6.この気持ちに名前をつけるなら
「殿下、まずはこの書類に目を通して下さい」
そう言ってルティナに渡された書類は、マディアナ地方の治水管理についてだった。マディアナ地方か。あそこは美女が多いと有名な土地だったな。雪国で色白美人が多いとか…
「どう思われますか?」
「うむ。雪が多くてそこに住む女性は大変であろうな」
そう言うと、ルティナは無の表情になりそっと色々な資料を俺の前に置いた。
「地理と気候が頭に入っているだけ良いとしましょう。殿下がおっしゃった通り、マディアナ地方は雪深く過酷な地域です。最近ハーディス国の温暖化も伴い、雪解けが早まり、川の氾濫、雪崩など自然災害が問題視されています。」
スラスラと言われる内容に、たかが治水というだけでも様々な問題が考えられ、俺の頭の中は若干パニックになっていた。
「雪が降らない間に、河川の防壁や整備を行い、自然災害時の領民たちの避難経路を…」
資料を指差しながら難しい話をするルティナに、俺は自分が情けなくなってくる。何が美女が多い地域だ。ここまで細やかに説明されて、やっと理解できるなんて、王太子失格ではないか…
「…と考えられるため、この予算を運用しつつ、領主との話し合いが必要でしょう。なのでここに王太子の許可印を…。殿下、どうされたのですか?」
落ち込む俺に気が付いたのか、ルティナが俺を覗き込む。
「俺は…本当に駄目な王太子だったのだな…」
そうポツリと言うと、ルティナは少し固まった後、眉を下げて微笑んだ。
「そう気が付くこと自体、殿下は成長されているのですよ。知らなければ学べば良いのです。その為に私が居るのですから」
その言葉に、不覚にも鼻の奥がツンとして、涙が零れそうになった。ルティナは、俺の婚約者になってから、ずっと勉強ばかりして、俺に構ってくれなくなった。遊びに誘っても、勉強があるからと断られ、つまらない女だと幼心に彼女を突き離し、面倒事ばかり押し付けてきた。
いつから、俺はルティナの言葉を疎ましく思っていたんだろう…。
『ディアス様!どうか、もう少し王太子の自覚を持ってくださいませ!』
そう言うルディナに俺は何て返した…?
『うるさい!お前みたいなつまらない婚約者に名前など呼ばれたくない!俺のことは放っておいてくれ!』
その日から、ルティナは俺のことを「殿下」と呼ぶようになった。
そんな思い出が頭の中に浮かび、更に罪悪感が増す。今なら分かるのに。ルティナがどんな思いで王太子妃教育を受け、俺に進言していたのかを…
「さあ、殿下、次の書類は」
呆れるでも、馬鹿にするでもなく、丁寧に俺に説明してくれるルティナに、俺の胸は締め付けられるのだった。
◆◆◆
王太子の執務室から出て、花嫁修業を受けに母上の元へ行く途中、後ろから声を掛けられた。
「ルティナ!良かった、会えて。元気そうだな」
俺よりは劣るが、かなりの美形な男に、胸がムカムカとする。何故ルティナを呼び捨てにする!馴れ馴れしくないか!?
「お前の母上からお前に届けてくれと使者にされたんだ。」
そう言ってケイティーン公爵家の紋章が入った小箱を渡された。こいつ、ルティナの家の使用人か?
ムスッとしながらも小箱を受け取ると、男は優しく微笑んだ。
「良かったな、ルティナ。お前、小さい頃から王太子殿下のこと大好きだったもんなぁ。念願かなって花嫁修業とか、もう頑張るしかないな!」
男の言葉に俺は目を丸くする。
ルティナが…俺を…好き…?
「俺は乳母兄弟として、ずっとルティナを応援してるからな!」
男は手を振って去って行ってしまった。俺はぽかんとしながら、走り去っていく男の背中を見送った。
母上のマナー講座も上の空で、また執務室へ戻る。そこには、集中しながら書類に目を通すルティナの姿があった。
「ルティナ…」
「ああ、殿下。お戻りですか。」
手を止めて、俺に微笑みかけるルティナに、胸が早鐘を打った。自分の顔のはずなのに…どうしてこんなにもドキドキするんだ…
「これ、お前にって渡されたぞ」
照れ隠しのように、ぶっきら棒にさっき男に渡された小箱をルティナに渡す。一瞬驚いた表情をしたルティナは、小箱を受け取り、嬉しそうに微笑んだ。
「ケビンが来たんですね」
あの男の名前を親しそうに呼ぶルティナに、今度はイラつきを覚える。
ど…どうしたんだ俺、ルティナの一挙一動のこんなに反応するなんて…
「ありがとうございます。大切なものだったので、母上に頼んでいたんです。そしたらケビンに届けさせるって文が届いて。ケビン、殿下に何か無礼は働きませんでした?」
お互い名前を呼びあう仲の二人に…どうしてこんなに嫉妬してしまうんだ。乳母兄弟なら…普通に仲が良いだろうに…
「殿下…?」
「殿下と呼ばないでくれっ!!」
思ったより大きな声が出てしまって、自分でも驚いてしまう。それでも、この気持ちは止まってくれそうにない…
「でしたら、何とお呼びすれば?名前で呼ばれるのはお嫌だと以前言われました。」
困ったように眉を下げるルティナに近寄り、椅子に座る彼女の前に立ち、ぐっとその顎に指をかけ、上を向かせる。
ちゅっと口付けを落とし、
「名前で…呼んでくれ…」
そう掠れた声で懇願してしまう。
どんな令嬢と重ねた口付けよりも甘く、ルティナを求めるこの熱い思いは溢れて止まない。
俺は…ルティナを…──
「ディ…アス…様…」
茫然としながらルティナが俺の名を呼んでくれる。その甘い響きに胸が締め付けられた。
引き寄せられるようにもう一度唇が重なる。
「好きだ…ルティナ…」
熱に浮かされるように告げた俺の告白に、その日ルティナが応えることは無かった──