四ヶ月前のトラブル②
女子が六割以上を占めるこの高校は、どの教室も昼休みまでにぎやかだ。
女子高のがさつなノリに至らないくらいの明るさと雑駁さ――その程度は声の大きさで測れる。
校舎裏にある名ばかりの休憩所――申し訳程度のスペースに置かれたテーブルとベンチ、その端に座って、静玖はひとり本を読んでいる。
あたりに人気はない。
静玖にしてみれば、お高くとまっているわけでも、人を避けたいわけでもないのだが、結局は小集団に馴れることがないため、自然とひとりになることが多い。子供の頃からそうなので、気にしたことはない。
どのみち人はひとりなんだし。
だが、“ぼっち”であることを気にかける人もいるし、だからといってソリッドな空気をまとう静玖を気軽にも誘えず、扱いに困っている級友たちを見かねて、静玖は進んでひとりでいるようにしている。奇妙な逆転をした心遣いだとは思う。
……でもまあ、気にかかるのはわずかの時間。
そこにいない人のことを考え続けるのは少女たちには難しい。級友たちにしても、自分にしても。
静玖は読みかけの「景徳伝灯録」から顔を上げた。
その世界ではメジャーとはいえ、女子高生が読むものではない。禅問答集を昼休みに読む十七歳は、日本が広くとも五指に満たないはずだ。
校舎の逆側から足音が聞こえ、下を向いた夢花があらわれた。
片手にサンドイッチと野菜ジュース。カロリーコントロールしているのだろう。
「あ……」
夢花が静玖に気づいて小さな声を上げた。
静玖は会釈して本に眼を戻す。
「しの、みやさん? ……あの、ここでお昼食べてもいいかな?」
「私の許可は必要ないんじゃない?」
特に話すこともない静玖は、生返事をして「南泉の猫」について考え続けている。
夢花は苦笑に近い笑顔を作って、テーブルから少し離れた校舎に背を預けて座り込んだ。
「あはは、そうだよね」
サンドイッチの封を切る。
「……今朝のやり取り見てたでしょ? それで、居場所がなくて、あはは……」
「……」
静玖は顔も上げない。
「女子の集団は難しいね……」
「……」
静玖は顔も上げない。
沈黙を埋めるように、夢花が少し明るく話題を変えた。
「なんか、篠宮さんって、いつもひとりだよね」
静玖は顔を上げた。夢花を不思議そうに見る。
「あ、いや、ごめん!」
「……? 何で謝るの?」
「え……あれ? いや……」
本に視線を戻す静玖を、今度は夢花が不思議そうに見る。
サンドイッチをひと口かじろうとして、手をおろした。
「あ、あの、失礼かもしれないんだけど、ひとつ質問してもいい?」
「何?」
「……その、ひとりでいて、寂しいって思うことある?」
静玖は首を傾げた。
もちろん、夢花が聞きたいことの意味はわかっている。
けれど、「人は本来ひとりで寂しいものだ」と結論を言ったところで彼女は納得しないだろう。彼女は静玖の答えが欲しいのではなく、自分に訊いているだけだから。
表情の変化がない静玖に、ばつの悪そうな顔になった夢花が手元のサンドイッチに眼をそらした。
――そんなだったら訊かなければいいのに、と静玖はかすかに微笑んだ。
夢花という子は、何事も表面通りに取るのだ。
素直で、単純で、真面目で、疑うことがない。
静玖は初めて夢花に同情して、同時にアイドルグループの中でもめる理由もわかった気がした。
逆に言えば、気が回らないということ。
恐らくは……グループの全員が、互いに譲り合いながら主役を持ち回りできる、それがグループの当然の姿だと思っている。まさか自分の役割を見定めて、その位置からの立ち回りが必要だなんて考えもしないのだろう。
校舎の昇降口につながる渡り廊下のあたりから、女子の集団の声が聞こえてきた。
耳障りな大声で笑い合っている。
見た目にもハッとして、校舎に張りつくような態勢に変わった夢花を見て、静玖も気づいた。これは祥子の声だ。
文字を追うのをやめて、声のするほうを何となく伺う。
「……あはははっ! ちょーうける! マジ名演技だった!」
「でしょでしょ!」
朝方の泣いていた子の声だ。
夢花がもぞもぞと表から見えない死角の位置に移動して、声のするほうに耳を向けた。何人かの女子が、大声で笑い合いながら通り過ぎていく。
「でもさあ、さすがにやり過ぎたかな?」
「ぜぇんぜん! これぐらいやらないとわっかんないよ、あのお花畑はさ!」
「うわー、祥子ちゃんひどーおい。あははっ!」
追従めいた笑いが起こる。
静玖はこういう笑い声が嫌いだ。
「センターなんて決まってんだからさ、事務所にたてつくところじゃないよ。あいつホント空気読めないっつうか、当然の報いっしょ。てか、私のセンターに文句つけるなよ」
そうそう、と同意の声が聞こえる。
祥子の取り巻きは、そのアイドルグループ――確か「エルナト」と聞いた。間違ってるかもしれない――の二軍の子たちだ。自然と皆で派閥の長を持ち上げる形になる。
「結局は世の中力を持つ者が正しくて全てを手に入れる……なんてね、えへへ」
「さすが祥子ちゃん! 深ーい!」
「正直さ、あいつ、元から嫌だったしね。八方美人な感じとかさあ、全員が主人公なんだよっ! て、こっちはアイドルもののアニメに出てんじゃねーつうの!」
爆笑。
静玖の予想通り、夢花は素直だったようだ。だが、素直の対価があの仕打ちになる世界……あまり好ましいとは思えない。
夢花はもう聞いていない。眼をきつくつぶって、頭を抱えて震えている。
祥子たちに女子数名が追いついたらしく、声が加わった。話し方からすると後輩のようだ。
「すいません! 遅くなりました!」
「いいよいいよ、で、ちゃんと流してきた? 小野崎夢花の悪女っぷり♪」
「もちろん! だいぶ盛っておきましたよっ!」
祥子たちの笑い声が遠ざかっていく。
「……今のって」
完全に聞こえなくなったところで、夢花が顔を覆った。泣き出すのかと思ったが、静玖がいることも忘れ、震えたまま独り言をつぶやいている。
「あなたも大変ね」
静玖は息をついて本を閉じた。
「……やっぱり、そうだったんだ。……アイドルの……」
思わず顔を向ける静玖。
「アイドル?」
「許せない……絶対に許せない……」
何となく音をたてずに回り込み、静玖はゆっくりとその場を後にする。
去り際にふと呟いた。
「心のままに為すわざぞよき」
☆
篠宮家は古くからある閑静な住宅街の奥まったところにある。
大通りも百メートルほど離れたあたりに位置しているので、騒音と呼べるような大きな音はほとんどしない。
唯一騒がしいと言えるのは、土曜の昼下がり、篠宮家に剣道を習いに来る子供たちの歓声のみだろう。
いつでも落ち着いて縁側でお茶を飲んでいるような、穏やかな街並みだ。
夕暮れ時、静玖が帰宅すると、門の前で近所の鹿島勇吾と母親が話し込んでいた。と言っても話すのは一方的に母親の紀美子のほうだが。
勇吾は同じ学校の一級上だ。
制服に防具袋と竹刀を肩にかけていた。正式ではないが道場の師範代のような位置にいて、ここでの稽古がないときは部活に半分、警察の道場に半分行っているはず。
剣道では将来を嘱望されている、相当の期待株だ。
「それではこれで。失礼します」
ちょうど勇吾が辞去しようとしているところ。
折り目正しく、上背はあるが剣道の高段者にしてはいくぶんか線の細い“美少年”だった。通学路で年上の女生徒からラブレターをもらいそうな感じというか。まだ身体と見目かたちがあっていない。
「いつもありがとね、勇吾君。あら、静玖、おかえりなさい」
振り向いた勇吾は眼に見えて狼狽していた。
「あ……えっと、」
静玖は勇吾を無表情で一瞥し、何も言わずに門をくぐった。そのまま玄関に入っていく。
「あらちょっと、静玖! ……ごめんね、ぶっきらぼうで。昔はあんなに仲良かったのにねぇ」
「いえ……」
勇吾は静玖が消えた扉を見つめながら、どこかほっとした顔をしている。
最近は父親の隆之が忙しかったらしく、紀美子とふたりの夕食が多かったが、今日は三人が揃っていた。
静玖は機械的に自分の席に座る。
隆之は、静玖の様子を時々何気ない風に観察していたが、話しかけてはこない。
固い空気を和らげるためか、いつもなら消すはずのテレビがついたままで、ニュース番組が流れている。
母親の紀美子が、隆之にお代わりをよそいながら、口を尖らせた。
「静玖ったら勇吾君を無視したの。せっかく久々に顔を見せに来てくれたのに、あんな態度取って」
隆之が接ぎ穂を見つけたように、静玖に向かって口を開いた。
「ふん。静玖、前から言っているが、勇吾も優秀な側の人間だ。関係性を築いておいて損はないぞ」
「……誰があんな奴」
静玖が小さな声で毒づく。
「あんなとはなんだ! 俺はな、勇吾はお前の婿候補とさえ考えているんだぞ」
静玖が茶碗を音立ててテーブルに置いた。叩きつける、に近い。
「は?」
「……いや、あくまで候補だ。そのぐらいの人材だと言っている……まったく、まだイラついているのか? なにか、こう、気晴らしになることでもしてきたらどうだ」
静玖の剣幕に引いた隆之が弁解じみた声を出した。
ふたりの間の緊張を気づかないまま、紀美子が明るく静玖に笑いかけた。
「そうよ、静玖。受験勉強は大切だけど、休むことも重要よ?」
静玖は不機嫌を隠そうともせず、再び茶碗を手に取った。
あまり母親を巻き込みたくはない。
父親の横柄さに気づかない鈍感さは、確かに頭が痛くなるほどのものだったが、逆に言えば、おしなべて鈍いおかげで結構救われてもいるのだ。
テレビでは、公共放送では珍しいポップな楽曲が流れていた。
甲高い特殊な歌声、きらびやかなしかしどこかあか抜けない衣装を着た、聞いたことのないグループ名の女の子集団がライブを行っている映像だ。このチャンネルは、サブカルチャーに関しては、時々民放では放映し得ないレベルの深堀りをしてくることがある。
思わず静玖は画面に見入った。昼下がり夢花が言ったアイドル、という言葉を思い出す。
画面では、ロケ映像ではなくスタジオに切り替わり、アナウンサーが「好感の持てる表情と口調」で、大げさに感嘆している。
「……以上、アイドルの街、秋葉原より、今注目の最新アイドル特集でした。いやー、次から次へと魅力的なアイドルが誕生していきますねぇ」
おしゃれひげを生やしたコメンテーターが穏やかに笑顔で返す。
「それだけ多くの若者がアイドルを夢見て活動しているということですね。最新の統計では、この街で過ごす十代の約三割、二十代の約二割が何らかの形でアイドル活動に携わっているというデータもあります」
「なるほど、まさにアイドル戦国時代、というわけですね」
ふたりともニッコリ。
隆之がつまらなそうにテレビに向かって鼻を鳴らした。
「アイドルか……。ふん、経済効果は認めるが寿命が短すぎる。少しの間だけ有名になったところでその先はどうするつもりなんだ。先々が見透かせないで若い時間を費やすにはリスクが高すぎるだろうに。こういう子達の親はバカなのか?」
おしゃれひげが目玉情報といった感じでためを作った。
「実はですね……なんと最近では、サブカルチャー系の企業の就職においても、アイドル活動をしていた経験を重要視されることが多くなっているんですよ。自分を磨くと言う意味でなかなかできない体験だったり、社交性や協調性の発露、そしてそれを達成するための一途な努力といった、アイドル活動で養われる要素を評価しているわけなんですね……」
紀美子が面白そうに静玖に顔を振り向ける。
「あら、そういうことならアイドル活動も悪くないんじゃない?」
隆之が言下に否定した。少し意地になっている気配。
「いいや、今の報道は偏っている。うちの会社はアイドル活動で評価などしてないぞ」
ニュースの終わりには、女の子たちの短いインタビューが差し挟まれていた。
「ええ、苦しいけど楽しいです。自分たちが頑張ることでちょっとでも楽しくなってくれる人がいる実感があって……」
静玖は立ち上がった。
食事は半分以上残っている。
「もういいの?」
怪訝そうな紀美子にかぶせるように隆之が声を上げた。
「静玖、今朝の話は忘れてないな? いいか、誕生日を機に反抗するのではなく、気持ちを入れ替えるんだ」
静玖は返事をせずにダイニングを出た。
二階の自分の部屋に入り、扉を閉め、背中でよりかかる。
部屋の中は明るいクロームイエローで統一され、世界一メジャーなネズミをはじめとしたグッズであふれていた。長い時間をかけて集められた、「かわいい」キャラクターグッズの数々。
自分には決して手に入らない愛らしさ。
見渡して、静玖は暗い眼でため息をついた。