第0話『忘れない』
―――ッ!!
空気に届かない声がむなしく響いた。
青白い月光がさす森には似合わない、赤黒い地面が広がる。
―――『彼』はその瞬間を忘れないだろう。
運命が嘲笑い、絶望が手招きしているようだった。
どさりと重たく倒れた仲間の顔が脳裏に焼きつき、遅れてやってくる恐怖が彼の全身を縛り上げる。
それは『恐怖』。
止まった世界を動くのは、薙ぎ払われる赫奕の銀剣と月夜に舞う故郷の葉々。
目前に迫る切っ先に、仲間と同じ自分の未来が反射した。
―――『彼』はその瞬間に奪われた。
ズシャ。
肉塊が宙を舞い、それが彼の左手だと、月が彼に教える。
彼は誰に何を求め、何に縋ればいいのかわからなかった。
気が付くと彼は自分の首に振り降ろされた刃に左腕を振り払ってぶつけていた。
なんの技も知識もない彼が取れたのは仲間と同じ結末にならぬよう、首を守ることだけ。
―――『彼』はその瞬間に生まれた。
風に吹かれ、暗く点滅する世界で、彼の世界はぐるりと回天する。
生と死の隙間で走り抜けた電気が本能を産み、止まった世界は彼に命を与えた。
透明な左腕が燃え上がり、彼の生を讃える。
息が駆け巡り、衝動が彼をはじき出す。
『生きたい!』
打ち捨てられた肉塊に意識を割く時間はなかった。
無様に三つになった手足で地を蹴り、夜の空気を裂いた。
爪の隙間食い込んだ土と、辛苦の滴が轍を作るが、それさえ気にすることはできない。
彼を襲う痛みとへばりつくのどの苦しさに叫ぶ余裕も、仲間の顔をもう一度見る慈悲もない、無様で滑稽で必死の抗い。
そして、ようやくとは呼べない数瞬の後、森の枝葉が彼の背中を隠さんとするとき。
―――『彼』はその瞬間を忘れない。
彼の透明の左腕が激しく燃え上がった。
赤く赤く黒く黒く。
激情が月の夜と故郷の森を簡単に塗りつぶす。
地を染めるあの溜りの滲みが、仲間の残響が、洞洞と響いて混じり、吹き出す。
必死に願い得た命への執着を、その瞬間だけ押し流す。
『焼き付けろ!!』
激情が叫ぶ。
ズキズキズキズキ。
亀裂が走るように、頭が痛む。
そして、彼は生死の境で振り返る。
赫奕の銀剣、その振るい手。
どんな闇より冷徹に月光を反射する瞳をもった、仇。
―――彼はその『顔』を忘れない。
―――彼はその『憎悪』を忘れない。
彼は、世界を染めて、暗い森に消えた。
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「あ~ぁ!すごい勢いで逃げちゃった!」
のんきな声の響く空気が、静かな森を充たしていた。
「逃がしとけよ。おれはもう疲れたし、こんだけ倒したんだから十分だよ」
少し気だるげな声の青年が地面に広がる赤黒い血だまりを満足げに見やって答える。
「え~!すっきりしないよ~。どうせなら全滅させたいじゃん」
「どうせなら、で殺されるほうの気分にもなってみろ」
のんきな声の少年は不満気に口をとがらせるが、そんな彼を制する青年と同じようにしっかりと疲労はたまっているようで、小柄な身体をどさっと地面に腰を下ろし、両手を月に伸ばして伸びをした。
「う~ん、でも確かに今日は大量だ~…疲れたね」
完全に休息姿勢をとっている少年は月の出ている方向、自分たちが進んできた道に刻まれた殺戮の轍を満足げに眺める。
パン!
気だるげな青年の叩いた手が静かな森にきれいに響き、彼の切り替えた気持ちにスムーズに吸い込まれる。
「おし!そんじゃあキリもいいし、この辺で『落ちる』か。先、ラニエットに戻るわ」
気だるげな青年はそう言うと、親指と人差し指を使い、宙で何かを広げるようなジェスチャーをする。
すると彼の周りには青白い光が集まり、シュンシュンという音とともに少しだけ彼の体が宙に浮いた。
「は〜い」
のんきな少年が返事をすると、気だるげな青年を包む光と音が強くなり、彼は森から姿を消した。
残された少年は地面に足を投げて座ったままでいると、気だるげな青年と同様の光と音が身体を包んだ。
―――シュンシュンシュン
光に包まれて消えゆく直前、のんきな少年は獲物が逃げた森の闇を一瞥する。
暗い森を刺すような彼の瞳は、月光に満ちて冷たくきらりと、銀の色をしていた。
「あ~ぁ、全滅させたかったな~『ゴブリン』」
そうつぶやき、少年が消えると、森はまた一段と静けさを増す。
闇夜に浮かぶ大きな月は、誰もいない静かな森を平等に照らす。
ギラリ。
赤黒い血溜りが月の光を吸収して、鈍く反射する。
ドサドサと積み重なった怪物の骸はだんだんと灰になって宙を舞い、闇の空気と混じって、消えた。
最後まで読んでくれてありがとうございます!
次話から本編です。