第五章
第五章
長兵衛をやっつけて、江戸を飛び出した目加田刀十郎。
人を殺して逃げたものの、どこへ行けば良いのか。
途方に暮れる刀十郎は、自然、郷里の××藩に向かっていた。
「ああ。どうして、こんなことになってしまったのだろう」
刀十郎は嘆かずにはおれなかった。はじめて、人を殺してしまったのだ。遁走したものの、刀十郎は殺人を犯したということに、戦慄した。
「おお、俺は人殺しなのだ……」
正当防衛のようなもの、仕方なかったとはいえ、刀十郎は取り返しのつかないことをしたように思った。だが殺人に戦くと同時に、やはり捕まるのは嫌だという思いもあった。
「人を殺しておいて己が保身のため逃亡とは……俺は、俺という人間は……」
刀十郎は、今まで自分は一端の武士だと思っていた。ところがどうだ、一皮剥けば、人を殺して遁走する、卑怯者ではないか。
後悔が、刀十郎にのしかかる。
襲われたからといって、何も殺すことはなかったのではないか。女子ではあるまいし、抱かれるくらい何だというのだ。男色など、珍しくもない。ちょっと我慢すれば今頃は、同じ故郷に帰るにしても、清々した思いで帰れたものを。
しかし、いくら後悔しても、殺したことは変わらない。長兵衛は帰ってこない。刀十郎の罪は消えない。
なんてことだ。
ああ。早く、故郷に帰りたい。帰ってどうなるものでもないが、刀十郎は郷里の家族に会いたいと思った。
街道をひた走る。日が暮れ、旅籠が立ち並んでいるのが見えたが、刀十郎は宿を取ろうとしなかった。彼はひたすら、歩き続けた。足を動かしていれば、それだけ故郷が近くなる。
夜になった。道中、刀十郎は人気のない道にさしかかった。
刀十郎は、人の気配を感じた。
「何者!」
叫ぶと、三、四の影が現れた。刀を差しているが、武士ではあるまい。山賊か何かであろう。
「侍だぜ」
男らの一人が、刀十郎を見て言った。
「若造じゃねえか。こんな所を一人で歩いているのは、浪人だろう。かまうものか」
別の男が言って、得物を構えた。
夜、旅人を襲って有り金を奪うという賊のようだ。
下郎が……。刀十郎は男達を睨んだ。ここは一つ、後続の旅人のため、掃除をしていったほうが良かろう。刀十郎は刀の柄に手をかけた。
途端。
刀十郎の背に、ぞくっと氷のような悪寒が走った。
清川長兵衛の死体が、刀十郎の脳裏を過ぎったのだった。
俺はまた、人を殺すのか……?
刀を抜けば、斬り合いになる。山賊どもの構えから見て、こいつらは自分の敵ではない。俺の腕をもってすれば、全員屠れるであろう。
しかし……。
刀十郎は、再び人を手にかけることに、躊躇いを感じた。山賊のような者であっても、殺すことは躊躇われた。
以前の刀十郎なら、ここで山賊を斬って捨てることに、露ほどの躊躇いもなかったであろう。しかし、長兵衛を殺したことで、刀十郎の中に殺人への恐怖が生まれていた。
「見ろよ。すくんでるぜ。侍とはいっても、格好だけだ」
山賊が、刀十郎を嘲った。刀十郎の背に、じくりと、汗が浮かんだ。
刀は抜けぬ。戦えぬ。どうしたらいいのか。
じわりと、山賊どもが刀十郎に近づいてくる。
刀十郎は一味を見回した。素手で倒せそうな相手を探す。棍棒を持った男がいた。刃物でなければ、一、二発攻撃を受けても、大丈夫だろう。
刀十郎は、棍棒男に狙いを定めた。
刀十郎は、山賊が間合いを詰めるより先に、棍棒男に向かって駆け出した。疾風のような刀十郎の動きに、賊は一瞬、呆気に取られた。
刀十郎は、棍棒男を突き倒した。そのまま、駆ける。
戦えない以上、逃げるしかなかった。
「待て!」
賊が追う。
「侍が逃げるか、腰抜けめ!」
なんと言われようと、刀十郎は足を止めなかった。
走る。
しかし、賊は付近の地理を知り尽くしているのか、刀十郎の俊足をもってしても、振り切ることが出来ない。振り切るどころか、距離が詰まっていく。
いかん、このままでは、捕まってしまう。
刀十郎は脇道に入った。半分、獣道のような、悪路である。
だが、それでも賊は追ってくる。しつこい奴らだ! 刀十郎は苛立った。悪路に足をとられがちな刀十郎と違い、向こうは慣れているのか淀みなく駆ける。
追いつかれるのは、時間の問題であった。
悪路に逃げ込んだことは、かえって刀十郎を追いつめる結果になった。
「くそう!」
刀十郎は唸った。
こんな所で、山賊なぞにやられて果てるのか?
刀十郎の脳裏に、彼の生涯が走馬燈のように過ぎる。目加田家の一人息子に生まれ、家の期待を背負い、道場に通い、血を吐く思いで免許皆伝を貰い受け、仕官し、武士の心がけにつとめ……それが、男色家を殺して遁走、山賊に倒される。目加田刀十郎の人生が、そんなふうに終わってよいのか?
否! 良くない! 俺の人生は、そんなくだらないものであってはならぬ!
刀十郎は立ち止まった。すぐに、賊に追いつかれた。
「観念したのかい、お侍よ」
賊が、刀十郎を取り囲む。今度は、誰かを突き倒して逃げても、無駄だろう。悪路で逃げられまい。向こうも、もう逃がすまいと、円陣を組んで迫ってくる。
斬ってくれる……。刀十郎は、刀の柄に手を伸ばした。
柄を握る手が、震えた。
斬るのだ。
汗が吹き出した。
柄を強く握ろうとすると、汗で滑った。
賊が迫る。
早く、刀を抜け! 刀十郎は自分に怒鳴った。山賊なぞに殺されてもいいのか!
しかし、汗が滴り、手が震えるばかり。
人を斬るということが、これほど怖いなんて……。
ガサッ。
茂みで何かが動く音。一同、身じろいだ。
「何だ?」
ガサガサッ。
何かが、近づいてくる気配。男達は顔を見合わせた。
音の聞こえたほうへ、目をこらす。すると、茂みの中から、光る双眼が見返してきた。
「ウ~……」
獣の、唸り声。
脇道に入って、獣の縄張りに足を踏み入れてしまったらしい。
狼か? 野犬か? 何にしても、獰猛な獣のようだ。刀十郎は固まった。果たして、獣の登場は、賊に囲まれた刀十郎にとって、吉なのか凶なのか……。
男たちは、身構えた。獣と戦うつもりなのだろうか。武器があるし仲間もいるので、勝てると思っているのだろう。刀十郎は、男らが獣の相手をしている間に、逃げられないだろうかと考えた。
獣が、立ち上がった。
「うわあっ!」
男たちは目を剥いた。刀十郎も息を飲んだ。人の丈よりも大きな、それは……。
「熊だ!」
賊どもは一目散に駆け出した。狼ならともかく、熊には勝てないと思ったようだ。刀十郎も逃げようとしたが、悪路で思うように走れない。
熊と、刀十郎だけが残された。
「ガア!」
熊が、刀十郎に襲いかかる。刀十郎はかわした。刀を抜こうとすると、また手が震えた。
くそう!
相手が人でなくても、刀十郎は剣を握れないようだった。剣でもって、長兵衛を殺したからだろう。
刀十郎は、他に武器になるものを探した。賊が慌てて落としていったのだろう。棍棒があった。刀十郎は棍棒を掴んだ。棍棒だと、手は震えなかった。
熊が、再び襲ってくる。刀十郎は棍棒を掴み、振り返り様、熊の鼻っ柱を叩きつけた。
「グア!」
熊が悲鳴をあげる。
熊がひるんだ隙に、刀十郎は第二撃、第三撃を見舞った。熊などと戦うのは、無論はじめてである。死ぬ者狂いで無我夢中でありながらも、刀十郎は正確に急所を突く。免許皆伝の動きが、体に染みついているのであろう。
「グアア!」
熊が、怒って刀十郎に前肢を投げつける。刀十郎はかわしきれず、熊の爪を肩に食らった。しかし、熊は急所を何度も打ち付けられたためか、刀十郎の怪我は深くはなかった。
刀十郎は、傷の痛みを感じる余裕などなかった。無意識のうちに、棍棒を怪我をしていないほうの手に構え直すと、全身の力を込めて、再び熊の鼻っ柱を打ち叩いた。
熊の鼻が砕けた。
「グアア!」
熊はついに降参し、逃げていった。
刀十郎は、息を切らし棍棒を握りしめ、呆然と立ちつくした。
「おお」
危機が去り、刀十郎は息をついた。刀十郎は、握りしめた棍棒を見下ろした。
「武士の武器が、棍棒とは……」
刀十郎は棍棒を放り投げた。汚いものを捨てるように。
武士の武器は、刀でなくてはならぬ。
刀十郎は、そっと腰の刀に触れた。やはり、手が震えた。
「なんたること」
刀十郎は喘いだ。
彼は、刀が握れなくなっていた。
刀を抜けぬ武士。刀十郎は唖然となった。
故郷、××藩に辿り着いた頃には、刀十郎の肩の傷はすっかり癒えていた。しかし、彼の心の傷はそのままだった。
刀十郎は、何十年かぶりで、故郷に戻ったように思った。
「ああ」
刀十郎は、故郷の変わらぬのどかな景色に、嘆息した。なんとも思わなかった田舎の景色。退屈だと思っていた村の風景。それが今の刀十郎には、この上なく懐かしく愛しいものに見えた。
刀十郎は、目加田の生家に向かった。
「刀十郎!」
父母が、一人息子を出迎えた。
「どうしたのだ、大名行列と共に帰ってくるのかと思ったら」
「父上。母上」
刀十郎は、涙が出そうになった。
「ああ、私は、江戸でとんでもないことをしてしまったのです」
刀十郎は、両親に一部始終を話した。話を聞き、田舎侍の父、目加田刀右衛門と母、お房は目を丸くすることしきりであった。
「なんとまあ。でも、刀十郎、それはもう、仕方がないことですよ」
お房は息子を慰めた。
「悪いのはむしろ、その清川長兵衛という御仁のほうだわ。元服を済ませた一人前の武士に、衆道を迫るなんて。返り討ちにされて、当たり前です」
怒ったように言う。こともあろうに男が息子に手を出したことが、許せないのだろう。
「男色なあ……」
息子同様、そちらの趣味のない刀右衛門は、不可解そうに首を捻った。
「まあ、男色の是非はさておきだ、刀十郎」
父は真顔になった。
「おまえは、一刻も早く、ここを出るべきだ」
「え?」
刀十郎とお房は、きょとんとなった。父は、すがるような思いで家に帰ってきた息子を、追い払うというのか。
戸惑う刀十郎に、刀右衛門は言った。
「いきさつはどうあれ、おまえが清川長兵衛という旗本を殺したのは事実。ならばきっと、武士の習いとして、清川一族は長兵衛の仇を討とうとするだろう」
刀十郎は唖然となった。人を殺したことや、刀を握れなくなったことにばかり気を取られていて、仇討ちのことまで考えられなかった。
「仇討ち……」
刀十郎は呟き、お房は青くなった。
「ちょっと。そんな。そんな、無茶な話がありますか! 刀十郎は、己の身を守ろうとしただけじゃないですか。清川長兵衛は、自業自得じゃないですか。それなのに、仇討ちだなんて」
お房が抗議する。
「そうですよ。あれは、どうしようもなかったんだ。私だって、殺したくて殺したんじゃない。むこうが、私の都合もおかまいなく、嫌だというのに、あいつが……。ああもう、畜生、こんな話があるものか。長兵衛。どこまで俺を苦しめる!」
長兵衛とのことはトラウマになりそうなほど、打ちのめされているというのに、そのうえ仇討ちまでされてはかなわない。刀十郎は理不尽を感じ、母と一緒に抗議した。
「嘆いても、始まらん!」
父が一喝した。
「刀十郎よ。清川の追っ手が、仇の生家や縁の地を探すは必至。こんな情けないことで、仇など取られてはならんぞ!」
父は、息子の肩を抱いた。男色痴情の果ての殺人というだけでも珍妙なのに、このうえ仇まで取られては、目も当てられぬ。大事な一人息子を、そんなことで殺されてはたまらない。
「逃げ切れよ、刀十郎! 絶対に、仇など討たれるな!」
父の喝と母の嘆きを背に、刀十郎は生家を後にした。