ棍棒で殴られたりしたら、死ぬと思うんだが...。教えてほしい。俺も皆を守るために、強くなりたいんだ。」
ティオは曇った表情を見せて、首を振った。
「自分でも良く分からない。牙人の返り血を浴びてその後、負傷したんだ。その時に、何故だか力が湧いてきたんだ。」
「...?」
ウルテガは首をひねった。ティオは続けた。
「とても感情的になった。あの瞬間、神契士の力の絶対量が増えたんだと思う。限界は一度も超えていないから、神隠しには遭わなかった。」
「傍目では明らかに超えていたから、自分も含めて全てのヒトが死んだと思ったよ。きっとね。おまけに敵に突っ込んでいくんだから誰も助けられそうになかったし。」
「そうなんだ。僕は大活躍できて気持ちよかったよ。ずっと劣等生だったのに。」
「そうだね。これからどうする?もしかしたら上層部になれるんじゃないかな?」
「楽観的だね。僕は今になって命令違反の処罰が恐ろしいよ。」
「悲観的すぎるんじゃないかな。高い戦闘力があるなら大事にしたいでしょ。でも隊長に謝罪する必要はありそうだね。呼び出されるより前に、自分から出頭するのをオススメするよ。」
「出頭...。うん。じゃあ、何事も無ければ、通常より早く、出勤することにするよ。」
「そうだね。俺はティオの味方をするよ。」
「ありがとう。」
その日はティオもウルテガも泥のように眠った。牙人の軍の大部分はニグ付近の森林地帯におり、ニグの外壁直下まで続く穴を掘っていた。ごく少数は、ニグを取り囲むように配置され、時折、隙を見て、弓矢で外壁の上の戦士を攻撃していた。
翌朝、任務の前にキアンを尋ねたティオは、異変に気づいた。
「ここで休んでいたキアン隊長はどこへ行ったんですか?」
すぐ傍を通った医療従事者に話しかけると、気まずそうに静かな返事をした。
「お亡くなりになりました。後ほど行われる合同葬儀に参列してお別れをしてください。」
ティオは驚いた。なぜ死んだのか?死ぬほどの負傷だったのか?チラッと横たわる姿を見たが、全然そのようには見えなかった。ティオは壁に寄りかかりながら、どうすべきか考え、イゼルグ司令官に報告することにした。だが、どこに行けば会えるのだろうか?
ティオはひとまず司令官室に行くことにした。司令官室は王宮の隣の建物にあり、近づきづらい。触らぬ神に祟りなしの気持ちで、司令官邸の2階に向かった。階段は外にあるので、アクセスするのは難しくない。階段を上り、司令官室をノックしたが不在のようで、いつもの第62西門援護部隊控室に行こうと思っていた。ある種、安心したような気持ちになっていたら、イゼルグ司令官が階段を上がってきた。
「おはようございます。」
ティオは不意打ちを受けたような気持ちになって、言いたいことが何だったのか一気に分からなくなってしまった。
「おはよう。第62西門援護部隊のティオか。昨日会ったな。どうかしたのか?」
「キアン隊長が亡くなりました。」
「...そうか。それは惜しいヒトを亡くしたな。いつになっても慣れないものだ。」
イゼルグはサラッと言い、ティオにはまるで感情がこもっていないように聞こえた。イゼルグは続けて言った。
「少し話したいことがあるので、司令官室に来い。」
「はい。」
ティオは自分のタイミングで話したかったが、ここで拒否することはできなかった。イゼルグはカギを開け司令官室に入り、イスをティオのために用意し、机の向こう側のいつも座っているイスに腰かけた。ティオは司令官室の室内を初めて見る。他の部屋と違って、本がいっぱいある。本棚が2つあり、とても重たそうな本が幾つもあった。
「早く座れ。」
機嫌が悪いのか有無を言わさぬ態度のイゼルグ。ティオは何の返事もできずにイスに座った。
「まず聞きたいことなんだが、先日の任務中、暴走したそうじゃないか。本来ならキアンらと共に外壁上での戦闘を続けるべきだったのに、単独で敵陣深くまで入っていったというが、これは事実か?」
「はい、事実です。」
「どういうつもりでそういった行動をしたのか教えてくれ。」
「牙人1名を撃破した後、負傷した際、これまでにない興奮状態となり、嗜虐心を感じてそれに従い行動してしまいました。」
「貴君の行動に対して後悔と弁解はあるか教えてくれ。」
「ルージュ隊長や他のヒトの反応を見て、自分が軽率な行動をしたことを理解しました。上官の許可を得た後、敵に切り込んでいくべきでした。しかし自分の行動は我々の有利に繋がり、敵の不利に繋がる行動だと信じております。」
「ふむ。貴君の言う通り、結果論で見れば良い行動だが、実際には命令無視の問題行動だ。今、貴君の行動に対して何らかの弁護が出来る者はいるか?」
「いるとすれば、それは第15西門守衛部隊のルージュ隊長と隊員のウルテガでしょうか。」
「なるほど。覚えておこう。」
イゼルグは手元にあった紙に何かを書いた。終始イゼルグは何か考えているようで感情の読めない表情というよりは、無感情の表情で聞いていた。一方ティオはその雰囲気に気圧されて脂汗をかいており、イゼルグにはその必死さが伝わっていた。イゼルグは続けて述べた。
「次に、貴君は実力を隠していたようだね。これはどういったことなのか。」
「自分はそのようなことはしておりません。」
「しかし実際に先日の戦闘での活躍ぶりは、学校や部隊内からの評価からも想像できない。おかしいでしょう。」
「自分自身も驚いているところです。」
イゼルグは眉間にシワを寄せて疑う様子を隠そうとすらしなかった。見るからに不快に感じており、ティオは厳しい処罰を覚悟した。イゼルグは冷たく言った。
「何か弁明は聞けるのでしょうか。」
「...あれだけの力が出せたのは、昨日が初めてです。」
ティオはウソをついているわけではなかったが、イゼルグがますます不機嫌な様子になることに戦々恐々の思いでいた。
「実力がある日突然向上するという前例は無いな。ふむ。そんな貴君には新しい任務をやろう。独断専行の貴君には丁度良かろう。」
ティオはすでに覚悟していたので、この時のイゼルグの言葉が妥当に思えた。
「牙人の館の主、及び、牙人統率者の暗殺を命じる。」
ティオは開いた口が塞がらなかった。予想していたような内容とは、まるで違った。
「...ど...ど、どういうことでしょうか。」
死んで来いと言わんばかりの内容にティオは「はい。」とは言えなかった。できればすぐに撤回してもらいたいという気持ちが強かった。
「すでに何回か20名規模の神契士部隊を送っている。しかし一度も牙人の館を落とすことができていない。聞けば、マリフェルの一族が牙人を統率しているらしく、それを無力化することができれば、この戦争が終わると言っても過言ではないようだ。いつまでも防御に徹していても仕方がない。貴君にやってもらいたいのだ。」
「単独で、でしょうか。」
「そのつもりだが、他に必要な者がいるのか?むやみにヒトを増やしても失敗しやすくなるだけだ。味方にスパイがいる可能性がある。どうも最近それが頭から離れない。なるべく極秘の任務ということにしたいのもあり、単独で行うのだ。」
単独ではさすがに厳しいが、反論する言葉が見つからない。確かに足を引っ張られるのはマズイが一人ではさすがに心許ない。だが、死にに行くようなものを誰かについてきてくれというのも忍びない。10秒ほどの沈黙の後、ティオは敬礼して発言した。
「...はっ。牙人の館の主、及び、牙人統率者の暗殺の任務を承りました。」
イゼルグは天井を見上げて息を吐きながら背もたれに寄りかかった。
「作戦の決行は今日の午後からだ。今日中に支度してニグを出発しろ。牙人が軍の再編成を行っている間に出発するのだ。隊にはこちらから離脱のことを伝えておく。以上だ。」
「はっ。それでは失礼します。」
終始イゼルグのペースで話が進んでしまった。そう思いながらティオは静かに立ち上がり、最短の手順で司令官室から立ち去った。失敗したと思っても、もう取り返しはつかない。とにかく今は旅をするための装備を用意しなくてはならない。ティオは自宅に帰ることにした。道すがらいろいろすべきことを考える。食料や寝床がその場その場で変わることになるので、それができる資材が必要だ。持って行く物は何が良いのだろうか。基本的には道具生成で対応できるが、それで難しいのが動物を捕えるワナや寝る時に必要な防寒具だ。訓練通りならこれらか。普通なら母に手紙を置いて去るところだろうが、極秘の任務なので黙って去って行くのもやむを得まい。しかし突然帰って来なくなったヒトを探さないのもおかしいか。そうなるとかえって任務の存在感が増しそうだ。そういろいろと考えながら歩いていたら家に到着した。意外にもすでにエルナが帰ってきていた。ティオはこの時が別れを告げる最初で最後のチャンスに思えた。
「ただいま。母さん、ちょっと話をさせてくれないかな?」
「何?忘れ物したから買い物がてら家に寄っただけなんだけど。だから時間はあまり取れないよ。」
「そうなんだ。実は今日でこの家を離れることになってしまって...。今までお世話になりました。」
「え?」
「任務でしばらく留守にすることになったんだ。上手くいってもしばらく帰ってこれない。」
「え?急すぎない?」
「今日決まったことで、今日出発することになってしまった。申し訳ない。」
「おかしいでしょ?普通一週間位の猶予はありそうじゃない。」
「命令には従わなければならない。ルールがある。それにやることが何もない。」
「やることが何もないって...。こうした話はゆっくりしたかったわ。」
ティオは申し訳なさから何も言えなかった。エルナは続けた。
「思えばあなたの父さんもこうして出ていったきり帰ってこなかったのよ。私を一人にしないでね。あなたはちゃんと帰ってくるのよ。」
ティオは泣きそうな顔をしてうなだれた。これまで一生懸命に戦士として生きてきて、自分の居場所を作ろうと頑張ってきた。皆に認めてもらおうと努力してきた。その中で母はこの家がティオの居場所であると認めてくれていた。しかしこれから立ち向かう任務は達成困難である。母の希望にそぐわず力尽きる未来も容易に想像できる。それどころか何も成し遂げることなく、大海の小さな波紋にすらなれずに終わる気さえする。何の成果も上げられずに死ぬのは避けたい。
「良い結果を残せるように頑張るよ。母さんの名に泥を塗るような事はしない。」
「私の心配をしてほしいんじゃない。ちゃんと帰ってくるって言いなさいよ。」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。でもそんな気持ちで結果が残せるとは思えない。困難な任務なんだ。...死んでも達成する。」
エルナは涙を流した。昔のことを思い出したのだろう。ティオはそれを見てどうすべきか分からなかった。しばらく沈黙の時間が流れ、エルナは言った。
「ごめんなさい。湿っぽい別れ方にするつもりはなかったんだけど。じゃあ、お仕事行ってくるね。」
「僕の任務のことは黙っておいてね。いってらっしゃい。今までありがとう。」
「うん。いってきます。」
エルナは家を出て、走って職場へ向かった。ティオはすぐに装備を整えて出発した。