第十九章
第十九章
「夕顔よう」
政野助が、眉を八の字にして、情けない声で言った。
「一緒に、長屋についてきてくれい」
清川千太郎に貰った金が、ついに底をついてしまった。長屋に帰ることになったのだが、長屋では妹が角を立てて待っていることだろう。政野助は、怒り狂う志津と一人きりで対面する度胸はなかった。
「政さん……」
夕顔はため息をついた。情けない……。
「仕方ないわね」
「かたじけない」
「いいわよ。ついでだから、妹さんに、アタシのことをちゃんと紹介してちょうだい」
「へ?」
「これが、妻になる夕顔だと、お志津ちゃんに言いなさいよ」
「妻!」
政野助は、目を白黒させた。軽薄児政野助、結婚など真剣に考えたことはなかった。
「おいおい、夕顔よ。妻っておまえ……」
狼狽える政野助を、夕顔は怖い目で睨んだ。
「なに? さんざん弄んでおいて、まさかアタシと所帯を持つ気はないというの?」
美人の怒り顔には凄みがある。政野助はすくんだ。
「いやいや、そんな。そんなはずはなかろう。だが俺は浪人の身。所帯を持つといってもな……」
「大丈夫よう。アタシがついてるもの」
すり寄る夕顔。逃がさんとばかり、絡みつく。政野助の眉はまた、八の字になるのだった……。
「お・志・津・ちゃん」
忍者のごとくそろそろと、夕顔と共に長屋に戻ってきた政野助。手には、妹の機嫌を取るため、彼女の好物の栗饅頭がぶら下がっていた。
「久しぶりだね~。お兄ちゃんだよ~」
媚びるような猫なで声を出しながら、恐る恐る部屋を窺う。返事はない。
「静かだな……。志津め、こりゃ相当怒ってる……」
怒鳴りつけるのも通り越した、志津の青白い怒りが想像され、政野助は震え上がって、夕顔の手を握りしめた。
「夕顔。今日はやめておこう。また日を改めて……」逃げ腰になる政野助。
「何言ってんの。いつかは怒られなきゃいけないんだから。ほら、行け!」
夕顔は政野助の背中を突き押した。
「ひえっ」
政野助はつんのめり、部屋に倒れ込んだ。
「うおお~。志津! 俺が悪かった! 許してくれい!」
怯えて手をつく政野助。呆れながら、夕顔が彼に続いて部屋に入った。
「……あら?」
夕顔は目を瞬いた。
「志津! お志津さま! この通り! おまえの好きな栗饅頭を買ってきたぞ。な? な?」
頭を下げたまま、謝り続ける政野助。そんな彼の肩を、夕顔が人差し指でちょんちょんとつついた。
「ちょっと、ちょっと政さん」
「夕顔ぉぅ。一緒に、謝ってくれい」
「いいから、顔あげなさい。志津ちゃん、居ないみたいよ」
「う?」
政野助はこわごわ、目をあげた。夕顔が言う通り、無人であった。
「はあ……。なんじゃ。おらんのかいな。怖がって損したわ」
政野助は安堵の息をつくと、足を投げ出した。
「疲れた……。志津の奴め、どこ行ったんじゃい。せっかく兄が帰ってきたというのに」
いないと分かれば、途端に態度が大きくなる。
「じゃあ、志津ちゃんが帰ってくるまで、待っていましょうか」
「えっ」また怯え出す政野助。結局、志津と対面しなくてはならないのか。
「お志津ちゃんが戻ってきたら、ちゃんとアタシのこと紹介してよね」
「ううう……」
志津の雷待ちと夕顔の結婚迫り。政野助は弱り果てて呻いた。
志津よ。帰ってこないでくれい……。政野助は情けなく祈った。
「……遅いな」
志津が帰ってこなければ良いと思ったものの、夜更けになっても戻ってこないので、政野助は首を捻った。
「どこをほっつき歩いとるんじゃろ、あいつ。まさか俺がいない間に、変な男にでも引っかかっておったのか……?」
志津め、俺がいない間に、なんというふしだらな娘になったのだ。こんな時間まで出歩いて。自分のことは棚にあげて、妹の非難をする政野助。
女の夕顔は、部屋の様子がおかしいことに気づいた。
「ねえ、ねえ、政さん。なんだかここ、埃っぽいわよ」
「うん?」
「まるで、何日も掃除してなかったみたいな」
言われて政野助も、部屋が薄汚れていることに気づいた。しっかり者の志津が、掃除を怠るとは、おかしい。
「……どうなっとるんだろ」
「ここ、長い間無人だったんじゃない?」夕顔が、部屋を見回して言う。
すると志津は、何日も長屋を空けていたのだろうか。
「志津は、どこに行ったのだ?」
はじめて政野助は、深刻な表情になった。長屋から消えた妹。なぜ、どこに消えたのか。
もしや、何か良からぬことに……?
「志津! 志津よ!」
政野助は妹の名を叫びながら、長屋を飛び出し、志津を探した。夕顔も後に続いた。
志津が行きそうな所、知り合いの家をすべて回り、長屋の近辺や店を嘗めるように探し、あちこち駆けずり回って、へとへとになって長屋に戻った頃には、朝になっていた。
志津はどこにもおらず、長屋にも帰っていなかった。
「志津……」
行方知れずになった妹に、政野助は膝をついて打ちひしがれた。
「志津。どこに行った。頼む。帰ってきてくれ……」
小うるさくおっかないが、唯一の肉親。なんだかんだ言っても、可愛い妹である。心配でたまらない。自分がいない間に、妹に何があったのか。
俺が夕顔と遁走していた間に、志津にどんな事が……。
「くっ……志津……」
政野助は、妹を一人置いてきたことを後悔した。
「俺は……たった一人の妹を置いて……俺は……」
自分の不甲斐なさ、情けなさに腹が立つ。夕顔は、こんな真剣な政野助をはじめて見た。
「政さん……」
「どこか、何か、手がかりはないか?」
政野助は、部屋中を探し出した。書き置きか何か、ないだろうか。夕顔も一緒になって家捜しした。
不審な所は、何もないようだった。
「くううう……」歯がみする政野助。
「どうなっているのかしら。無くなっているものも、無さそうだし」
無くなっているもの? 夕顔の言葉に、残っている物を探していた政野助は、顔をあげた。政野助は、失せ物がないか、改めて部屋を見てみた。
「無い……無いぞ!」
「どうしたの、政さん。何が無いの?」
部屋の主ではない夕顔には、失せ物など分からない。
「手形だ」
「手形?」
「長兵衛の仇討ちにと、渡された手形が、無くなっておる! それに、よく見れば、俺の着物も一着、消えておる。刀もない……」
政野助と夕顔は、顔を見合わせた。
「どうなっておるのだ?」
「そういえば、裁縫箱、糸がほとんど無かったわ。屑入れには布が……」
政野助は屑入れを覗き込んだ。布きれが捨ててある。それは、消えた政野助の着物の図柄に違いなかった。
「俺の着物を、仕立て直したのか?」
よくよく屑入れを見てみて、政野助は「うわっ」と声をあげた。
「どうしたの、政さん!」
「か、髪の毛!」
夕顔も、屑入れを覗き込んだ。布きれの奥に、緑の黒髪がうねっていた。
「お志津ちゃんは、髪を切ったの?」
「で、手形も刀もない……」
またまた、顔を見合わせる政野助と夕顔。
「志津の奴、まさか……」
「政さんの代わりに、仇討ちへ?」
政野助と夕顔は唖然となった。
「なんてことだ……」
妹は、どこにいるともしれぬ、他人同然の者の仇をとりにいったというのか。仇は、塚原流免許皆伝の剣豪。女の身で、勝てるわけがない。
「馬鹿め! 他人の仇なぞ、放っておけばよいものを!」
政野助は頭を抱えて叫んだ。生真面目にも程がある。なぜ俺のように、知らぬ振りをすることが出来ぬのだ!
「政さん、政さん。落ち着いて」
夕顔が、政野助の背中をさすった。
「おお、夕顔。どうすればよい? 志津はもう、江戸にいない。どこに行ったか、分からぬ。仇に追いついて、返り討ちにでもあったら……」
狼狽える政野助。
「落ち着いてよ、政さん。うろたえたって、しょうがないわよ。アタシたち、一晩中駆けずり回ってへとへとだし、一服してから、どうするか考えましょ」
夕顔は励ますように言って、料理を拵えた。料理を差し出され、政野助は自分の空腹に気づいた。政野助は、夕顔の手料理ははじめてだった。金がある間は、出前物や店の物ばかり食べていたのだ。しかし政野助は、夕顔の手料理に鼻の下を伸ばす余裕などなかった。
「志津う。志津う」
妹のことを案じながら、政野助は箸を運んだ。
そこへ。
「清川政野助とやらは、ここかあっ!」
突然、刀を構えた中年の武士が現れた。政野助と夕顔は、飯をふきだした。
「おお! 貴様が、政野助か!」
政野助を見て、武士がすごい剣幕で詰め寄る。政野助は殺気に後じさった。真剣を持った侍にいきなり詰め寄られれば、誰だってすくむ。
「何ですか。あんた誰だ」
「わしは目加田刀右衛門! 貴様に殺された目加田刀十郎の父親じゃ!」
刀右衛門は怒鳴った。くだらない仇討ちをされた息子の仇をとりに、江戸にやって来たのである。江戸中、政野助の消息を聞いてまわり、ようやく彼の長屋を探し当てたのだ。
「目加田刀十郎!」刀右衛門の言葉に、政野助は驚いた。
「それって、長兵衛の仇の……」話に聞いていた夕顔は目を丸くした。
政野助と夕顔は顔を見合わせた。すると志津は、首尾良く仇討ちに成功したというのか。
「やるわねえ、お志津ちゃん」
夕顔は感心して指を鳴らした。
「さあさあさあ! 清川政野助! そこになおれ! 斬って捨ててくれる!」
「ちょ、ちょ、ちょ……」
政野助は飛び上がった。
「冗談じゃない! もとはといえば、刀十郎が長兵衛を無惨に殺したから、悪いんじゃないですか!」
政野助は、悪漢刀十郎が、娘を助けようとした長兵衛を斬り殺したと聞いている。その仇討ちなんて、理不尽ではないか。
しかし、真相は、被害者なのは刀十郎のほうなのである。政野助の抗議に、刀右衛門は憤慨した。
「なにが無惨じゃ! 無惨なのは息子のほうじゃ! 長兵衛は、死んどらんかったんじゃい! それなのにまあ、よくも刀十郎を殺してくれたな。しかも、男色夜這いの仇討ちなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある!」
「男色夜這い?」
訳が分からず、目を白黒させる政野助。
「どうでも良いわ。とにかく貴様、叩き斬ってくれる!」
刀右衛門が真剣を構えた。政野助は真っ青になった。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
情人の危機に、夕顔が刀右衛門の前に割ってはいる。
「何じゃ! 邪魔じゃ、退け、女!」
「退くものですか。あのねえ、刀十郎をやっつけたのは政さんじゃなくて……」
政野助はハッとなった。
信じられないが、刀十郎を討ったのは志津らしい。だが刀右衛門は政野助がやったと思っている。息子を殺したのが、本当は志津だと知ったら、刀右衛門は志津に斬りかかるだろう。
「待て、夕顔!」
政野助は夕顔の口を塞いだ。
「はにふんの、まひゃひゃん(何するの、政さん)」
口を塞がれ、もごもご言う夕顔。政野助は彼女に耳打ちした。
「志津がやったと言うな。そんなことを言ったら、志津の身が危ない。俺が刀十郎をやったことにしておけ」
「まひゃひゃん……(政さん……)」
夕顔は驚いた。そして感動した。
政さんてば、情けないし不甲斐ないけれど、妹思いなのね……。妹の代わりに、仇討ちの武士に立ち向かう。格好いいわ、政さん。夕顔は、はじめて政野助を可愛いではなく格好いいと思った。
「刀右衛門殿。こんなところで刀を振り回しては、関係ない女にまで累が及ぶ。表にて決着をつけよう」
きりっとして言う政野助。そんな表情をすると、ひどく男前に見える。
あああ。格好良すぎるわ、政さん。毅然とした政野助の男ぶりに痺れる夕顔。
刀右衛門は夕顔を一瞥し、頷いた。
「良かろう。わしとて、女まで斬るつもりはない。表に出よう」
刀右衛門と連れだって表に向かう政野助の背に、夕顔は声援を送った。
「政さん! そんなご老体なんか、返り討ちにしちゃえ!」
政さん、格好いい。政さんならきっと、志津ちゃんを庇って、刀右衛門を返り討ちにしちゃうわ。
夕顔は、政野助の勇敢な姿を見ようと、一緒に表に出た。
「逃げるが勝ちじゃああああ!」
夕顔が見たのは、毅然と戦う政野助ではなく、長屋から出た途端一目散に逃げていく政野助であった。
「え~と……」
最前まで勇ましかったのに、あまりに政野助の逃げ足が早いので、一瞬呆然となる刀右衛門と夕顔。刀右衛門は我に返った。
「おのれ、逃げるか、政野助!」
刀右衛門は政野助を追いかけていった。
一人取り残された夕顔。
「政さ~ん……」
ほとほと呆れ返り、脱力して膝をつく夕顔であった。




