第七章
第七章
「たのもー!」
塚原流道場で、一人の少年が門を叩いていた。
端正な面立ちや腰に差した刀は凛々しいが、細い肩や白い腕がなんとも優雅で儚げである。
男装の清川志津であった。
「どなたかな?」
道場の者が、顔を出した。彼は少年の美貌に息を飲んだ。
「いかがなされた?」道場の者が、咳払いをして尋ねた。
「拙者、清川政野助と申す。仕官を志し、剣の腕を鍛えんと、道場入りを志願する次第。突然なれど、稽古をつけていただきたい」
志津は、仇討ちのための修行だとは、言わなかった。塚原流は、仇目加田刀十郎が巣立った流派。正直に仇討ちなど打ち明ければ、門前払いを食らうであろう。
志津が道場を訪れたのは、非力な自分を鍛えるためだが、なかでも塚原流を選んだのは、仇のことを探るためであった。
いきなりの志願者に、道場の者は戸惑ったものの、中に入れてくれた。志津の美貌のおかげである。
志津は、師範塚原抜刀斉の元に通された。抜刀斉は五十を越した髭面の男で、一見すると好々爺であった。
これが師範代? と、志津は正直、拍子抜けした。
「塚原流で、稽古をつけたいとな?」
柔らかいとぼけた口調で、抜刀斉が言った。志津は頭を下げた。
「はっ。何卒、宜しくお願いいたします」
抜刀斉はポリポリポリと頭を掻きながら、少年を見た。暢気な仕草をしながら、鋭く志津の目を見やる。長い睫に縁取られた少年の瞳は、美しく澄み切っていた。
この小僧は、本気で強くなりたいと思っておるようじゃな。
真摯な瞳の美少年に、抜刀斉はふと、弟子の目加田刀十郎のことを思い出した。
刀十郎めは今頃、どうしておるかなあ……。
「……良かろう。稽古をつけて進ぜよう」
「ありがとうございます!」
「では、手並みを拝見いたそう」
抜刀斉と志津は、竹刀を持って向き合った。抜刀斉は構えるでもなく、竹刀をぶらぶら振って突っ立っている。
「先生?」
「構わんぞ。どこからでも、かかってきなさい」
構えもせずに、どこからでもかかってこいという。馬鹿にされているのだろうか。志津は、少し腹が立った。女のような小僧だと、侮られているのか。
しかし、侮っていたのは、志津のほうであった。
こんな飄々とした爺さんなんて、女の私でも相手になろう!
志津は竹刀を握りしめ、老人に打ち込んだ。老人は、すっと体をかわした。志津の竹刀は、空しく宙を切った。
志津はきびすを返し、再び竹刀を振った。抜刀斉は、するりと避ける。
志津は竹刀を振り回した。一本も、抜刀斉に当たらない。志津の息が上がる。なのに、抜刀斉は飄々としたものである。
「くっ! 逃げてばかりおらず、相手をしたらどうだ!」
悔しくなって、志津は叫んだ。
「では」
抜刀斉ははじめて竹刀を構えると、振り下ろされる志津の竹刀を軽く払い、コン、と小さく志津の額を突いた。
「あっ……」
志津は目を見張った。
「一本」
抜刀斉がニヤリと笑った。志津は、息を切らし、汗を流しながら、立ちつくした。一方、抜刀斉は髪一つ乱れていない。
手も足も出ない。完敗であった。
なんと……。志津は、小突かれた額に手をやった。かなり手加減してくれたらしく、まったく痛くない。手加減されたうえに、一本取られたのだ。
「……参りました」
余裕で一本取られてしまった志津は、項垂れてそう言うしかなかった。飄々として間抜けそうに見えるが、この抜刀斉という老人、どうしてどうして、手練れである。
「うむうむ。政野助とやら。おぬしも悪くはないぞ。力はないわ体力はないわ、まったく見た目通りのうえ、太刀筋も滅茶苦茶、これで武士の子かというようなていだが」
カラカラと笑ってきついことを言う抜刀斉。そこまで言わなくても良いじゃないのよ、と志津は恨めしく抜刀斉を睨んだ。
「ところで、先生。塚原流を修めた人で、目加田刀十郎という武士がいたそうですが」
「おう。刀十郎を知っておるのか?」抜刀斉はピクリと眉をあげた。
「会ったことはございませんが、妹がひどく彼に熱をあげておりまして。私が塚原流に稽古をつけてもらうというと、是非とも刀十郎殿のことを訊いてくれと」
志津は、出任せを言った。
「ふぉふぉふぉ。刀十郎めは男前じゃからな。しかしあいつは、真面目一直線の無骨な男。妹御の想いに応えられるかの。道場におった頃も、懸想する娘は少なくなかったが、修行中の身に女は邪魔と、免許皆伝までは女人を断つという堅物ぶりじゃったからのう……」
「真面目?」
志津は眉を寄せた。悪逆非道の腐れ侍ではないのか?
「……刀十郎殿は、どんな門下生だったのです?」
「武道に勤しみ、仕官を志す、まあ、おまえさんと同じような青年じゃったよ。努力家で、打っても打っても立ち向かってくるので、気絶するまで叩きのめしたことが何度もあったわ。あんまり真面目なんで、よくおちょくってやったものよ……」
抜刀斉は、懐かしそうに目を細めた。愛弟子だったようだ。
おかしい。志津は腕組みした。目加田刀十郎は、婦女子を盾にするような悪人のはず。清川千太郎のホラしか聞かされていない志津は、合点がいかなかった。
師匠の前では、猫を被っていたのだろうか?
道場では模範生だったか知らないが、刀十郎が人を殺したのは事実。やはり恐ろしい男に違いないのだ。志津は思った。
志津は、道場に住み込んで稽古をつけてもらうことになった。
新入りの美少年に、門下生らは戸惑った。志津も戸惑っていた。道場など入ったのは、はじめてである。しかも住み込み。
武道に勤しむ若者たちの、なんともむさ苦しい男の世界。汗くささに閉口したが、やがて鼻がきかなくなった。それほど臭いのである。
男ばかりの気安さからか、彼らは平気で素っ裸になるし、猥談に興じたりする。志津には居たたまれない場面が多々あった。
道場の門下生らは、武家の子弟ばかりであったが、若い男の赤裸々な姿に、志津は呆れてしまった。
下品、だらしない、臭い、汚い……。武士というものに、凛とした硬質な男の美を思い描いていた志津は、門下生たちの姿に目眩を覚えるのだった。
だが、門下生たちは、志津の前ではこれでもまだ少し遠慮していた。
「清川政野助って……美少年だよな」
「女より綺麗だな」
「なんか……なあ?」
門下生たちは、ちらちらと志津を横目に見ては、ときめくのだった。
「気をつけろよ、政野助」
抜刀斉が志津に声をかけた。
「何がです?」きょとんとする志津。
「おまえは女みたいだからな。男ばかりの道場で閉塞した連中に、狙われておるぞ」
女のようだと言われ、志津はぎくりとなった。女だと露見しては、大変だ。
「まさか」志津は笑った。
「それより、先生」
志津は、笑顔を消した。山のような洗濯物を、怒ったように床に置く。
「稽古をつけると言って、一度も竹刀を握らせてもくれない。門下生の着物を洗濯したり、食事を拵えたり、道場の掃除をしたり……私は、賄いになるために入門したわけではありません」
「うむうむ。おまえの料理は、なかなか美味い。道場も、綺麗になって嬉しいぞ」
「先生!」
「焦るな、焦るな。おいおい、稽古をつけてやるわ」
カラカラ笑って、抜刀斉は去っていった。
「もう……」
志津は、ふくれながら師匠の後ろ姿を睨んだ。
道場での、志津の一日は忙しい。
五十人はいる門下生、それも食い盛りの若い男らの食事作りから、彼女の朝は始まる。量が半端ではないので、大仕事だ。しかも抜刀斉は、料理の仕方に注文をつけてくる。
「違う違う、包丁の持ち方はこうだ」
料理に関しては、女の志津のほうが詳しいのだが、師匠に逆らうわけにもいかず、その通りにする。
何か、この包丁の持ち方、変よ……そう思いながら、大量の食材をさばく。
やれやれと作り終わると、門下生たちが暢気に道場にやって来る。料理は、あっと言う間に平らげられる。志津は、まるで飢えた野獣のようだと思う。
「貴様! 拙者の沢庵を二切れも横取りしおったな!」
「うるさい、昨日俺のおにぎりを食った仕返しじゃ!」
食い盛りの男どもの、せせこましい争いが始まる。それを見ていて、志津はため息をつきたくなる。
武士は……もののふっていうのは……もっとさあ……こう……。
志津は、何だか泣きたくなるのだった。
食べ終え、門下生たちがいなくなり、汚れた食器の山を前に、志津は今度こそ本当にため息をついた。
洗い物が終わると、掃除である。雑巾がけをしていると、抜刀斉がぴしりと志津の尻を竹刀で打った。
「腰が入っとらーん!」
「……」
「なんじゃ、その目は。文句があるのか?」
「……いえ」
志津は悔しさをこらえ、雑巾がけに力を込めた。
抜刀斉は、志津を打った竹刀を振り振り、首を傾げた。
「ハテ、政野助の奴、いやに尻が柔らかいの……」
汗だくになって雑巾がけをしながら、志津は稽古に励む門下生らを見やった。雑用ばかりさせられ、ひとつも稽古をつけてもらえない志津は、門下生たちが羨ましかった。
志津に見つめられ、門下生たちの稽古には気合いが入った。志津にいい所を見せようと、やたらに張り切る。
掃除が終わると、目眩のするような洗濯物が志津を待っている。稽古に張り切った門下生らの道着は、汚れに汚れている。
大量の汚い道着を洗うため、何度も井戸から水を汲まなくてはならない。力仕事である。志津の細い腕には、辛い。
「大変だね」
声をかけられ振り向くと、道場の門下生が数人立っていた。
「手伝おう」
若者たちはいやににこやかに微笑んで、志津を手伝いだした。男の力、それも複数でやると、井戸を汲むのも早い。志津は彼らの下心を見抜けず、単純に感謝した。
「かたじけない」
門下生たちのだらしなくて情けない所ばかり見てきた志津だったが、はじめて彼らに好感をもった。
「困ったことがあれば、いつでも言ってくだされい。力になりますぞ、政野助殿」
若者たちは、鼻息を荒くして言った。さりげなく、志津の肩に手を置いたりする。
「こらあっ!」
そこへ、抜刀斉の喝が飛んだ。若者たちは飛び上がった。
「何を勝手なことをしとるか! それは、政野助の仕事だ! 余計な手出しをするでない!」
師匠に叱られ、門下生たちは退散していった。
「政野助よ。人に手伝ってもらってはならんぞ。では、続きを一人でやれ」
そう言って、抜刀斉は飄々と去っていった。志津は呆然と師匠を見送った。あとには、大量の洗濯物と志津。
稽古もつけられず、家事ばかり押しつけられ、手伝いさえも断たれてしまった。
抜刀斉の仕打ちは、意地悪なのだろうか? それとも、この道場には、下積み制度のようなものがあるのだろうか? なんにしろ、せっかく手伝ってもらえそうだったこの洗濯物は、一人でしなければならなくなった。今回の洗濯物は、ひときわ汚くて臭い。
「いいかげんにしてよー!」
志津は叫んだ。彼女の叫びに応えるのは、カラスの鳴き声ばかりであった。