第十六章
第十六章
「……落ち着いたか、志津」
泣き疲れて眠り、目をさまして少し大人しくなった志津に、抜刀斉は声をかけた。
「先生……」
刀十郎の死と、仇討ちの情けない真相を思い出し、志津の目にまた涙が滲みそうになった。
「よいよい。泣くだけないてしまえ」
抜刀斉が志津の頭を撫でる。あやすような抜刀斉の手に、志津は落ち着きを取り戻していった。
「先生」
志津は、抜刀斉が自分のことを志津と本名で呼ぶことに気づいた。
「先生、私の名前……」
「ん? ああ。志津というのが、おまえの本名じゃろう?」
「……」
志津は、ちょっと目を丸くして、抜刀斉を見た。抜刀斉は優しく微笑んでいる。
「私が女だって……お分かりだったんですね……」
「うむ。刀十郎も知っておったぞ。わしが話した」
志津は、言葉が出なかった。だから、刀十郎は自分を命がけで守ろうとしたのか。
刀十郎。
志津の目から涙が一粒、滴った。
「飯でも食うか?」
抜刀斉が慰めるように声をかける。志津は小さく頷いた。刀十郎が命がけで守ってくれたこの命。大切にしなければ、刀十郎に怒られる。
うらうらとのどかな快晴。廊下を抜刀斉と歩きながら、志津は静かだなと思った。
「長兵衛の奴、まだのびとるんじゃろう。あいつを起こして、皆で一緒に飯を食うか」
この滑稽な騒ぎの源である長兵衛のことを思うと、志津は情けなさと腹立たしさを感じた。平手のひとつも食らわせてやりたい。志津はむかむかと、長兵衛と会った部屋に走った。
「長兵衛! 起きなさいよ!」
スパーンと障子を開ける。部屋には誰もいなかった。
「長兵衛め、目を覚ましおったか。どこに行ったんじゃろ」
あの騒がしい男なら、どこにいてもすぐに分かりそうなものである。抜刀斉は首を傾げた。
「探してきます!」
志津は言うと、駆けていった。
「さてさて、刀右衛門殿も起こしてこようかの……」
刀十郎の死と長兵衛の騒ぎで、すっかり刀右衛門のことを忘れていた抜刀斉、やっと彼のことを思い出した。刀右衛門にあてがった部屋に向かう。
部屋の前まで来て、抜刀斉は深呼吸した。一人息子を失った刀右衛門のことを思うと、心が重くなる。
「刀右衛門殿」
抜刀斉はそっと声をかけ、障子を開いた。
無人であった。
「ハテ、刀右衛門殿までが、いなくなっておるとは……」
「先生」
志津が戻ってきた。
「長兵衛が、どこにもいません」
「おかしいの」
「どこに行ったのかしら、長兵衛、あいつ……ホントにもう……腹が立つったら」
忌々しく呟く志津。抜刀斉は、死ぬ死ぬと叫んで錯乱していた長兵衛の様子を思い出し、嫌な予感がした。
「長兵衛め、まさかあいつ、刀十郎の後を追ったのでは……」
しかし、刃物は隠してある。すると、長兵衛はどこへ行ったのか。
「刀十郎の後を追ったって……」抜刀斉の言葉にぎょっとなる志津。
「冗談じゃないわ! これ以上、死人が出てたまるものですか!」
「ううむ。長兵衛め、もしかしたら、刀十郎が死んだ崖に行ったのやも……」
志津は、裏道の険しい崖を思い出し、ぞっとした。
「行くぞ!」
「はい!」
抜刀斉と志津は、争うように走り出した。
「長兵衛! 早まるなよ!」
「そうよ! 地獄の果てまで刀十郎につきまとうなんて、許さないんだから!」
しかし、崖に到着した二人が見たものは、崖縁に脱ぎ揃えられた長兵衛の履き物であった。
「……」
抜刀斉と志津は、絶句した。
遅かった。また、死ななくてもいい者が死んでしまった。抜刀斉と志津は立ちつくした。
長兵衛は、刀十郎の後を追ったのだ。愛しい人と同じ死に方をしたのだ。なんという。
「男色も、ここまで来ると天晴れよな……」
抜刀斉は、崖下の荒ぶる海を見下ろし、「南無」と唱えた。
打ちひしがれながら、抜刀斉と志津はとぼとぼと力無く道場に戻った。道場には、門下生たちが集まりはじめていた。
「先生! おはようございます!」
「うむ……」
元気良く挨拶する若者たちを、抜刀斉と志津は眩しそうに見た。
「人間は、生きておらねばならぬ」
「まったくです」
刀十郎に長兵衛、立て続けに人が死んだので、抜刀斉と志津はやるせない無力感に襲われていた。そんな二人には、門下生たちの若さと元気の良さが、眩しかった。
「政野助殿ぉぉ。飯はないのですかぁぁ」
釜の中が空っぽなので、門下生たちは情けない声を出した。志津はクスッと笑った。若い門下生たちの食い意地を意地汚く思ってきたが、今は微笑ましく思えた。食うことは生きることだ。
「今、支度をします」
厨房に向かう志津に、抜刀斉は声をかけた。
「刀右衛門殿の分も、拵えておいてくれ」
「刀右衛門?」
「刀十郎の父親じゃ。長兵衛と一緒に、道場に来ておったのじゃ」
刀十郎の父親。志津は、辛くなって目を伏せた。
「刀右衛門さんなら、道場を出ていかれましたよ」
抜刀斉と志津の会話を耳に挟んだ門下生が言った。
「出ていった?」
「ええ。なんだか思い詰めたような形相で。政野助め、殺してやるとか、物騒なことを言いながら」
門下生は心配そうに、志津を見た。
「政野助殿。何か恨まれるようなことでも?」
抜刀斉と志津は顔を見合わせた。
刀右衛門は、刀十郎を殺したのが与五郎だと知らないのだ。息子が政野助に殺されたと思っているのだ。
「……大変」
志津は顔を覆った。
「刀右衛門さんは勘違いしている……。仇をとる気だわ。兄様が。兄様が危ない」
「兄様? 志津、政野助というのは、おまえの兄なのか?」
「そうです。政野助は私の不甲斐ないどうしようもない兄なのです。だから私は、兄の代わりに男装して……」
「なんと」
抜刀斉は驚いた。
「刀右衛門殿は、息子の仇を討つ気だわ。兄様を殺す気だわ。大変。兄様、殺されてしまう」
志津は青くなった。情けない兄ではあるが、唯一の肉親である。なんだかんだ言いながら、志津は兄が好きだった。何も知らないのほほん兄は、刀右衛門に命を狙われている。
「ええい、これ以上、滑稽な仇討ちが続いてはかなわんぞ!」
抜刀斉が叫んだ。愛弟子が死に、長兵衛が死に、さらに政野助まで殺されてはたまらない。
これ以上、無意味に人が死んではいけない。抜刀斉は拳を握った。
「志津、何をボウッとしておる! 仇討ちを止めにいくぞ!」
「あ、はい!」
抜刀斉と志津は、慌てて旅支度を整えた。
仇討ちを止めなくては。政野助を助けなくては。
兄様。無事でいて。
志津は、抜刀斉と共に、祈る思いで道場を出立した。
向かうは、江戸である。




