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立命  作者: 神乃木 俊
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1.加奈編

 携帯電話に母からの着信が届いたのは、ノルマをこなし、お惣菜でも買って帰ろうと決めた夕暮れどきだった。

「おばあちゃん、病院に運ばれたのよ」

 おどろきを隠しきれないのだろう、携帯越しの声はひどく狼狽(ろうばい)していた。娘の亜希子(あきこ)が熱を出したのかと心配したわたしは、資料をクリアファイルに収めながら首を傾げた。

 なにを慌てているのだろう。おばあちゃんならいつものように朝ご飯を食べ、玄関でホッカイロを手渡してくれたじゃない。それが急に。

「落ちついて聞いて。おばあちゃん、心臓が止まっているの」

「……え」

 わたしはぽかんと口を開けた。絶句するわたしに母は早口で告げる。

 約1時間まえ、おばあちゃんがデイサービスでのお遊戯会の途中で椅子から突然に崩れおちた。施設のひとたちが駆けよったときには、すでに心臓も呼吸も止まっており、さきほど大学附属病院に運ばれたばかりという。現在も意識不明の重体らしい。母はもしもの事態にそなえて亜希子を幼稚園まで迎えにいき、父はわたしの夫である浩二(こうじ)に連絡中という。

 気がつけばわたしは、スカートのすそをお守りのように握りしめていた。完全に混乱していたけれど、自分がなすべきことだけは理解する。

「とりあえず、病院に向かうね」

加奈(かな)も事故に気をつけなさい。外は暗いから」

 トートバックにお弁当箱を詰めこむなり、わたしは階段を駆けおりた。大理石風の床を蹴るようにして外へ一歩踏み出すと、冬の寒々とした空気が鼻先をくすぐった。おもわず首をすくめる。暦は12月。年の瀬も近い。「今年も家族みんなで過ごせてよかった」満足そうにコタツでお茶をすするおばあちゃん。湯気の向こうに透けたシワくちゃの笑顔が、北からの風にさらわれていく。

 鉄サビた駐輪場をまわり、職員駐車場に停めた軽自動車へと乗りこむ。エンジンを掛けようとキーを鍵穴に刺そうとする。手がふるえてうまくいかない。それが寒さのせいでないことには気がつかないフリをする。なんとかエンジンを掛けるとアクセルを強く踏み込んだ。

 国道沿いのアーケードは電飾で飾られ、エレクトリカルパレードのように輝いている。この風景を眺めながら携帯で好きな音楽を流し、娘を迎えにいくのがひそかな楽しみだ。けれどもいまはそんな気分になれず、口紅を塗る下唇のひび割れを舐めながらテールランプにぴたりとくっついていく。帰宅ラッシュに巻き込まれなかったのが、せめてもの救いだ。曇天模様の空からは粉雪がぱらぱらとふりそそぎ、フロントガラスにふれた瞬間にしずくへと変わる。思うように進まないことにいらだちつつ、心配性の母の言いつけ通り、病院に無事にたどりつくことだけに全神経を集中させた。


 かつて一度だけ、友達の盲腸のお見舞いで大学附属病院へ来たことがあった。

 まるで要塞のようにそびえたっていた白壁は、いまでは月日の経過により、ヒビ割れとすすけた色あいを連れ立っていた。緑の背景に白のレタリックで『救急外来』と書かれた看板を見つけてドアを押し開けた。アルコールの人工的な匂いと粟立つ肌を撫でる温風。

すぐ先の受付に、険しい表情で書類にボールペンを走らせる父がいた。

「おとうさん」

 父が書類を係の人に手渡して振り返る。

「加奈。はやかったな」

「おばあちゃんは」わたしはマフラーを解きながら早口で言う。

「どこにいるの」

「集中治療室。意識はまだ戻っていないらしい」

 目の前が真っ暗に塗り潰される。そうなんだ、おばあちゃん、まだ意識がないんだ。

わたしたちは出入り口の近くの待合室に移動し、ギシギシ鳴る長椅子に腰を下ろした。父チノパンを履いた足を落ちつきなく動かしていた。わたしたちのほかにはだれもいない。

「おかあさんは」

「そろそろ戻ってくる頃だ。浩二くんも会議を断ってこちらに向かってくれるらしい。申し訳ないことをした」

「……おとうさんのせいじゃないし」

 浩二は地方の零細企業に勤めており、ここしばらくは土日も出突っ張りだ。重要案件が飛びこんできたのか知らないが、最近はやけに仕事に熱を入れている。わたしは申し訳なさに胸が押し潰されそうだった。浩二はいつもわたしたちにふりまわされる。わたしたちはどちらともなく無言になった。

だが一向におばあちゃんの容体説明はない。スタッフの不親切さに腹が立った。忙しいのは分かるけれど、こっちは心配でたまらないのだ。一言掛けるくらい、してくれてもバチは当たらないだろうに。かじかんだ手足はすこしずつ人心地になってきたけれど、心のまんなかはすうっと冷たいままだ。

 それから十分ほど経ったころ、ベージュのコートを羽織った母が亜希子の手を引いて戻ってきた。毛糸の手袋とモコモコの帽子を被った亜希子は、キョトンと眼をまんまるにしている。

「ママ、ばあばは」

「ばあばね、いまお医者さんに診てもらっているの」

 母はポーチからクリームを取りだすと両手にうすくのばし、亜希子の乾燥した肌にすりこんでいく。わたしの横で気持ち良さそうに目を細める亜希子。血色のよい頬は油をひいたようにテカって熟れたリンゴのように赤い。母も気が気でない様子だったけれど、亜希子の世話で心の平穏を保っているようだった。

わたしたち家族がなすすべなく座り尽くすあいだに時計の針は空転していく。しびれを切らした亜希子がわたしの二の腕を引っ張った。

「ママ、のどがかわいた」

「そうだね。ジュース買いに行こうか」

 わたしは母に防寒着をあずけると、亜希子を連れて自動販売機を探した。迷子にならないようにつないだ手にはいつもより強い力が入っている。

 病院は怖いところだと思う。リノリウムの床はどこまでも続きそうで、CTやMRIと書かれた看板は妖しく光っている。廊下で検査を待つ人たちの表情にも不安の影が差し、それはきっと、わたしたちもおなじなんだ。

「ママ、トイレ」

 亜希子がお手洗いのまえで、もじもじと足を交差させた。娘なりに気を使って我慢していたのだろう。わたしはそのいじらしさを愛おしく想いながら、お手洗いの外で待っていると手を放した。

ひとりになったわたしは壁にもたれ掛かりながら、おばあちゃんが亡くなるかもしれない現実に直面していた。それはとてもかなしく受け入れがたい。けれども、そこに浮かぶのは、甘い痛みばかりではない。やっと自由になれる。そんな不謹慎な想いが脳裏をかすめた。

 ここしばらくずっと、わたしたち家族はおばあちゃんの生活に縛られていた。

 地域の廃品回収やバザー運営の委員を務めるほどに活動的だったおばあちゃん。けれどもここ数年で老いが進行し、手すりがないと移動が困難になった。毛糸の靴下を履いていたときに居間の段差で転けて以降、家にあるすべりやすいマットやスリッパはすべて撤去した。着替えだって満足にできず、わたしや母が着替えを手伝ってオムツの世話をした。飲み込みにくい食事は出来るかぎり刻んだ。苦労はいつも尽きなかった。

 なんでこんなことをしているのだろう。ほこりっぽい台所で家族6人のお茶碗を洗うたび、洗剤まけであかぎれた指先に虚しくなった。オムツを替えるたびに「すまないねぇ」とこぼすおばあちゃん。その弱々しい姿は、腹立たしくもなんだか泣けてきた。

 それだけなら耐えられたかもしれない。

 けれども心の癒しを求めて携帯を開けば、高校生時代の親友が新しいお店でのひとときをSNSに投稿し、旅先での出来事を楽しそうに呟いている。「いいな」と呟いて羨望の眼差しを鏡に移せば、出産でたるみきった頬がそこにはあり、ひどく所帯染みた自分が映る。どんどん自由な翼を失っていくような惨めさがわたしのまわりの空気を重くする。

 だから今日の電話におどろいた一方で、すこしだけ、ほんのすこしだけ、肩の荷が下りた気がした。

「加奈」

 天井をぼんやり眺めていると私の名前が呼ばれた。そこにいたのは緊迫した表情を浮かべた浩二だった。突然の知らせに飛んできたのだろう、スーツの襟がうさぎの耳のように立っていた。眉間の皺も深い。

「来てくれたんだ」

「当然だよ。大丈夫か」

「うん」

 わたしは浩二の胸のまんなか、黒のストライプのネクタイが結ばれてつくられたふくらみに額をあずけた。タバコの煙とふんわりとした汗の匂いがした。

「ねえ、浩二。これって罰かな」

「え」

「わたしが、おばあちゃんたちから離れようとしたから」

 浩二からの返事はなかった。わたしはぎゅっと眼をつむる。

 わたしたちがおばあちゃんたちと同居する理由。それは家族ごっこをしたかったからじゃない。そうしなければ、生活できなかったからだ。

 わたしと浩二は知人の紹介を経て一年の交際で結婚した。けれどもわたしたちの給料では、家賃や食費の支出だけでギリギリだった。そこに亜希子を身ごもってしまうと、だれかの支援なしで生活を続けることが不可能だった。困難な壁に突き当たったわたしは両親に助けを求めた。そこにしか希望の光を見出せなかった。浩二の両親はすでに片親で、わたしたちへの援助をあてにできなかった。

「一緒に住ませて欲しいの」

 浩二と2人で頭を下げに実家に戻ったとき、わたしの両親はひどく戸惑っていた。けれどもまだ元気だった頃のおばあちゃんは黙って話を聞き届けると、わたしの手を取って心からの笑顔をくれた。

「子供を授かって帰ってくるなんて、こんな素敵なことはないわ」

 それが決め手となり、わたしたち家族はひとつ屋根の下で暮らすことになった。

 気難しい父と世話焼きの母、それに手の掛かるおばあちゃん。浩二にとって快適とはいえないだろうに、文句も言わずに我慢してくれた。その甲斐あって貯金もでき、そしてついに別居の目処も立ちそうなところまできた。

 けれどもそのあいだに、両親だけでは世話しきれないほどにおばあちゃんのお老いが進行してしまった。いつ、どのように別居を伝えるか。タイミングを探っていた矢先の不幸だった。

「その、別居のことだけどさ」

「パパ、おかえり」

 浩二がなにか大切なことを伝えようとしたときに亜希子が戻ってきた。まるで子犬が尻尾をふるように、全身で浩二の到着を迎え入れている。

「亜希子。ただいま」

 わたしたち夫婦はそれぞれの想いを胸にしまい、娘の両手を預かりながら待合室へ戻った。浩二は他人行儀にお辞儀する。

「今回は突然のことで。おばあちゃんはどうですか」

「まだ集中治療室で、それっきり」

 気がつけば待合室にはべつの家族の姿もあり、わたしたち家族は身を寄せ合うようにする。亜希子がピンクの靴をブランコのようにブラブラ動かすのを感じながら、インフルエンザの予防ワクチンを推奨するポスターを眺めるでもなく見ていた。しばらくすると栗色に染めた髪を団子にまとめた看護師さんが入ってきた。

「黒木シズエさんのご家族は、説明室にいらしてください」

 全員に緊張が走る。そこで母が全員に視線を巡らせた。

 亜希子には聞かせられない話になるから、だれかこの場に残るべき。そういうことみたいだ。やがて浩二が亜希子のお守りに立候補した。「いいの」とたずねると、亜希子のおかっぱを優しくなでながら「行っておいで。亜希子はオレが見とくから」と笑った。その思い遣りに感謝しつつ、わたしたち三人は説明室に赴いた。

 説明室はおおきなデスクトップパソコンと消毒用アルコールが置いてあるだけのシンプルな空間だった。わたしたちは扉の手前の椅子に横一列に座って先生の到着を待つ。

「お待たせしました」

 遅れてやってきた先生はわたしとおなじくらいの年齢だった。壮観な顔つきと体型ではあるものの、後ろ髪は明後日の方向に跳ね、目の下にはおおきな隈を浮かべている。胸元の名札には赤崎(あかさき)と記されていた。

「初期対応をさせて頂いた、医師の赤崎です」

 落ち着きある声に、わたしたちは自然と頭を下げた。赤崎先生は画像や説明書きを使って説明してくれた。熱心な語り掛けのおかげで、素人のわたしでもおばあちゃんの容体について理解することが出来た。

 おばあちゃんが倒れた原因は、率直に言えば、よく分からないということだった。

 電解質や血糖値などの血液検査、脳や心臓を含む全身の画像検査では特に異常は見つけられなかったという。それは治療の施しようがない、ということにもなるらしい。

「現在はお薬でなんとか一命を取り留めていますが、一時凌ぎに過ぎません」

 おばあちゃんの心臓はなんとか自分の力で動いてくれているものの、その律動は弱々しく、このままでは数時間以内に止まってしまうという。告げられた事実はあまりに残酷で、わたしたち家族は打ちのめされるしかなかった。

「心臓が止まっていた時間を考慮すると、脳の損傷は避けられない状態です。ご年齢を顧みれば、人工心肺などの手荒な処置は慎重にならざるを得ません」

「つまりは、もう」

 言葉の裏に隠された想いに、思わずわたしの口から言葉が漏れた。赤崎先生は喉仏を揺らした。

「助かる見込みは低い、ということです」

 実質、それは死亡宣告だった。気がつくとわたしの足がひとりでにふるえはじめた。やだわたし、なんでふるえているの。

「すこし、時間を頂けませんか」父が代表して言葉を絞り出す。

「家族で、話がしたいです」

「分かりました。結論が出ましたら、またお呼びください」

 赤崎先生の背中に一礼して待合室に戻った。意気消沈のわたしたち家族に、説明に同席した看護師さんが寄り添ってくれる。

「突然のことで、驚かれたことでしょう」

「ええ、とても」母が痙攣したように眉をぎゅっと寄せる。

「だって、今日の朝まで、元気だったのに」

 わたしたちは沈痛な面持ちで、おばあちゃんのこれからについて話し合った。

「おばあちゃん、どうしたいでしょうね」

 母を含めたみんなは思い悩んでいる様子だった。けれどもわたしの結論はすでに出ていた。おばあちゃん自身がポックリ逝かせて欲しいと仄めかしていたからだ。「やめてよ、演技でもない」と母は無理矢理笑い話に変えていたけれど、賢いおばあちゃんのことだ、自分の行く末を案じていたのだろう。

治療はせずにこのまま自然な経過に任せることが、おばあちゃんの意向だと想う。けれどもそこには問題が残っていた。わたしたち家族が、治療しないという事実を受け入れられるかどうか。

「本当に、助からないのかしら」母がすがるように言う。

「私、テレビで見たことがあるわ。心臓が止まった人でも意識が戻ることがあるって」

「お義母さん。自分も一緒に見ていましたが、あれはかなり若い方でしたよ。今の状況と一緒だとは、とても」

 多分みんな、なんとなく分かっていた。治療はしないほうがいいと。けれども取り返しのつかない決断を下すことが決まり悪くて言い出せないようだった。

 みなが言い出しにくいのならわたしから。そう決意を固めたときだ。

「治療は、やめよう」それまでダンマリを決め込んでいた父がきっぱり宣言した。

「治る見込みが低い以上、おばあちゃんが苦しむ選択をするのは忍びない」

 それはわたしが伝えたい想いとほとんど一緒だった。けれどもわたしには強い違和感があった。わたしと母が介護をしているときも、自分はリビングで新聞を広げて全然手伝わなかったくせに。

しかしながら母にはその一言が強く響いたらしく、ハンカチを手に顔を覆うと嗚咽をこぼし始めた。わたしはなんだか鼻白む想いになりながらも、亜希子だけは動揺させまいとちいさな肩を抱き寄せた。ちいさな身体からはセーター越しに分かるほどの熱を発していた。

「治療はしない。それで良いな」

 こうしてわたしたち一家の意見は束ねられて赤崎先生に告げられた。先生は神妙な面持ちで聞き届けると「分かりました」と頷いた。どこかその声に安堵のニュアンスが混ざっているのを、わたしだけは聞き逃さなかった。

「しばらくここでお待ちください。準備が出来次第に案内します」

「ありがとうございます」

 それからしばらく、みなが暖かい相談室で待っていると面会室へと通された。それはさきほどの処置室とはべつで、救急治療室のもっとも奥の部屋だった。赤・青・緑のモニターが扉のうえでわたしたちを物々しく見下ろしている。部屋はリネンと同化するほどに真っ白で、部屋のまんなかには、愛用している紫色のベストではなく、緑色のガウンを身につけたおばあちゃんがベッドに横たえていた。

「おばあちゃん」

 思わず悲鳴が漏れる。人工呼吸器に繋がれ、無数の仰々しい機械と管に取り囲まれていた。あまりの光景に唖然となる。家族みんなでおばあちゃんを中心に集まる。こんなのって。わたしは自然とおばあちゃんの左手を求めた。その手の甲には朝にはなかった紫斑がくっきり浮いていた。体は氷のように冷たい。わたしたちは全員でおばあちゃんと呼びかけた。けれども目覚めてくれない。

「赤崎先生」浩二が遠慮がちに尋ねる。

「反応がないのは、どういうことでしょうか」

「苦しみや痛みがないように、いまはお薬で眠ってもらっています」

 赤崎先生は伏し目がちに言い終えると、力ない足取りで部屋を出ていった。やがて看護師さんも退場し、わたしたち家族で過ごす最後の時間となった。

 わたしはヨボヨボになった手の甲を撫でながらおばあちゃんと向き合う。

 ただただ痛ましかった。最後にこんなに痛い想いをするなんて。わたしは血が滲むほどに強く下唇を噛み締めた。おばあちゃん、よく頑張ったね。もう頑張らなくていいよ。不覚にも目尻がじんと熱くなった。

 おばあちゃん。91歳のわたしのおばあちゃん。

 おばあちゃんは学校の先生で、勉強に厳しいところもあったけれど、宿題が分からなくてメソメソ泣いていると優しい声でなんどでも説明してくれた。わたしが大学受験をせずに働くと決めたときも「加奈の人生だから」と、最後に庇ってくれたのは他ならぬおばあちゃんだった。そして亜希子が生まれたときのおばあちゃんといったら、ご近所さんに曽孫の誕生を拡声器のように触れまわり、わたしたち家族に嬉しい呆れを届けた。

 要するにおばあちゃんは、わたしに甘かったのだ。

「おばあちゃんの焼いてくれたお餅、好きだったな」

 甘い痺れが角砂糖のように口のなかに広がった。

 それはわたしの小腹が空かないように、お出かけの際にはいつも用意されたものだった。透明なプラスチックパックのみぞに砂糖醤油が溜まり、そこに雪のように真っ白なお餅をつけて食べるんだ。おおきく口を開けて頬張ると、ほっぺたが落っこちそうなほどに美味しい。手がベタベタしないようにうまく海苔を巻いて食べられたときは、しあわせがより一層広がった。そんなわたしを撫でる手は、とてもおおきくてあたたかかった。

 わたし、おばあちゃんが好きだったな。

 心の奥でかくれんぼしていた気持ちに触れた瞬間、想い出は涙となって頬を伝った。それは眼の奥から奥からあふれてきた。あまりに近くにいたから気がつかなかった、大切な存在。こんな身勝手な涙、流すもんか。強がって鼻をすすってみた。けれどもうまくいかずに呼吸が苦しくなる。そんな様子を見ていた亜希子がわたしの腰に顔を埋める。不甲斐ないところを見られたくない。だけど頬を伝う熱い涙だけは、どうしても止められなかった。




「午後16時42分、黒木 シズエさん、永眠です」

 わたしたち家族は死亡宣告を聞き届けるとお辞儀した。頭は真っ白な絵の具で塗りつぶされてなにも考えられない。

「それでは一旦退室してください。シズエさんのお体をキレイにしますね」

「あの」

わたしは病室を見渡しながら訪ねた。働かない頭ながらにぼんやりと、あれはどこにあるのだろうと探していた。

「はい。なんでしょう」

 赤崎先生が白衣越しに振り返る。こうして対面するとかなりの身長差があることに気がつく。浩二よりもはるかに高い。

「おばあちゃんの紫色のベスト、どこにありますか」

 それはわたしが初月給のときにプレゼントしたものだった。大型チェーン店での広告を見て買ったもので、高価ではなかったけれど、おばあちゃんはそれを形見のようの大事にしていた。「紫は高貴な色だからね」。何年も着るものだからなかの綿もすり減ってしまい、そんなに暖くもないだろうに、新しいのを買おうかと切り出しても「これが肌になじんでいいのよ」と歯の欠けた口元で笑うばかりだった。

「ああ、あれは」赤崎先生は頬を掻きながらバツが悪そうに言う。

「切ってしまいました」

「え」

「シズエさんを助けるために、素早く服を脱がせる必要がありましたので。救命を優先するために切らせて頂きました」

 なんでそんなことをするの。おばあちゃんを助けてくれなかったくせに。わたしの頭のなかに熱い血がどっとなだれこんだ。わたしたちが心細く待っていても説明しに来てくれなかったくせに。おばあちゃんを治療しないって決めたとき内心はホッとしたくせに。

気がつくとわたしは赤崎先生のそばに近寄り、先生の頬をおもいっきり叩いていた。

「……最低」

 てのひらに残るざらりとしたヒゲの感触。それを消しさるようにぎゅっと握りしめる。

 最低なのは、いったい、だれなのだろう。

 わたしは居ても立っても居られずに病室を飛び出した。こんな場所には一秒たりとも止まっていたくなかった。

「加奈、どこにいくんだ」

 浩二の叫びはそのままに、わたしはスライド扉を開け放つ。おどろいた表情の看護士さんたち。でもいまはそんなもの、どうだっていい。色々な感情が出口を求めて、ぐるぐるぐるぐると暴れている。泣きたいわけでも怒りたいわけでもない。だれかを傷つけたいわけでもない。けれどもわたしのなかには消化しきれずに淀む澱があって、それが雪のように堆積する。それが雪と違うのは、きれいさっぱり解けてくれるか分からないこと。だから苦しくて、叫ばずにはいられない。だけど叫ぶことはできないから泣くしかなくて、娘のまえで泣けないから飛び出すしかない。

 至極単純な、ただ、それだけの話。




「びっくりしたよ、本当に」

 わたしはいま、浩二の軽自動車の助手席に座っていた。後部座席では亜希子が犬のぬいぐるみを抱きしめてスヤスヤと寝息を立てている。

 病室を飛び出したわたしは、近くの階段でメソメソ泣いているところを両親に発見されてこっぴどく叱られた。父に頭のてっぺんをつかまれて赤崎先生に無理矢理謝罪させられ、先生はヒトデ形に赤くなった頬をさすりながらも許してくれた。そうしてわたしたち家族は葬儀の説明を受けたわけだけれど、場の雰囲気がとても軽かに和んでいた。

 浩二はくっくと笑みを転がす。

「おばあちゃんもびっくりしただろう。孫がお医者さんを引っ叩くほどに、自分のことを想ってくれていると知ったらさ」

「どうだか」

 わたしは恥ずかしいやら申し訳ないやらで素直になれず、サイドウィンドウから暗がりの街を眺めた。これから祖母は身体の清拭と着替えを済ませて霊柩車で家に帰ることになる。そして家で一晩過ごして告別式、そして火葬場へと続く。その準備の為、卒寿のときの着物を自宅から持ってくる係になった。母たちは病院での書類記入や会計、それから葬儀場までの段取りをしてくれている。

「職場に電話しないといけないわ。亜希子も幼稚園を休ませないと」

「オレも会社に連絡しないとな」

 すでに夕闇が街を覆い、遠くに霞んでいた尾根は漆黒に沈んでいる。歩道を照らす電灯は点滅を繰り返し、降りゆく雪影を流線型に伸ばした。

「加奈」

「なに」

「こんなときに言うのもなんだけどさぁ」浩二はまっすぐ見据えたまま優しい声で言う。

「おれ、高給取りでなくて良かったよ」

「え、なんで」

「加奈の両親やおばあちゃんと一緒に住めたから」

 わたしは息が詰まりそうになる。なんでこんなことを急に言い出すんだろう。

「亜希子を可愛がる様子を見ていたら、『ああ、こんなふうに加奈は愛されて育ったんだな』って分かったんだ。おまえをしあわせにしてやらないといけないって、再認識した」

「……バカ」

 こんなときに、泣かせにくる奴があるか。

わたしは浩二の太腿に自分の手を置いてつねった。浩二はううっと唸っただけで仕返ししてこなかった。わたしはやがて力が抜けていくと重力に任せて手を添える。わたしは頭も器量も良くないけれど。つくづく身の回りの人に恵まれたな。

「わたしも、しあわせだったわ」

 夜を吸いこむように深く呼吸し、心のなかに住むおばあちゃんに誓う。

 おばあちゃん。わたしね、もうすこしおかあさんたちと一緒に住むことにするわ。

 だっておばあちゃんがいないのに、わたしたちまでいなくなったら寂しすぎるでしょう。

 わたしは隣でハンドルを握る浩二を抱きしめた。わたしの行動を予想していなかったのだろう、車はおおきく蛇行して分離帯を超えそうだった。

「おどろかせるなよ。そういう軽い行動がさ、一生の後悔につながるんだから」

「いいのよ。後悔しない人生なんて、どこにもないでしょう」

 わたしはシートに背中を預けると心地よい揺れに身を任せた。車の振動はまるでゆりかごのようで、やがて心地よい眠りへと誘ってくれた。そんなわたしを遠くから見守るおばあちゃんの笑みが、まぶたのうらに、うっすらと見えた気がした。

後編を明日掲載します。

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