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仇討ち騒動記  作者: dydy
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第八章

第八章


「あああ……もう、疲れたあ……」

 仕事が終わり、志津はぐったりと横になった。あちこち、筋肉痛である。

「こんなの、武道じゃない……」

 志津は情けなく呟いた。

 志津が思い描く武道修行は、竹刀や木刀、時には真剣を使って、凛々しく勇ましく戦うような、そういった格好良いものであった。それなのに、掃除、洗濯、炊事ばかりの毎日。

「これって、武士の仕事?」

 志津はため息をついた。

「華がない……格好良くない……」

 私がなりたかった武士は、こんなのじゃないのよ……。

 志津は、自分がなりたくてなれなかった武士というものに、大きな甘い幻影を見ていた。

 雑用ばかりの生活に、門下生たちの情けない姿。

 ここにいると、私の理想が崩れていく……。

「こんなの、こんなの武士じゃないもん!」

 志津は、駄々っ子のように悶えた。


 何日か経つうち、志津の筋肉痛は少しずつおさまっていった。仕事が辛いのは相変わらずだが、少しは体力がついたのかもしれない。

「政野助よ。一緒に風呂に入るか?」

 だしぬけに抜刀斉に言われ、志津は目を白黒させた。

「いえ。いえ。とんでもないです」

 慌てて首を振る。

「どうした、政野助? 一物が小振りなんで、恥ずかしいのか?」

 抜刀斉がからかうように言う。一物だなんて。志津は真っ赤になった。

「先生とご一緒するなんて、恐れ多くて……。そ、それに、まだ洗い物が残っておりますし。私は、先生の残り湯で十分です」

 一緒に風呂に入るなど、絶対に出来ない。志津はとにかく断った。抜刀斉はちょっと肩をすくめた。

「そうか。まあよいわ」

 抜刀斉が引き下がってくれたので、志津は安堵の息をついた。

 抜刀斉が一緒に風呂に入ろうなどと言い出したのは、志津の体を見るためであった。男色ではない。抜刀斉が志津に賄いのような仕事ばかりさせたのは、体力、筋肉をつけさせるためであった。その成果がどのくらいでたのか、筋肉の付き具合を見て確かめようとしたのである。

「政野助は、あまり肉がつかん質らしいの……」

 風呂に浸かり、抜刀斉は、相変わらず細身のままの少年を思い、呟いた。

「あの体格では、力技は期待できそうにないのう。じゃがあいつはなかなか身軽だから、稽古をつけるとしたら、腕力ではなく立ち回りに重点を置いて……」

 抜刀斉は、政野助への稽古をどうするか、つらつらと考えた。

 抜刀斉は風呂からあがると、志津に腕相撲をしようと言い出した。相風呂を断られたので、志津がどのくらい腕力がついたか、腕相撲で確かめようと思ったのである。

「先生は、子供っぽいことをなさるんですね」

 笑いながら志津は、腕相撲ならと、師匠の申し出を受けた。志津は腕をまくり、抜刀斉の手を握った。抜刀斉は、志津のすんなりとした細い腕に首を傾げた。そして、彼女の柔らかい冷たい手に、また首を傾げた。

「先生?」

「いやいや。何でもない」

 抜刀斉は頭を振った。志津の手を見る。家事で荒れてしまったが、華奢な美しい手である。指は白魚のようで、男のように節くれ立ってはいない。

 ……こいつ、もしかして女ではないのか?

 志津のたおやかすぎる腕を間近で見、彼女の柔らかい手の感触に、抜刀斉は疑念を抱いた。

 疑うと、相風呂を断られたことも、不審に思える。政野助の尻が柔らかかったことも思い出された。

 抜刀斉は志津の顔をじっと見つめた。整った凛々しい顔立ち。少年のように見えるが、ハテ……。

「先生。いきますよ?」

 師匠に見つめられ、志津は少し戸惑って言った。

「うむ」

 二人は、ぐっと手を握り合った。抜刀斉は、武道の師範代とはいえ、筋骨逞しいという体型ではなく、それどころか枯れたような体つきの五十男である。だが、そんな彼でも、志津を負かすのは、何でもないことであった。

 非力よのう……。腕相撲に勝利し、抜刀斉は腕組みした。

「政野助よ」

「何でしょう?」

「おぬし、妹がいると言ったな。なんという名じゃ?」

「志津と申します」

 自分のことを話し、志津は少し緊張した。

「その妹御が、刀十郎に懸想しておると?」

「ええ、まあ。どうかなさいましたか?」

「いや、何でもない」

 志津を下がらせ、抜刀斉は考えた。

 もしや、志津というのが政野助の正体ではないのか。あれは女で、刀十郎を慕っているのではないか。だから男装をして、塚原道場を訪ねたのではないか。

「……だとしたら面白いがな」

 抜刀斉はカラカラと笑った。

「しかし、あの娘……かどうかは分からんが、政野助は、本気で剣を鍛えたいようだし……単純に、刀十郎に懸想、というわけではないようだの」

 面白くなってきおったわいと、抜刀斉は笑うのであった。


 いつものように、志津は家事に追われていた。その背後から、抜刀斉が音もなく、そっと近づく。周囲を見回し、付近に人がいないのを確かめる。

「政野助よ」

 突如呼びかけられ、志津はびくりと振り向いた。

「ああ、びっくりした。何ですか、先生」

「ちょいと喉が乾いてな。茶の一つもいれてくれい」

「はい」

 志津が行きかけると、抜刀斉は彼女の細い肩を掴んだ。抜刀斉は、いつもの柔らかい口調で言った。

「それから茶菓子も頼むぞ。厨房の引き出しの上段に入っておるからな、志津」

「はい」

 抜刀斉のいつもの口調ととぼけた表情に、志津はさりげなく本名を呼ばれたことに気づきもせず、返事をした。志津の後ろ姿を見送りながら、抜刀斉はニヤリとした。

 飄々と自室に向かう途中、抜刀斉は、門下生数人が物陰で何やら低い声で相談しているのに、足を止めた。

「何じゃいのう」

 抜刀斉が声をかけると、門下生らは目を剥いて驚いた。その顔触れに、抜刀斉は眉を寄せた。あまり素行のよくない門下生たちである。こんな連中が集まって、何の相談をしていたのか……。

「こ、これは先生!」

 劣等生たちは、慌てたように直立した。きっと、ろくでもない相談をしていたのだろう。

「聞かれて困る話かの?」

 抜刀斉は不良青年たちを睨んだ。

「いえいえいえ。つまらないことです、ハイ」

 劣等生らは恐縮して言った。自分たちが束になっても、師匠にはかなわないことは、日頃の稽古で痛いほど知っている。

「フン……つまらないことなら、やめておけよ」

 抜刀斉は劣等生たちを後にし、自室に向かった。茶と茶菓子が用意されていた。

「ありがとよ、お志津ちゃん」

 抜刀斉は、茶菓子にかぶりついた。


 茶を出した後、志津はやりかけの掃除に戻った。

「いつまで、こんなことやらされるのかしら……」

 やるせなく呟く。

 不意に、彼女の手元が陰った。顔をあげると、柄の悪い門下生数人が立っていた。志津の表情が曇った。彼女はこの連中があまり好きではなかった。弱い者を稽古だといって痛めつけたり、志津に執拗に下品な猥談を差し向けたりするのである。

「精が出るねえ、政ちゃん」

 劣等生たちの頭格の男、与五郎が言った。志津が無視すると、与五郎はせっかく拭いた所を、汚れた足で踏みつけた。

「何をする!」

 志津が掴みかかると、あっけなく後ろ手に捻り上げられてしまった。

「掃除なんかより、もっと楽しいことをしようぜ」

 与五郎は志津を押さえると、道場に引きずっていった。道場は無人であった。与五郎は志津を道場の床に突き飛ばした。与五郎の配下が、素早く戸を閉める。不良どもが、志津のまわりを囲んだ。

「な……何だ!」

 志津は、怯えそうになるのを隠し、怒鳴った。与五郎たちが、薄笑いを浮かべ、近づいてくる。志津は、本能的に危険を感じた。

 志津が駆け出そうとすると、与五郎は彼女の足をひっかけた。志津は転倒した。そのうえに、与五郎が覆い被さってくる。

「やめろ! 何をする!」

「叫んだって、誰も来ないぜ、可愛い政ちゃん」

 与五郎は志津を押さえ、頬を嘗めてきた。志津はぎょっとした。なんと、犯す気らしい。

 なんで? 私は、男の格好をしてるのよ?

「この……男色が!」

 ぞっとして藻掻く。しかし、男の力にはかなわない。

 与五郎が、唇を吸ってくる。

 嫌だ……嫌だ……! 志津の目から、涙がこぼれる。嫌悪と恐怖が、総身を貫く。なのに、どうすることも出来ない。

「んん?」

 志津の体をまさぐり、その柔らかさに首を傾げる与五郎。与五郎は、志津の着物を引き裂いた。サラシを巻いた胸が現れる。谷間が、見て取れた。与五郎とその仲間は、目を見張った。

「……女だ」

 志津は息を飲んだ。

 正体が露見した!

 恐怖と絶望に、目の前が暗くなる。

 与五郎らは、顔を見合わせた。

「女だよ……」

 呆気にとられた与五郎たちの顔に、やがていやらしい笑みが浮かぶ。

「女のほうがいいよな?」

 男たちは頷き合った。志津の目が、恐怖に見開かれる。

「いやーっ! いやーっ!」

「うるせえ! 大人しくしろ!」

 張り手が飛んだ。一瞬、目眩がした。

 痛い。怖い。嫌だ。涙が、ぼろぼろと溢れた。

 誰か助けて。

 兄様!

 志津の脳裏に、唯一の肉親の兄のことが浮かんだ。


 その頃、政野助はというと……。

「はい、政さん。あ~ん」

「う~ん、おいちい!」

 夕顔に箸で飯を食べさせてもらって、ご満悦であった。

 政野助は、妹の窮地など露ほども知らず、夕顔との怠惰で至福な時を味わっていた。

 残してきた妹のことが気にならないでもないが、今長屋に帰っても、志津に雷を落とされるだけであろう。金だけ持ち逃げした兄に怒り狂う、おっかない妹の姿が目に浮かぶ。おお、嫌だ嫌だ。金を遣いきるまで、夕顔と楽しんでいたかった。

 なあに、志津はしっかりしているし、一人でも大丈夫さあ……。

「今度は、俺が食べさせてやろう、夕顔」

「あらそう?」

「ほれ。そっちからかじれ」

 そう言って、政野助は竹輪をくわえ、一方の端を夕顔に突きだした。

「あらいやだ、政さんたら」

「ほれほれ」

 ねだるように、くわえた竹輪を揺らす政野助。夕顔は笑いながら、竹輪をかじった。政野助も竹輪をかじっていく。

 カプカプカプ……ちゅう。

 あー幸せ……。にやけてふやけて、豆腐のようになる政野助。

 大馬鹿野郎な兄であった。


 駄目! 兄様じゃ、頼りにならない!

 政野助の顔を思い浮かべたものの、志津はすぐに兄のことを振り払った。政野助はきっと今頃、夕顔を侍らせて鼻の下を伸ばしているに違いない。

 兄様のバカバカバカバカバカ!

 情けなくて腹立たしくて、また涙が出てきた。

 与五郎の顔がまた近づく。ぎらついた目、締まりのない口。嫌だ。志津は、息を吸い込んだ。

「キャアアアアアアアア!!!」

 ありったけの大声で、与五郎の耳元で絶叫する。与五郎の耳が、キーンと鳴った。

「おおお」

 耳を押さえてうずくまる与五郎。志津は与五郎を突き飛ばし、走った。

「待て!」

 与五郎の子分どもが、追ってくる。道場の隅には、雑巾のような汚れた道着が山と積まれていた。

「食らえっ! 汚れ物阿鼻叫喚地獄!」

 志津は必殺技のように叫ぶと、汚い饐えたような道着を、悪漢どもに投げつけた。

「うえっ! 臭えぇえええ!」

 汗を吸って時間が経ち、熟成された男臭すぎる大量の汚れ物を頭からかぶり、男たちは悪臭に悶えた。

 志津は、悪漢どもが苦しんでいる間に、道場から飛び出した。


 道場から離れた自室で、抜刀斉は茶菓子に腹がこなれ、うつらうつらと気持ちよく舟をこいでいた。そこへ、スパーンと勢い良く障子が開かれ、抜刀斉は仰天して目を開いた。

「先生!」

 志津が、凄い剣幕で抜刀斉の元に駆け込んできた。

「なんじゃい、政野助。どうした?」

 抜刀斉は目を丸くした。志津の髪は乱れ、服は引き裂かれたようになっていた。

「先生! 私に、稽古をつけてください! 今すぐ!」

 志津は叫んだ。ただ事でない剣幕、襲われたような格好。

「誰かに、乱暴されたのか?」

 いつも飄々と人を小馬鹿にしたような抜刀斉が、真顔になった。

 迂闊だったと、抜刀斉は思った。志津が女だと分かった時点で、道場から出すべきだった。男ばかりの道場に、美しい女が一人。こうなることも予想がついたのに。

「大丈夫か? 誰にやられた?」

「どうでもいいでしょう! 稽古をつけてください!」

 志津は、涙をため、子供が癇癪を起こしたように叫んだ。

 志津は、悔しかった。襲われて、非力な自分が悔しかった。

 格好だけ男でも、駄目なんだ!

 掃除、洗濯、炊事なんか、いくらしてても、仕方がない。稽古を! 剣を磨かなくては!

「もう、雑用はごめんです! 稽古をつけてください! 強くならなきゃ、しょうがないんだ!」

「……」

 燃えるような目で睨む志津。気丈な娘だと抜刀斉は思った。この娘がひどい目に遭った責任の一端は、わしにある。抜刀斉は立ち上がった。

「来い。稽古をつけてやろう」


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