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仇討ち騒動記  作者: dydy
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第1章

第一章


 清川長兵衛は、自室で一人悶々としていた。

 今、江戸の町は参勤交代の諸国大名らで賑わっている。だが明日以降彼らは順次引き上げることになっている。

「ああ」

 長兵衛は、今日何度目か知れぬため息をついた。彼がこのように悩むのは珍しいことだった。縁側から表を見やると、一刻一刻と日が沈んでいくのが目に入った。おお、あれが沈みきり、再び東の空に上がる頃には、××藩の一行は国元に帰ってしまうのだ。

「刀十郎殿……」

 長兵衛は、吐息混じりに呟いた。

 目加田刀十郎は、××藩の若侍で、主君に伴って江戸に上がっている。

 刀十郎は水際だった美形の若者で、長兵衛は一目彼を見て以来、雷に打たれたようになってしまった。長兵衛は刀十郎の美貌に打たれてからというもの、彼のことが心に焼き付いて離れないのであった。

「これが恋というものか」

 長兵衛は沈みゆく夕日を眺めながら、切なく胸を掻きむしった。こんな気持ちは初めてである。

 長兵衛は今まで、自分のやりたいようにやってきた。そのため周囲はかなり迷惑してきたのだが、長兵衛はそんなことなど気にかけなかった。いつだって何だって押し通してきた。それで当然だと思っていた。

 しかし、刀十郎の出現で、長兵衛はすっかり内気になってしまった。物陰からそっと愛しい人を窺うだけの、臆病者になってしまったのだ。いつもの長兵衛なら、いらないものは叩き壊し、欲しいものは力づく、己が欲求のままに行動していたというのに。

 ここで長兵衛の名誉の為に一言添えておくと、この時代、武家において男色は現代ほど目の敵にはされていなかったらしい。長兵衛は自分の恋を異端だと思うことはなかった。

「おお、恋というものが、一端の武士をこれほど不甲斐なくしてしまうとは」

 長兵衛は呻いた。

 刀十郎のことを思うと、胸に疼痛が走る。明日になれば、愛しい刀十郎は江戸からいなくなってしまう。もう二度と会えぬかもしれぬ。

「おう、なにをグジグジ悩んでおるのだろう! 俺らしくない! 清川長兵衛は、やりたいことをやれば良いのだ!」

 長兵衛は顔をあげると、がばと立ち上がった。


 目加田刀十郎は、口笛でも吹きそうな上機嫌で、帰り支度を進めていた。

「ああ、やれやれ。やっと国に帰れるぞ」

 江戸から離れられる、あの不気味な旗本から離れられると思うと、刀十郎は自然、顔が綻ぶのであった。

 刀十郎が江戸に上がったのは今回がはじめてであり、若い刀十郎は、最初は何もかも珍しく楽しかった。しかし、清川長兵衛という旗本が現れて、刀十郎の観光気分は吹っ飛んでしまった。

 仕事で長兵衛と顔を合わせて以来、長兵衛は毎日のように刀十郎の行く先々に犬のように待ち構え、じいいっと見つめているのである。

 気ィィィ持ち悪いったらありゃしなかった。

「なんなんですか」と、ついに堪らなくなって問いつめると、長兵衛はポッと頬を赤らめて「愛しておるのじゃ」と呟いた。

 この時、赤面する長兵衛と反対に、刀十郎の顔からザアッと血の気が引いたものである。

 うすうす、もしや男色かとは思っていたが、それが確定して、刀十郎は震え上がった。

 刀十郎には男色の趣味は金輪際無かった。

 刀十郎にとって、長兵衛の想いは災厄以外の何物でもなかった。

 畜生、なんであいつの目に止まったのが、よりにもよってこの俺なんだ。江戸は男だらけの町だっていうのに。自分だけ悪い食い物に当たったようだ。腹立たしく、気味悪くて仕方なかった。

 けれどけれど、もうこんな不気味な思いからはおさらばである。あの旗本も、まさか江戸を出て××藩まで追っては来まい。

 さて、今日は安らかに寝るとするか……と、刀十郎が行灯の火を消そうとした時。

 ほとほとほと。戸を叩く音がした。

 ハテ、こんな夜分に何者であろう。刀十郎は首を捻った。

 まさか、あの旗本か?……と考え、刀十郎は身構えた。

「江戸城の使いでございます」と、訪問者は扉越しに言った。

 江戸城と聞いては捨て置けぬ。こんな時間に一介の若侍の元に、恐れ多くも江戸城の者が訪れるとは不審であったが、刀十郎は居住まいを正して、扉を開けた。なに、俺も武士、曲者であったら、返り討ちにしてくれる……。

「はぎゃっ!!」

 戸を開いた途端、刀十郎の喉から妙な悲鳴があがった。曲者なら返り討ちという、先程までの勇ましさも吹っ飛んでしまう。

 そこに立っていたのは、なんと清川長兵衛であった!

 刀十郎が慌てて戸を閉めようとすると、長兵衛は、はっしと戸を掴み、にじりにじりと室に入ってきた。

「き、清川殿! なぜここに?」

 後じさりながら、刀十郎は問うた。江戸城の使いなどというのは、無論嘘である。

「なぜ、とは……刀十郎殿……分かっておるであろ……」

 分かりたくない。刀十郎は首を振った。

「いい加減にしてください。出てってください」

 怒りよりも気味悪さから、刀十郎は言った。これが普通の曲者であったなら(曲者に普通も何もないが)、刀十郎は躊躇い無く戦ったであろう。しかし、長兵衛の異様な想いは刀十郎から戦意を萎えさせた。

 気味悪いよー……今までは不気味に外から見つめているだけだった長兵衛が、宿にまで押し掛けてきたので、刀十郎は震え上がった。

「ああ、刀十郎殿。そなたは、どこまでもつれないお人。最後の情けに、それがしの切ない想いを、ききいれてはくださらんのか?」

「なんで私があんたの想いをききいれにゃならんのですか。出てってくださいようう。これだけ嫌がってるんだから、もう諦めてくだされい」

 にじり寄られ、刀十郎は情けない哀願調になった。涙目になる。しかしそれは逆効果、刀十郎の潤んだ瞳に、長兵衛の欲情はさらに燃え上がった。

「諦めきれるものなら、夜這いをかけたりはせんわ。ええい、刀十郎殿。どうしてもどうしても受け入れてくださらぬなら、力づくで……」

 長兵衛の双眼が怪しく光った。刀十郎は戦慄した。

 殺られる……じゃなくて、犯られる。

 長兵衛が飛びかかってきた。刀十郎は真っ青になって右にかわした。

 冗談ではない。犯されてたまるか! 逃げねば!

 刀十郎は戸口に向かって駆け出した。

「刀十郎殿、逃がさん!」

 長兵衛が追いすがる。長兵衛は刀十郎に組み付いた。床に転げる長兵衛と刀十郎。

 男二人の珍妙な格闘を、行灯の明かりがゆらりゆらりと照らし出す。

 長兵衛が刀十郎を組み敷く。刀十郎は暴れるが長兵衛の腕は緩まない。塚原流免許皆伝の刀十郎でもかなわぬ、凄い力である。恋の一念であろうか。

「刀十郎殿ぉ! 愛しておるぞぉ!」

「嫌だーっ! 嫌だーっ! 誰か助けてくれええ!」

 叫ぶ刀十郎の口を、長兵衛の唇が塞ぐ。

「□▲◎☆◇↑←!!!!」声にならぬ悲鳴をあげる刀十郎。

 長兵衛は刀十郎の唇を散々吸ってようやく口を離すと、今度は鎖骨を嘗め始めた。刀十郎の全身に鳥肌が立った。だが長兵衛にがっちり捕まれ、逃げられない。

 このままでは、とんでもなくおぞましいことになってしまう。嫌すぎる。だが力ではかなわぬ。何か、何かないか。

 床に倒された状態で周囲を見回す刀十郎。鞘に入った刀が、彼の目に留まった。刀十郎は死ぬ者狂いに腕を伸ばし、武器を取った。

 刀十郎は渾身の力を込めて、長兵衛の急所に、鞘にはいったままの剣を叩き込んだ。手加減する余裕などない。

 鈍い音が、室に響いた。

 長兵衛は刀十郎に覆い被さり、伸びた。

 静寂。

「はあ……」

 動かなくなった長兵衛に、刀十郎は安堵の息をついた。やがて彼のはだけた胸に、何かどろりと暖かいものが垂れた。

「む?」

 刀十郎は身を起こした。その拍子に、長兵衛の体がごろりと転がる。刀十郎は自分の胸元を見下ろし、息を飲んだ。

 血であった。

 もちろん、刀十郎のものではない。

 刀十郎は傍らの長兵衛を見やった。

 抜き身の剣ではないとはいえ、急所に渾身の一撃を受けた長兵衛は、血を流して動かない。刀十郎は唖然となった。

「き……清川殿?」

 刀十郎は動揺しながら、長兵衛の様子を窺った。反応がない。揺らしてみる。ぐったりしたままである。息を確かめる。呼吸が止まっているようだ。

「うわっ!」

 刀十郎は仰天して長兵衛から手を離した。

 死んでいる!

 刀十郎の全身を氷のような悪寒が貫いた。

 武士とはいえ、太平の世。刀十郎は、今まで人を殺したことなどなかった。

 罪悪感や恐怖や悔恨よりも、驚愕が刀十郎を襲った。

 人を殺してしまった……。

「どうした? どうした? 騒がしいな」

 今更になって、宿周辺の者どもが、駆けつけてくる気配。刀十郎は反射的に、殺人を犯したことそのものよりも、捕まることに恐怖を覚えた。

 刀十郎は、動かなくなった長兵衛を見下ろした。相手の好悪などお構いなしで、己が欲望を満たそうとした男。男色の変態野郎。

 殺してしまったとはいえ、不可抗力、正当防衛のようなものではないか。

「こんな男のために、捕まってたまるか」

 刀十郎は嫌悪で慚悸を振り払うと、者どもが駆けつけてくる前に、宿を飛び出した。

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