アイドル「スキャローブ」3rdライブ
出がけに父親に見つかりかけて、道場の裏側を抜けて駅への道の反対側に出たために、だいぶ遠回りになってしまった。
秋葉原の電気街口の改札を抜け、静玖は息を弾ませながら腕時計を見た。
十一時五分前。
走り続ければ間に合う。
――静玖は厳しく仕込まれたせいで時間にはとにかく正確だ。
今までやむを得ない理由以外で遅刻したことは、たぶんないと思う。
「遅刻するということは自分のみならず他人の時間をも奪うこと」とは父親のセリフだけれど……そういう意味で目くじら立てているわけでもなく、たぶん自分は決めた通りに動くことが好きなんだろう。
で、当然その分だけアドリブに弱い。アイドルとしてはちょっと修行が足りない。
静玖は軽く頭を振って、思考モードを払いのけた。
点滅しているのにまだ人が密集しているガード下の信号に飛び込む。
日々の鍛錬のおかげで、すれ違う人をよけるのは簡単だ。次の動きを見定めればいい。静玖は最小限のステップとスライドで、信号を渡り切る。
彼女の姿かたちは、とりあえずスレンダーという形容。
腰の上まである長い黒髪を、落ち着いた臙脂色のリボンで結んでいる。
手足はすっと伸びて、細面で小顔、整った目鼻立ち。
全体、少し鋭い印象の箱入り系美少女に見える。
だが、剣道で鍛えられたインナーマッスルのおかげで、俊敏にスカートの裾を翻しながら人の間を縫っていく姿は、その見かけには若干そぐわなかった。
箱入り系美少女だが、「切り替えスイッチ」付き、というところ。
すれ違う秋葉原の住人と思しきヘビーユーザーが、「柿原氏、眼の保養ですなデュフフ」「まったくですな石田氏デュフフ」などと囁いている声が漏れ聞こえた。
一瞬、これは地下アイドルとして営業すべき? という考えがかすめたが、瞬時にふたをしてすれ違う。まずは間に合わないと。
静玖はガードに沿って五十メートルほど、ゲーマーたちの深夜の聖地である東京レジャーキングダムを横目に見ながら走り続け、昌平橋の信号手前を右に折れる。そこから少し行った左側、雑居ビルの三階が「プリンセスガレージ」。
エレベーターを無視して、一気に階段を駆け上がって店に飛び込んだ静玖に、ドアの前にいた夢花がびっくりしながら声をかけた。
「静玖ちゃん! 大丈夫?」
二百メートルほど全力疾走した静玖は声を出せずに片手を上げる。
大丈夫。
奥の席に座っていた未來がやほー! と言いながら両手を振っている。
上げた片手を振って応える。
このふたりと自分で「スキャローブ」。
「……あのね、音声がダメで、二十分遅れるって」
夢花が何か申し訳なさそうに付け加えた。
「……あ」
息を整えた静玖は顔を上げて、夢花を見て、未來を見て、無表情に戻った。
「そう」
☆
秋葉原の休日の人出は、簡単に言うと百万人に少し足りないほど。
他の街と違って、ここに来るのはサブカルチャーに焦点を当てたイベントごとにのみ、楽しみを見出している人たちだ。
秋葉原のガード下の信号を渡ったあたりは、もとはジャンク品や電気工作系パーツを売りさばく、だいぶ玄人向けのゾーンだったが――最近の休日はさながらメイドとアイドルによる局地的バトルロイヤルの様子を呈している。電気街テイストを残す店を覆い隠すように、若い女子が雑多なコスチュームを着けてチラシを配りはたまた客引きをしているという、ちょっと言い表せない感じのカオスだ。
さらに、もとは地下アイドルたちとメイド喫茶のウェイトレスでは区分がなされていたのだったが、最近はウェイトレスたちも歌い踊りだしたせいで、どこもかしこも人気のコスチュームを着けた娘たちがいる場末のスナックみたい……。
結果、地下アイドルと呼ばれているマイナーアイドルは、今や実に七千のオーダーに上ると言われている。店に所属しないでフリーで活動している「アイドル」も数多くいるとか。そういう意味では、マイナーアイドルをメジャーにする母体と自己定義している「プリセンスガレージ」などは、もはや時代遅れの感さえするほどだ。
――東京で、おそらく最も普通の若い女の子たちの消費が速い街。
渋谷や原宿さえもそのスピードに追い付けない。
今の秋葉原はそういう街だ。
☆
さて、「プリンセスガレージ」。
土曜日の特別興行は、いつもはある前列のテーブルも撤去され、全員スタンディング。
定員八十名だが、実際にはかなり詰め込まないとそれほど入らない……のだったが、その客席はいま超満員で定員を超えていた。
ファンたちは左手に色の変わるサイリウムライト、右手には地元のスーパーで買ったのか、鮮やかな緑のズッキーニを振り回している。曲に合わせてサイリウムの色を変え、狭い中ぶつかることもなく、全員統一された完成度の高い踊りとコールでステージを応援している。
ステージでは「スキャローブ」のライブが始まったばかりだったが、三人娘のテンションは客席にあおられて上々なレベルまで高まっていた。ライブらしい、ステージと観客のシンクロが最初から作り上げられている。
二曲目は、アイドルらしい可愛らしい楽曲「次はキミから言ってよね!」。
軽快なダンスを披露しながら、「スキャローブ」の三人が立ち位置をくるくると入れ替え、最初の位置に戻る。
向かって右、上手には小野崎夢花。
アイドルらしくガーリーなセミロング、ゆるふわカールとメイク。
眼はぱっちりしてて少々たれ目、かわいいがどこかあか抜けない雰囲気が残るのは少しぽっちゃりなせいか。本人は「静玖ちゃんみたいになりたいっ」といつも言うが、減量かスポーツをする気はない。
向かって左、下手には羽澤未來。
彼女はふたりと違う学校のひとつ下の学年、見た目からは想像できないが、世話焼きで損するタイプ。「スキャローブ」のリーダーは一応夢花だったが、実際には彼女がまとめている。
ショート気味でシャギーがかった濃い茶髪と見つめていたくなるようなアーモンドアイ、ニッコリ笑うと小動物のようなかわいらしさ。
そして、中央には篠宮静玖。
黒髪ロングで、ダンスの間は真剣なあまり無意識にアルカイックスマイルを浮かべてしまう、ミステリアスな美少女。
だいぶ雰囲気が違う三人の統一が取れているのは、プリンセスガレージ付のモダンダンスマニアの振り付け師が「んまあ! ステキ!」と一目ぼれして、専用の振り付けを考えてくれたおかげだ。「スキャローブ」は期待株と言っていいだろう。
中盤の間奏に差し掛かり、ダンスの激しさが増す。
それでも可愛らしい楽曲に応じて、左右のふたりは時々客席に手を振ったりしているのだが、中央の静玖だけダンスに集中している。
先ほどまでのうっすらとした笑顔も消え、ただ真剣にダンスの完成度を追い求めているようだ。関節の可動域まで意識に入った動き、最も美しく見えるであろう角度――ほとんど無表情でステップを踏んでいる。
アイドルとはいいがたい。
アイドルのダンスというより……何かこう、「修行」が近い感じ。
黒い瞳が客席を刺すように射抜き、美しく長い黒髪がなびき、全エネルギーをつぎ込むような鬼気迫る踊りだ。
壇上だけがヘンに張りつめ、客席が圧倒され、苦しい息をついているように声が落ちる。観客たちも思わず見入ってしまい、コールもやみかけている。気づかわしげに未來が夢花と眼を見交わす中、静玖は真剣に踊っている。
が、楽曲が二番に入り、笑顔を振りまきながら順繰りにソロパートを歌う箇所に差し掛かる頃には、静玖は先ほどと打って変わって笑顔だ。
まずは夢花。
次に未來。
壇上でマイクを持っていない左手を、交互に打ち合わせながら歌う順番が変わっていく。
静玖の声はソロで聞くとわかるが、ノイズのないハイキーの声。澄んでいて可愛らしい。
ちょっと照れた様子で自分のパートを歌う静玖を見た観客から、再び歓声が上がる。ダンスの時とのあまりのギャップ、その反動で大歓声だ。
その最高潮に、感極まった二列目の中年男性が身を乗り出した。両手を差し上げて大声で叫びあげた。
「うおー! しずくー! 結婚してくれー!」
ここの常連のひとりで、最近は圧倒的に「スキャローブ」に入れ上げている彼の声に、他の常連は冗談ぽく口を尖らせながら笑っていた。
が、ステージで、キッと振り向く静玖。踊りも歌も止める。
脇で夢花が眉を八の字にして、未来はあちゃあ!と面白そうに片手で顔を覆った。
「止めて!」
鋭くスタッフに声をかける。
楽曲が遠慮がちに止まった。
しばしの沈黙。
静玖がじっと中年男を見つめている。
そのあたりに転がっている石をみるような眼だ。
観客も息を呑んで見守っている。
形の良い唇が、静かに開いた。
「……今、結婚してって言った?」
少しかすれ声。
夢花が静玖の近くに寄って、おろおろと「落ち着け」のジェスチャーをしている。
「え、いや、あの、……え?」
中年男性が思わぬ成り行きにどもるが、常連のファンたちが口々にはやし立てた。
「やっちまったな、お前」
「いや、むしろグッジョブじゃね!?」
囁きかわすような声の上に、突然ピーっと笛が響いた。
首から下げたホイッスルを力いっぱい吹いた夢花だ。静玖の肩に手をかける。
「はい、そこまで! もう、静玖ちゃん、毎回これ!?」
未来がニコニコしながら寄ってくる。
「また最後まで歌えなかったね」
「笑いごとじゃないよ! アイドルとして致命的だよ!」
言い募る夢花を制して静玖が一歩踏み出した。
「そんなに軽々しく結婚を申し込むなんて、あなたは本気なの?」
意識していないだろうが、その表情は冷たく高貴な印象。「その者の首をちょんぎっておしまい!」とか言いそうな、ハートの女王様。
「いや、あの、結婚というのはその、言葉のあやというか、歓声の形式と言いますか、決して本気というわけでは……」
中年男性がおどおどと弁解を試みる。
静玖が軽く顎をあげた。
「そう。本気じゃないと?」
中年男性が愕然と眼を見開き、逆のベクトルの弁解を始める。
「いやいやいや、いやいやいや! そういうことではなく、しずくさんが可愛すぎて、その、あぁ! もう、本気です! 妻と子を捨てる覚悟でおります!」
さすがに常連の間から失笑が漏れた。
「何言ってんだこいつ……」
「マジか……」
静玖は一気に赤面して、前列の観客に早足で歩み寄った。
「それ、貸して」
前列の男もまた熱烈な信奉者らしく、
「仰せのままに!」
と言いながら、素早い動作でひれ伏し、頭上高く両手でズッキーニを捧げ持った。
頷いてそれを受け取る静玖。
観客がどよもす。
「ズッキーニ来たーー!」
「ズッキーニ来たーー!」
「ズッキーニ来たーー!」
狭い店内がこだまで満たされる。
「ちょっ! 待って! 静玖ちゃん!」
夢花が狼狽えた顔で止めるが、静玖は聞こえないようだ。
右手に持ったズッキーニを頭上に掲げ、剣道の高段者の所作に見られる、美しい静止の姿を作った。観客の期待に満ちた眼。凛々しい沈黙。
静玖が、す、と意識の間隙を縫うような出足から鋭い踏み込み、ズッキーニを振り下ろす。
「シッ!」
圧縮した空気を吐き出す音と共に、ズッキーニが驚くほどのスピードで飛び、中年男性の額の真ん中に命中した。
「ぎゃぎゃっ!」
間抜けな声と共に卒倒する中年男性。
「ああ……やっちゃった……」
夢花が涙目で呟く。
「ナイスコントロール♪」
対照的に未來が指を鳴らす。
その間で、先ほどまでのサムライ然とした雰囲気はあっさり消え、何かもじもじと照れているような静玖。
「け、結婚なんて、まだ高校生だし、急にそんなこと言われても……」
鋭い目つきと叱責、見事なズッキーニのあしらい。そしてミステリアスなのか初心なのかよくわからない静玖のギャップを再び目の当たりにした観客から、文字通り地鳴りのような大歓声が沸き起こった。
「スキャローブ、サイコーだあ!」
「うおー、スキャローブぅー!」
ステージでは、壊れてしまったライブをいったん回収しようと、夢花が静玖の腕を取って舞台袖に引き込もうとしている。笑顔で続く未來。
観客からの大きな拍手。そして口々に送っていたエールが次第に「スキャローブ」コールに変わっていく。
「スキャローブ! スキャローブ! スキャローブ――」
もちろん、「スキャローブ」3rdライブはまだ始まったばかり。