8. 27-Dec.
*登場人物*
アンガス…主人公の少年
アル(アルフレッド)…アンガスの友人の大学生
レオ…ストリートギャングのボス
チャド…売春宿の主人
マリア…アルの彼女
ジム…アルのルームメイト
ビリー・マックス…アンガスのストリートキッズ仲間
目を覚ますと、レオが暖炉の火をおこしていた。アンガスはベッドの上でぼんやりとその後姿を見ていた。気配を感じたのかレオはアンガスに振り向き、「おはよう」とほほ笑み話しかけた。
「やっぱり、暖炉は不便だな」
暖炉に火が灯ったのを確認し、ベッドに腰かけ、アンガスの額にそっとキスをした。
「明日の仕事が、終わったら、引っ越すよ」
レオが自分の顔を覗き込む。
「そうしたら、一緒に暮らそう。もちろん、男娼はやめて…」
まるで、本当のプロポーズだとアンガスは苦笑した。
「なんだよ。その顔は?俺が嫌いか?」
ほんの少し傷ついたようにレオは言った。
「…レオ。そうそう簡単に答えを出すなよ…」
そう言いながら、ポケベルに何度となくチャドから連絡が入っていたのを思い出した。チャドはどちらかと言えば、放任主義だった。客さえ取れば、文句はなかった。だが、これだけ連絡を無視していたら、さすがのチャドも怒っているかもしれない。アンガスはどう言い訳しようか考えずにはいられなかった。
「売春宿に借金でもあるのか?金なら、明日の仕事で入るよ。取引額の5%は俺達の分だ。5%と言っても全体の金額が金額だけに相当な金額だ」
優しいレオの言葉に、アンガスは徐々に不安に駆られた。自分がひどく弱い人間になっていくような気がしたのだ。ずっと一人でやってきたし、それが普通だった。なのに、今は、レオの肩によりかかってしまいそうな自分がいた。暴力で人を脅し、自分を守らなくても生きていけるのだろうか?他人を傷つけることなくこの世の中を生きていくことなどできるのだろうか?暴力はアンガスには生活の一部だ。殴られる痛みは、相手への復讐心となり、それが強さの源になると信じていた。そして、相手には復讐心が折れるぐらいの痛みを与えることにより、決着させるのが、この街で暮らすうちに身につけた処世術だった。
「それだけ、今度の仕事ってヤバい仕事なんだろう?」
利益とリスクは比例する。
「まぁな…」
「死ぬ…とか、怖くない?」
「まぁ…ここだけの話、怖くないことはねぇな。だけど、そんなこと言ってられっか」
「人、…殺したことある?」
「アンガスは?」
アンガスは素直に首を横に振った。半殺しの目に合わせたことは何度もあったが、死ぬほどではなかった。銃も脅し程度に持っていただけで、それで人を撃ったことはない。レオはアンガスよりも5歳年上だった。何より、ボスとしてのキャリアが長い。
「俺は、2、3人ぐらい…。施設にもちょっと世話になったかな」
「…そう」
想像した通りの答えだった。
「怖くなったか?」
「いや。別に…」
怖いとは思わなかった。ただ、怖いと思わない自分が怖いと感じた。何かを失くしているように思えた。それが何かわからなかったが…
アンガスは立ち上がると、脱いでいた服を拾い集め、着始めた。
「どこか行くのか?」
「チャドに連絡しなくちゃ…」
「アンガス。その…、仕事を辞めるとか…、一緒に暮らすとかは、急がないから。返事待つよ…」
そう言うと、アンガスの腕を引っ張り、逆の手で頭を抱え込んで、激しく唇を押し付けてきた。しばらくレオにされるがままになっていたが、やがてアンガスの方から離れた。
「…すぐ戻るよ。明日の件もあるし」
「わかった」
チャドは、乱暴にオフィスの壁板をはがした。そこだけはベニヤ板でできており、手で簡単に外れるようになっているのだ。その奥から金庫が姿を現した。鍵を差し込み、慣れた手つきでダイヤルを回すと金庫は口を開く。金庫の中には現金と拳銃が1丁入っていた。チャドは拳銃を手に持ち、マガジンを外し、銃弾を確認すると、また握りの中に戻し、乱暴にジャケットの中に押し込んだ。それから、金庫の中の現金をつかみ、黒い安物のスポーツバッグの中に押し込んでいった。チャドはイライラと腕時計を見た。
アンガスの連絡が一向にないのだ。
「やばいことになった…」
チャイニーズマフィアのワンから電話があったのは、昨日の朝だった。
最近でかい顔をし始めた新興ギャングがコロンビア人と手を組んでコカインを大量にロンドンにばらまこうとし、チャイニーズマフィアにその情報を掴まれ、警察に垂れこまれたのだ。
昨日の電話は、その新興ギャングの下っ端ギャングがアンガスと最近行動を共にしているから気をつけろ。と、何ともありがたいチャイニーズマフィアからの助言だった。
だが、チャドが気になり、調べ始めると、妙な事に気づいた。チャドは盗品だけではなく、情報も扱っていた。最近は表舞台から遠ざかっており、たいした情報がはいることもなかったが、昔の情報網をフル活用して、調べた。妙な事に警察が動いていないのだ。最初は動いていた気配があるが、うやむやに捜査が打ち切られていた。この意味するところは、一つだ。大物政治家が絡んでいる。新興マフィアは元SASというところまで調べ、チャドははっとなり、オフィスを調べた。盗聴器が仕掛けてあったのだ。最近は情報屋として動いていなかった分、油断していたとしか言えない。
この盗聴器を仕掛けたのは、どこの勢力かはわからないが、とにかく知るべきでないものを知ってしまった。しばらく身を隠す必要が出てきた。警察が動かない分、ますますやばい方向に向きはじめたのは明白だ。とにかくアンガスに事情を聴いて、もし絡んでいるなら止めさせなければならない。
思えば、アンガスとは8年の付き合いになる。仕事で行ったダブリンで出会ったのだ。真冬の真夜中でアンガスを拾った。5歳で驚くほど整った容姿に、一目で使い物になると判断した。容姿だけではない。精神力の強さもチャドは気にいったのだ。チャドの売春宿には女しかいなかったが、金になりそうなことに拘りはなかった。ジプシーのガキが一人消えたところで警察は動かないだろうし、何の障害もなくロンドンに連れてきた。だが、さすがに5歳の子供に客を取られるのは気が引けた。最初の3年ぐらいは下働きをさせたが、子供なりに感ずることはあったのだろう。初めて客を取るように言った時も驚いた風もなく受け止めていた。チャド自身は、幼児性愛者でもなく、同性愛者でもなかった。むしろ幼児性愛者を軽蔑すらしていた。教えるべきことは教えたが、チャドはそう言う意味では、一度もアンガスに触れたことはなかった。初めは泣きながら帰ってくるたびに、妙な罪悪感を覚えたが、それも最初のうちだった。アンガスは自分から決して断らなかったのだ。だが、痣をつけて帰ってきたら、同じ客は絶対に取らなかったし、取らなくてもいいと言い聞かせた。アンガスは体も心も必要以上に早く大人になっていった。客層もずいぶん変わった。アンガスにいれあげ、大金をはたく金持ちが多かった。そんな客を相手にするなら、私生活には口を挟まなかった。ドラッグの取引にはあまりいい顔はできなかったが、危なくならない程度の額ならば問題ないと割り切った。
そろそろ売春をやめたいといいだすかもしれない。チャドはその時どうすべきかずっと考えていた。女は借金の肩代わりとして働くことが多かった。利益は利子に回され、借金はなかなか減らない仕組みになっていたが、借金を返済すれば、望めば解放した。だが、アンガスはどうだろうか。確かに5歳からの養育費と考えれば、仕事を止めさせない口実になったかもしれない。だが、止めたいというアンガスを引き留めることは、自分にはできないだろうとチャドは諦めていた。
レオの部屋から出たアンガスは公衆電話の前で、ポケットに手を突っ込んだ。だが、ちょうどいい小銭がなく、電話を諦めた。だが、帰る気にもなれず、まだ明るい街をとぼとぼと歩いた。
クリスマスホリデーも終わり、平日の珍しく晴れた昼下がりは、静かで穏やかだった。
そんな穏やかさとは対照的に、アンガスの胸の中には、ザラッとした妙な感覚が日ごとに大きくなっているのを感じていた。その原因がわからなかった。明日の件でもなく、レオの件でもなく、昨日、変な別れ方をしたビリーたちのことでもなく…
アンガスはいつのまにか煩い大通りを歩き、白く大きな建物の前にやってきた。通りの向こうには大きな噴水があり、カップルが頬を寄せ合って写真を撮ったり、子供がはしゃいで走り回るたびに、鳩が追われるように羽ばたいていった。
一か月前に、このギャラリーをアルフレッドと訪れた。アンガスは無意識にここに来ていた。そして、足は自然と館内に足が向かった。そして、アンガスは一か月前と同じ道順をたどった。聖母に導かれるように、観光客の間をすり抜け、そして、マリアを見た。
マリアは、ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』を睨みつけ、一心に絵に向かっていた。それは、まわりの世界を切り離し、ただマリアと聖母の対決のように見えた。一昨日、男たちに凌辱をうけたことなど全くなかったように、いや、むしろ、それがあるからこその、美しさと強さを持ち、絵筆をキャンパスに滑らせているように見えた。マリアのキャンパスには聖母の表情が原寸大よりも大きく描かれ、マリアのキャンパスの聖母は慈しみに加え、強さに溢れているように見えた。
真横からマリアのその姿を取りつかれたように見ていたアンガスは、マリアの視線が、突然自分に向けられ、固まった。その目はまっすぐ自分を見ていた。一瞬、無意識に逃れようと体を動かしたとき、
「アンガス!」
とマリアの大きな声がフロアに響いた。観光客と係員の視線が突き刺さった。マリアは係員に目で詫びると、アンガスに手で来るように指示した。アンガスは黙ってそれに従った。マリアが床に座るそのすぐ横に座り、膝を抱えた。マリアは溜息をついて自分を見た。
「久しぶりって、言えばいいのかしら…」
レイプされたのは一昨日だった。あの時、アンガスは笑ってマリアを見殺しにした。アンガスは目をそらすようにダ・ヴィンチの聖母を見て、低い声で言った。
「…俺、別に、一昨日のこと悪かったとは思っていないから」
「…そう。私ね、あの時は、頭が混乱していて、あなたのこと、落ち着いて考えられなかった。ただ、アルとは別れた…」
マリアは、あの後ボロボロになった服を寄せ集め、最初にしたことは、家に帰ることではなく、アルに別れを告げることだった。コンビニで買ったクリスマスカードに別れの言葉を短く添えて、アルのフラットのポストに入れた。それから、なんとか家に帰って、シャワー浴びながら泣いて、そのまま、ひと晩中、泣いて、とにかく泣いて、頭を落ち着かせて考えた。
「落ち着いて考えると、最初は、あなたに対して殺してやりたいくらいの怒りを覚えたわ。でもね、その次に、かわいそうに思ったの」
マリアの言葉は特に怒っているようではなかった。ただ一言、一言が力強く感じられた。
「俺が?かわいそう?レイプされていたアンタを見殺しにしたのに?」
「だって、そうでしょう?暴力が当たり前の夜の街を平然と歩くあなたが、どうして、普通の男の子のふりをアルの前でしているの?週末のお昼のカフェでアルの宇宙の話に耳を傾けるのは、どうして?って…」
その問いに、アンガスは何も答えることはできなかった。
「アルは、あなたのことを気に入って、まるで天使のように言っていたけど、私は、最初からそうは思わなかったわ。綺麗な子だとは思ったけど、普通の人間臭い子だなって思ったの。もちろん、そんな不良少年だなんて思わなかったけど」
「…どうしてアルに、俺のこと言わなかったんだ?」
「言うタイミングもなかったし…。それに、言ったでしょう?あなたがかわいそうだって…」
「注意すべきだろう?言ってしまえば、よかったんだ…。アルに、アンタの天使のアンガスは、ソーホーのストリートキッズのボスで、それに、ガキの頃から男に体売って生きている男娼だって…」
「男娼…」
マリアは息をのみ、手を口に当て、そのまま黙った。
「俺が、普通の男の子のふりをしたのは…、その答えは、きっと、マリアの考えている通りだよ。でも、俺は同情されたくないし、マリアのことも同情しない」
隣で膝を抱え、『岩窟の聖母』を見ている少年を、マリアはしばらく複雑な思いで眺めた。 それから、自分のキャンパスに描いた聖母を見た。
『岩窟の聖母』はいわくつきの絵画である。フランスのルーブル美術館にも同じく『岩窟の聖母』がある。諸説が入り乱れ、真実は今なお、解明されていないが、フランスの『岩窟の聖母』が本物で、ロンドンのほうは弟子が描いた贋作ではないかという説もある。絵には、聖母マリアを中心に、幼子が二人と天使が一人描かれている。左の幼子がイエスであり、右の幼子が洗礼者ヨハネという説もあるが、ロンドンの『岩窟の聖母』では、左の幼子が十字架を持っているため、左の幼子が洗礼者ヨハネとも言われている。
「…アンガス。この二人の幼子のうち、どっちがイエスだと思う?」
突然、マリアが『岩窟の聖母』を指差して、尋ねた。アンガスは少し驚いたが、素直に思ったように答えた。
「左?」
「どうして?聖書に詳しいの?」
「聖書なんてほとんど読んだことないけど、でも、マリアが見ているのは、そのイエスだろう…?たぶん…」
「そうよね。私もそう思うわ」
慈しみをこめて聖母が見つめているのは、左の幼子だ。
「でも、マリア。この絵は偽物だね」
「確かにこれはダ・ヴィンチの弟子が描いたという説もあるわ…」
「そうじゃなくて…。俺はそんなことはよくわからないんだ。ただ、なんとなく一か月前に見た絵と違う気がする」
「まさか。私は1か月以上もこの絵をみているのよ。それに誰かが絵を偽物とすり替えたって言うの?あり得ないわ」
マリアは面白そうに笑った。アンガスもつられたように笑った。一か月前の絵と違おうと一緒だろうとアンガスにはどうでもいいことで、目の前でマリアが笑っていることの方が重要なことに思えた。
ナショナルギャラリーを出ると、すっかり夜の帳が落ちていた。ポケットから思い出したようにポケベルをだした。
チャドは怒っているかもしれない。何となく罪悪感を抱えてポケベルを見た。
『連絡しろ。明日の取引の件』
ポケベルの文字数は多くはない。アンガスは戸惑った。明日の取引の件とは、レオ達とのコカインの件のことだろうか?だとしたら、なぜチャドが明日の件を知っているのか?
スタンドでたばこを買い、小銭を作ると公衆電話に向かった。チャドのオフィスに電話するが誰も出ない。
「まいったな…」
アンガスは仕方なく、チャドの事務所もあり、また自分の部屋のある売春宿へと向かった。
裏通りの売春宿のビルのオーナーはチャドだった。チャドは別の場所に部屋を借りているようだが、ほとんどここで暮らしていたのだ。ビルの上の方は幾つかの居住スペースになっており、数人の売春婦に貸している。アンガスの部屋はそのビルの最上階の屋根裏部屋だった。
まだ夕方だからだろうか明かりのついている部屋は少なかった。ドアを開き、チャドのオフィスに向かった。ドアが少し開いていたが、一応ノックした。
「チャド?俺…。悪かったな。連絡が遅れて…」
そう言って、ドアを開いた。
アンガスの目が見開いた。
腹から血を流しているチャドがいた。
チャドはオフィスのデスクに背を預け座り込み、足を投げ出し、ドアに体を向けるように、でも、首はだらりと下を向いていた。右手には銃が握られている。もともとかなり散らかっているオフィスだったが、いつもよりさらにひどい有様だった。書類や雑誌や新聞紙がばら撒かれている上に、紙幣ははみ出ている安物のスポーツバッグが無造作に放り投げられている。強盗ならば、これを見逃すはずがなかった。
「チャド…」
声をかけても、ピクリとも動かなかった。恐る恐る近づいてチャドの顔を覗き込む。だらりと舌がむき出し、絶命しているのがわかった。
カチッ
アンガスは、後頭部に銃口が押し付けられるのを感じた。
意外にアンガスは冷静だった。
押さえられた銃口を右手で握り、身をかがめると、左手で相手の銃を持つ腕をとり、思いっきり前に投げた。初めてアンガスを見た人間は必ず油断する。相手を非力な青年と判断するが、アンガスの腕力は並はずれて強かった。しかし、その油断を利用できるのは、最初だけだ。すかさず、男が落とした銃をつかみ取ると、投げられた相手に銃口を向け、相手がまだ倒れているのを確認し、次に、ドアの方にも向けた。相手は一人とは限らない。運が悪く予想が当たり、もう一人の男が、アンガスに銃を向け、ドアの傍に立っていた。二人ともスーツを着ており、何かのお約束のようにサングラスをしている。
「誰だ?あんたら?」
「君が知る必要はない。アンガス。君は本当に運が悪い。君まで殺す予定はなかったのだから…」
「チャドは…」
「だから、君は知る必要がない。ちょっと探し物をしていたら、君が運悪く入ってきただけだ。悪く思わないでくれ」
サングラスの男とお互い銃口を向け合いながら、実際は、数秒のことだが、アンガスには何時間にも感じられた。突破口は、ドアの外からやってきた。
「ちょっと〜。チャド。煩いよ…」
眠たそうな女の声が廊下から聞こえ、下着を着た女が三人の男の視界に入った。女は固まった。そして、奥の血を流し倒れているチャドを発見した。
「ひっ…。いやっ…」
背を向けて、逃げようとした女をサングラスの男は撃った。アンガスはその隙を見計らい、ドアから出た。
男二人は自分を追ってくるだろうが、大通りに出れば、大丈夫だろう。まだ夕方である。人通りは少なくない。アンガスは、逃げ足は、速いのだ。しかし、角を曲がったところで、誰も追い掛けてこないことに気づいた。
不思議に思い立ち止まると、爆発音が聞こえた。
それは、今逃げてきた場所からだ。
アンガスは恐る恐る戻ると、売春宿の窓から火が噴き出していた。
男たちの姿はどこにもなかった。
賭博ボクシングの事務所にアンガスとレオはいた。今日は試合もなくひっそりとしている。
深夜12時になる前に、JJと呼ばれる、レオのボスが入ってきた。この賭博ボクシング場は、JJのアジトの一つである。
アンガスとJJは初対面だった。
レオは簡単に経緯を説明した。
「なるほど…。アンガスの雇用主の男が殺され、部屋が何者かによって放火されたと…」
「な?やばいだろう?」
レオは取引の延期を主張していた。
「だが、その雇用主が、こっちの取引と関係があるとは、限らないだろう?」
「だから、アンガスのポケベルに『明日の取引の件』って入っていたんだって!」
「だが、それが、今回の殺害と放火と関係あるとは思えない」
アンガスは黙って二人のやり取りを聞いていた。JJの口ぶりは丁寧だったが、アンガスにはそれが不気味だった。JJは、元SASだけあって屈強な体つきをしていた。背も高くレオと並ぶと、レオが貧相に見えるくらいだ。だが、同じ血が流れているだけあってどこか雰囲気は似ている。JJはダークグレイのスーツを着こなし、ロレックスをしていた。レオが明日の取引を中止しようとわざわざ呼んだのだ。明日の取引までには数回にわたる価格交渉が行われた。取引方法は、紙幣ではなく、ダイヤモンドが使われることになった。そのダイヤモンドは恐らく、今はJJの手元にあるのだろうが、明日の取引は、JJは行かない。レオが行くのだ。レオに任せるのは、やはり血のつながった身内だから、信用がおけるからだろうか。
「JJ。ちょっと聞きたいんだが…」
アンガスは思い切ってJJに気になっていた事を聞いた。
「何だ?」
「ギルバート・バローって知っているか?」
レオが訝しげにアンガスを見ながら言った。
「確か…、企業家だよな?よくチャリティのイベントで見る…」
「あぁ、そのギルバートだ」
アンガスはジッとJJを見た。JJがしばらく考えているようだった。
「…なるほど。アンガス。君はその名前を誰から聞いたのか?」
「誰からも聞いてない」
「何だよ!わかんねぇよ。俺抜きで話を進めるな」
レオがイライラと叫んだ。
「どうして、誰からも聞いていない名前が君の口から出たんだ」
アンガスは肩をすくめた。
「大した理由ではない…」
「アンガス。君は、まさか、その先もわかったとか…」
アンガスは何も答えなかった。それは単なる勘に過ぎなかった。
「参ったな。アンガス。とりあえず、君は何も知らない。だから、誰にも言わない。その方がいいだろう。その殺し屋も、そう踏んで、君を追うのをやめたんだ。わかるだろう?私が言っている意味が」
「わかります…」
埃っぽい事務所は静かになった。
レオはイライラして貧乏ゆすりをしている。
JJがしばらく顎を手でさすりながら、考えて、結論を下した。
「これはここだけの話にしよう。取引は予定通り、明日行う」