第九章
第九章
「早まるなよぉぉ! 政野助ぇぇぇ!」
長兵衛は叫びながら、馬を走らせていた。やがて、峠の茶屋が見えてきた。
「政野助はおるかあ!」
長兵衛は馬に乗ったまま、茶屋に入った。
「きゃあ!」
茶屋の娘は仰天して悲鳴をあげた。
「お侍さん、馬で入られては、困ります!」
「うるさい! 政野助はおるか? ここを通ったか?」
「政野助?」
「知らんのかあ! 清川政野助! 優男で頼りなさそうな若侍だ!」
長兵衛は、会ったことはないが千太郎から聞いた政野助の容貌を言った。茶屋の父娘は顔を見合わせた。
「ねえ、もしかしてあの綺麗なお侍さんかしら?」
「最近の客で若侍といえば、あの少年くらいだな」
茶屋父娘が、話し込む。男装の志津のことである。
「心当たりがあるか! よし、そいつはどこに行った?」
勢いこんで訊く長兵衛。茶屋父娘は首を振った。
「分かりません」
「分からんだと! なぜ分からん!」
「なぜと言われても……」
一見の客の行き先など、一々分かるはずがない。
「分かっておかんか、馬鹿者!」
無茶なことを言って、長兵衛は馬を走らせていった。
「ううむ、いきなり政野助の足取りが途絶えてしまったわ!」
どこを探せば良いのか……長兵衛は唸った。こうしている今も、刀十郎に政野助の凶刃が迫っているかもしれない。
「うおおお! とーじゅーろーどのー!」
長兵衛はもがいた。
「刀十郎殿! 拙者はどこに行けば良いのじゃ? 教えてくだされ!」
この同じ空のいずこかの下にいる想い人に叫ぶ。
「そうじゃ、刀十郎殿の故郷、××藩に行こう!」
道標のない長兵衛は、とりあえずそこに目的地を決めた。
街道を馬で走る。夜になった。旅籠が並んでいたが、目もくれず走る。やがて、旅籠が尽きて、人気のない道にさしかかった。
「また、侍が来たぜ!」
山賊が現れた。長兵衛は止まらず、そのまま馬を走らせた。山賊の一人をはねたようだ。
「待て! 待て! 待てよ! 人をひいておいて、そのままかよ!」
馬に踏まれた男がひくひくと叫ぶ。長兵衛は振り向きもしない。
「待てと言っとるんだ!」
山賊が、馬の足に縄を投げた。馬は足が絡まり、転倒した。
「うぬ!」
長兵衛は馬から投げ出された。長兵衛は仏頂面で立ち上がった。
「何なんじゃ。俺は急いでおるのだ。用件は手短にせい」
「ふざけやがって……。俺たちは山賊だ! 用件は、おまえの命と有り金だ!」
「ふむ、手短でよろしい。だが、そんな用件を飲むわけにはいかんな」
長兵衛は不敵に笑うと、腰のものをすらあっと抜いた。
「んむ?」
長兵衛は抜いた刀に目を剥いた。
「木刀ではないか!」
また真剣を振り回して暴れると危ないので、一族の者が彼の刀をこっそり木刀にすり替えておいたのだった。
「おのれ、武士の魂を何と心得ておるのだ!」
ふくれる長兵衛。彼の目に、賊が構えた刀が入った。
「うむ、おまえ、良い刀を持っておるな」
長兵衛はニッタリと笑った。
「木刀だぜ、こいつ」
「まったく、刀も抜けなかった先の若侍といい、最近の侍は間抜け揃いらしいな」
賊が嗤う。彼らの言う先の若侍とは、刀十郎のことである。
長兵衛は木刀を構えると、良い刀を持った賊に飛びかかった。賊が構えるより先に、木刀を叩きつける。
「ぎゃっ」
賊が刀を手放し昏倒すると、長兵衛は武器を木刀から刀に替えた。
「野郎!」
残り二人の山賊が、一斉に長兵衛に襲いかかる。長兵衛は右手に握った刀で二人の得物を受け止めると、左手で木刀を拾って、賊どもの臑を打った。
「ぐあっ!」
急所ではないが、臑は痛い。たまらず、賊二人は転げ回った。
さすがは武士。山賊を全員、やっつけた。
「ふむふむ、刀が手に入ったぞ」
長兵衛はご満悦で、賊から奪った刀を鞘に入れようとした。ところが形が合わず、入らなかった。
「おのれ!」
長兵衛はたちまち不機嫌になって、刀を叩きつけた。
「俺の鞘に合う刀を用意しておかんか、馬鹿者! ええい、つまらんことで時間を潰したわ」
長兵衛は倒れて呻く山賊どもに近づいた。
「さっき、若侍がどうとか抜かしておったな。どんな侍だ? もし政野助でなかったら、俺を足止めし、馬を潰した罰として、斬ってくれる」
「ひええ。政野助って、誰ですか」
「知らんのか。では斬る」
捨てた刀を拾う。賊は真っ青になった。
「待ってください! 名前は知りませんが、俺たちが会ったのは、××藩の若侍です! ××藩の紋が着物に入っていて……」
××藩、と聞いて長兵衛の動きが止まった。
「××藩じゃと!」
長兵衛は賊の胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「それは、どんな侍じゃった? 水滴るような美形だったか?」
賊は頷いた。長兵衛は賊から手を放した。
××藩、美形の若侍、一人夜道を通ったとなれば、これはもう刀十郎しかいない。
「おお、刀十郎殿! 故郷に向かわれたのじゃな!」
刀十郎の足取りが分かり、快哉を叫ぶ長兵衛。これはもう、迷わずに××藩に行くしかない。
長兵衛は木刀を見下ろした。
「仕方ない。忌々しいが、しばらくは木刀でいくか」
長兵衛は木刀を鞘におさめ、賊を捨て置き、××藩への街道をひた走った。
馬がなくなったので、××藩まで、何日もかかった。
「おお、ここが、刀十郎殿の生まれ故郷か!」
××藩に辿り着き、長兵衛はその風景を見回した。山野が広がる、のどかな光景。こののんびりした田舎で、刀十郎少年がすくすく健やかに育っていった様子を思い描き、長兵衛は感慨に耽った。
さぞ可愛い少年であったことであろ……。少年時代の刀十郎を想像し、長兵衛の頬が緩む。
「うむ、いかんいかん」
長兵衛は頭を振った。立ち止まって悠長に浸っている場合ではない。
長兵衛は刀十郎の生家、目加田家に向かった。
「ごめん! 刀十郎殿はおられるかな?」
突如上がり込んできた江戸の武士に、田舎夫婦の目加田刀右衛門とお房は目を丸くした。
「おお、刀十郎殿のご両親か。なるほど、ご母堂は、似ておられるな。父親似でなくて良かった良かった」
率直に失礼なことをずけずけと言う長兵衛。ここが刀十郎殿の生家かと、屋敷をじろじろ見回す。
「あのう……」
あんた誰という目で、目加田夫妻が長兵衛を見る。長兵衛は構わず屋敷を練り歩く。
「刀十郎殿の部屋はどこかな?」
一通り屋敷を見て回り、長兵衛は夫妻の視線にやっと気づいた。
「あいや、失礼。拙者、清川長兵衛と申す」
「清川長兵衛!」
夫妻が目を見開いた。
「刀十郎に男色懸想したという……あんた、死んだんじゃなかったんですか?」
目を白黒させて訊く目加田夫妻。長兵衛はハッハッハッと笑った。
「それがこの通り、生きておったのです。ところが一族の連中め、早とちりしおって、拙者を死んだと思って棺桶にぶちこみ、生き埋めにしおった。墓場で息を吹き返し、こうして蘇った次第」
「はあ……」
「拙者が埋められておった間に、一族は仇討ちの者を派遣してしまいおった。だが、こうして拙者が生きておった以上、仇討ちは中止させねばならん。故、拙者、江戸より××藩に参った次第。刀十郎殿はおられるかな?」
「……」
あまりに奇妙な展開に、ついていくのに間がかかる目加田夫妻。
「ねえ、あなた。刀十郎は、討たれなくて良いのですね?」
やっと飲み込み、お房は笑顔になった。
「おお、そうだ。息子は、人を殺してなどおらなんだ。良かった良かった」
目加田夫妻は、手を取り合って喜んだ。
「目加田殿。喜んでばかりもおられぬのじゃ。拙者の復活を知らぬ仇討ちの者が、清川政野助という江戸の若侍が、ご子息を追っているのじゃ」
「なんですと」
「仇討ちを止めねばならん。刀十郎殿はいずこに?」
「ずいぶん前に、仇討ちを逃れるため、ここを出立してしまった」
「なんと」
長兵衛はがくりと項垂れた。
「ご子息がどこに行かれたか、ご存じないか?」
目加田夫妻は首を捻った。ううむ、と長兵衛は唸った。
「ええい、刀十郎殿を探しに行かねば!」
長兵衛は叫ぶと、立ち上がった。しばしぼんやりと彼を見送っていた刀右衛門、はっと我に返り、長兵衛の後を追った。
「それがしも参る!」
「おお、刀右衛門殿。どうなされた?」
「息子が、殺してもいないのにこんな馬鹿らしい仇を取られてはかなわぬ。止めなくては」
息子が人殺しではなかったことが分かったのだ。なのに、命を狙われている息子を放ってはおけない。
ふつふつと、不条理なやるせなさが、刀右衛門をつきあげてきた。刀右衛門は長兵衛を睨んだ。
「なんで、息子がこんな目に遭わねばならんのだ。大体あんたが、刀十郎にけったいな懸想をしてくれるから、こんな変なことになったのだ。どうしてくれる」
刀右衛門の非難を、長兵衛は蛙の面に水といったふうに受け流す。
「聞いておるのか。息子は、人を殺したと思い、ひどく打ちひしがれておったのだぞ。このうえ、仇など取られてみろ。貴様、ただではおかぬからな」
「おう、刀十郎殿はそれがしを手にかけたと、悲しんでくれておったのか。刀十郎殿、少しは拙者のことを気にかけてくださったのだな」
嬉しそうに言う長兵衛。刀十郎殿、刀十郎殿と、切なげに繰り返す。刀右衛門は脱力した。
「理解できんわ……」頭を押さえる刀右衛門。
「刀右衛門殿。刀十郎殿が行きそうな場所はないか?」
長兵衛に訊かれ、刀右衛門はううむ、と首を捻った。
「もしかしたらあいつ、塚原道場に行ったかもしれん」