6. 25-Dec.(Christmas Day) No.2
*登場人物*
アンガス…主人公の少年
アル(アルフレッド)…アンガスの友人の大学生
レオ…ストリートギャングのボス
チャド…売春宿の主人
マリア…アルの彼女
ジム…アルのルームメイト
ビリー・マックス…アンガスのストリートキッズ仲間
「アル。クリスマスカードが来てたぞ」
そう言って、ルームメイトのジムはアルフレッドにカードを投げた。切手のない封書にはアルフレッドの名前だけが書かれていた。
封を開けると、コンビニに売られているような安い物のクリスマスカードが入っていた。
付けっぱなしのテレビからは、朝からディズニーのアニメが煩く響いている。しかし、アルフレッドの耳には何も聞こえてはいなかった。
クリスマスカードは、マリアからの別れの挨拶だった。
いつポストに入れられたのだろうか。
昨日、マリアがあの扉から怒って出て行った。その後、アンガスは一歩も外に出ていなかった。
昨日だろうか。それとも、今日?
今、急いで付近を捜せば、まだ彼女がいるのだろうか。
だが、アルフレッドは動けなかった。
自分のために怒ってくれた彼女に電話すらしようとしなかった自分は振られて当然だと思った。
でも、また笑って、姿を見せてくれるとどこかで信じていた。
自分は本当に弱くてずるい人間だ、と思わずには言われなかった。
「アル。家に帰らなかったのか?」
ジムはアルを見てそう言うと、コンビニで買ったチップスとチキンを袋から取りだし食べ始めた。無償髭を生やした顔には、殴られた跡が痛々しかった。
アルは昨日実家に帰ろうと思っていた。今朝、実家に帰らない息子を心配した母親が電話をかけてきたが、冷たくあしらってしまった。クリスマスなのに、母は自分に失望しただろう。 でも、帰りたい気分でもないし、今日に至っては電車すら走っていない。
「ジムこそ帰らないのか?」
アルフレッドはクリスマスカードを側にあった本にさりげなく隠し、ジムに訊いた。
ジムの家族はアメリカに住んでいる。
「別に。面倒だし。金がかかるからな」
ジムは袋から瓶ビールを取りだし、アルフレッドに勧めた。
いつもはアルコールを飲まないアルフレッドが、ビールを受け取り、ジムは僅かに驚いた。
「シャンパンでも買えばよかったか?」
ビールの栓を開け、美味しくなさそうにビールを飲むアルフレッドを見て言った。
黙って飲むアルフレッドに肩を竦め、自分もビール瓶に口をつけた。
「痛てて」
ビールが口の中の傷に染み、ジムは頬を押さえた。
「大丈夫?それは、いつの傷?」
アルフレッドは心配そうにジムに訊いた。
「一昨日の傷だ」
このルームメイトを迎えて、一ヶ月と一週間でアルフレッドが学んだことは、フラットに帰らない日が続いた後は、大概が怪我して帰るということだ。アルフレッドは溜息を吐き無鉄砲の友人に忠告する。
「危ない事は止めなよ。いつか死ぬよ」
「大丈夫だって。まぁ、一ヶ月前は本当にもう殺されると思ったけどな。あんな冷たい目で銃を突き付けられたときは、さすがに後悔したよ」
一ヶ月前、アンガスとナショナルギャラリーで別れた後、家に帰ると体中に怪我をしたジムがいたのだ。
本人は大したことが無いと言い張ったが、かなり酷い怪我だった。
「あのガキ。確かアンガスとか言ったな。十八か十九ぐらいのガキだが、マジで怖かったぜ」
「アンガス?」
アルフレッドは、一ヶ月前から姿を見せない友人を思った。勿論、ジムが言うアンガスと同一人物とは考えもしないが。
ジムは、リビング中に散らかしたタブロイド紙の一枚を掴み、チキンの油で汚れた手を拭き丸めてポイと放り投げた。アルフレッドはいつものことだと、もはや片づけることを諦めていた。溜息を吐いているアルフレッドのことなど、毛頭気にせず、ジムはノートパソコンを開きキーを叩き始める。
「今度は何を調べているの?」
「マフィアだよ。ロンドンでマフィアと言えばほとんどがチャイニーズだ。中でも和勝和がここらを仕切っているんだ」
東洋人の泥棒。少年犯罪。そして、マフィア。クリスマスに家にも帰らず、友人たちとのパーティにも参加せずに調べているジムの気持ちが、アルフレッドには理解できなかった。
「そんなの、調べてどうするの?」
ジムは苦笑いを浮かべ、今度は聞き返す。
「アルこそ宇宙の果ての事なんか調べてどうする?」
「……」
アルフレッドは曖昧な嗤いを浮かべ話題を変えた。
「その一昨日の傷は、またギャング?」
「これは、友達。喧嘩してさ。警察官している奴だが、短気な奴でさ。でも、今度のネタは彼が提供してくれたんだ」
警官が集まるパブに言って、安月給の警官にさんざん奢ってネタを仕入れるのがジムのやり方だった。いつでも奢れるように靴に常に100ポンドが仕込んでいるとアルフレッドは聞いていた。普通の警官は民間人にホイホイ情報を話すわけはないが、ジムはその辺の目だけは肥えていた。お金に困り、それでもお酒好きで、尚克、口が軽い警官を見つけることは、ジムにとっては簡単だった。
「また危ないこと?」
ジムはそれには答えず、ニッと嗤って続けた。
「今度、コカインの大きな取引がある。コカインは最近ブームになり始めたんだが、ロンドンでは品薄でね。そこに目を付けたギャングが直接南米から輸入しようとしているらしい」
アルフレッドは、また危ないことをしようとしているジムを心配そうに見つめた。
「まさか、またそれをスクープして新聞社に売りつけようとしているのか?」
フリーのライターを目指すジムは過去に何度もそんな事をしたと聴いていた。
「まぁね。どうやら垂れこんだのはチャイニーズマフィアらしい。自分たちの縄張りを守るために、警察に新興勢力を潰させるのだろう。だが、昨日になってその友人が捜査から降ろされたらしくて、これ以上の情報は入ってこないんだよな。なんか裏があるのかもしれない」
「裏?」
「これ以上は、わからん。とりあえず、取引は3日後。行ってみればわかることだ」
ジムは目を輝かしアルフレッドに話す。
「これだけのネタはそうそう入ることは無いからな。面白くなりそうだぜ」
「現場に行くのか?」
「こんなチャンス見逃すわけがないだろう?アルも来るか?」
驚いたアルフレッドを、ジムは、冗談だよ。と言って嗤った。
「ジム。どうして、そこまでするんだ?」
「俺は陰に隠れている真実が知りたいだけだよ」
「真実…」
「そうだ。真実だ。…なんてな。本当はスクープ狙いだ」
ジムがそう言って笑いながら、テーブルに積み重ねられた雑誌を取ろうとしたとき、アルフレッドの本が他の雑誌や書類と共にパサリと落ちた。本の隙間からマリアからのカードがはみ出しアルフレッドは慌てて本を取り上げた。ジムは特に気にする様子を見せなかったので少しホッとし、もう一度カードを見つめ、立ち上がった。
「これからどこかに行くのか?」
雑誌から顔を上げジムが聞いた。アルフレッドはコートを羽織りながら答えた。
「教会に…」
神など欠片も信じないジムは僅かに肩を竦め、雑誌に目を戻した。
数時間前までクリスマスキャロルが響いていた教会に、一人跪きアルフレッドは祈りを捧げる。シンと静まった礼拝堂に冷たい空気が流れる。
最前列の長椅子に肘をつき、イエスを仰いだ。
脇のドアが静かに開き神父が現れる。アルフレッドは立ち上がって神父に近づいた。
「すいません。忙しいクリスマスの、しかもこんな時間に急に来て…」
時間は12時になろうとしていた。
「いいのですよ。それよりも何かあったのですか?アルフレッド」
神父はアルフレッドに長椅子に腰掛けるように勧め、自分もまた隣に座る。
アルフレッドは自分の教わる教授にレポートを盗作されたかも知れないことや、そのことが原因でマリアに別れを告げられたことを話した。
「僕にはどうしたらいいのか分からないのです。僕はあまりにも弱い」
神父はアルフレッドの金髪の髪をゆっくりと撫でた。
「僕には8歳年下の友人がいたのですが、彼も最近逢ってはくれません。それはやはり僕に魅力が無いからなのでしょうか」
アルフレッドは淋しげな瞳を神父に向けた。
「僕はつまらない人間です。皆、僕から去っていくのでしょうか…」
神父に向けられた蒼い瞳から、涙が溢れた。
わずかに上気したアルフレッドのピンクの頬に、すっと光の筋を描いた。
その美しすぎる涙は神父の琴線に触れた。奥底に隠していた、あってはならない欲望が神父の意に反して沸き上がる。その欲望は、ひっそりと金で吐き出され、誰の目にも触れられることは、今まだはなかったが…
神父の喉が唸った。
「アルフレッド…」
神父の手が伸び、アルフレッドの頬に伸び涙を拭い、次に神父の唇がアルフレッドの瞼にキスをした。
「神父?」
咄嗟にアルフレッドは神父を突き飛ばしてしまった。
隣に腰掛けていた神父は、僅かにのけ反っただけだった。
予想外の神父の行動に、アルフレッドは気が動転し、どうしていいのか分からなくなったのだ。
それでも、尊敬する神父へ謝ろうとした。
「す、すいません。僕、ビックリして…」
しかし、神父の理性はすでに消えていた。
「君が、悪い…。君が、そんな顔で私を見るから…」
「え?」
神父は、何日も水を与えられなかった人間が、ようやく見つけた水を、ただ欲のままに求める男の顔になっていた。
アルフレッドの顔から笑みが消えた。
強引に腕をつかまれ、引き寄せされた。
その行動に、今度こそ、アルフレッドは悟るべきことを悟り、力一杯抗い、何とか神父から逃れると、手に持っていたコートを神父に投げつけ、震える声で神父に言い放った。
「あ、あなたという人は、神の前で、なんて事を…」
アルフレッドはそれだけ言うとイエスに背を向け、振り向きもせず走り出した。
その声は教会じゅうに響き渡ったが、誰にも聞こえることはなかった。それでも、神父の理性を取り戻すのには十分な効果を持った。
外は雪である。
激しく鳴り響く心臓も、気にならないくらいにアルフレッドは走り続けた。
清しこの夜は、人の通りもなく、音もなく、何もかも、静かだった。
鳴り響く心音と自分の喉から湧き出る嗚咽のみが、耳に木霊した。
「神様。僕は何を信じればいいのですか?」
アルフレッドは彷徨うように、古い煉瓦造りの通りを歩く。石畳から伝わる冷えた空気も空から降り続ける雪も、自分の全てを否定しているような気がした。アルフレッドには、自分が今どこにいるとか、何処に行こうとしているかなどは、考える余裕がなかった。ただひたすら歩くことにより、今、起こった信じられない事実を頭から何とか追い出そうと試みた。
「神様。僕の神様…。聴いていますか?」
教えて下さい。
僕は何を信じ、何処へ行けばいいのですか。
白い雪が、肩に積もる。
教えて下さい。
アルフレッドは力尽きたように、ガクリと石畳に跪く。
雪はさらに降りしきり視界が、白く染まる。
意識がやけに遠い。
このまま雪に溶ければ楽になるのだろうか。
白い、白い、雪の中、アルフレッドに向かって、誰かが歩いてくる。
神様…
「アル?」
聞き覚えのある声が響いた。
白い雪の中にいたのは、自分と同じ髪の色と同じ瞳の色を持つ少年。
アルフレッドの視界が徐々に色を持ち始める。
「アンガス?」
「アルはどうしてここに?」
「どこ?」
ゆっくりと辺りを見回すと確かにそこは来慣れない場所だった。
「ソーホーだよ。クリスマスだから、人通りが少ないんだ…」
ソーホーならよく来るが、闇雲に走る内に、かなり奥の方まで来ていたのだ。見なれないどこか取り残されたような街並みだった。
「アンガスこそ、こんな時間に、しかも、クリスマスに、どうしてここに?」
アンガスは、アルフレッドの目の中を覗き込んだ。どうやら、マリアとの一件は、まだアルフレッドの耳には入っていないようだった。
「…えっと」
返答に困ったアンガスは口を噤んだが、遠くに足音を聴き、急いでアルフレッドの腕を掴んで立ち上がらせた。
「ここは危ない。タクシーを拾おう」
「え?」
裏通りを走り抜け、何とか大通りへと抜ける。クリスマス用のイルミネーションは少しだけ残っているが、ほとんどが闇の中だった。何度も後ろを確認し急いでいるアンガスをアルは不審に思い眉を顰める。
「追われているの?アンガス」
それには答えず、アンガスはタクシーを目で捜す。今日はクリスマスである。走る車も少なければタクシーもかなり少ない。アンガスは大通りに沿って歩き始める。アルフレッドはアンガスの後ろについていきながら、まるでさっきのことは忘れたように言う。
「アンガス。言ったじゃないか。こんな時間にソーホーには行ってはいけないと。ここらの少年は僅かの金のために人殺しだってするんだ。最近は、安全になったとは言え、まだまだ危ないんだ」
心配を口にするアルフレッドにアンガスは眩暈を覚えた。彼はアンガスがその危ない側の人間だとは考えもしないのだ。ただ偶然通りかかり襲われたとしか考えていない。
アンガスが後ろを振り返るたび、心配そうにアンガスを追うアルフレッドが見えた。
タクシーが捕まらないまま、しばらくそんな状況が続いた。
アンガスは、レオの連中がいないことを確認し、歩みを緩めて訊いた。
「アルこそ、どうしてここに?」
冷静な声でアンガスに問われ、アルフレッドの顔は強張った。
何も答えようとしないアルフレッドに対し、アンガスは畳みかけるように言った。
「どうして、夜中のクリスマスに、しかも雪だというのに、コートも着ずに、危ないソーホーの裏道で跪いていたの?」
答えは返ってこなかった。ただ弱々しい微笑みをアンガスに向ける。
「学士号、取れないかも知れない」
「そう…」
どちらともなく立ち止った。
「マリアにも、振られたよ」
ほんの一瞬、アンガスの瞳が揺れた。だが、アルフレッドは気付かなかった。
アルフレッドは、冷たい雪が降っていることも忘れているようにアンガスを見つめた。
二人は雪の中、先に声を出した方が負けてしまうかのように押し黙った。
「さっき…」
沈黙を破ったのはアルフレッドだった。悲しそうに微笑んで、出した言葉は、凍ることもなく、アンガスの耳に届く。
「僕の前にアンガスが現れたとき、天使かと思ったよ。雪の中から現れた君は、あんまり綺麗だったから…」
「…天使なんかじゃない」
「分かっているよ。でも、君に会えて嬉しかったんだ」
冷え切った体に比べ、胸が熱くなるのをアンガスは感じ、片手で胸を押さえた。苦しみを帯びた熱だった。胸で痛みを刻んだ血液は徐々に全身を蝕んでいくようだった。
そんな痛みに全く気づかないアルフレッドは、アンガスの思い描いたシアワセと名の付いた絵よりも遙かに優しく悲しい笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「あの時、僕は神様に裏切られたんじゃないかと不安だったから…」
ハッとしてアンガスはアルフレッドを見た。
「教会に行ったの?」
急なアンガスの質問にアルフレッドは顔を強ばらせた。
アンガスの勘は的中したようだった。アンガスは教会の神父を知っていた。彼はゲイであり、四年前ほどアンガスの客として二度ほど会ったことがあった。彼の趣味はブロンドに蒼い瞳だった。今も変わっていないようだ。アルフレッドはそれには答えず、それでもついさっき起ったことを思い出し、動転してまくしたてた。
「…人間は、いや、ほとんどの生命は子孫を増やすためにメール、フィメールに分かれているんだ。なのに、男同士で…そんなことをするなんて考えられないよ。差別はしたくないけど、僕には理解できない。アンガスもそう思わない?」
動転しているアルフレッドは、アンガスが自分に起った出来事に気付くはずがないという事実に気づかず、吐き捨てるように続けた。
「男同士で、なんて、最低だ…」
一気にアンガスの心臓は凍り付いた。そのアルフレッドの今まで全く聞いたこともないような、吐き捨てるような呟きに、アンガスは吐き気を覚えた。
それは、まさに自分自身に向けられた言葉だった。
確かにアンガスは、幾度となく生命の理論に逆らった行為を繰り返した。それは、最初は生活のためだけだった。それだけが生きる術だった。
だが、今はわからない。何の感情も持てなくなっていた。
いいことか。悪いことか。ただ日ごとに混乱していく。
なぜ否定されなくてはならない、と強くそう思う反面、では、なぜ隠す?と疑問がもたげかかる。
ビリーやマックスの仲間には男娼だなんて言えない。
自ら女を抱いても、男を求めたことはなかった。
だが、なぜ、昨日レオと寝たのかと聞かれれば、正直分からない。
自虐的になったのか。快楽を求めたのか。何を求めたのか。
息が詰まる。
「ごめん。こんな話つまらないね…」
アンガスが気分悪そうにしているのに気づいて、アルフレッドは慌てて言い、さらに、言葉を続けた。その言葉は酷く遠くに聞こえた。
「アンガス。僕はね、君がとても羨ましいよ。君の心は、とても綺麗で澄み切っていて、…穢れを知らない」
何を言っている?
白い雪の重みにも体が押しつぶされそうだ。
アルフレッドは何を自分に語っているのだ?
徐々に酷くなる眩暈に足下をふらつかせる。
「アンガス。君はね、僕にとって、天使なんだ」
耳鳴りがする。
これ以上何も言わないで欲しい。
じゃないと、僕は…。
「天使…」
音が…、
消えた。
アンガスの視界がホワイトアウトし、ふっと地面をなくしたように体が沈みかけた。
「アンガス!」
倒れかけたアンガスを、アルフレッドが腕を掴み抱きかかえようとした。
「触るな!」
鋭いアンガスの声が響き、アルフレッドは腕を振り払われる。
見開いたアルフレッドの蒼い瞳に、アンガスがその蒼い瞳を突き刺す。
「アルは、何も分かってない!」
「アンガ…」
「アンタなんか…大嫌いだ」
その顔にはくっきりと憎しみが刻み込まれていた。
そして、呆然となるアルフレッドにクルリと背を向けると、来たときのように、白い雪の中に消えていった。