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3. mid-Nov. No.2

「…神は光であって、神には少しも暗いところはない。さらに、ヨハネの第一の手紙第一章一節では、…もし、私達が自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、全ての罪から私達を清めて下さる。と、あります。神は常に我々の側にあり我々の罪を背負って下さいます」

 イタリア系の神父は、ゆっくりと聖書を閉じ、穏やかな瞳をそこに集まる信仰に満足げに向ける。

 その中に混ざる一人の青年は眩しげにイエスの像を仰いだ。

 礼拝が終わり、人々が出口へと向かう。

 青年が聖水に指を濡らそうとしたとき神父に声を掛けられた。

「アルフレッド。いつも熱心だね。今日は弟や妹は連れてこなかったのかい」

 アルフレッドと呼ばれた青年は神父に微笑みかけ、肩を竦める。

「彼等はまだ若い。遊ぶことに一生懸命で今日はお預けだそうです」

 アルフレッドはここから近いフラットを借りて住んでいるが、家族はロンドンの近郊に住んでいる。弟と妹がピクニック気分でこの教会にどうしても来るとわがままを言って連れてきたのが先週だった。近所の教会にも行かない弟や妹たちが喜ぶなら…と、連れてきたものの、すでに飽きてしまったようだった。

「そうですか」

 神父はアルフレッドの金髪の髪に手を伸ばし、ゆっくりと撫でる。アルフレッドは、その穏やかな視線を神父へ送る。

「ところで、学士号は取れそうですか?アルフレッド」

 アルフレッドの瞳が僅かに翳る。

 それを見取った神父は笑顔を作って見せアルフレッドの頬に手を添え聖書を読んだその口で言う。

「大丈夫ですよ。あなたには神の加護がありますから…」

 アルフレッドは沈んでいた瞳を神父に向け顔を綻ばせた。

「ありがとうございます。何とか最後までがんばって論文を仕上げます」

 アルフレッドは指を聖水に浸し軽く十字を切る。

 そして、もう一度だけイエスを見つめた。


 暖かな日差しが木々の隙間から流れ、アンガスは眩しそうに日曜日の協会を眺めた。

 協会の側の公園に腰を下ろし朝の礼拝が終わるのを待っているのだ。

 公園では犬を連れて遊ぶ家族連れや老夫婦が目立った。礼拝が終わったのだろうか、人が次々に出てくる。

「アンガス。来てくれていたんだね」

 人の群れの中から顔を綻ばせてアンガスに向かって来るのは、アルフレッドである。

「待っているくらいなら中に入ってくればいいのに…」

「教会は苦手だ…」

 アンガスは拗ねたように言う。アルフレッドは自分たちの弟や妹を見ているようで可笑しくなりクスクスと微笑んだ。

「そういえば、以前、君は神父が僕の弟と間違ったのを覚えているかい。僕達は似ているからね。」

「似てなんかいないさ」

 似ているのは、髪の色と瞳の色だけ中身はまるで違う。

「ところで、アンガス。グラマースクールの授業はどう?」

 優しい瞳で問われ自分のついた嘘を思い出した。グラマースクールとは公立校でも受験が必要なエリート学校である。しかし、アンガスは学校と呼ばれるものに通ったことがない。

「まぁまぁ、かな…」

「そう。アンガスは優秀だから、きっと奨学金で大学にだって行けるよ。でも、まだ十三歳だから焦る必要もないけど、…本当にアンガスは親思いだよ。僕なんか学校は私立だし、今も親に学費を払ってもらっている。何だか恥ずかしいな…」

 微笑む顔は透き通るほど白く、その優しい瞳は、幼いころ一度だけ入った教会のマリア様を思い出させた。慈悲深いその瞳に嘘という罪への罪悪感がアンガスの中に沸き上がる。

 どんなに罪を重ねても沸き上がらない感情がこの青年の前では、否応なしに湧き出る。アルフレッドはそんなことには全く気づかずにアンガスに楽しそうに話し掛けてくる。

「それより今日は面白い話を持ってきたんだ。ここでは少し寒いからカフェに入ろう。美味しいカプチーノの店を見付けたんだ」

 アルフレッドはウインクをアンガスに投げる。アンガスはこくりと頷いた。


 チェーン店ではない小さなカフェは、過度な装飾もなく静かだった。そのカフェには、新聞を広げ熱心に見入るインド人ビジネスマンとクロスワードパズルに興じている老人だけだった。二人が、窓際の席を陣取ると、穏やかな光が二人を包んだ。アルフレッドは昨日大学の図書館で見つけた科学系雑誌の内容を丁寧にアンガスに説明している。

「ブラックホールは今まで理論上だけのモノだったけど、近年の天体観測技術の向上によりクエーサーのような天体が発見されたんだ。前にも話したかもしれないけど、クエーサーっていうのは銀河の百倍以上のエネルギーを放出している天体で、普通の恒星はこれだけの量のエネルギーを放出する核融合はしていないんだ。だから、そのエネルギー源はブラックホールではないかと考えられるんだ…」

 熱心に語りかけるアルフレッドをアンガスは答えるように頷きを返す。

 アンガスはこの時間だけ全てを忘れることが出来た。自分がストリートキッズのボスとして暴力の世界で生きていることも、夜になると男に体を売り、金を稼いでいることも、母から逃げたことも全てをなかったことに出来るような気がした。

 公立校に通うごく普通の少年に為れる気がした。学校に行ったことがないアンガスだが、最低限の知識はチャドが教えてくれた。それ以外の知識は全て本から得た物だった。エアコンの効いた図書館は快適だったし、なにより本を読むのが好きだった。偽造したIDで年を誤魔化し、まるでカレッジの学生のような顔で自然に図書館の風景に溶け込むことができた。

 そして、そこで3か月前の週末にアルフレッドに逢ったのだ。

『君はその本が好きなのかい?』

 それが、アルフレッドとの初めての会話だったとアンガスは思う。アンガスはその時、咄嗟に嘘を付いた。普通の少年を装った。普通とは学校に通い家があり家族がいる、それがアンガスの考える普通だった。アンガスはアルフレッドのフラットには行ったことはないが、一度、郊外にあるアルフレッドの自宅に招かれたことがある。しかし、そこはアンガスにとっては居心地の悪い場所だった。なぜなら、そこはアンガスの考える普通の家庭だったのだ。優しい両親に煩い盛りの弟と妹がいる普通の絵に描いたような家がそこにあった。

 その後も週末になると図書館で会うようになった。今日のようにアルフレッドが通う教会へと足が自然に向うこともあった。教会の中にも入ったことがあるが、そこには二度と入りたくないと思った。そこの神父の一人は、昔アンガスの客だった男だ。神父の方は気付かなかったがアンガスはその口調をよく覚えていた。教会で説教する同じ口調でアンガスを抱いたのだ。


「つまり、そのケンブリッジの教授は宇宙には終わりも始まりもないと言っているんだね」

「アンガスは頭がいいね」

 アルフレッドは嬉しそうに頷いた。

「アルは、その…神様を信じているんじゃないの?」

 上目遣いにアンガスを見る。アルフレッドはゆっくりと手を伸ばしアンガスの髪をすいた。

「アンガス。言いたいことは分かるよ。この理論を信じると言うことは、宇宙を創ったとされる創造主の存在を否定することになるからね。でもね。神様は宇宙の果てじゃなくて僕の心の中にいるんだよ。だから、神様と宇宙がどうやって出来たかはあまり関係がないんだ」

「だったら、どうして教会に行くの?」

「確かめに行くんだよ。自分の中の神がちゃんと正しいかどうかを」

 細いアルフレッドの指が滑らかにアンガスの髪を滑る。アンガスはそれ以上は何も聞かなかった。ただ、優しく髪を撫でられるのが好きだと思った。冷たい空気をシャットカットしたカフェの窓から差し込む温かい光。カプチーノの甘いミルクの香り。優しい時間がゆっくりと過ぎていく。

「このケンブリッジの教授は、二年ほど前にバチカンでこの理論を発表したんだ。今はそう言う時代なんだよ」

 カトリックの直中で創造主の存在を否定したようなモノだ。アダムとイヴを信じるバカがこの論文の内容を理解していたとは思えない。だから、出来たのだろうとアンガスは考えた。

「あっ、ジムだ」

 窓の外に目を向けたアルフレッドが知り合いを見付けたようだった。交差点でこちらに背を向け信号待ちをしている人物に、アルフレッドは視線を送っている。アルフレッドは手を振ったが向こうは気付かずに信号を渡り見えなくなった。アンガスに振り返ったアルフレッドが心配そうに訊ねた。

「アンガス。どうしたの?」

 アンガスの表情は一瞬強張ったが、慌てて取り繕った。

「え?大丈夫だよ。それより彼はいいの?アルに気付かなかったようだけど…」

「嫌でも逢えるさ。ジムは2週間前から僕のルームメイトなんだ。彼の専門は犯罪心理学なんだよ。ちょっと前は確か泥棒について調べているんだって。僕にはよく分からないけど、何処の組織にも属していない二人組の東洋人がありとあらゆるモノを盗むんだそうだ。彼が言うにはそれはほとんど芸術だってさ。僕には犯罪者が芸術と呼ばれるなんて考えられないけど。それだけでは飽き足らず、今は少年犯罪についても調べているらしい」

「そう…」

 アンガスは生返事だった。犯罪心理学とやらの話は頭に入らなかった。それより、そのアルフレッドのルームメイトは昨夜出会ったばかりだった。昨夜、殴りつけ金をふんだくった無精ひげの男だ。アンガスは空になったカップを苦い思いで睨んだ。

「彼は、少し無鉄砲なところがあるからね。昨夜も帰ってこなかったんだ。深夜の街に出かけ、少年達の深夜の動向を調査すると息巻いていたから、事件に巻き込まれたんじゃないかと僕は心配したよ。でも、とりあえず無事みたいで安心したよ」

 近づいてみれば、きっと彼の顔には痣が生々しく残っているだろう。

「最近、治安が良くなったとはいえ、ストリートギャングは増えているらしいよ。いくつかのグループがあるらしいけど、かなり危ないグループもなるみたいだ。アンガスも夜中に街を歩くのは絶対に止めた方がいい。アンガスが夜に一人で出歩くことはないだろうけど」

「そうだね」

 そうだね。俺みたいのがいる夜の街には決して近付かないでくれ。

 アルフレッドを見て複雑な気持ちに駆られた。もう逢わない方がいいのかも知れない。万が一、ルームメイトに鉢合わせしたら?

 アルフレッドは一目で自分の年齢を言い当てたのに自分の中身には全く気付かない。アンガスは、最悪の場面を想像しただけで胸が締め付けられるようだった。

 その時、アルはどんな顔で自分を見るだろうか?

 潮時かも知れない。こんな茶番に浸るのは、所詮住む世界が違うのだ。

 下心無く自分に優しくしてくれる人間を彼に出会うまで、アンガスは知らなかった。傷つける前に、傷つく前に離れた方がいいのかも…

 優しい時間は、もう、おしまい。

 決してアルフレッドとは交わり合うはずのない道がある。

「アンガス?どうしたんだい?さっきから何かぼうっとしているけど、つまらなかった?」

 心配げに顔を覗き込むアルフレッドを見てアンガスは我に返った。

「何でもないよ」

「ところでアンガスはこれからどうするの?僕はナショナルギャラリーに友人を訪ねに行くんだけど一緒に行く?ここから近いし…」

 確かにここからナショナルギャラリーまでは歩いても遠くはない。昔、暇つぶしに行ったことはあるが、観光客が多く、しかも警備員があちらこちらで監視していてあまり気持ちのいい場所ではなかった。絵画など全く興味のないアンガスにとって再び訪れたいと思える場所ではなかった。しかし、アルフレッドの期待のこもった瞳に嫌とは言えなかった。もしかしたら、今日が最後かもしれない。そう思ったからかもしれなかった。

 アンガスが頷くと、アルフレッドは嬉しそうに言った。

「後で焼き栗を買ってあげるよ」

 

 トラファルガー広場のすぐそばのナショナルギャラーは、天候が悪いせいか日曜日の割には、観光客はまばらだった。銃も持っていなかったので館内には問題なく入れた。

 アンガスはあまりに多い絵画にウンザリしていたが、それを顔には出さずアルフレッドの後に付いていった。アルフレッドは特に迷うことなくお目当ての人を見付け、声を出し呼んだ。

「マリア」

 マリアは、自分より遙かに大きな絵の前に腰掛けキャンパスを睨んでいた。大きな絵の一部を模写していると言った具合である。

 マリアはアルフレッドの二度目の呼びかけに漸く顔を上げ、爽やかな笑みを投げかけた。

「アル!あら、もしかして例のお友達?」

 細身の体の割には存在感があり、小さな顔には大きな目がキラキラと輝いていた。その顔には絵の具がこびり付いていたが、溌剌としたその輝きに花を添えているようにすら見えた。

「そうだよ。マリア。彼がアンガス。そして、アンガス、彼女はマリア」

「初めまして。マリアよ」

 マリアはオーバーオールのももの辺りで手を拭くとアンガスに左手を差し出した。

「初めまして」

 仕方なくアンガスも左手をだし、握手を交わすとマリアは笑顔でアンガスに話し始める。

「話はよくアルから聞いていたわ。すごく頭が良くて、素直で綺麗な子だって。あんまり褒めすぎるから、嫉妬しちゃって、会わせろ、て、無理に頼んだのよ」

 マリアはアルフレッドのガールフレンドだった。何となくアンガスは白けた気分になった。アルフレッドはマリアに困ったように言った。

「僕だってアンガスにはなかなか逢えないんだよ。彼ときたら僕に住所どころか電話番号すら教えてくれないんだから」

「壊れているんだよ」

 3か月間、この言い訳は少し厳しかった。アンガスはさすがに違う言い訳をすればよかったと後悔した。

「ミステリアスな少年ね」

 マリアはクスッと微笑んだ。アンガスはこれ以上突っ込まれては敵わないと思い、別の話題に変えようとした。

「いい名前だね。マリア」

 ありきたりの話題にしたつもりだった。しかし、マリアは肩を竦めた。

「私は嫌いよ。こんな個性のない名前」

「マリアはスペイン人なんだよ」

 アルフレッドが付け加えた。そう言われて確かにマリアの英語の発音はスペイン訛りだと思った。

「そうよ。スペイン人の女性のほとんどがマリアかマリアに関する名前よ。私の母親もそのまた母親も皆マリア」

「そして描いている絵もマリアだね」

 クスッとアルフレッドは笑いながら、レオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』を見上げた。アンガスもつられるように絵を見上げた。

 聖母の慈悲深い目が幼子を見下ろしている。その瞳に映れるのは、この世のすべての人間ではない。

 その瞳に見つめられたのが自分だったなら、自分は今どうしていただろうか?

 違う自分になれていたのだろうか?

 二人の会話をぼんやりと聞きながら、答えのない思いを巡らせた。

「名前と絵は関係ないわ。ただ、ダ・ヴィンチが好きなだけ。でも、うちの親は純粋にカトリック教徒で考え方が古いのよねぇ」

「でも、君の親はイギリスに来て絵を学ぶことを認めてくれたんだろう?寛大な親じゃないか」

「当たり前じゃないの。私の人生は私のモノよ。誰の邪魔もさせないわ」

「でも、あんまり無理しちゃダメだよ。新しいバイト始めたと聞いたよ。ステイ先の人にも迷惑になるんじゃないの?」

「あら。失礼ね。ちゃんとベビーシッターとしての仕事はしているわ。ただ、どうしても絵の具やキャンパスを買うお金が足りないの。ロンドンは物価が高すぎるのよ」

 ステイ先ではベビーシッターをする代わりに宿泊代を免除してもらっているマリアは肩をすくめた。

「お金が足りないんだったら、僕が助けるから」

「私は自分の手でやりたいのよ」

 アンガスは完全に取り残されてしまっていた。これがアルフレッドの世界なのだ。自分とは違う種類の人間であり、アルフレッドにはマリアみたいな女性がお似合いなのだ。

 自分は何だろう?

 不意にアンガスは背筋に寒さを感じ、身を抱きしめた。答えを見付けるのももどかしく仕方なく目を別の絵に向けようとした。

 不意に見覚えのある二人の東洋人に目が行った。老人に青年の紳士である。

 二人は『岩窟の聖母』を真剣に見ている。

 何かを話しているが、外国語である。アンガスにはチャイニーズもジャパニーズもコウリアも理解できない。

 とにかくここで彼等が自分に気付いてはまずい。昨夜はビリーが彼等を襲おうとしたわけだが自分も無関係とは言えない。彼等にあの時の事をこんな所で話されては、アルフレッドに自分のことが知られてしまう。アンガスは未だに仲睦まじく話すアルフレッドとマリアに近づき別れを言った。

「アル。用事思い出したから帰るよ」

「あっ。ゴメン。退屈な思いさせた?」

「いや。そんなことはないよ。今日は楽しかった。マリアも。会えてよかった。また近いうちに会おう」

 もう、会うのはよそう。

 さよなら。偽りの僕と、その世界の住人達。

 アンガスは心の中で別れを告げた。




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