1. 禍言の虚ろ
ここはオルクテ村の近く、成熟した森の中。背の高い木々が日の光を遮っているため、昼でもやや暗くコケが木や大きな岩を覆っている。獣道を歩く3人はいずれも12歳の子どもで、みすぼらしい茶色い麻の服だ。先導するリズは色白のポニーテールの少女で、森の中をスタスタと歩いていく。ティオは黒髪ツンツン頭の少年だが、歩いても歩いても追いつけない。ティオのすぐ後ろを黒髪丸型のショートカットの少女、ルルカがカゴを持ちながら歩く。
「早くしないと日が暮れちゃうよ。」
リズは息も切らさず、呆れたような顔で苔むした木に寄りかかりながら言った。ここは牙人のいない安全な森だが、大きなイノシシ、シカ、オオカミがいる。
「待ってよ。」
ルルカはティオのすぐ後ろからリズに声をかけた。
「また?」
「痛てっ!」
コケむした木の根で転んだティオは膝と手の平を強打した。それを見てリズの呆れ顔は更なるものになるが、それに反してルルカは心配そうに声をかける。
「大丈夫?」
膝から血を滲ませ痛みに顔を歪ませるティオ。ルルカはそれを見て布を取り出し、髪を耳にかけて、止血をした。リズは「チッ。」とわざと聞こえるように舌打ちをし、イラつきながら背を向け、手近な岩に登って言った。
「ティオ!なんでいつもそんなにどんくさいんだよ!」
ティオは涙ぐむが、情けなく思い、何も言えなかった。しかしルルカは弁護する。
「しょうがないじゃない。リズのペースが速すぎるのよ。」
ティオは聞こえるか聞こえないか分からない位の「ありがとう。」を言うと、リズの方へ歩いて前へ進む。ルルカはティオの後ろを付いていく。
「そこにイノシシ用の落とし穴の罠を作ろう。ティオは穴を掘ってくれる?」
「うん。」
リズは手際良く、木の皮を剥いでロープを作り始める。ティオは言う。
「本当に何でもできるね。」
リズは嬉しかったのか、イラついているのか、読めない表情で言う。
「は?そんなことより早く穴掘ってよ。」
ティオは腐葉土の向こう側の粘土質の土に手こずりながら、木製のスコップで掘り進める。
「イノシシも鼻は良いから、土は少し離れた所に捨てた方が良いかもね、ルルカ。」
ルルカは嫌な顔一つせず空気を読んで、土を捨てに行きつつ小枝を集めた。
...
2時間後。罠が出来上がり帰路についた。ティオは不思議に思った。リズは道に迷わないし、森でのいろいろな事に長けている。どうしたらそういう知識と技術が身につくのだろうか。それとなく聞くが「あなたが何も知らないだけでしょ!」と言われてはぐらかされるのみであった。ルルカは二人の様子を見るばかりで、基本的に大人しい。オルクテ村に着いた頃には、辺りは暗くなっていた。
「じゃあまた明日ね。」
リズはそう言いながら家に帰ると、リズの母から「また泥だらけじゃない!」などという声が洩れている。だが、いつも強気なリズには効かない。ティオはルルカとも別れ、村でも一番崩れかかった小屋のような我が家に戻るのであった。帰った頃にはヘトヘトになっていたが、祖母は穴を掘って泥だらけになったティオにこう言う。
「おかえり。またリズにケンカで負けたのか?」
「穴を掘っていただけ。イノシシを捕えようってことになって落とし穴を作ろうと...。」
「穴を掘っていた『だけ』?ケンカには勝ちなさい。」
「うん。」
「何を言いたいのか分かるね?」
「戦士になって、この村を、皆を守れ。でしょ?」
そういうと祖母はコクリと頷いて、ご飯を用意した。祖母は50過ぎだが足腰がしっかりしていて、白髪で少し太っている。
「村を守るならリズの方が良いんじゃ...?」
「リズは駄目なのさ。皆あんたに守ってもらいたいんだよ。」
「なんで?」
祖母はご飯を咀嚼し、しばらく間を取って話題を変えた。
「あまり服をボロボロにしないでくれよ。代えは無いのだから。」
「...汚れてるだけだから...。これは自分で洗う。」
「ここは牙人から逃れるために作られた村だから、安全なのだろうけど、いつものところより先に立ち寄らないでくれよ。まだティオは子どもなんだから。」
いつもこの調子だ。どういうわけか村の皆の間でティオが村を守る戦士に決定されてしまっている。もっと適性があるヒトはリズなんだろうけど、リズは戦士にはならないと言う。ティオは理由を考えるが、どうしてもその理由が分からなかった。でも選ばれたからには、皆の気持ちに応えたい。応えたいが、リズと比較する度、される度、劣等感と無力感にさいなまれる。
「どんくさい自分は、どうしたらリズに勝てるかな?」
祖母は一瞬、少し怒ったような表情になったが、すぐに遠くを見るような目をして言った。
「ティオは12歳になったか?神契士の修行でもしてみるか?」
「しんけいし?何それ?」
「神契士とは一流の戦士であり、神の力を操る者だ。牙人を滅ぼすには神契士が必要不可欠なのさ。」
「この村にはいるの?」
「今はいない。だがこの村で神契士になれるのは、リズとお前だけだ。」
「じゃあリズにすれば...」
「リズは駄目だ。」
遮るように祖母は言った。そして続ける。
「...神契士になるためには、2つの条件がある。1つは母の胎にいる間に神との契約を結ぶこと。結ぶには血統が重要と言われているが、素質が無くとも死ぬわけではない。ただ成れないだけさ。素質があれば子の腹に契約紋が浮かぶ。見れば分かるってことよ。2つ目は12歳以上になってからの修行だ。修行内容は、...瞑想と痛みと体力をつけることさ。あとは神との繋がりを感じるのみ。やってみるか?」
「...どうせ断れないんでしょ?」
「嫌ならまだしなくても良いさ。でも体力をつけることはすでにやっているね。瞑想は今から始めても悪くない。」
「うん。でもなんで12歳以上なの?」
「素質があっても早すぎると死ぬことがあるからさ。神と繋がろうとすると神隠しに遭うこともあって、それを恐れたんだろうさ。」
「つい最近12歳になったばかりなんだけど...。」
「嫌ならまだ良い。村ができてからのこの100年、牙人はまだ近くに来てないからね。」
ティオには、いつ牙人が来てもおかしくないというように聞こえた。祖母は無責任な発言をしているように見せて、ティオにプレッシャーをかけるのが得意だった。
「ひとまず修行の仕方を教えて。」
「...それでこそ私の孫だ。」
祖母がうなずいた後に放った言葉には、重みがあった。その日からティオは、神契士になるための修行をすることになった。
翌日、ティオがまだ寝ぼけ眼の頃に、リズが戸を叩いて開けて入ってきた。ティオにはその刺激が強すぎたので、目覚ましには丁度良かった。
「おはよう。ルルカはもう待ってるよ。」
「おはよう。ちょっと待って、今持って行く物を用意するから。」
そう言った後、ティオはリズの腰にぶら下がっている大きなナイフを見てゾッとした。
「ティオの持って行く物って何よ。私が仕留めるから、昨日と同じように、カゴを用意すれば良いだけだと思うけど。」
「そうだね。じゃあ、おばあちゃん行ってくるよ。」
「いってらっしゃい。」
リズは、いきいきしている。罠にかかったケモノを殺すことにためらいは無いのだろうか。
...昨日罠を仕掛けた場所まで来た。案の定、罠は作動していたが、見た感じ思い通りに引っかかってはいなかった。リズは言う。
「失敗だったかな?」
皆が落とし穴を覗き込むと、中には木の杭で腹を貫かれて瀕死となった小さなイノシシがいた。ルルカは言う。
「かわいそう。」
しかしリズは意気揚々と、杭ごとイノシシを穴から引っ張り出す。
「止めを刺しつつ血抜きをするよ。」
リズは腰の後ろからナイフを取り出し、ためらいなく処理をする。その姿を見たティオは気を悪くしたが、同時にためらわずに解体できる心意気が、自分に足りないものに思えてならなかった。
「リズ、手伝おうか?」
ティオは恐る恐る声を出したが、それを察してか、さらっと受け流す。
「いや、もう終わった。」
リズも初めてのことなのか、確認しながら処理をしていた。
「さて、食べ物を集めつつ帰ろうか。」
「行きは全然食べられなかった。」
「うん。寄り道しないで来たからね。」
「それよりも、イノシシを食べるために真っ直ぐ帰りたいかな。」
ルルカは、珍しく自分の意見を言った。しかしリズは、ルルカが言い終わるよりも先に言う。
「ダメ。」
心象が良くないだろうに、理由を言わないのはなぜだろうか。ティオは付け足す。
「量が足りないから、虫とか花とか木の実とか、何か食べられる物も持ち帰りたい。」
リズは言う。
「普段、行かない道を使って遠回りしながら村へ帰ろう。」
結果、カゴに4割ほどの収穫物を蓄えて帰路についた。村に帰った時はまだ日が高い。リズは珍しい提案をする。
「私の家で、採ったものを食べない?」
ルルカと2人で立ち寄った。そこにはリズの母であるリナがいた。片サイド編み込みボブヘアで、リズよりは色素のある線の細い大人の女性という印象だ。リナは村の中でも一番の上品さを醸し出し、リズには無い可憐な雰囲気がある。ただお茶を飲んでくつろいでいただけだろうが、どことなくシャレた飲み物に錯覚してしまう。実際は、ただの畑仕事の合間の休憩時間であろう。
「じゃーん!」
ただいまより早く、母にイノシシを見せるリズ。見せられたリナは予想通りに驚いていた。しかし驚きすぎだ。声にもならない声を出して、青ざめるような反応をしている。
「えっ...。」
リズは母の反応に困惑したが、リナは少し落ち着きを取り戻し、尋ねる。
「...それはどうしたの?」
ルルカは端折った説明をしているが、リナは信じられないという表情で聞いていた。しかし徐々に考えが巡ってきたのか、完全に落ち着きを取り戻す。
「私にはイノシシを捌くことはできないわ。」
リナは隣家の男を呼んできた。呼ばれた隣人はすぐに捌く。その男はいかにも農家という姿であったが、手際が良かった。リズが言う。
「次は私にもできそうね。」
リナは静かに冷たく言う。
「やめてくれる?」
「なんで?」
リナは考え込む素振りをして何も言わなかった。肉は少量であったため捕った3人の物になったが、すぐにリナが調理を始めた。ティオは調理を待っている間にリズの家の中を見回した。自分の家との違いは一目瞭然である。まず、広い。同じ2人暮らしであるにも関わらず、リズの家は倍以上の広さで、しかも壁もしっかりしていて隙間風が入ってこない。次に、物がいっぱいある。いろいろな道具があり、本まである。しかしティオやルルカにはそれらが初めて見るものなので、何か分からなかった。最後に、家主である。リズの母の所作からも元は高貴な身分であることが推測できた。ルルカはリズに聞いた。
「リズのお母さんって何者?」
「??」
ルルカは聞きやすいリズに答えを求めたが、意外な反応が返ってきた。しかしリズは、すぐにリナに聞く。
「お母さんって何者?」
「...私は元々この村の住人ではなかったのよ...。」
話が聞こえていたのか、少しはぐらかすような返答である。しかし続けざまに、冗談めかした言い方をする。
「亡国の王妃ってとこかしら。」
皆は半信半疑になる。しかしリナは、徐々に哀愁を帯びていく。それを見たティオは、どことなく真実味を感じたが、その先を聞くことはできなかった。しかしリズは聞く。
「どういうこと?」
少し間抜けな何を聞きたいのか分からないような質問をしてしまった。だがそれで充分であった。
「この村の北東にニグという都市があるよね。その北西にあった都市国家ヴァーステインに住んでいたのよ。でも突然現れた牙人の軍勢に襲われちゃった。ニグに住もうかと思ったけれども、あそこでは神契士の素質がある子は必ず戦士にならなきゃいけないからね。」
リナは、リズを戦士にしたくないから、この村に引っ越してきたのだ。ティオは驚いた。そしてリナの意志が重視されたため、適正はリズの方があるにも関わらず、ティオが戦士に推される原因であることなんだろうと想像ができた。リナはさらに続ける。
「でも、もうニグに行こうかしら...。」
リナは、リズの顔をチラリと見た。リズは目が合ったことには気づいたが、何が言いたいのかは分からなかった。リズは言う。
「なんで母さんは私を戦士にしようとしないの?契約紋はあるから、なろうと思えばなれるんだよね?」
「...戦士は死ぬのよ。私より先にリズに死んでもらいたくないの。」
ティオにしてみれば理不尽な話だ。リズが死ぬのはダメで、自分が死ぬのは良いのか。ならばなぜ祖母は戦士にしようとするのか。祖母は、自分には死んでもらいたいのだろうか。ティオは自身の境遇にがっかりした。一方リズは納得がいかない。
「私の人生は私のモノではないの?私は私の好きに生きていけば良いんじゃないの?」
リナは興奮した調子で言う。
「少なくとも私の人生は、私だけのものでは無かったわ。あなたもあなたと共に生きているヒトに影響を与えているの。あなたにはあなたの役割があるわ。それを放り投げてもらったら皆が困るの。」
「この村が敵に襲われたら、私はどうすれば良いの?ティオと共に戦うべきじゃないの?」
「あなたは戦いたいの?」
「そうじゃない!でも、そうなった時にはそもそも選択肢は無いでしょ?」
子どもの方が理解している。戦闘は望んで発生するものではなく、生存のためには選択できないものだ。リナはすでにそのことを考えていたのか間髪入れずに答える。
「そうじゃないのよ。でも私もリズが戦士になるのなら、ニグに引っ越そうと思っているのよ。都会暮らしの方が私には合ってるかな。リズはどうなの?」
「都会に行ったことが無いから分からない。でもここでの暮らしは好きだから、このままで良いよ。」
「リズは覚えてないのかな?実は小さい頃に都会に居たことがあるんだよ。...分からないなら、引っ越そうかな。」
本気で引っ越すつもりなのかどうか良く分からないような言い方をして、調理に向かうリナ。
「はい、もう、できた。」
そう言うと、リナは作ったスープを3等分して、ティオとルルカに持たせた。
「スープの感想はそのうち聞かせてね。じゃあまたね。」
リズは何か考え込むように黙っていた。ティオとルルカは、なんだか急に帰らされたような気持ちになった。
「では、また明日。」
リズの家を出た後、ティオはルルカに言った。
「リズは愛されているな。しかし、僕は...。」
「リズのママはリズに死んでもらいたくないだけだよ。ただ、それだけ。」
ややうつむくティオ。ルルカは後ろ手を組み、下からティオの目を覗きこんだ。ティオは目を合わせたくなくて横を向いた。ルルカは続けて言う。
「私はティオに守ってもらえると思うと、嬉しいな。そのためにちゃんとサポートしたい。」
ティオはリナの言葉からもらった疑問を口にした。
「皆は僕に死んでもらいたいのかな?リズには死んでもらいたくないのかな?」
「リズのママは、リズに戦ってもらいたくないからこの村に来たんだよ、きっと。ティオが強くなれば皆死ななくて済むし、そもそもティオが死んじゃったら、その後、誰が村を守るの?」
ルルカはティオの手を強く握って言う。
「私もティオの修行のお手伝いするから、何かあったら気軽に相談してね。」
ティオはルルカの目を見てコクリとうなづいた。
「ありがとう。」
何だか満たされたような気持ちになって、別れのあいさつをしてティオらは家路に着いた。
「おかえり。」
「ただいま。スープをもらってきたよ。」
ティオは穏やかに言って、祖母にスープを渡すと、すぐに囲炉裏の前に座った。そしてリズが引っ越して、村から居なくなるまでに、リズに勝てるようになろうと決意し、意気揚々と今日の神契士の鍛錬を心に映した。
翌朝、ティオはルルカと共にリズの家に行った。ルルカは戸を叩いてガラッと開けたが、誰もいなかった。ティオはつぶやく。
「留守だね。リズは引っ越ししたのかな?」
「昨日、そう言ってたね。私たちに何も言わずに急に行っちゃうんだね。」
「でも、そうとも限らないんじゃない?単純に二人して出かけただけじゃないかな?」
「...それもそうだね。」
簡単なことだ、前にもこんなことはあった。ティオはそう思った。2人きりだが森の中で食べ物を集めることは、今となってはそんなに難しいことでもない。
「...今日は畑の手伝いとかないよね?また森で木の実とか集めようか。時間があったら修行に付き合ってよ。」
ティオはルルカにそれとなく言ったが、ルルカはとても愛想が良い。
「仕方ないなぁ。」
嬉しそうに聞こえるトーンで言われても、あまり仕方なさそうではない。森へ歩き始める2人。ティオが導く。
「修行のために、今日はまた違う場所に行こうよ。」
「うん、そうしよう。何やるの?私もやろうかな。」
「引っ越しまでにリズに勝ちたいんだ。いつ勝負すれば良いかな。それに合わせてメニューを考えなきゃ。」
「ちゃんと考えているんだね。えらいえらい。」
「いや、ようやく今、考えてるんだよ。」
ふふっ、と笑うルルカ。歩きながら考えているが、ティオには良い修行法が思い浮かばない。ルルカがティオの考え事を遮るように言う。
「あっ、ゲートツリーだ!」
「こんな木は初めて見た。ゲートツリーって何?」
ルルカが指した木は、幹がやたらと太くて直径2mほどあり、一番低い位置にある枝が2m上にある。木の枝は細く、葉がたくさん付いている。幹の上にはヒトが座れそうな空間があり、そこには鳥の巣が見える。
「ティオは知らないんだ...。ママが言うには、雷音と共に木が燃える時があるみたい。そういう時に神隠しに遭う人がいるんだってさ。」
「どういうこと?」
「他には見たこともない生き物が現れることもあるみたい。」
「?」
「木が喚ぶってことかな?私にも分からない。でも名前の通りじゃないかな?」
「門の木?どこかと繋がってるってこと?」
「話を聞く限りではそうとしか言えないね。」
「おばあちゃんは何も言ってなかったな。...けど近づくなってことだよね。」
「迷信だとは思うけどね。」
「ふーん。鳥の巣があるってことは卵があるってことかな?」
「ティオ、登ってみてよ。私の肩の上に立って見てくれる?」
そう言うと、ルルカは片膝を地について両手を木についた。
「うん。」
ティオは少し戸惑いながら、肩に乗りつつ木に捕まった。
「うぅ、重い。」
ルルカは力いっぱい足腰に力を入れ、立ち上がった。
「卵は無いや。なんか芽が生えてるだけ。」
「じゃあ、降りていいよ。」
「降りろったって、どうすれば...。」
「じゃあ幹に登って。」
「肩車にして降りよう。...うぁっ。」
ルルカから降りるのに失敗したティオは地面に転がった。
「大丈夫?」
ルルカは駆け寄る。ティオは2日前に転んでできた傷から再び出血していた。
「痛いけど、これくらい痛くないよ。もう戦士だからね。」
ティオは強がった。
「血がにじんでるじゃない。」
「こんなかすり傷、大したことないよ。」
「そうだね、戦士だもんね。」
「うん。次、行こう。」
そうして、山菜や木の実を採って家に帰る途中、辺りは暗くなりつつあったが、なぜか村の方が明るくなっていた。
「何が起きてるの?」
「分からない。とりあえず急いだ方が良いんじゃ。」
走り出すティオ。後からついていくルルカ。しかしそれが何か分かった時にはすでに遅かった。ティオはルルカの前に腕を伸ばし、すぐに姿勢を低くしつつ物陰に隠れた。
「たぶん、あれは牙人だ。牙人が火をつけたんだ。」
緊張した様子で小声で話す姿勢が、ルルカの緊張感と恐怖心を煽る。ティオは牙人を見たのが初めてだったが、鋭く長い一対の犬歯と赤い瞳と黄色く縦に長い瞳孔、青白い肌を見てすぐに気づいた。どうやら村を襲撃しているようだ。今は出入口付近の家が焼けているだけで、村人は牙人と好戦しており、どうにかなっているように見える。
「...どうしよう。」
ルルカは不安そうだ。しかしティオは思った。今が【戦士になって、この村を、皆を守る。】その時だ。
「ひとまず牙人に見つからないように、自分の家に行ってみるよ。」
小声でルルカに言うが、案外素直にルルカは聞いていた。いつものルルカなら引き止めるところだ。
「牙人に見つからないようにね。お願い。」
ティオは決意した顔でコクリとうなずいて、かがみながら遠巻きに回り込む。村の外れにあるティオの家には2.5mほどの崖から行くのが安全なのは明白だ。崖を飛び降りて自分の家の戸を開けた時、祖母は槍を構えていた。
「何しにきた?」
祖母はティオに対して冷たい言葉を発した。辺りから叫び声や土壁を破壊するような音が聞こえる。どうやら牙人は1人や2人ではなく、包囲し、殲滅することを目的としているようだった。
「何しにって、今が【戦士になって、この村を、皆を守る。】その時でしょ。」
「...ならば、これが最後の神契士になるための教えだ。目を閉じて自身の腹の中にある神の存在を感じ、この短刀でそこを刺せ。大丈夫だ、血は出てもすぐ止まる。」
「...うん。」
強制的に力を覚醒させる手法で、最も荒々しいやり方を選んだ祖母。ティオは事態が急を要するのだから、それも当然と受け入れた。目を閉じるティオ。すぐにどこを刺せば良いのか確信した。恐る恐る短刀を刺すが、凄まじい痛みを感じた。
「うぐっ!」
「もっと勢いよく短刀の根本まで刺さんかい!」
檄を入れる祖母に押されるようにグッと押し込んだ。腹の底から温かい光が洩れ出てくる気がして、目を開けた時には、短刀は抜けて床に転がっていた。
「......!!」
ティオは、祖母が何かを言っているような素振りをしているのを感じるが、なぜか何も聞こえない、何も感じ取れない。…そこでティオの意識は途絶えた。
翌朝、大雨の中ティオは村の地べたに転がっていた。地に手をついて起き上がろうとするが、凄まじい疲労感を感じる。頑張って辺りを見渡す。どうやら自分の家の前で転がっているだけのようだった。ところが家の屋根は吹き飛んでおり、他の全ての家も壊れていたり焼けたりしていて生存者がいるようには見えない。オルクテは廃墟となっているようだった。
「生きているヒトはいないのか。」
ティオは声を上げるが何の返事も無い。重い体を起こして歩いてみたが、どうも一人も生きてはいなさそうだ。大雨で血は流れて、ヒトの肉が転がっているのみだ。多くのヒトが死んだのが分かる。
「ルルカ...。」
自分と同じ位の脚らしきものを見つけてルルカのものだと確信した。そう思ったら、これまでのルルカとの思い出が溢れてきた。両膝をつき、空を見て現実を嘆いた。
「誰も守れなかった。何も守れなかった。」
強く降りしきる雨がティオの心を表しているようで、溢れ出る涙も何もかも流れていけば良いと感じた。何とでも言い訳はできる。戦士として生きていこうと思っていた矢先のことだったので、準備もできていなかった。平和ボケしていた村人は、警戒していながらも準備が不十分だった。その結果、自分にできることなど何も無かったということだ。なぜこうなってしまったのか。森の奥深くに入り過ぎてしまったからだろうか。それとも家の近くにあの木があったからなのか。これが夢であれば良いのに。また昨日をやり直せたら良いのに...。後悔してもしきれない。もっと出来ることがあったんじゃないか?落胆、絶望、それから生まれる無気力。脳内で気持ちがぐるぐると渦巻いていき、動けなくなってしまった。
...。
どれくらい時間が経ったのだろうか。空が晴れて日が差してきた。鳥の鳴き声が聞こえる。ずっとこうしてはいられない。カラスが寄ってきて死体をついばむので、穴を掘って埋めてやることにした。バラバラの遺体、散った体には、牙人の力の強さを感じる。到底自分では敵わないだろう。無力感。思えばずっとこの言葉がしっくりとくるような人生だ。神契士になれたからっていったい自分に何ができるのだろうか。きっとこの先も、こういう風に生きていくのだろう。リズに負け続け、祖母に叱られ続け、牙人に蹂躙される。きっと牙人もこんな情けない自分を殺す価値など無いと、タカをくくっていたに違いない。
「つまらない人生だな。まったく。」
そう呟いたら、なんだか穴を掘る元気が湧いてきた。こんな自分でも埋葬する位のことはできる。そうこうしているうちに、全ての死体は土の中に埋められた。
「疲れた...。これからどうしようか。」
日も傾き始めている。廃村に住むなんてできやしないだろう。牙人に居場所を知られてしまっては村の存続はできない。
「ニグに行くしかないか。」
もはやニグは世界唯一のヒトの住処である。城塞都市と呼ばれるだけあって、過去何度も牙人の軍団を跳ね返してきた国家でもある。日は傾きかけているが、野宿することができないわけではない。とりあえず道端の野草を採り空腹を紛らわしながら、ニグに向かうことにする。途中、ラヴァンデュラ(蚊や牙人が嫌がる植物)が群生しているので、そこで寝ることにした。翌朝、ついにニグに到着した。ニグは遠くから見ると、大きく高い壁に囲われているせいかスケール感が無い。近づくにつれ、橋の向こうに2人の衛兵が見えてきた。衛兵の一人はティオの姿を確認すると、厳しい口調で尋ねてきた。
「随分な恰好だな。何者だ?」
ティオは自分の身なりを悪く言われるとは思っていなかったので改めて見てみた。確かに、服には穴が空いているし、泥だらけで見るも無惨だ。
「僕はオルクテ村出身のティオ。昨日牙人の襲撃に遭って、村は廃村になった。」
「他に生き残りはいるのか?」
「いない。なぜか自分一人だけ助かった。」
「とりあえず話を聞かせてくれ。必要なら調査隊を編成することになるだろう。」
すぐに衛兵の一人が中に入って走っていった。もう一人は自分のすぐ後ろを付いてくるので警戒されているようであった。壁の向こう側はレンガ造りの歩道と家が並んでおり、手がかかっているのが分かる。木造と地べたの印象を抱かせる村とは大違いだ。
「こっちだ。ゆっくり歩け。」
衛兵は代わりの者が持ち場に着くのを確認すると、ティオを誘導した。
「どこに行くつもり?」
衛兵は答えない。出入口付近の地下に誘導されると、牢屋に入れられた。
「出せ!なぜ牢に入れるんだ!」
ティオは声を上げた。すぐに身なりの整った長髪の色白な男と兵数人が現れて言う。
「私は軍部を預かる司令官のイゼルグ。この都市に知り合いはいるか?」
「司令官?なぜ僕は捕えられなきゃいけないんだ!」
「質問に答えてほしい。早く出たいのならね。」
ティオは自分の質問をごくんと飲み込んだ。
「...僕は祖母と暮らしていた。祖母の娘である実の母がここに住んでいるはず。でも今の僕を知らないか。...あ、あと、もしかしたら、昨日、ここにやってきたリズがいるかも。」
「リズ?君と同じ位の年頃の?」
「そう!やっぱり来てたのか。」
イゼルグは兵に親書を持たせて、リズを呼び出すことにした。ここまではニグのルーティンワークだ。よそ者は【牙改め】をしないことには街に解き放てない。イゼルグは聞いた。
「オルクテ村から来たそうだが、今の村はどうなっている?」
「自分で確認したらどうだ!廃村になったよ!誰も助けに来なかった!」
「生き残りは君以外いないんだね?」
「そうだよ。それが何か?早く出してよ。」
「待て待て。まだ確認することがある。それが済むまではここに居てもらう。腹は減っているか?」
思わぬ回答に、ティオは毒気を抜かれた。元々、生きるか死ぬかの気持ちで来たのだから、それもそのはずだ。
「昨日からロクな物を食べていない。何か食べさせてくれるのか?」
「いいだろう。腹一杯にしてやる。」
イゼルグは僅かに微笑むと、兵と共に去っていく。ティオは牢の中を見渡す。年季が入った牢だが、石材と鉄格子で頑丈な作りをしている。10cmほど土を敷いただけの犬小屋のような狭い檻で、生活できるような場所ではなく、すぐにここから出すのが前提のような作りである。ティオが落ち着きを取り戻し空腹を感じ始めていると、良い匂いと共に、リズとその母とイゼルグと衛兵がやってきた。しかしティオは再び警戒し始めて、食欲は無くなった。イゼルグは言う。
「リズ、リナ。この檻の中にいるのはティオか?」
緊張した様子でリズとリナは、「その通り。」という意思表示をした。その後、ティオはスープを前にしながら、リズ、リナ、ティオの間で会話をすることになった。イゼルグはその様子を少し離れた位置から、椅子に座って脚を組んで、観察するようだ。リナは言う。
「突然、村からいなくなってしまって、ごめんなさいね。すぐ戻るつもりだったんだけどね。」
「なんで居なくなったんですか?居なくて正解でしたけど…。」
「リズが引っ越しても良いって言うものだから、ならば善は急げということで、ニグに移住するための準備をしようと昨日からこちらに来てるの。案外トントン拍子に話が進んでいくので、昨日はこちらに泊まることにしたの。ところで居なくて正解ってどういうこと?」
「昨日の夕方頃、牙人の襲撃に遭って、村は壊滅して...。生き残りは僕一人です。」
リナは大変驚いた様子で、絶句してしまった。リズは取り乱して問い詰める。
「ルルカは!?ルルカはどうした?!お前は戦士なんだろ?!」
ティオは、うつむいて顔を逸らす。血の気が失せて、質問に答えられない。
「まさか一人で逃げ出したんじゃないだろうな?!お前が真っ先に戦って死ぬ立場だろうが!何でお前一人が逆に生き延びてんだよ!!それでも戦士か?!」
「...!!」
ティオはリズの言葉に激怒した。だが気持ちが強すぎて、言葉が出てこなかった。そして次に込み上げてきた悔しくて言葉にできない気持ちと一緒に吐露する。
「... 逃げては…いない...。」
リズはティオの予想外の反応を見て戸惑った。大きな事が起きたことが予想できて、同情して何も言えなくなった。リナは言う。
「大変だったんだね...。」
ティオは静かに泣き始め、涙を拭う。リズはうつむいて、珍しく謝る。
「ごめん...。」
「リズなら...。リズなら何かできたのかな。」
リズはこのティオの質問に沈黙で返した。ただただうつむいて、2度3度、何か浮かんだ言葉を吐き出そうとする度に、飲み込む。
会話が途切れたところで、イゼルグは言う。
「どうやらヒトに化けた牙人ではなく、本当にティオのようだな。ニグでは不定期にやってくる人物に対して、こうして【牙改め】をすることが義務付けられてるんだ。」
イゼルグは無機質に、ティオの牢を開錠して出てこいという身振りをした。ティオは空腹であるにも関わらず、食事に手をつけられなかった。再び、自分にできることは本当に何も無かったのだろうかという思いが渦巻いてそれどころではなかった。リズなら何かできたのだろうか。せめてルルカを助けることができていれば今頃...。