平穏な日々 ~皇太子と、皇太子妃と、宝石姫~
皇太子妃ディアーナの朝は早い。
専属侍女に起こされる前に起床、処理する予定の書類や当日の予定と時間をひと通りチェックし、新しく迎え入れたナーサディアを始めとした宝石姫達の予定も確認をする。
そして、愛娘といわんばかりに可愛がっている皇太子の宝石姫であるティティールの予定も。幼い彼女には公務という明確なものは無いが、出自が一般家庭であるから貴族としての教育が必要不可欠とされている。
ウィリアムの養女として迎え入れられているため、皇族としての教育も必要だ。
「(ティティは…あぁ、今日はナーサディアとお茶をするのね)」
普段はさほど感情を表に出さないディアーナも、ティティールのことに関してはつい口元が緩んでしまうらしい。
「最初は…わたくしが勝手に身構えてしまったのよね」
苦笑いを浮かべ、ここにやってきたばかりのティティールを思い出していた。
「ナーサディアほどまではいかなくても、あの子はあの子で大変だったわ…」
初めて、ティティールと出会った日のことは、今でも簡単に思い出せる。
皇太子妃候補として選ばれ、幼い頃から厳しい皇太子妃教育を受けてきた。他の候補達が外されていく中、『さすがカストリーズ公爵家ご令嬢だ』とほめられ、ついに自分が選ばれた時は嬉しかったのを覚えている。
ウィリアムとも、政略結婚をすると分かっていても仲は良く出来ている。
だから、彼女は怖かった。
ウィリアムの宝石姫が現れた、と聞いた時、頭の先から一気に冷えたのは未だに記憶にあるほど。
皇族に嫁ぐ者として宝石姫の話は日々聞かされていたけれど、必ず宝石姫が現れるわけではないとも言われていたから、少し気が緩んでいたのかもしれない。
宝石姫は皇族の魂の番とも言われる、特別な存在。愛されるべき姫。何故女性ばかりなのか、どうして男性の宝石姫…もとい宝石王子と言われる存在は居ないのか。色々と調べたりもしたが、そもそもの存在が御伽噺レベルなのだ。
ここ数十年は現れることが無かったが、ついにこの日が訪れた!と大臣たちは歓喜していた。皇帝夫妻もその中に含まれている。
だが、それこそがディアーナが恐れていたこと。
自分だけを愛してくれだなんて、そんな高望みはしない。そもそも、ディアーナとウィリアムは政略結婚なのだから。親からも口酸っぱく言われている。関係性が良好であるからこそ、恐怖が勝ってしまった。
「…ウィリアム様…っ」
ウィリアムが宝石姫を迎えに行った日。ディアーナは、隠れて泣いていた。ついにこの日が来てしまったのだと、怖くてたまらなくて、どうしようもない虚しさや怒りのような、嫉妬とも言える感情が胸の中をぐるぐると忙しなく巡っていた。
魂の番とも言われる存在が適齢期の女性であれば、自分など簡単に捨てられてしまうかもしれない。自分はお飾りの正妃として生きねばならないのかもと悩み、泣いてしまった。泣いてもどうにかなるわけではないと理解しているのに頭が追いつかない。
いつか来るはずだったその日が、今こうして来たのだと。自分に必死に言い聞かせて、泣きやめ、早く涙を止めろ、と己に更に重ねて言い聞かせた。
どれほどの時間、そうしていたのだろうか。
ようやく泣き止んだが、その瞬間の記憶が無い。ひりひりと目の端が痛んでいるし、ソファで泣き続け、泣き疲れてそのまま眠ってしまっていたらしい。体を起こせばもう日が暮れそうになっているではないか。
どうやら、侍女達がかなり気を利かせてくれていたようで、一人の時間を守ってくれたようだ。後でお礼を言わなければと思い、泣き腫らした目を水魔法を器用に発動させて冷やしていく。
少しでもましな顔で帰ってきたウィリアムに会わねば、と水の温度を低めにしていたが、長い時間涙を零していたせいかなかなか腫れが引きそうになかった。
そうこうしているうちに、何やら城の雰囲気が変化していることにディアーナは気付いた。
「…戻られたのね」
気配を探知するための魔法を使えば、こちらにやってくる気配が二つ。
「…まぁ…真っ直ぐ、こちらへいらっしゃっているわ」
そんなにも見せつけたいのか、とやけを起こしかけるが、それではいけないと『王太子妃ディアーナ』として冷静に、時に冷たく、優しくもある淑女の仮面をつける。そうすれば、やってくる二人を心からでなくとも祝福できると思ったから。
「失礼するよ、ディアーナ」
コンコン、とノックされこちらを窺うような、いつもの優しいウィリアムの声が聞こえる。心なしか弾んでいるようで、それはディアーナの心をちくりと刺した。
「……どうぞ」
声が震えないよう我慢して、冷静に発声する。
扉が開かれ、その先に二人で並んでいると思われたウィリアムと彼の宝石姫。
だが、いたのはウィリアムと、彼の腕に抱っこされている予想に反した幼い子供。しかも、うっすらと髪や肌も汚れ、少し震えていた。
「…え?」
「紹介しよう、ディアーナ。わたしの宝石姫、水の加護をアクアマリンに宿したティティールだよ」
子供?とディアーナは心の中で呟いた。
ぼんやりと、どこか焦点の合っていないような瞳。ちらりとディアーナを見たもののすぐに視線を逸らしたが、困惑した様子で、今にも泣き出しそうにしているではないか。
「あ、の…ウィリアム様、その女の子が…?」
「…あぁ」
少しだけ、苦い顔をしてウィリアムは優しくティティールの頭を撫でている。
ディアーナは自分の予想が外れていたことに安堵しながらも、自分が学んできたことが実はさほど役に立たないのではないかと、そう思い始めていた。
かつて学んだ宝石姫という存在。
皇族の魂の番たる存在、と聞いていたから、思い込んでいたのだ。貴族の娘であると。誰も『宝石姫の身分は高いものであり、高位貴族から輩出される』など言っていないのに。
「その子は、どうして…その、」
「あまり詳しくは聞けなかったが、ご両親が流行病で亡くなったそうだ。孤児院に行く寸前のところでわたしの迎えが間に合い、こうやって連れてきたんだ」
「まぁ…」
連れてきた、ということはこの国の者ではない可能性が高い。
こつ、とヒールを鳴らして歩み寄るとティティールは少し怯えたように体を竦ませた。
「…大丈夫?どこか、いたいところはなぁい?」
優しく、怖がらせないように微笑んで、それだけ問うた。
「……ぃ、じょ、ぶ」
優しい声色に気が緩んだのか、ひく、としゃくり上げながら、途切れ途切れに答えるティティールに頷きかけた。
ぼろ、と涙が溢れ、必死にティティールはディアーナへと手を伸ばした。
「わ、わわ、こ、こらティティール。暴れちゃいけない!落ちてしまうだろう!」
「はなし、て!いや!」
「ウィリアム様、彼女を離して!」
少し開けていた距離を詰め、差し出された手に応えるよう、ティティールへと手を伸ばせば、必死に短い腕を更に目いっぱい伸ばし、抱っこしてほしいと言わんばかりにしている。
「おねえ、ちゃん!」
一人っ子だからか、そうやって呼ばれたことはないなと思いながらも、どこか胸が温かくなったのを感じた。
小さな体でぐずぐずと泣いて縋るティティールを優しく抱きしめ、背をぽんぽんと優しく一定のリズムで叩いてやると、遠慮なくぎゅうぎゅうと抱き着いてきた。
「どうしましたの? …怖かった? ごめんね、いきなりでびっくりしたでしょう?」
「ぅ、ぁ…っ、……お、かぁ…さ……、……と、…さん……」
しゃくり上げながら途切れ途切れに聞こえた、父と母を必死に呼ぶ声。
両親が流行病で亡くなって、一体この子はいつまで独りぼっちになっていたのだろうと思うと、ディアーナも胸が締め付けられるような想いだった。
周りにいる侍女達は、ディアーナのドレスが汚れてしまうことを心配していたけれど、そんなことを気にしている場合ではない。
緩く背を叩き続けながら、ちらりと侍女に視線をやってから、優しい声音ながらもはっきりと言い付けた。
「貴女方、ぼうっと立っていないで湯浴みの支度をしなさい。それと、温かなスープも用意なさい。カボチャか何かを使って、胃に優しいよう味付けは控えめに。とろみがついていると食べやすいから良いかもしれないわね。勿論着替えもよ、早く」
「は、はい!」
バタバタと走って準備に向かう侍女達を見送り、腕の中で震えているティティールへと視線を落とした。
それとほぼ同時、ティティールがぱっと顔を上げて真っ直ぐにディアーナを見た。
「まぁ…」
左目の下、確かにそこに光って存在を主張しているアクアマリンがあったのだ。
「大丈夫よ、もうここは寒くもないし、暑くもない。お腹を空かせることもないわ、…わたくし達の可愛い娘」
「…む、すめ」
「ええ。嫌かしら?」
「ディアーナ…」
何ともまぁ調子が良いものだと、この話を聞いた貴族令嬢たちから影では散々な言われようだった。
けれど、この子に罪は無い。何か悪さをした訳ではない。望んで親が死んだ訳でもない。
悪い方に勝手に考えてしまったのは自分なのだから、いくら言われても構わなかった。それは本当のことだから。
それよりも、宝石姫という特別な存在ではあるが、それ以上に守ってあげなければならない、小さな女の子。きっとウィリアムならこうしているだろうと、自ら彼女を『娘』と呼ぶことで意志を示した。
ありがとう、と泣き出してしまいそうなウィリアムの声や、自分に抱きついて泣きじゃくっている小さなティティールを、今ここで突き放したり、見捨てたりなんかしたくなかった。
早々にティティールを養女として迎え入れる準備をしなければいけないと、頭の片隅のやることリストに加える。
だが、まずはこの子を安心させてあげなければと、柔らかく優しい口調で言葉を続けた。
「まずはお風呂から、かしら。次はご飯を食べましょう。そうしたら、ゆっくり眠りなさい。そうだ、お話もしましょう。ティティール、だったかしら、あなたの事をわたくしに教えてほしいわ」
「……!」
目をきらきらと輝かせ、首が取れてしまいそうなほど、勢いよく何度も縦に振るティティール。
少しでもこの幼い子供が安心できるように、落ち着けるように背中を緩やかなリズムで叩いてやりながらディアーナは続けた。
「ティティール、後でいっぱいお話するんだから、泣いてばかりいちゃ駄目よ?せっかくなんだもの、笑ってお話したいの」
うんうん、と何度も頷いてごしごしと乱暴に涙を拭う様子が、本当に可愛らしくて、愛おしくて。
本当に我ながら調子が良いとは思うが、『娘がいたらこんな感じなのだろうか』と考えてしまった、と後にディアーナは語っている。
「色々あったわね…」
ふふ、と笑ってから、表情を引き締めて書類の確認を済ませてしまう。
もうすぐで、ディアーナ専属の侍女達が身支度のためにこの部屋にやってくる。
朝食はウィリアムと、ティティールの三人で、と決めているから、手早く準備をしなければいけない。
「ティティールがここに来て、もう三年になるのね」
やって来たのは五歳の頃。今は八歳。
すっかりディアーナとウィリアムを父母と慕い、存分に宝石の加護も帝国全体に送り届けてくれている。
精霊樹への祈りもきちんと捧げているし、親馬鹿と言われようともティティールが可愛くて仕方ないのだ。
「…さ、支度をしなければ」
言い終わるとほぼ同時、部屋の扉がノックされる。
「どうぞ入っていらして」
声をかけるといつもの侍女達が頭を下げて入ってきた。
「今日は水色のドレスにしましょうか。ティティとお揃いの色が良いわね」
「かしこまりました」
微笑んで侍女たちも頷き、クローゼットから言われた通りの色のドレスを数着取り出してくる。
「皇太子妃様、どの形にいたしましょう?」
「そうね…今日は公務で出かけるから、シンプルな…それにしようかしら」
どれにしますか?と侍女達が数人並んで色は同じでも形が違うドレス達から、指さした先にあったのはAラインのシンプルかつ、腰の辺りに付属の華奢なチェーンベルトを巻くタイプのもの。
「かしこまりました」
着替えを済ませ、長い髪を動きやすいように結い上げてから、三人でよく朝食を摂っている部屋へと向かうと、『お母様!』と自分を呼ぶ可愛らしい声。
「おはよう、わたくしのティティ。ウィリアム様も、おはようございます」
「やぁ、おはよう。今日はティティとお揃いの色なんだね。似合っているよ」
お揃い、という言葉にご機嫌な様子で微笑んでいるティティール。
やってきた頃は両親が亡くなって、ほぼ食事を摂れていない状態でほっそりと痩せていたが、今ではすっかり改善されている。
そういえば、と不意にナーサディアのことも思い出す。
やってきた直後はひどく顔色が悪く、体もほっそりとしていたけれど、カレアムにやってきてすっかり改善されてきているようだ。報告書はきちんと読んだ上で彼女の境遇も理解はしており、ストレスのかからない環境がいかに大切なのかが理解出来た。
「ウィリアム様、…わたくし、色々な事が学べましたわ」
「ん?」
「ティティに出会えて、ナーサディアやファリミエとも出会えて。…わたくし達がどれだけ恵まれた環境にいるのか、どうしたら皆がより良く過ごせるのか、それは民も皇族の皆様も含めて考えなければならない事で…。この数年間で貴重な経験ができているな、って思いましたの」
「そうだね」
「ティティ、今日はナーサディアとお茶会するのよね。今度、お母様も混ぜてくれるかしら?」
「勿論!その時はお父様も来てくれる?」
「ティティの頼みなら」
「あらウィリアム様、公務優先にしてくださいませ」
「お母様ってば厳しい…」
「わたくし達は、皇族とそれに連なる者ですからね。でも、なるべくなら叶えられる範囲でティティのお願いは叶えますよ」
飴と鞭を上手に使い分けるなぁ、としみじみ思うウィリアムだが、公務を放ったらかしにしてまで、我が姫と遊ぶ訳にはいかない。皇族であり、未来の皇帝に成る者として、人々の信頼を裏切るわけにはいかない。
最初はティティールも泣いて嫌がった。お父様と遊びたい、と泣いて周りを困らせたりもしたが、ティティールの望み全ては叶えられなかった。
ディアーナが根気強く言い聞かせ、色々な事を調整してくれたから幼いティティールは驚くべき心の成長を遂げたのだ。
そうして成長してくれた、血の繋がりはないけれど大切な娘。彼女は皇太子と皇太子妃を父母と呼んでくれている。
いつか子を授かったとしても、分け隔てなく、愛おしい気持ちに変わりはないのだとそう思いながらほんの少しの我儘を言っているティティールに、ディアーナは柔らかな眼差しを向けるのだった。
「お父様、コレ嫌いだから代わりに食べて?」
「よしよし、お父様が食べてあげよう!」
「いけません。ティティ、きちんと人参もお食べなさい。ウィリアム様、お願いされたからって甘やかしてはいけません」
時には、そんな会話が繰り広げられる皇太子御一家。