7. 26-Dec.
*登場人物*
アンガス…主人公の少年
アル(アルフレッド)…アンガスの友人の大学生
レオ…ストリートギャングのボス
チャド…売春宿の主人
マリア…アルの彼女
ジム…アルのルームメイト
ビリー・マックス…アンガスのストリートキッズ仲間
クリスマスの翌日は、ボクシング・ディー。クリスマスに貰ったプレゼントを開封する日である。この日ほど子供達の笑顔を見られる日はないであろう。
売春宿もクリスマスは休みである。
チャドは、自分のデスクとソファが書類とガラクタで埋まっている地下に構えたオフィスで朝を迎えた。
大きく欠伸をして、持ちこまれた盗品の引き取り先をリストアップする。美術品はほとんどがガラクタだが、意外なお宝が眠っていることも少なくはない。チャドの鑑識眼はその辺の美術商よりも勝っているとの評判である。チャドは、価値のないものを高く売りつけることは滅多にしないが、価値があるものでも騙して安く手に入れることはしばしばあった。この世界では当然のことだ。泥棒に入るのは、できそこないの犯罪者である。価値も分からずに盗ってきて、正規のマーケットでは扱えないものがここに持ちこまれる。組織的な窃盗でも実際に現場で窓を割ったり、警備員を羽交い絞めにするのは、組織の末端の人間である。
だが、数年前より、まだチャド自身がこの界隈の表舞台で動いていた頃から、噂とも、伝説ともいえる窃盗団がいた。価値のあるモノを盗んでマーケットに出すのではなく、欲しいものを依頼すれば、ほぼ100%の確率で手に入ると言う窃盗団だ。主にヨーロッパで活躍し、組織には属さず、気に入った依頼だけを受ける。その成功率からどこの国のマフィアもこぞってスカウトしたとかしないとか。実しやかに囁かれた噂だが、噂以上のことは何も分からなかった。噂では東洋人の二人組みということだが、本当の国籍も、本当の人数も何一つ分からない幻の集団。名作が盗まれるたびに、「彼らでは?」と囁かれるが、実際は違うとチャドは思っていた。ニュースになるような強盗は、彼らではない。チャドはもっとスマートで小説のような泥棒を思い描いていた。
彼らならば、盗んで、贋作にすり替えるだろう。誰も気づかないうちにホンモノは盗まれている。実際、ルーブルはモナリザを科学調査もした本物だと言い張っているが、誰がそれを証明できると言うのだ。ロンドンのナショナルギャラリーもテート美術館も、さて一体どのくらいの本物が残っているのやら。
有名な作品は闇のマーケットでも売るのは難しい。それでも、自分の家の地下でうっとりと一人でフェルメールやムンクに頬ずりしている愛好家が少ないとは思わない。
チャドは自分の想像に満足しながら、安物の絵画を額縁にはめ込んでいった。
その時、電話が鳴った。朝っぱらから、と文句を言いながら受話器を取った。
『久しぶりだな。チャド』
「…ワンか?久しぶりだな。元気にやっているか?」
チャイニーズマフィアのボスの右腕と呼ばれる男だ。年寄りは朝が早いからな。とチャドは自分もほとんど同じ年だと言う事を棚に上げて、心の中で罵った。
『あぁ、元気さ。悪いな。こんなに朝早く。どうしてもお前に忠告しておきたいことがあってな。昔の馴染だからな』
すっとチャドの顔から表情が消えた。
「なんだ?」
『あぁ、大したことじゃない。お前のとこのガキに、ほんの少し、大人しくするように言っておいてほしいだけだ。お前も折角の秘蔵っ子を失いたくはないだろう?』
昨夜降った雪は、やがて雨となりロンドンの街を潤す。
冷たい雨の音とシャワーの音が混ざり合い、アルフレッドの耳に入り込んでいる。
「アル!いつまでシャワー浴びているつもりだ。早く出てこい。漏らしちまうぜ」
バスルームのドアの向こうからルームメイトのジムの声がするのに気付き、アルフレッドは漸く蛇口を捻る。水蒸気がバスルームを充たし窒息しそうになる。
『アルなんか大嫌いだ』
まるで子供の絶好のようなアンガスの言葉が、壊れたレコードのようにアルフレッドの中で繰り返し響いている。それは、確実にアルフレッドの胸を何度となく、えぐり取るように繰り返される拷問のようであった。
「おい。アル!いい加減出てこい!この部屋にはバスルームは一つしかない!ついでに言うと隣のやつもみんなクリスマス休暇でいない!わかるか?俺の言っている意味?」
ジムの声がどこか遠い国で起きているニュースを伝えているテレビの雑音のように耳に入った。
アルフレッドは濡れた髪を掻き上げ、何度繰り返したか知れない疑問を、心の中でまた繰り返す。
「アンガス…。どうして…?」
「おい!アル!テメェのドアの前に、されたくなかったら、とっとと出て来い!」
今にも壊しそうな勢いで、激しく叩かれているドアを見て、ようやくジムの言葉を理解した。
髪は既に冷たい。
アルフレッドは急いで、バスタオルを体に巻き、ジムにバスルームを明け渡した。ジムはアルフレッドを押しのけ、何とか間に合っていたようだった。
『アルは何もわかってない!』
アンガスの言い放った言葉。
何もわからないとは、何だろうか?
アルは深い溜息を吐く。
バサリと頭からバスタオルが掛かった。
「いつまで濡れたままでいるんだ。風邪引くぞ」
バスルームから出てきたジムは呆れたようにアルフレッドを見る。今朝、コートも着ずにびしょ濡れになって帰ってきたと思ったら、惚けたようにぼんやりとしている。
ジムは僅かに賑わい始めた表通りを、窓から見下ろし、息を吐く。
「ジム。真実って何?」
怪訝な目でジムはアルフレッドを振り返る。
「僕は知りたい」
どうして、アンガスが僕を嫌いになったのか。
どうして、マリアが去ったのか。
どうして、教授が僕を裏切ったのか。
そして、神父は、何故…
「アル。明後日。来るか?取引の場所も分かっている」
ジムはニッと嗤う。
「それが、俺にとっての真実だ」
真実。
そこに、真実が在るのだろうか?
ジムが誘ったのは、単なる冗談だったのかもしれない。それでも、そこに真実があるのなら…
「行くよ」
教えて欲しい。
神は、そこにいるのか。
クラクションの耳障りな振動を受け、アンガスは目を開いた。物憂げな瞳に映るモノは何もなかった。
潰れて久しいパブはチャドの持ち物である。
埃の被ったカウンターに、顔を突っ伏して一晩が過ぎた。
パブに残っていた古い酒を浴びるように飲んだ。
頭が痛んだ。
外は既に暗闇に染まっており、一晩ではなく丸一日過ぎていたことをアンガスは、軋んだ音を立てる扉を開け、初めて知った。
その時、ポケベルが鳴った。
ポケベルの番号を知っているのは、自分にポケベルを渡したチャドだけだ。
客か。
この仕事を続けるのは、なぜだろうか?
考えたくないから、昨日は酒を飲んだ。
これしか生きる方法を知らないからだ。8年もしている。今さら自分の居場所を他で見つけるなんて信じられなかった。
レオの顔が浮かんだ。
レオといれば、体を売らなくて済むかもしれない。
だが、レオとの関係は?
ポケベルには通常、ホテルとルームナンバーがあるはずだが、今日は「HOME」とある。
売春宿に帰れと言うことだ。
珍しいと思った。
あの宿で男を買う客はあまりいない。
女とする客を、男を買う客が嫌がるのだ。
クリスマス明け、街に活気が戻っていた。バスが街を我が物顔で走り回り、クリスマスに隠れていたタクシーも戻ってきた。雪は完全に溶け、ただ、街は未だに濡れていた。
アンガスは、いつものように表通りを避け、細い裏道をホームに向かい、黙々と歩いていた。
その時、後ろから声をかけられた。
「アンガス。どこ行っていたんだ?」
後ろからマックスとビリーが小走りで近づいてきた。
クリスマスイブ以来だった。考えてみれば、一昨日に会ったばかりだ。レオの仲間を殴り過ぎ、2人に止められたのを思い出し、苦笑した。
笑っているアンガスをマックスが怪訝そうに見つめ、今度はビリーが言いにくそうに口を切る。
「あのさ。アンガス。変な噂があって…。その、アンタとレオとデキているって…。一昨日、その、アンタとレオがキスして抱き合っているのを見たって奴がいるんだ。しかも、今もレオがアンガスを捜し廻っているみたいなんだ」
上目遣いにビリーが目を向ける。マックスは機嫌悪そうだ。
「…えっと、俺は信じてないよ。アンガスがゲイだなんてなぁ、いくら顔が女みたいに綺麗だからって、その辺の図体ばかりでかいマッチョな男よりも喧嘩が強いアンガスが、その女みたいにレオと、その…、どうかなるだなんて、全くバカげてる。なぁ?アンガス。笑ってないで何とか言ってよ」
ビリーの声に自分が未だに笑っていたのかと自覚し、また可笑しくなる。
何故、彼等に自分が男娼であることを隠していたのか。彼等に嫌われたくないとでも思っていたのか?
馬鹿馬鹿しい。
「ホントだよ」
聞き取れなかったとでも言わんばかりの二人の視線がアンガスを射す。
ハッキリ言えばいいのだろうか。
「レオと寝たよ」
嫌えばいい。
軽蔑すればいい。
「俺はソーホーでナンバー1の男娼だからな」
「冗談だろ」
二人は顔を突き合わせ、無理やり冗談にしようと、笑った。
これだけハッキリ言ってやっているのに信じない二人にアンガスは苛つき始めた。
「何度、言わせるんだ。俺は…」
その時、後ろから腕を掴まれ振り向く。
「アンガス。捜したよ」
調度いいことにレオが現れた。
アンガスは、レオの首筋に細い指を絡ませ、驚くレオの唇を塞ぐ。
「アンガス?」
訳も分からずレオはアンガスの唇を味わい始めた。
レオの腕が腰に廻り、力任せに抱きしめられる。
「もう。止めろ!」
マックスの怒り混じりの声が耳に響き、レオから顔を引き離す。
後ろからの二人の視線を正面に受け止める事もできずに、レオの腕を掴んで、その場を後にした。
「アンガス?おい。どうしたんだ?」
「行こう」
これでいい。
自分は汚れている。
アルは自分の何処を見たんだ。
天使、だと?
そんな澄んだ目で見ないで欲しい。
自分は汚い。
嫌われれば、楽になる…。
ビリーとマックスはどんな目で今、自分の背を見ているのだろうか。
「レオ。早く」
足早に通りを抜ける。
「アンガス?」
不審な瞳を投げるレオを見ずにアンガスは言う。
「なぁ、取引っていつだった?」
「明後日だけど…」
「レオ。お前はギャングになりたいのか?」
「何言っているんだ?俺はギャングだ」
「そうじゃなくて…」
「本当だ。俺のファミリーは代々ギャングだったんだよ。クレイ兄弟が活躍していたころからの由緒正しい家系さ」
レオは鼻で笑うと話を続けた。いつの間にかテムズ川を見下ろす橋を歩いており、冷たい風が二人の頬にぶつかった。
「だから、俺がこうしていることは、自然の成り行きってやつさ。でも、俺のじいさんは刑務所でくたばってしまったし、親父は俺がガキの頃、あっさり殺された。この世界では、俺のファミリーはすっかりすたれてしまった。実際、兄貴は会計士になって、俺に説教ばかりしているし、イーストエンドに住んでいるばあちゃんは、すっかり安全になった街を喜んでいるぐらいだから、ギャングになる意味なんてないのはわかっているんだ。だけど、どうしてだろう。俺の代で終わらせたくないって思うんだ。でも、俺のボスって、叔父さんのことだから、ファミリーの復活も無きにしもあらず、だ」
おどけた様にレオはウインクをした。ビッグベンが二人を見下ろしている。テムズ川の深い闇の流れに、月が浮かんでいた。
アンガスが足を止めると、レオも足を止めた。
ゆらゆらとテムズ川に揺れる月を見ながら、アンガスはぽつぽつと話した。
「…俺の母親は、ジプシーだったんだ。アイルランドで俺を産んで、育てた。だけど、俺は、5歳の時、その母親から逃げたんだ。それから、今の売春宿の主人に拾われ、ロンドンに来た。それから、8歳の時だったかな。初めて客を取ったのは…」
今まで誰にも自分のことを語らなかったにも関わらず、どうして一昨日会ったばかりのレオに、こんなことを話しているのか、正直、アンガスにはわからなかった。
「最初は、いやだったよ…。毎晩、泣いていたよ。でも、いつからか泣くのを止めた。いつだったか覚えてないけど」
橋の欄干に両肘を乗せ、その上に自分の顎を乗せた。風がアンガスの金髪の髪を揺らした。
ただじっとテムズ川の流れを見ているアンガスの隣で、レオは今にも壊れそうなアンガスをジッと見ていた。
「…今日は、本当は客を取らなきゃいけないけど、やめた」
不意にアンガスが両肘に顔を乗せたまま、レオの方に向いた。
「ねぇ。今日はレオのところに行きたい。だめかな?」
そう言って自分を見上げる顔は、初めて会ったとき、自分を誘った怖いほどの美しさとは、全く逆の美しさだった。
レオは眩しいものを見るように目を細めた。美しいと言うより、可愛いと言った方が正しいのかもしれない。ついさっき人前でキスをされた時は戸惑った。自分がゲイだと思われたくはないと咄嗟に思った。だが、今は逆にロンドン中の奴らの目の前でキスをして、こいつが自分のものだと宣言したい気分に駆られた。
レオは、アンガスの肩に手を置くと、ゆっくりと腰を曲げ、アンガスにキスをした。
優しく触れただけのキスだった。
ソーホーのデザイナーズマンションの三階の一室。
その部屋のキッチンのそばには、人の大きさの絵が立てかけてある。昨夜と同じようである。
そのキッチンからコポコポと音がし、その後、コーヒーの香りが部屋中に充満した。東洋人の若い男はコーヒーカップをソーサーの上に置くと、ソファに座っていた老人は、その男に話しかけた。
「どうしてもっと厳しい警備にしないんじゃろうな…」
「簡単ですよ。お金の問題です。どの国の美術館もお金がないですからね。確かにセキュリティーに年間10万ポンドかけるぐらいなら、その分を社会保障に回せと言うのが、納税者の本音というものではないですか?でも、ロンドンはましな方だと私は思いますけど。ロンドンは防犯に力を入れているようですしね」
ソーサーを手に持ち、老人の前のテーブルの上に静に置くと、男はキッチンに戻った。その後、コンビニの袋からミルクを出すと、封を切り、自分のコーヒーの入ったカップになみなみと注いだ。老人はコーヒーの香りを楽しみつつも、溜息をつきながら話を続けた。
「そうだな。その内、ロンドン中に防犯カメラが取り付けられるかもしれんな。そうしたら、仕事がしにくくなる」
「そうですか?有能なハッカーを雇えばいいだけですよ」
若い男は肩をすくめると、ミルクを入れ少しぬるくなったコーヒーを飲んだ。そして、思い出したように言った。
「そう。そう。フェデックスが集配に来るのは3日後ですから、それまではコンテンポラリーアートを楽しみましょう」
「今日は休みじゃないのか?」
「まぁ、ナショナルギャラリーは3日間もクリスマスホリデーですが、その辺のギャラリーなら開いていますよ」
「荷物」の上にソーホーの新進気鋭の芸術家の絵を上にかぶせ、国際貨物を扱うフェデックスを通し、いくつかの土地を経由し、最終的に依頼主の元に「荷物」を届ければ、彼らの仕事は終了である。
ロンドンの街には、未だクリスマス用の飾り付けが、名残惜しそうにあちこちに残っていた。