5. 25-Dec.(Christmas Day) No.1
*登場人物*
アンガス…主人公の少年
アル(アルフレッド)…アンガスの友人の大学生
レオ…ストリートギャングのボス
チャド…売春宿の主人
マリア…アルの彼女
ジム…アルのルームメイト
ビリー・マックス…アンガスのストリートキッズ仲間
アンガスが目を覚ましたのは、夕暮れ頃だった。
慣れないベッドに寝返りを打つと、隣にはレオが寝ている。ドラッグのせいで酷く重く感じられる頭を何とか働かせようと、首を振る。レオの黒い瞳に黒い目はラテンの血を感じさせた。アンガスの母親はイタリア系だったので、アンガスの体にもイタリアの血が混ざっている筈だったが、アンガスには恐らく父親の血が強く出たのであろうか、ブロンドに蒼い瞳を持つ顔には北欧系の血を感じた。もっとも行きずりの男である父親の人種などアンガスは知る由も無かった。
ベッドの側のテーブルには、白い粉がわずかに散っていた。久しぶりのコカインは、二日酔いのような頭痛をもたらした。ベッドにコカインを持ち込む客は少なくはない。しかし、レオはアンガスにはコカインを与えたが、自分は吸わなかった。
乱雑に置かれた雑誌の隙間に雑に巻かれたハシシを見つけると、アンガスは手を伸ばした。マッチで火を付けると、先端にふわっと火が付きやがて馴染んだ。
ハシシの煙をぼんやりと見つめ原因不明の虚無感がアンガスの脳を支配し始める。
不意に横から厳つい手が伸びハシシを取り上げ、近くの壁に押し付け、その手はそのままアンガスをベッドへと引き戻した。
「頭が痛い…」
上から間近に見下ろすレオの顔に向かって、ぼやいた。
「大丈夫。忘れさせてやるよ」
レオは、それだけ言うとアンガスの首筋に吸い付けられるように口付けをする。
アンガスは熱いレオの息を首筋に感じながら天井を見つめ、気怠そうに口を開く。
「今日は、やけに外が静かじゃないか?」
少し間をおき、レオが顔を上げ可笑しそうにアンガスを見る。
「今日はクリスマスだからな」
「クリスマスか…。忘れていた」
アンガスの脳裏にクリスマスツリーを囲むアルフレッドの家族が浮かんだ。きっとシアワセに形があるとすれば、あんな形をしているのだろうか。クリスマスにはきっとアルフレッドは家に帰り、シアワセとタイトルの付いた絵の一部になっているだろう。キャンドルに柔らかく溶け込むアルフレッドがアンガスに微笑みかける。汚れを知らない何処までも澄み切った笑顔を、アンガスは目を瞑り頭の中から追い出そうとした。
「何を考えている?」
不意にレオに問われ、何も…と返す。
「お前、よく男と寝るか?」
「…レオは、初めてだろ?」
「当たり前だ。俺はゲイじゃないからな」
レオは裸のまま、ベッドから這い出るとキッチンに向かい、暫くしてからホットミルクティーをアンガスに差し出した。自分も一口啜るとレオは、暖炉に火を起こしはじめた。このフラットは恐らく無断借用したものだろう。いずれにしてもセントラルヒーティングがないビルをアンガスはロンドンで見るのは初めてだった。
何とか暖炉に火をおこすと、レオはベッドに腰かけた。
「今度、大きな取引がある。上物のコカインだ」
「オランダから?」
「いや。俺のボスが元SASで、南米につてがある。メデジンカルテルから仕入れる。あそこは政府とやり合っているから現金が欲しいんだよ。それを今回大量に仕入れる。俺には詳しくは教えて貰えないんだが、最近、大物のスポンサーがついたから、大量に仕入れることができるらしいんだ」
レオは本物のギャングを目指しているのだとアンガスは初めて知った。自分たちのグループもギャングだが、お子様の遊びのようなものだった。
自分の雇い主であるチャドはこの辺の顔であり、売春宿の他にも盗品の売買をしていたが、ドラッグと武器には手を出さなかった。深く首をつっこむと、ろくなことにはならない。それが、この世界で生き残るコツだと、昔、言っていたような気がする。
アンガスも何度か顔見知りに頼まれ、マリファナを捌いたが、1万ポンド程度の量であり、仕入れ先からの直接の取引ではない。大した儲けにもならなかったから、自らしようという気にはならなかった。それに、レオのような下っ端のギャングに睨まれてもかまわないが、裏社会に通じる本物のギャングには気をつけていた。
「でも、やばいんじゃねぇの?チャイニーズマフィアを怒らしたら?」
チャイニーズマフィア、ロシアンマフィア、普段は決して目にすることができない影が、ロンドンにも存在している。そして、アンガスは、影のピラミッドの底辺にいることを十分心得ていた。
ドラッグ売買の世界のことはアンガスにはよくわからなかったが、一応ルールがある。ルールは簡単。ピラミッドの頂点の人間が一番儲かるようにすることだ。だが、ピラミッドの頂点の住人の交代と言うなら話は別だろう。しかし、そうなれば、かなり危ない話になる。アンガスはギャングの世界で、のし上がろうとは思ったことはなかった。ビジネスマンのように、高級マンションに住まい、ピカピカに磨いたローバーに乗り、ブランドのスーツを着こなしたギャングに魅力を感じないからだ。
「一緒にやらないか?今回だけじゃない。これからずっと、パートナー組まないか?」
「プロポーズ?」
アンガスはクスクスと嗤いながら返す。
「茶化すな。俺は真剣に言っている。お前は、正直強いよ。度胸もあるしな」
「…興味無いな。仲間とやれよ」
「お前に比べれば奴らは雑魚だよ。根はイイ奴らだがな」
天井を眺めたレオの顔がほんの僅かに綻んだ。レオは喧嘩が強いだけで、レオのボスになったわけではなさそうだ。意外に面倒見がよいのかもしれない。
アンガスは暫く沈黙し、「考えとく…」と小さな声で言った。
レオの部屋から出たアンガスは、明かりの付いたコンビニを見つけ、煙草を買った。
煙草をくわえ火を付ける。いつもは賑わう通りを静けさだけが漂う。
クリスマス。年に一度、全てが止まる。地下鉄もバスも何もかもがクリスマスを祝う。
静かに早く訪れた闇は、昨日より遙かに深い。月明かりが全くなかった。
「キャッ!」
女の叫び声が路地を曲がった先から、アンガスの耳に届いた。
レイプなどは日常茶飯事のこの通りではいつもの光景である。
だが、クリスマスに、とは、ついていない女だな。大人しく家族で食卓を囲んでいればいいものを、こんな日に出歩くなんて。
アンガスは特に気に止めず足を進めようとしたが、目の端に犯されている女が入り込んだ。
「マリア?」
確かに一度だけナショナルギャラリーで会ったことがある。アルフレッドのガールフレンドのスペイン人の女だ。
「イヤーーーーー」
マリアの必死の叫び声が、酷く煩わしく感じられた。三人の男にいいようにされ、それでも何とか逃げようとしている。周りでは、ニヤニヤと見物人が笑っている。誰ひとりとして止める者はいない。上着は脱がされ下着はボロボロに引き裂かれている。
不意に濡れたマリアの瞳が、立ち止まってマリアを呆然と見ていたアンガスを捉えた。
「アンガ…ッ」
マリアの視線と叫びが、三人の男と見物人の目をアンガスへと向けられた。
「…助けて!」
マリアは、アンガスに腕を伸ばした。
ここにアンガスがいる意味など考える状態でもなかった。
ただ顔見知りを見つけ、藁をもつかむ思いで助けを求めた。
その呼ぶ声に、アンガスの喉から乾いた嗤いが漏れる。
「よう。アンガス。この女の知り合いか?」
見物人の一人が馴れ馴れしくアンガスに近付く。偶然、知った顔の男だった。
「さぁ。忘れたよ」
美しいアンガスの顔が、笑うとさらに華やかになる。
美しく微笑むアンガスの顔をマリアの濡れた瞳が追う。
アンガスは、マリアに聖母の如く微笑みを投げる。
マリアは、その微笑みに、絶望した。
マリアは、本当は昨日スペインに帰るつもりだった。
ただ、アルフレッドの論文が教授の論文として発表されていることに、カッとなり、スペインの実家でクリスマスを祝うことなどどうでもいいようなことに思われ、フライトのチケットをごみ箱に捨てると、急いでアルフレッドに会いに行った。怒りのあまり、毎年欠かさずクリスマスに家族で過ごす事すらやめた自分に対し、アルフレッドは「仕方ないと」だけしか言わなかった。それがアルフレッドの優しさかと思うと悔しくて、ひどいことを言ってしまった。
眠れないまま朝を迎え、また日が沈んだころ、ようやく謝り、話しあう覚悟を決めた。クリスマスのため、地下鉄もバスも動いていない上に、タクシーもいつもの倍の料金を取られるから、明日にしようとも思ったが、そうすると勇気がなくなる。今、行かなければ。思い込むと、動かずにはいられないのがマリアの性格だった。タクシーを捕まえるより、歩いた方が早いと思い、人気のないソーホーを独りで歩くことになった。辺りは暗いが、時間はまだ夕方である。こんなことになるなんてマリアには想像できなかった。
「アンガ…ス…?」
化粧をしていない、それでもきれいな白い頬にマリアの涙が、幾筋も伝っている。
マリアの腕はぶらりと下った。
男たちはマリアのはいていたジーンズを一気に下ろした。
白い肌を男達が次々に貪る。
その光景を眺めるアンガスの瞳は、くだらないテレビアニメを見ている子供と何ら変わらない。
だが、マリアの瞳に映るのは紛れもない真実だっただろう。
「バイ。マリア」
そういいながら、「バイ。アル」と心の中で呟いた。
マリアの瞳に映った真実をアルフレッドが知る日は、そう遠くはないだろう。
乾いた笑いを吐きながらアンガスは、マリアに背を向ける。
アンガスはどこへ行くあてもなく歩きだした。
クリスマスに客などいるはずもなく、行くあてもなく、ただ歩いた。
アンガスは、不意に足を止めた。
空から白い粉が舞い始める。
「雪か。道理で寒い筈だ」
一人呟くと、ピクリと眉を顰める。
何となく視線を感じたのだ。
目線を上げ、とあるビルの三階の窓を見た。
その窓には明かりがついていない。
そして、次に後ろを振り返った。
後ろから数人の足音と殺気が、アンガスをずっと追っていたのだ。
とあるビルの三階は、生活感のないデザイナーズマンションの一室だった。表通りはおしゃれなカフェやショップが立ち並ぶが、裏通りは一転、薄暗い時代遅れな通りだ。それでもポツポツと新しいショップが増え始めている。やがてその裏通りも時代の波にのみこまれ、夜でも安心して歩ける通りになるのかもしれない。
照明を消したその一室から、街を見下ろしている一人の東洋人の老人がいた。
「鋭いな」
暗い闇の中、漆黒の瞳が、深い翳りを帯びる。
「行きますよ。ミスター」
後ろから声をかけた東洋人の若い男は、白いひげを蓄えた老人を呆れたように見た。
老人は、若い男に促され、立ち上がった。今夜の仕事のために、何か月も準備したのだ。仕事をする前の緊張感を楽しむ若い男に比べ、その老人は、まるで日常行われる作業、例えば、たばこを吸うとか、料理を作るとか、そんな何気ないことのように仕事をした。
一度も使われたことのないようなキッチンのそばに、一枚の絵が立てかけられている。
人の身長よりも大きな絵だった。
男の持つナイフから、アンガスは素早く身をかわした。
ナイフは露店で買える安物のジャックナイフだった。ナイフを持った少年は、前につんのめり、アンガスに後ろから首の付け根を叩き付けられ、そのまま石畳に体を打ち付けた。しかし、相手はまだいるようだ。アンガスが感じ取った殺気は彼等のモノだった。殺気の割に動きの鈍い彼等を煩わしそうに眺める。
「5,6人か」
暗闇で数を確認する。
「昨日はよくもやってくれたな」
その言葉に、目を凝らすと昨日倒したレオの仲間だった。体に傷を負った者が三人。
そういえば、レオを誘き出す、との名目でひどく殴りつけたような気がする。こんなことになるなら病院送りになるぐらいに痛めつけておけばよかったか。だが、警察が絡むとややこしくなる。
「さて…」
何となくレオの手前、彼等には手を出せなかった。
「参ったな…」
アンガスは、襲いかかる相手をかわしながら、無駄だと思いながら言ってみた。
「昨日、レオと約束した。お前たちとは、もう争わない」
これ以上のないくらいの平和的解決をしたのだ…、と言いたいところだが、その詳しい内容を聞かれても答えることはできない。
「そんな事信じられるか!」
「…だろうな」
前から後ろからナイフを無茶苦茶に振り回す相手に、アンガスは苦笑いを噛み締める。
小さな街での小さなグループ同士の諍いは絶えることはない。それが、自分の使命だと言わんばかりに若いギャングが唾を吐きながら自分に凄みを利かせている。
「レオは、アンタにジュリアを寝取られたときからずっと根に持っていたんだ。そんなに簡単に仲直りなんか出来るモノか」
「嘘だと思うなら本人に訊け」
「そうやって逃げる気だろ。アンタには今まで散々な目に合わせられているからな。そう簡単に信じられるか!」
やはり無理か。当たり前だな。昨日の今日で仲直りなんて、そりゃ、信じられるかって話だよな。まったくだ。
アンガスは舌打ちすると背を向け、逃げを決め込んだ。
「待て!」
人通りの少ない通りに声が響く。