2.赤崎編
あれは高校二年生の頃だっただろうか。
クリーム色のカーテンが春色の風に舞いあがり、宙を漂うホコリがプリズムのように反射する新しい季節。クラスメイトがぐうすか寝息を立てるなか、窓際の席で頬杖をつきながら古典の問題集を解いていると、在原業平公の和歌に眼が止まった。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
おれはシャープペンシルを手放し、二階の窓からグラウンドを見下ろしてみた。飴色の日差しにうたた寝するサッカーゴールと白線の向こう、校庭をぐるっと囲むソメイヨシノが桃色の花びらを踊らせていた。ざあっと一陣の風が吹くと、桜吹雪は砂煙に乗ってフェンスの向こうの市街地へ旅立っていく。その光景をぼうっと眺めていると、こちらまで春の陽気にうつらうつらしてくる。
なるほど、みなが称える桜をあえてなかったらと仮定することで、感動が引き立てられるのか。その発想と観察力に舌を巻くおれを余所に、クラスメイトは着々とよだれの海を広げていた。それが遠い春の昼下がりの出来事だ。
それから数年の歳月が流れて。
情事のもつれによる喧嘩、それから引き起こされた頭部外傷という自傷めいた案件をさばき終えたおれは、夜に向けて当直室で仮眠を取っていた。するとPHSが救急車来訪の音楽を奏ではじめる。懐かしい夢に漂っていただけに、思わずため息がこぼれた。
これで本日、7件目の救急対応。患者が朝からまったく切れない。おれが当直当番になると患者が雪崩れ込んでくる。「赤崎が当直だと病院が儲かっていい」そんなことを片手うちわで宣う先達がいるから困ったものだ。
床に落とした白衣を拾いあげ、寝癖を適当に誤魔化しながら処置室に向かう。すると上級医の板田先生はすでに到着し、眠い眼をしばたたかせながら救急隊情報をホワイトボードに記録していた。
「おつかれさまです」使い捨て手袋を装着しながらたずねる。
「運ばれてくる患者は」
「患者は91歳、女性。意識消失後の心停止で救急車搬送中。心停止の時間は34分。あと10分以内に到着だってさ」
第一報はそこで終わりのようだった。キビシイな。それが率直な感想だった。
人間の心臓が停止した場合、治療しなければ10分も経たないうちに脳細胞は死滅する。それが30分以上経過し、あまつさえ年齢が91歳とならば、救命は難しいだろう。
「このままお看取りですか」
「いや、それがさ。蘇生処置について未協議だから治療してくれだって」
本人の希望は意識がないので確認できない。そうなると次に確認すべきことは。
「家族。家族の希望は」
「話によると同居している家族がいるらしい。けれどなかなか電話が繋がらないそうだ」
ということは全力で救命することになる。骨が折れそうだ。
処置室の暖房を全開にして超音波の機械を準備していると、看護師がジャガイモを丸呑みできそうなほどの大欠伸で入室してきた。ばつが悪そうに点滴を用意している後ろ姿には「どうせ亡くなるでしょう」という投げやりさが映っている気がした。
「今日はついてないよ。赤崎と一緒なんてなぁ」
淋しさを感じさせる前髪をかきあげながら、板田先生はため息をこぼした。
「赤崎と一緒だと100%荒れるから」
「おれを疫病神に仕立てあげないでくださいよ」
救急対応の準備のあいだ、板田先生は携帯画面を愛おしそうに眺めるばかりだった。そこには野球クラブに所属している愛息子が写っていて、丸坊主でぶかぶかのスポーツウェア姿でピースしていることだろう。板田先生は晩婚で子供もまだ小学校低学年と聞く。やっとこさ帰っても「帰りが遅い」と愚痴られて家族サービスを強請られると聞いたのは、たしか忘年会の席だっただろうか。
「先生も大変ですね。養う家族がいるってのは」
「それでも家族は良いもんさ。守らないといけない存在が、頑張ろうって気にさせるんだ」
その意見に半分賛成、半分反対のおれは返事を曖昧にして血圧計準備に逃げた。
だれかの為に働くと思えば、たしかにやりたくない仕事も我慢できる。けれども出来るなら、そこに自分のやり甲斐を乗せたいと常々思っている。
「おれ、外で救急隊到着に備えますね」
患者情報が更新されない以上、処置室に留まっても仕方ない。おれが救急対応室を出ようとすると、背中から間の抜けた声が飛んできた。
「あ、ちょっと赤崎。患者が到着したらリーダーは任せたからね」
渡り廊下の突き当たりから外へ出ると、服の隙間から襲ってくる冷気に筋肉が引き締まった。春になれば新職員を歓迎してくれる枝垂れ桜もいまは裸木で、花壇はすっかり荒地と化している。降りそそぐ粉雪はひどく頼りない。
病院はつねに温度調節がなされ、ともすると季節感が希薄になる。だが救急治療部にいると救急対応で外の空気を吸うことができ、運ばれてくる患者も春夏秋冬で違うのでメリハリがあって面白い。粉雪を追って視線をふと足元に下げると、コンクリートの合間から一輪の名もなき花が花弁をほころばせているのに気づいた。情景に光孝天皇の和歌が自然と重なる。
君がため 春の野に出てて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ
「君がため、か」
「赤崎先生、おつかれさまです」
思い出した和歌に風情を感じていると、事務員の若月さんがおれの背後からぬっとやってきた。若月さんはでっぷりとした体型の中年男性で、パツパツのチェックの服を着て分厚い黒眼鏡を掛けている。
「若月さんも、おつかれさまです」
「いやぁ、今日は一段と冷えますなぁ。新聞によると今年一番の寒波だとか」
若月さんは顎肉を揺らして恵比須顔になる。ぽんぽんと自慢のように腹を叩く。
「こういう日にはわたしのようなグルメ独身貴族が、お風呂あがりにパンっと血管を破裂させて運ばれてくるんでしょうな」
「そうですね。若月さんも医療費削減の為に、食事制限を勤しんでくださいね」
「はは、これは手厳しい」
若月さんとはふた回りほど年が離れていたが、不思議とたがいの心根を包み隠さず言える仲になっていた。付かず離れず顔を合わせる距離感が良いのかもしれない。
「でも太く短くがわたしのモットーですから、ころっと死ねたらそれで構わんのですよ。ところで赤崎先生は、川柳を嗜まれるのですかな」
「はぁ」
質問の意味が分からず腑抜けた声を返した後で、内心を読まれたのかとギョッとした。若月さんが面食らうおれに緑掛かったA4用紙を手渡す。それで納得がいった。手渡されたのは院内情報誌で、おれの川柳と一緒に仏頂面の写真が掲載されている。4月の入局時に撮影したものだ。
「ああ、これですか」
「いやぁ、驚きましたな。赤崎先生が、三年連続で医療安全川柳の大賞に選ばれた文才溢れるお人だったとは」
医療安全川柳とは多くの病院で開催される、院内感染や医療事故防止を目標に川柳をつくる企画だ。医療関係者ならだれでも参加でき、特典は院内広報や医療安全ポスターに乗るだけで賞金や豪華特典もない。そういう企画なので応募自体がすくなく、初期研修医から賑やかしの為に参加したところまさかの大賞を取ってしまい、まわりに促されるまま惰性で続けて今年殿堂入りとなった経緯にある。
「べつに偉大では。中高大と一貫してサッカー部で、ろくに川柳に触れていませんし。ただ和歌を読むのは好きですね」
「ほう、それはまた粋な」
おれはこくりとひとつ頷いた。祖父母の家で育ったおれは、正月になると小倉百人で遊ぶ習わしがある。祖父母のどちらかが歌を詠み、もう一方と対戦するのだ。祖父は遊びも真剣勝負だと眼を血走らせ、祖母もいつものホンワカした雰囲気とは裏腹に鋭い手つきで札をさらってくる。結果として、金星を挙げられた経験は数えるほどしかない。
けれども英才教育の賜物か、長年和歌に親しむうちに古典に詳しくなり、医学部合格のおおきな動力源になったわけだけれど。ポツポツ世間話をしているうちに、現実へ誘うサイレンの音が近づいてくる。おれは若月さんの背中を見送って気持ちを入れ替え、停車した救急車の扉を開け放つ。
「おつかれさまです」
その瞬間にむわっとした熱気が顔を覆った。扉ひとつ隔てた車内はすでに戦場だった。水色の作業服を着た救急救命士がヘルメットを装着したまま直立して胸骨圧迫を行っている。おれは胸骨圧迫を維持したまま患者を移動させつつ情報収拾する。
「同乗者は」
「いません」
「ご家族との連絡は」
「いまも掛けている最中です」
状況に進展なしか。患者をストレッチャーで処置室まで移動させる。その途中で胸骨圧迫を交代する。胸骨丙から5、6センチの深さになるように体重を掛けたところ、ボキっと嫌な感触が両手掌から全身を駆け抜けた。肋骨が折れてしまったのだ。どうやら骨がもろく、胸骨圧迫の圧力に耐えられないらしい。罪悪感と躊躇いに精神が蝕まれる。それでも歯を喰いしばり使命をまっとうする。処置室に戻ると数名の看護師が応援にきていた。平和だった処置室は死線へと変わる。
「だれか静脈ルートを取って」
「まて、まずは気道の確保から」
「まずは患者の移動が先よ、足側に人手を貸して」
混沌としてきた処置室で、おれはリーダーとして全体の舵を切る。
「まずは胸骨圧迫を継続しながら、患者を処置台に移動します」
サッカーであればミッドフィルダーやフォワード、それからゴールキーパーなどのポジションがあるように、医療にも気道確保、静脈ルート確保、薬投与の記録などの役割分担が必要になる。リーダーは患者のバイタルサインを見ながら全体の流れを設計していく。サッカーでいえばボランチ、チームの司令塔といったところか。
「自動胸骨圧迫機に切り替えたら、次は気管挿管・静脈ルート確保」
「はい」
患者は紫のベストを羽織っており、なかなか脱がすことができない。ここで無駄な時間を浪費するわけにはいかない。そう判断した看護師がハサミで切り裂いた。やせ衰えた上半身が露わになる。その胸の中頃に自動胸骨圧迫機を装着して電源を入れる。ここまではスムーズにきている。みながそれぞれの使命をまっとうし、ひとつのチームとして機能している。
「よし。次は気管挿管」
いくら心臓が脈打っても、呼吸が維持できなければ助からない。次なる一手として酸素マスクに手を掛ける。だがそこで患者の口からゴボっと吐瀉物があふれた。
「っつ」
おれの服に乳白色の液体がこびりつく。服越しに染みいる冷たい感触に身の毛がよだった。部屋中に呑酸の臭いが立ちのぼる。だが躊躇っている時間はない。
「挿管します。介助を」
おれは救命のために気管挿管に踏み切った。だがその努力を嘲笑う声がどこからか舞い降りてくる。
それをやれば患者が助かるって、本気で信じているのかよ。
内なる声には耳を塞ぎ、おれは冷たい喉頭鏡を口腔内へと押しこんでいった。
「対光反射は」
「ありません」
モニターに映る心臓の拍動がある程度コントロールできたところで詰めていた息を吐いた。みながほぼ完璧と言っていい働きをしてくれた。そのおかげで心臓の動きは戻ってきた。けれども心肺停止により脳細胞に甚大なダメージが起きていた。助かる見込みは、限りなくゼロに近い。みなの落胆を肌で感じつつ上級医の板田先生に意見を求める。
「先生、今後の方針は」
「参ったね。心臓だけ戻ってきちゃったね」先生は肩を回して苦笑いを浮かべた。
「困ったな」
人間はたとえ心臓が動いていても、脳機能が失われれば死亡とされる。脳からの指令が来なくなると心臓はやがて動かなくなるからだ。ところが逆に心臓が動いているときは脳の機能が生きている可能性を否定できない。今回の場合も回復の見込みがないとは言い切れないので、患者家族が希望すれば治療継続はあり得る。
おれは得られた所見をカルテに記載しながらたずねる。
「それで、黒木さんのご家族は」
「さっき電話が繋がってね、ひとまず現治療を継続してくれだって。赤崎、家族への説明は任せたよ。ぼくは書類系の後始末をしとくからさ」
上級医として、あまりに無責任ではないか。そう思いながらも本音を飲み込んだ。考え方を変えれば、任せてもらえるだけ信頼を勝ち取っているとも言えるのだから。
「……分かりました。そのまえに衣服が汚れたので着替えてきます」
「こんなんで生かして、意味あるのかよ」
退出するまえにボソリと呟かれた看護師の言葉。それがおれの心に突き刺さる。血が滲むのを感じながらも、ぐっと地面に立つ足に力を込めて踏みとどまる。
医療に感傷は必要ない。
治療の意味を決めるのは患者と家族であって、おれたちじゃない。
けれども拭えないやりきれなさはたしかに実在していて、おれをそれを引きずるようにして医師控え室に戻った。マジックペンで名前が書かれたロッカーから着替えを引っ張り出し、洗濯カゴに汚れた上着と白衣へ投げ捨てた。そしてだる重い身体をソファに投げうつ。一度エンジンを休めると疲労は容赦なく各細胞へ巡っていく。
ちいさなまどろみのなかで、走馬灯のように記憶がきらめく。
両親はおれがちいさいときに交通事故で死んだ。だがそれは物心付くまえの不幸で、おれの記憶に2人の面影はない。だが自分は医学部に行くべきという想いが、心の苗床ではしずかながらもゆっくりと温められていた。救急医を選んだのも、潜在意識のどこかで父母の幻影を追いかけているのかもしれない。
やがてまどろみはPHSで引き裂かれた。慌てて応答する。
「もしもし、赤崎です」
「黒木さんのご家族が到着されています。病状説明をお願い出来ますか」
その声は尖っていて苛立ちが混ざっていた。席を外しすぎたか。
「はい、分かりました」
太腿を叩いて立ちあがり、トイレに向かった。洗面台でジャブジャブ顔を洗って気合いを入れなおすと説明室へ向かった。そこには黒木さんの家族が並んで鎮座していた。対面の席に着くまえにさりげなく為人を確認する。
黒木シズエさんの実の娘、それから夫は私服姿でまともな印象だ。そして孫にあたると思われる女性はおれとおなじくらいの年齢で、会社勤めだろうか、紺のスーツを着用している。ちゃんとした家族のようだ。おれは椅子に座って自己紹介をすると、出来るだけ簡潔で客観的な説明を心がけた。
「助かる見込みは低い、ということです」
そう断言したときのはっと息を呑む瞬間は、筆舌に尽くし難い。
なにが正しくて、なにが患者の為か。そんなのだれにも分からない。分かっていることはひとつだけ。唯一無二の正解なんて、どこにもない。
「すこし考えさせてください。家族と相談してみます」
おれはその願いを了承した。もしここで「なにがなんでも救ってください」となれば、待ち受ける未来は過酷だ。意識が戻らないままに人工呼吸器や人工心肺に繋がれ、一回の採血結果や画像検査に一喜一憂することになる。医療費も心的負担も壮絶だ。それでもやはり“奇跡”はあり得るから治療中止は言い出しにくい。
しばしの猶予を取ることにして、その旨を板田先生に伝えた。先生は検査結果を確認しながら言う。
「そっか。それじゃあ部屋を移そう。こんな阿鼻叫喚な場面を見せるわけにいかないしね」
おれは冷静に処置室を見渡してみた。吐瀉物と血で濡れた床には針や電極のパッケージが落ち、シズエさんはあられもない姿になっている。たしかにそうだ。手分けして点滴やマスク、モニターを整理すると病棟へシズエさんを運んだ。
「あの患者さん、心肺停止の人よね」
「でもあの血圧と心拍数じゃ、駄目だろうな」
看護師のコソコソ話が鼓膜表面を引っ掻く。おれはちらりと板田先生を見遣った。平静な表情をしている。先生はシズエさんを治療しながら、なにを考えていたのだろうか。患者移動が終わって部屋の外で家族会議の結果が出るのを待機する段になり、使った薬のバイアルを点検する板田先生に尋ねた。
「板田先生」
「うん、どうした」
「先生は、この症例についてどのようにお考えですか」
「えっと、なにが」
「91歳の高齢者に、胸骨圧迫や気管挿管、さらには人工心肺を回そうとしていることです」
決して長生きが望めない患者さんに、国民の血税で支えられた巨額の医療資源を投入する。その意義に疑問を抱くことは、医療者であれば避けて通れない。
「そうだなぁ」先生は頬を掻きながら言う。
「分からないね」
「……え」
おれは予想だにしない返事に戸惑う。「意味ないよね」と返ってくると予想していたからだ。
「『分からない』ということは、意味があるかもしれないという考えもあるんですか」
「そうだね、たとえばの話ね」
先生はバイアルの底に溜まっている水滴を透かし見ながら言う。
「65歳以上の高齢者への医療行為を禁止する法律を日本が定めたとするよね。するとぼくたち医師は仕事が減って大助かりさ。でもね、すぐにぼくたちは気がつくことになる。そんな世界なら症例数は激減し、医師一人一人の臨床の機会は極端に奪われる。病院に来る人は若い人ばかりでそれも重症例ばかりだ。治せなかったときのリスクはとても大きい。日本はアメリカを超える訴訟大国になっちゃうかもね」
それは今まで考えたことも聞いたこともない考えだった。おれたち医師は高齢者に医療を施すと同時に医学を学び、そこから得た知識を若い患者の診療にも応用しているということ。
「医療は多くの犠牲のうえで成り立っている。だから色々と挑戦することには意味があるんじゃないかな。今回の症例にしてもそうだ。治療続行か治療拒否か。それは難しい判断だ。しかしながらどちらに転んでも我々には益がある。治療しないなら医療費は浮くし、ぼくたちも早く自由になれる。けれど治療継続にすれば病院は儲かるし、赤崎も人工心肺の経験が積める」
それは疑いようのない事実だ。けれどもそれはあまりに無味乾燥で殺伐した荒野を思わせた。そこには恵の雨は期待できない。
「若い人の礎の為に高齢者にも積極的治療を施せと、先生は主張しているのですか」
「そうは言ってないよ、赤崎くん。物騒な発言はイヤだなぁ」
板田先生は出来の悪い生徒を哀れむように、おれの肩をポンポンと叩いた。
「世の中には60分以上経過しても人工心肺で助かる人もいる。奇跡は起こり得るんだよ。だったらそこに掛けて治療するのも悪くないってことだ」
けれどもその結果として引き起こされる家族の苦しみを思うと、安易にゴーサインは出せない。おれはそう感じていた。だがこの感情が独善でないと果たして言い切れるだろうか。おれはいつものように袋小路に迷いこむ。
もしもおれたちに人間に感情がなかったなら、もうすこし人の世は、穏やかになれるだろうか。
「お取り込み中、申し訳ありません」そこで看護師がずいっと割り込んできた。
「赤崎先生、黒木さんのご家族がお呼びです」
「……分かりました。すぐに行きます」
「赤崎先生もまだまだ若いね。それじゃあ、健闘を祈るよ」
どのような賽が振られるのか緊張しながらご家族とフタタビ対面する。やがてシズエさんの娘が口火を切った。
「治療はしません。それがわたしたちの結論です。母はここまで長生きできました。これ以上苦しむことは、望まないと思います」
そこまで言い切ると真っ赤な目を伏せた。夫が労わるように震える肩に手を添える。お孫さんも厳しい現実を受け入れるように口を真一文字に結んでいた。
提示された答えにおれは安堵した。けれどもし。おれは「準備しますのでお待ちください」と残して席を立った。
けれどもし、治療継続を望まれていた場合、おれはその希望を受け入れただろうか。
シズエさんの名前が書きしるされる死亡診断書。空欄だらけの紙を静謐な気持ちで眺めていると、かつての解剖学教授から卒業式に贈られた言葉が思い出した。
「医師は命の門番でもあります。始まりの出生届から終わりの死亡診断書まで、人の一生を管理する聖職者です」
おぎゃあと産声をあげて生まれ落ち、冷たい棺で見送られる人の一生。
その命の炎を管理するおれたち医師に、いったい、なにができるか。
病室では黒木さん家族が最後の瞬間を見守っている。やがてモニターの波形が凪ぎ、直線を形作った。おれは聴診器とペンライを持って部屋に入った。すすり泣く家族の声を聞きながらシズエさんの瞳孔、それから呼吸音と心音を確認していく。間違いない。黒木さんはすでに天に召されていた。おれは腕時計を確認する。
「午後一六時四十二分、黒木 シズエさん、永眠です」
おれたち医療スタッフは深々とお辞儀した。自分の非力さをひたすらに恨んだ。そうして頭をあげてしまえば、医師としてなすべき業務が待ち受けている。その落差に眩暈がした。
「それでは一旦、退室してください。シズエさんのお体をキレイにしますので」
そう言い残して死亡診断書作成に取り掛かろうとしたときだ。
「あの」
そこで話を切り出したのはお孫さんだった。たしか加奈さんといったか。戸惑うような仕草でおれをみあげる。
「おばあちゃんの紫色のベスト、どこにありますか」
紫のベスト。それをどうしただろうと振り返って、さあっと血の気が引いた。あれはたしか、救急対応中に看護師が切ってしまったはず。大事なものだったのだろうか。病室にいる全員がおれに視線を向けている。言い逃れはできない。
「ああ、あれは」おれは苦悩の末に正直に打ち明けることにした。下手な嘘は逆効果だろう。「切ってしまいました」
「え」
「シズエさんを助けるために、素早く服を脱がせる必要がありましたので。救命を優先するために切らせて頂きました」
目の前の表情がみるみるうちに消え失せていった。やがて覚悟を定めたようにぎゅっと眼をつむると、まっすぐおれに近づいてきた。そして次の瞬間、目の奥で光が走って火花が散った。やがて頬が火傷のように熱くなり、視界が変わっていることに気づく。
「……最低」
そこではじめて自分が叩かれたのだと悟った。すぐに病室は騒がしく動きだす。部屋を飛び出した加奈さんを背広姿の夫が追いかけ、泣き出した子供を加奈さんの母がなだめる。オロオロするばかりの板田先生に叩かれたおれを気遣う看護師たち。
これで良かったのだろうか。答えのない問いに答えるように、叩かれた頬がヒリヒリと痛んだ。
空を覆っていた雲はいつのまにか薄くなり、雲間からは冬の大三角形がのぞいていた。
「いやいや、これは傷害事件ですよ。どこの馬の骨だかわからないが、赤崎先生に手を出すとは頂けないなぁ」
「別にいいんです。おれも気が回らなかったんですから。それにこれも貰えましたし」
救急対応がひと段落したおれは寒空の下でヒトデ型に火照った頬を冷やしていた。ベストを切った看護師さんから、どうしても受け取って欲しいといわれた缶コーヒーのブラックを携えて。
「しかし赤崎先生。わたしはやっぱり先生が好きだなぁ」
「なぜです」
「先生は患者さんを色眼鏡で見ない。実に誠実な人だ」
「そうですかね。眼の前の命に誠実でありたいとは思いますけれど」
おれはアルミニウムの注ぎ口を舐めながら苦笑した。誠実もときに割りにあわない。今日のように手痛い眼にあうから。ではどうすれば良かったのか。なにが正解だったか。問いは永遠に続いていく。
「あ、流れ星」
おれはそこで空からこぼれ落ちた流れ星に目を細めた。身勝手な願いを掛ける。
どうかシズエさんの過ごした生涯が、幸福なものでありましたように。
念じ終えたあとで思いっきり伸びをした。関節がポキポキと軋んだ。すると祖父母のことがなぜだか思い浮かんだ。元気だろうか。無性に逢いたくなる。
三が日のどこかで日本酒を手土産に帰ってみるか。ベロンベロンに酔わせることができれば、百人一首で1勝くらいは挙げられるかもしれない。若月さんが白い吐息を吐いた。
「赤崎先生。わたしが担ぎ込まれたときは、ひとつお願いしますよ」
「そのときは、この病院でもっとも太い針で採血してあげますよ」
「それは困りましたな」
おれは澄んだ夜空を見あげる。雪もじきにやみそうだ。シズエさんも心安らかに天に昇られるだろう。そこでとある和歌がおれの心をぎゅっと掴んだ。
野辺までに 心ひとつは 通えども 我がみゆきとは 知らずやあるらむ
「天皇でもないのに、みゆきはお大袈裟か」
最近、気がついたことがある。
もしも人間に感情がなかったら。この世界はあまりに穏やかすぎる。
「ふむ。なにか言いましたかな」
「いえ、なにも」
おれは若月さんが怪訝な顔をしているのを感じながらも空に向かって微笑んだ。
感情なんて面倒なものを与えてくれた神様に、なんだかんだで感謝しながら。
大切な人が不必要に傷つかない為に。
起こりえる未来を考えてみてください。