第十八章
第十八章
刀十郎の目は虚ろにさまよい、彼は不安そうに自分の肩を抱いた。
「俺は一体……」
刀十郎は、自分が誰なのか、どうして怪我をして知らぬ場所にいるのか、分からなかった。
「刀十郎殿……」
刀十郎の様子に、長兵衛は立ちつくした。なんということ。刀十郎は、記憶を無くしたようなのだ。
「刀十郎? 俺は、刀十郎というのか?」
自分の名前も分からない刀十郎。
「おお。刀十郎殿。なんと不憫な」
長兵衛は壊れ物に触れるように、そっと刀十郎の頭を両手で挟んだ。
「刀十郎殿。拙者のことが、お分かりになりませぬか?」
刀十郎は戸惑いながら頷いた。分からない。だが、この馴れ馴れしい様子から、自分と親しい友人か何かだったようだと、刀十郎は思った。
「あのう。俺……私は一体何者で、どうして怪我をしているのでしょう。ここはどこなんですか。貴殿は、私の何なのですか?」
何もかも分からない。不安で、刀十郎はすがるように長兵衛に尋ねた。彼が怯える様に、長兵衛はときめいた。
「刀十郎殿。あなたは……」
説明しようとして、ふと長兵衛の心にある考えが浮かんだ。
刀十郎は今、白紙なのである。長兵衛は今、刀十郎の白紙の頭に、どんなことでも書き込めるのである。
「……」
「もしもし?」
黙り込んでしまった長兵衛に、刀十郎は声をかけた。長兵衛は咳払いして、言った。
「刀十郎殿。あなたは目加田刀十郎といって、××藩に仕える侍です」
「××藩……」
刀十郎は呟いた。思い出せない。長兵衛は続けた。
「ここは、○○という島で、あなたは旅の途中、山賊に襲われ崖から転落して、ここに流れ着いたのです」
「……」
長兵衛から知らされる事情を、刀十郎は戸惑いながら聞いた。山賊に襲われたとは。刀十郎は傷に手をやった。
刀十郎は、長兵衛の嘘を、一つも疑わなかった。彼の反応に、長兵衛は心中しめしめとほくそ笑んだ。
「旅……。私は一体、どこに行こうとして、何のために、旅をしていたのでしょう」
「江戸に行くため。拙者に会いに行くためです」
「あなたに会いに行くため……? あなたは、一体、誰です?」
「拙者は、清川長兵衛。あなたの恋人です」
重い沈黙。波の音が、繰り返し流れていく。
刀十郎は目を丸くして、長兵衛を見た。
恋人だと? そんな馬鹿な。聞き間違いか?
「……今、なんておっしゃいました?」
肝の冷える怪談話でも聞かされたように、刀十郎が問うた。
「拙者と貴殿は、恋仲だったのです」
長兵衛は、ぬけぬけと言い放った。
「恋……」刀十郎は絶句した。
「嘘……嘘でしょ? お、男同士じゃないですか」狼狽える刀十郎。
「本当です。貴殿と拙者は、相思相愛の深い仲だったのです」
長兵衛は言い切った。押し通すのは、彼の得意である。刀十郎は頭を抱えた。
「嘘だ嘘だ嘘だ……」
「刀十郎殿」
長兵衛がそっと刀十郎の手を握った。刀十郎はぎょっとして、その手を振り払った。
「つれないお人よの……あれほど、愛し合ったではないですか」
愛し合っただとううう???
気味の悪いことを聞かされ、刀十郎は全身鳥肌になった。
「知らぬ! そんなこと、知らぬ!」
「忘れてしまっているだけじゃ。思い出させてしんぜよう!」
「ぎゃあーっ! 何をする! 寄るな触るなあっ!」
病身の刀十郎に覆い被さる長兵衛、暴れる刀十郎を押さえつけ、無理矢理その唇を奪った。
「うげっ」
腹の底からおぞましさがわきあがる。気色悪さと同時に、刀十郎は驚愕に襲われた。
この感触は……覚えがある!
刀十郎の脳裏を、白熱が走る。
ガチャーン。
物音に、長兵衛は振り返った。刀十郎は長兵衛から解放されて、ぜいぜいと息をついた。ごしごし、口を拭う。
あばらやの戸口に、漁師が立っていた。彼の足下には、運んできた膳が砕けていた。長兵衛と刀十郎の口づけの場面を見て、仰天して膳を取り落としてしまったのである。
「あははは……そ、そういう間柄だったんですか。なるほどね」
漁師は引きつったように笑った。
「無粋な奴じゃ」邪魔が入り、長兵衛は舌打ちした。
刀十郎は、青くなって頭を抱えた。
「覚えがある……覚えがある……」
記憶は戻らないものの、長兵衛の唇と舌の感触に、覚えがあった刀十郎。混乱と驚愕の渦に飲み込まれる。
おお、俺は以前に、この男と口づけをしたことがあるのだ。なんてことだ。本当に恋仲だったのか? 男同士で? うひゃあ! なんてことだ。なんてことだ。
「誰か嘘だと言ってくれ……」
刀十郎は半泣きになって呟いた。
「はっはっは。俺も刀十郎殿も散々な目に遭ったが、これすべて神仏の引き合わせであったのか。紆余曲折があったものの、俺の想いを神が聞き入れてくださったのだな」
まんまと刀十郎に恋人だと思いこませた長兵衛。口笛をふきながら上機嫌で浜を散歩していた。その口笛は見事なまでに調子外れで、浜の漁師たちの耳を押さえさせた。
「お武家さまあ……」
いいかげんにしてくれよと、漁師たちが涙目で長兵衛を見る。無論、長兵衛はお構いなしである。
不意に、長兵衛の足が止まり、迷惑な口笛が止んだ。
「あれは?」
長兵衛が目を留めたのは、一つの塚であった。
「あれは、お武家さまの恋人の若侍さまと一緒に流れ着いた人の塚です」
漁師が答えた。それは、与五郎の墓であった。
「……」
長兵衛の晴れやかだった表情が、たちまち沈痛になった。
「政野助……」
長兵衛は、与五郎を政野助だと思っていた。
長兵衛の仇討ちのために、命を落とした政野助。銃を使ったとはいえ、刀十郎が生きていた今となっては、長兵衛は政野助にすまなく思った。
「政野助殿。許してくだされい。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」
長兵衛は与五郎の塚の前で膝をつき、念仏を唱えた。
与五郎の塚を目にして、すっかり元気を無くした長兵衛。項垂れながら、あばらやに戻った。長兵衛が帰ってきたので、刀十郎はすくみあがった。彼はまだ傷が癒えず、動けないでいた。
長兵衛は、愛しい人を前にしても、何もしなかった。襲うなら刀十郎が弱っている今が絶好の機会であったが、死んだ政野助のことを思うと、とてもそんな気にはなれなかった。政野助の遺族への謝罪が済んでからでなくては、刀十郎と幸せになってはならない。長兵衛は殊勝にも、そう思った。
千太郎は、政野助殿に妹御がいると申しておったな。人が死んだ取り返しなどどうやってもつかぬが、この長兵衛、妹御にはできるだけのことをしてやろう。
一人取り残された政野助の妹のことを考えると、長兵衛の心は沈むのだった。
「……刀十郎殿。傷の具合はどうじゃ?」
「き、昨日よりは良くなった」
刀十郎は、長兵衛から少しでも離れようと、壁に張り付いた。刀十郎の容態は、快方に向かっていた。長兵衛はふっと微笑んだ。
「刀十郎殿。傷が癒えたなら、拙者と共に、江戸に参ろう」
「江戸?」
きょとんと、刀十郎は聞き返した。長兵衛は頷いた。
「そう。江戸へ」
江戸に、清川の家に帰る。政野助の遺族に償いをする。そして、刀十郎と暮らすのだ。




