第二十章
第二十章
「政さん、無事に逃げ切れたかしら……」
長屋で茶をすすりながら、夕顔は政野助の身を案じていた。
「まあ、政さん逃げ足だけは早いから、大丈夫だとは思うけど」
政野助の情けなさは天下一品。間違っても、斬り合いにはなるまい。逃げて逃げて逃げまくるに違いない。相手は殺す気のうえ、真剣を持っているのだが、政野助の情けなさに脱力した夕顔は、どうも本気で心配できないのだった。
なんとかなるでしょ、と夕顔は暢気にかまえていた。
「やっぱり政さんは、格好いいよりも、情けなくて可愛い人なのよねえ……」
あー、茶がうまい、とのどかな夕顔であった。
「静かだこと……」
無人の部屋は、静まり返っていた。夕顔は、茶をすすりながら、眠気を感じた。
「兄様!」
「政野助!」
静けさを蹴破り、長屋に乱入してきた老人と少年に、夕顔は茶をふきだした。
「なに? なによ?」
この長屋はいつも、静かだと思ったら、人が飛び込んでくるわけ? 面食らう夕顔に、老人と少年は詰め寄った。
「誰じゃおまえは?」
「夕顔さん? 兄様はどこ!」
夕顔を掴んで揺さぶる抜刀斉と志津。夕顔の持つ茶が、床に散る。
「ちょっと、ちょっと!」
夕顔は二人を振り払った。
「なんなのよ、あんた達! そこのお小姓さんは、なんでアタシの名前知ってるの?」
志津が男装しているのを、夕顔は小姓か何かだと思った。仇討ちを止めようと急いで来たので、男装のままだったのである。
「私は、志津です」
「お志津ちゃん?」
夕顔は仰天して目を剥いた。言われてみれば、政野助に似ている。政野助を少年にして格段に整えてきりっとさせた感じだ。
「あらあー……。どうしたの、その格好。あ、そうか。政さんの服を借りて、変装していたんだったわね。へええ……」
夕顔は改めて、侍姿の志津を見た。
「似合ってるじゃない。政さんより、格好いいわよ」
褒められても、志津には嬉しがる余裕などなかった。
「兄様はどこですか?」
「分からないわ、どこか逃げ回ってるから。ねえ、一体、どうしたの? このご老人は誰?」
志津と抜刀斉は、事情を説明した。
「あらあ……」
滑稽にも悲惨な話を聞いて、夕顔は笑ったものか深刻になったものか、迷った。
「何だか、いろいろ、大変ね……」
やはり、仮にも人が死んでいるのだから、笑ってはいけないだろう。夕顔は気の毒そうに言った。
「夕顔さんがここにいるということは、兄様も帰ってきたのでしょう。どこに行きました?」
「それがねえ……」
夕顔は、刀右衛門が来たことを告げた。
「大変」
志津が青くなった。
「大丈夫よ、政さんならきっと」
夕顔は暢気に言うが、刀十郎と長兵衛の死に触れた志津と抜刀斉は、暢気にかまえていられなかった。
「政野助と刀右衛門殿を探さなくては」と抜刀斉。
「ええ。夕顔さんは、ここに居てください。もしかしたら、兄様が戻ってくるかもしれない」
抜刀斉と志津は夕顔に留守番を頼み、来た時と同じく、慌ただしく出ていった。
「やれやれ……何だかね……」
一人になり、再び静けさを取り戻した長屋で、夕顔は残り少なくなった茶をすすった。
「大丈夫ですか、刀十郎殿。江戸に着きましたぞ」
刀十郎の手を握りながら、長兵衛が振り返った。刀十郎はびくびくしながら頷いた。長兵衛は、刀十郎を気遣って彼の歩調に合わせていた。長兵衛にも、相手を気遣うことができたのである。恋というものは、凄い。
刀十郎の記憶は相変わらずだった。彼は未だに、長兵衛の恋人だと信じ込まされていたが、どうしても思い出せず、男色を受け入れることもできず、悩んでいた。
記憶が戻ったら、俺は長兵衛を好きになるのだろうか……。刀十郎は頭痛がした。自分と長兵衛が仲睦まじくしている様を想像して、刀十郎は泣き出したくなった。それなら、記憶なぞ戻らんほうが良い……。
長兵衛は、刀十郎の手を握るに止めていた。刀十郎にとってはそれだけでも十分気味悪かったが、押しの強い長兵衛にしては、大人しいことであった。
政野助のことが済んだら……。
おあずけを食った犬状態の長兵衛、早く贖罪を済ませてしまいたかった。飢えた獣のような長兵衛の視線に、刀十郎は震え上がるのだった。
「病み上がりの長旅で、疲れたであろう、刀十郎殿。拙者の屋敷で休まれよ」
長兵衛は、刀十郎を清川の屋敷に連れていった。
「むっ! これは!」
長兵衛は目を剥いた。清川の屋敷は、あばらやのようになっていた。
「ここが、長兵衛殿の屋敷ですか……」
刀十郎が屋敷を見て、目を丸くして呟いた。落城した城のように荒れ果てている。
「何としたこと! どうしたのじゃ、これは!」長兵衛は屋敷の者に怒鳴り込んだ。
「おう、長兵衛。戻ったか」
千太郎が、長兵衛の帰還を出迎えた。長兵衛の隣に刀十郎がいるのを見て、千太郎は驚いた。
「おお、刀十郎殿。無事であったか。長兵衛、よく見つけたな。仇討ちは止められたか、良かった良かった」
胸を撫で下ろす千太郎を、長兵衛は掴み上げた。
「千太郎! 屋敷の有様は何じゃ!」
「ぐえ。何って、長兵衛。おまえが斬りつけて滅茶苦茶にしたのではないか」
生き埋めにされ逆上した長兵衛が、真剣で暴れ狂った痕がまだ生々しく残っているのであった。
「そうであったかな?」
自分に都合の悪いことは綺麗に忘れる長兵衛、首を捻った。
「それにしても、なんでもっと屋敷を見栄え良く綺麗にしておかぬのだ」と、忌々しそうに長兵衛。
「だからそれはおまえが……」と当然ながら非難がましく千太郎。長兵衛のせいで、屋敷がひどい有様になったのである。それを怒られても困る。しかし長兵衛は聞く耳を持たない。
「うるさいわい。刀十郎殿が呆れておるではないか。どうしてくれる」
「だから、こうなったのは長兵衛、おまえが……」
「黙れ。今からでも、綺麗にしておけ!」
長兵衛に締め上げられ、千太郎は目を白黒させた。
刀十郎にあばらやのようになった屋敷を見られ、長兵衛は恥ずかしく思った。
「刀十郎殿。今は事情があって取り乱しておるが、普段は清楚で落ち着いた屋敷なのじゃ」
言い訳するように、長兵衛は刀十郎に言った。
「はあ……」と、気抜けしたように刀十郎。
「千太郎よ。俺と刀十郎殿は、これから清川の屋敷で一緒に暮らすからな。一族の者に、そう伝えよ」
長兵衛の言に、刀十郎と千太郎は驚いた。
「一緒に暮らすって……」
異口同音に、刀十郎と千太郎は口を開いた。長兵衛は刀十郎の肩を抱いた。
「われらは恋人同士になったのじゃ。だからこれから、清川の屋敷を愛の巣として、幸せに暮らしていくのじゃ」
長兵衛の言葉に、刀十郎は真っ青になり、千太郎は目を丸くした。
「恋人同士ぃ?」
長兵衛が一方的に刀十郎に片思いしているのは知っていたが、刀十郎がそれに応えたというのか。千太郎は刀十郎に問うた。
「そうなのか、刀十郎殿。長兵衛と恋人同士になったのか?」
「はい。なんか、そうみたいです……」泣きそうになりながら、刀十郎は答えた。覚えていないが、自分は長兵衛と男色の深い仲であったらしいのだ。
「ほ、ほお……。い、いつの間にそんな関係に……」
仰天しながら、千太郎は、寄り添う長兵衛と刀十郎を見た。不可解な愛に汗を拭き拭き、まあ当人らがそれで良いのならと、千太郎は二人を祝福した。
「めでたいことじゃな。男同士で、絶対に絶対に絶対に世継ぎは望めそうにないが、まあ、養子でも取ればよかろ。相思相愛、誰も迷惑はせぬし、末永く、幸せにな……」
微笑む千太郎。
嫌だよおおおおおおお! と、刀十郎は心中で叫んだ。
長兵衛は、可哀想な刀十郎を、あばらや屋敷の一番ましな部屋に通した。
「ここで、しばし待っていてくだされ。拙者は、用事を済ませてまいる」
長兵衛の用事とは、政野助の遺族への謝罪である。
「帰ってきたら、共に幸せになりましょうな、刀十郎殿」
長兵衛は、ぞっとする言葉を残して、出ていった。
一人になった刀十郎は、部屋の隅に丸まりながら、怯えた。
用事を済ませて長兵衛が戻ってきたら、刀十郎に男色の魔手を伸ばすに違いなかった。
「うぎゃあああ!」
刀十郎は想像しただけで悶えた。
「お、お、俺は、本当に男色者だったのか? 覚えとらん。覚えとらんぞお! 昔はどうだったか知らんが、今は嫌だ! 嫌だ嫌だいやだあ……」
刀十郎は、駄々っ子のように、手足を振り回した。
逃げたい。しかし、長兵衛と自分は恋人同士であったという。自分は、××藩から長兵衛逢いたさに江戸へ向かうほど、彼に惚れていたという。
記憶を無くしたからといって、男色とはいえ相愛であった恋人を、振り捨てていいものだろうか?
真面目な刀十郎は悩むのだった。
ガタン。
物音に、刀十郎は長兵衛が帰ってきたのかと、鳥肌をたてて飛び上がった。刀十郎が暴れたために、棚のものが落ちただけであった。安堵。刀十郎は胸を撫で下ろした。
だが、本当に長兵衛が帰ってきたら……。
「ううううう……」
刀十郎は、恐怖で涙目になった。怖すぎる嫌すぎる。このまま座して、戦慄の愛を待つのか?
「逃げよう」
刀十郎は立ち上がった。
「長兵衛殿には申し訳ないが、逃げさせてもらおう。昔の俺と今の俺は、別人なのだ。記憶を無くすと同時に、男色の気も無くしたのだ。すまぬ、長兵衛殿。刀十郎は、逃げまする」
刀十郎は、屋敷の者に見つからぬよう、こっそりと屋敷を抜けた。
脱出して、ほっと一息つく刀十郎。
「さて、逃げたはいいが、これからどうしよう」
何も覚えていない刀十郎、途方に暮れた。
「そうだ。××藩。俺の故郷だという、××藩に帰ろう」




