四ヶ月前のトラブル①
「いいか、優秀な人間というのは人のために何かを成すべき義務がある。まずそれを理解しなさい……今はそれを不自由なことだと感じるだろうが、そういう人間には社会的地位と高い報酬とが与えられ、幸せになれる様にうまく出来ている。しかし、その道から外れてしまえば、むしろ優秀さが仇となって不幸な結末が待っているものだ」
また始まった。
父親はことあるごとに「生きる道」を説きたがるのだが、内容がいつでも上目線でうんざりする。
静玖は無表情のまま、かすかに眉をしかめる。
朝の素振りをすませて、制服に着替えた静玖に「ちょっと来なさい」と父親の隆之が声をかけ……剣道場の真ん中で静玖は正座している。
剣道着のまま上座で正座する父親。
それは取りも直さずふたりの力関係を表していて、一方的に教えを乞う立場が静玖であることを示している。
剣道では確かに修業中の身だからその位置もしかたがないが、生き方を決められる謂れはない。そもそも父親が様々な経験を経て、今のありようを選んだわけではないのだから、違う進路に対して何かを言える論拠はない。
「お前は俺という優秀な血を受け継ぎ、人の上に立てる人間に育ててきた。それは全てお前の幸せを思ってのことだ。その道から外れようとしても失敗は見えている。なのに何故今になって反抗する。理由が分からん」
隆之がわざとらしく口元をゆがめた。
イラっとする。
話す合間に隆之はその表情をするのだったが、静玖は好きではない。話している内容とそぐわないことが多く、「空気を読めない」と言うのに十分な不自然さだからだ。
それが会社の若い女の子に「可愛らしい」と言われて以降だと母親から聞いて、端的に嫌いになった。
静玖は、媚びてんじゃねーよ、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、居住まいを正して背筋を張った。
「それはこっちの台詞です。その考え方が私には理解出来ない。優秀という境界条件の論拠も提示されていません。偏差値で人の価値は決まらない、とは常々お父さんの言っている言葉ではありませんか? ……何故今なのかという問いについては、明日で私も十八だからです。もう自分のことは自分で決めるべき歳でしょう」
父親に正対して発するには少し強い口調だ、とは思う。
だが止まらない。しようがない。内心の焦燥を押し隠すように少し早口になった。
隆之は、場を取り繕うように腕を組んで、軽くため息をついた。
「ダメだ。俺の考え方が理解出来ないのは、まあ、まだ幼いから仕方がない。自分の考えが決定的に間違っているとは思えないだろう……が、つまり、十八歳とはたかがその程度の年齢だ。思いついたところで先々までのビジョンはない。いいから俺の言う通りの進路に進みなさい。それが今のお前にとって一番良い選択だ」
「嫌です」
ほとんど反射的に、口から否定が滑り出た。
隆之が眉根に皺を寄せる。
「いい加減にしろ静玖。お前のその反抗心は受験勉強のストレスか? 一時の迷いで道を踏み外すな」
「違う。お父さんの言い通りにこの先進んでも、幸せになれるとは思えない。ずっと、毎日がつまらないの。もうずっと。竹刀を振り始めてからずっと退屈なの。こんな毎日がこの先も続くなら、お父さんの言う“道を踏み外す”のもひとつの選択だとさえ思う」
隆之は首を振ってまた口元をしかめた。
イラっとする。
「それが持てるもののわがままにすぎない、と言っている。一時の気の迷い、というのはそういうことだ……まぁいい、そこまで言うのなら俺を説得してみろ。お前はこの先どういう進路で何を目指してどう生きていくんだ。俺が納得できる答えを示せるのなら許してやる」
「……」
上目遣いで挑戦的に見つめていながら言葉を返せない静玖。
だが、平静な顔をしている父親の眼の中を、隠しきれない陰湿な勝利がよぎるのを見て取った。
「出来ないだろう。確かな目標があるのならいざ知らず、一時のストレスで反抗しているだけなのだから答えられるはずがない……そろそろ学校へ行く時間だろう。一日考えて頭を冷やしてきなさい」
言いたいことを全部言って、つ、と隆之が立ち上がり、剣道場を出て行った。
残された静玖は険しい表情のまま、隆之のいたあたりを睨んでいる。
結局は、自分の言い分を押し通したいだけ。
マウントを取って、言うことを聞かせたいだけ。
――あの人は、不実で、不潔だ。
静玖は怒りを噛みしめるように、奥歯に力を入れた。
☆
高校までの通学路は河川敷を通るのだが、途中橋げたにしばし寄りかかって時間を潰したおかげで、だいぶ頭が冷えた。
冷えて、いよいよ父親に納得がいかないことを確認した静玖だったが、教室の入り口にはちょっとした人だかりができていた。
人の隙間から覗くと、中央でクラスメイトの女子たちが派手な言い争いをしている気配だ。
「いい加減に認めたらどうなの! この裏切り者!」
「だから違うって言ってるでしょ! 勘違いなの!」
教室の中央あたりで対峙して怒鳴り合っているのは、クラスメイトの小野崎夢花と悠月……祥子だったと思う。正直、クラスメイト全員の下の名前まで憶えられていない。小野崎さんはちょっとキラッとした名前だったので憶えてる。
祥子の後ろには何人かの女子が固まっていて、ひとりは泣いている様子だ。女子たちは、何となくその子をかばって円陣を組んでいるような形。
周囲にいる生徒たち、入り口に群がっている生徒たちが、声をかけられない程度には空気が凍っている。
当然だろう。
学校生活で大声を上げるシチュエーションなんて部活くらいしかないし、それが朝っぱらから教室の真ん中で繰り広げられている……周囲の眼を計算した寸劇なんだろう。ここでもマウントを取りたがっている人間がいるだけのこと。
「何が勘違いだよ、証拠は揃ってんの。あんたが前から佐伯とつるんでたとこ見たってのが何人もいるし、何より佐伯自身があんたと付き合ってるって認めたの。それなのに、なに? 恋のキューピッド気取り?」
美人に属する祥子が、だいぶそぐわない柄の悪い言葉遣いで吐き捨てる。
祥子の言葉を聞いて、しゃくりあげていた女子が再び泣き始めた。
「ごめんね、嫌なこと思い出させちゃって」
祥子が振り向いて、申し訳なさそうに詫びた。
「ううん、祥子ちゃんは悪くないから……ありがとう」
泣いていた女子がわずかに顔を上げて、一瞬夢花を見た。
静玖は、その視線になにか勝ち誇った色を見てとり、これがロールプレイだと確信したのだったが、別に突き詰める気もない。
そもそも、世間なんて三人いれば出来上がるもの。
そこでは上下を決めたい人間が必ずひとりはいるし、言葉の強さを意識しない程度には無教養な人間が大声を上げれば、事態はそちらに流れていくもの。
どんな人間関係だろうが、泥水のような部分を隠している。家族でさえ。
静玖は眼を伏せた。
今朝の出来事のミニチュアを時をおかず見せられてうんざり。
小野崎夢花は愕然として、言葉が出ずに両手を意味もなく動かしている。
「違う、違うよ……そんなわけ……」
他のクラスの物見高い子まで入り口近くに群がっている。
悠月祥子と小野崎夢花は、校則がかなり緩いこの高校で、アイドル活動を許されていると皆が知っているのだが、その意味でかなり「目立っている」ふたりが争っている状況は、まあ、ちょっとした騒ぎだ。
「あの、通して」
静玖は眼の前の男子生徒に声をかけた。寸劇ならば付き合う必要もないだろう。ここまでで大体ふたりの位置は決まったろうし。
男子生徒がしかめ面をしながら振り返る。
「ああ? 今どんな状況だと……あっ! し、篠宮さん、えっと」
「どいて」
「は、はい……」
静玖は、通路を開けてくれた男子の横をすりぬけた。
周囲の生徒たちもそれに気づき、何となく道を開けてくれる。
静玖がその真ん中を気負いもなく歩き、教室内でもめているふたりのすぐ後ろを通る。
なんとなく緊張感が増したが、当事者の静玖はどこ吹く風、といった態で窓際の自分の席に座った。静玖にしてみれば、呼吸を外すのはお手のものだったし、そもそも自分に向けられているものではないから、すぐに意識から外れる。
もめていたふたり、主に祥子が気勢を削がれたようで、軽く舌打ちをして夢花に視線を戻した。
「もういいから、もう私たちに関わらないで」
「そんな……」
泣いている女子の肩をさするようにして寄り添う祥子。
何を言っても聞いてもらえず、涙目の夢花。
興味がなさそうに窓の外を見つめている静玖。
ふと静玖が温度のない眼でふたりを一瞥すると、祥子がこちらを見つめていた。好意的な視線ではなく、夢花を追い詰めるための寸劇を邪魔されただいぶ底意のある視線だった。
静玖はなんの感興もなく外に視線を戻す。
心の中、上のほうの水面にさえ、波紋も起こさない。
マウントを取りたいんだったら、もっと時間をかけてちゃんと仕込めばいいのに。
数で成立するものは数で成立しなくなるだけでしょう。
静玖の思考の端をいくつかフラッシュのように言葉が通り過ぎて、それもわずかの間に消える。
ああ、今日は暑くなりそう。
初夏の陽気は日によって変わるし、もう夏服でよくないかな? などとうわの空で考える。