1. Prologue
深い河は、黒い闇を流す。
ただ、その上にゆらゆらと揺れる月だけは闇に流されることもなく、頼りなげにそれでも幾年月も変わることもなく漂い続けている。
80年代前半。ダブリン
アンガスは、小さな体を欄干に預け、リフィ川へと身を乗り出すと、その深い闇にいつも吸い込まれそうになる。それでもアンガスはその月に、その小さな手を伸ばしたくなる。天上の月はあまりにも遠く、あまりにも輝いていて到底届きそうにもないが、すぐそばのリフィ川に漂う月なら手が届きそうな気がしたから。
オレンジ色の暖かそうな電灯が灯り始め、さらに寒さが深まると、冷たい風がその幼い頬を撫でつけ、アンガスは足を地面に戻した。
両手をどんなにさすっても温かくはならないし、破れたセーターの隙間からは容赦なく冷気が入り込む。真っ赤になった鼻を啜り元居た毛布の上にちょこんと腰掛けた。薄い毛布では石畳からの冷えた空気は、遮ることはできず、アンガスは自分をぎゅっと抱きしめた。
「こんなに小さいのに、なんて可哀相。」
人間の面を付けた熊ではなく、毛皮を着た厚化粧の女性が奈落の底よりも慈悲深い悲しみを含んだ笑みで、アンガスを見下ろした。
チャリンとコインが目の前の空き缶に入ったことを確認すると、母に教わったように天使の微笑みと無意味な呪文を、神の慈悲に浸る獣より僅かに進化した動物に、投げかける。
「神のご加護を」
クリスマスが近いストリートは買い物客で賑わい最近は稼ぎがいい。
ひっきりなしに通り過ぎる車からの排気ガスの臭いも、鼓膜に響く爆竹に一斉に羽ばたく鳩も生活の一部だ。
「…ブリ…フェ……シティ…モリー…マロ」
聞き慣れた雑踏の中、低い嗄れた歌声に、アンガスは顔を上げた。
その声の主は、ウィスキーの瓶を片手にサンタクロースのような笑みをアンガスに投げた。
「よう。ジプシーの坊主。今日の稼ぎはどうだ?」
「じいさん。いつも歌っている歌は何?」
アンガスはじいさんの質問には答えず、メロディーにすら聞こえないことの多い曲名を訊こうとした。
「イン ダブリンズ フェア シティ。坊主、こんな曲も知らねぇのか?やっぱ余所者には分からねぇのか?」
その答えは呂律の回らない調子だったので、アンガスは何を言っているのかさっぱり分からなかったが、余所者と言われたのは、違うと思った。アンガスはここで生まれ、しかも一度もこの島から出たことなど無かった。じいさんの抜けた歯の隙間から漏れる歌を聴いた。
「アー…ライブ…ライブ…オー…、シーダイドォーフ…フェイバー」
She diedの行を聴き、これは悲しい曲だと初めて知る。
「この曲はなぁ、坊主。花売りのねぇちゃんが死んで、幽霊になって出てくる歌なんだよ。グラフトンストリートの像見たことあるだろう?」
アンガスは観光客で賑わう通りを思い出した。確かにそこには手押し車に花を詰め、気味の悪い顔をした女の像があった。
「アーライブ、ライブ…」
ライブ、ライブ、ライブ…。口の中でアンガスが繰り返すと妙にぎこちなく感じた。
「坊主は、ジプシーだろ?次は何処に行くんだ?」
アンガスは答えようが無かった。アンガスは何処にも行ったことなど無いのだから。
リフィ川の流れに沿いの冷たい風がアンガスを絡め取る。
「アーライブ、ライブ…」
じいさんは雑踏に呑み込まれ、僅かな言葉だけがアンガスの耳に残った。
ライブ、ライブ、Live…