春の少年
良ければ最後まで読んでいただけると嬉しいです。
4、5分で読める長さなので、お手軽に読めるかと。
あなたの春花に色ですか?
春色の欠片が、世界を染めたのだと思った。
少年が桜を目にしたのは、それが最初で最後になった。
淡い桃色の花びらが宙を舞っては落ちた。
踊っているようにも、流れているようにも見えたそれは、あまりに美しく儚くて、まだ幼い少年にすら切なさを覚えさせた。
その場に立ち尽くした少年は、声にならない言葉の代わりに光無い両目から大粒の涙を流した。
意味も理解せず握りしめた手のひらが、しばらくしてじんわりと熱を持ち痛んだ。
それでも少年は、一瞬もその世界から目を離すことはしなかった。
大慌てで白衣の男が駆け寄り、無理やり抱き抱えられ連れ戻されるまで、一度たりとも。
ありふれた話だった。
生まれつき病弱だった少年は、早い話が両親に見限られ施設へと入れられた。
治療と延命措置を施されるだけが愛と呼べるなら、この言い方は間違っているかもしれないけれど、少なくとも少年は孤独だった。
何度も見た死の際を、段々と恐れなくなる感覚を、少年は知っていた。
それでも幸運と言えるのは、少年は、ついてはこの施設の子供達は、絶望という意味を知らない。
もちろん、形なく感じる黒い何かはあれど、名前を知らなければそれに悲しみを感じきることは無い。
ただ胸を突き抜ける寂しさに枕を濡らしながら、柔らかい頬をしきりに撫でる死神と気づいた頃には仲良くなっていた。
人は皆自分のようにベッドに繋がれる日々を過ごしている。
意識が薄れるような痺れと痛みに奥歯を噛み締めながら、一定に鳴り続ける機械音に不快感を覚える。
殆どは流動食を口にし、たまの固形物に喜ぶ。
父と母の顔も知らず、母の体温も父の背中も見ず、愛情の色や形に疑問を持つことすらしない。
少年は、退屈だった。
少年は、白い建物を飛び出した。
それは本当は柔らかく大地を照らす薄橙の光だったけれど、ピリリと少年の肌を痛ませた。
少年は、建物から数十歩進んだところで足を止めた。
それは、なんの変哲もない桜並木だった。
十数本の桜が天に向かって鮮やかな色を咲かせている。
どうやら建物の敷地内のようで、花見の人らしき人どころか子供一人周りには見えなかった。
どちらにせよ、少年の瞳はその世界だけを鮮明に映し出していただろう。
何も知らなくても感じる熱がある。
涙を流す何かがある。
連れ帰られた白い建物の中は少年にはひどく色褪せて見えた。
何度も外に出ようとしたが、一度された警戒を解くのは難しかった。
追い打ちをかけるように、少年の容態はみるみるうちに悪化した。
とうとう少年は、自分の力だけでは歩けないほどまで衰弱した。
少年は何度も間接的な死を目の当たりにしてきた。
何人も居なくなった子等を知っていたし、その子等がもう帰ってこないことも何となくわかっていた。
白い大人が冷ややかな笑顔を浮かべてついた嘘は、いつだって少年の心を苛立たせる。
それが優しさのための嘘なのか、そうではないのは、知る術も意味もない。
もう帰ってこないものに感じる悲しさは、彼らにはひどく重たいものだから。
ただ、死は、悲しいものなのかといえば、そうではなかった。
自分も、そうなるのだろうと思った。
けれど不安はなかった。
痛みに慣れてしまった少年少女は、「死」というものに恐怖を持たない。
それどころか、安楽さえ覚えてしまうのかもしれない。
苦痛は朝の目覚め。
願いは、いつからかの終焉。
その日は土砂降りの雨だった。
ほんの数メートル先も見えないような、カーテンコール。
灰色の空はまるで鋼鉄の壁のよう。
壁越しでも雨が大地を穿つ音はよく聞こえていた。
少年は、何日ぶりかに落ち着いたようだった。
息を吸う音と吐く音、それに鳴り止まない雨の音が混ざって、なんだか幻想的だった。
ふと、見やった窓の外に、少年は春を見た。
小さくも重い体を起き上がらせながら、少年はそれを目で追った。
腕に繋がれた管を無理やり抜き、覚束無い足取りで窓辺へと歩いた。
それは、見間違いだったのかもしれない。
けれど、少年は、体の芯から疼くような熱を感じていた。
あれよりも紅く、簡単には消えないような、炎。
偶然か、必然か。
閉まっているはずの、窓の鍵は空いていて。
少年は、走った。
打ち付けるような雨に、痛んだ肌なんて気にならなかった。
苦しくなる呼吸も、胸も、痺れる手足も、関係なかった。
辿り着いた春は、無残にも全て散らされて。
声にならないような嘆きがあった。
千切れてバラバラになった花びらが濁った水溜りに浮かんでいた。
それを何度も何度も大粒の雨が打ち付けた。
少年は、その場にへたりこんだ。
意志的なものではあって、けれど少年の脚が少年を支えられなくなっていたのも事実だった。
灰色に染まりかけた花びらを両手で何度も掻き集めたけれど、あの艶やかな春は戻らなかった。
儚さも無かった。
切なささえ感じられなかった。
ただ、悔しさが胸を抉った。
わからないけれど、少年はわかった。
濡れた頬から少しずつ色味が引いていく。
声にならない嘆きが雨音に掻き消されて消えてゆく。
もうあの日々は戻らない。
もうあの退屈は蘇らない。
もうあの白さに染まらない。
そうなるはずだった。
けれど、少年は初めてその胸を焦がした。
これまで願うことのなかった「もしも」だった。
あの、春を、もう一度。
そして、少年は白になった。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。