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愛が仕組んだ憎しみ

「お兄、ちゃん……?」

 ドサッと、持っていた手提げを少女は取り落とす。落ちた衝撃で中身が床にぶちまけられ、瓶に入った薬が四方へ飛び散った。それは、兄が飲むはずであったものだ。こぼれ出た液体は床を伝って、赤い何かと入り混じる。薬を象徴するような緑色が、床に出来た血の湖へと流れ込んで、少しずつ汚く変色していく。

 部屋には荒らされた形跡があった。決して大きくない家の小さな扉は叩き壊され、行儀よく並んでいた机は破壊され、タンスは横に倒され、皿はあちこちへ破片をまき散らしていた。だが、少女の視線を釘付けにしているのは部屋の惨状ではなかった。ベッド――より具体的にはその上で壁に背を預けて座る兄の変わり果てた姿だった。

 それは。鋭く尖った一本の剣だった。

 そして。それは兄の胸を貫いていた。

 胸を貫かれた場所からは血が滴り落ち、床に赤黒い染みを少しずつ広げていく。異常な程に溢れ出た血量を見れば、例え誰がどのように手を尽くしたとしても兄の命を繋ぎ止める事は不可能なのは一目瞭然である。ピチャ、ピチャとおぼつかない足で兄の血溜まりの上を歩く。貫かれて力無く背を預ける兄の顔は見えなかった。

 震える手で少女は、俯き、前髪に隠れた兄の表情を見ようと手を伸ばした。その手が頬に触れた瞬間、余りの冷たさに絶句する。

「――?」

 呼吸を忘れた少女は、微かな音を聞いた。その声にならない声は――もうどうやっても生きているはずのない兄から発せられたものだった。消え入りそうな声は不明瞭で、しかし少女は確かに自分の名が呼ばれたのを耳にした。

「お兄ちゃん、死なないでよ。ねぇ! お医者様がね、お兄ちゃんの病気はいつか必ず治るっておっしゃってたの!! 神父様がね、神様が見てくれているから安心しなさいっておっしゃってたの!! みんなが、パパやママみたいに死なずに済むっておっしゃってたのよ!! なのに、なんで――!!!」

 少女はたまらず泣き叫んだ。血まみれの兄の体を抱いて、兄を強く抱きしめて。

「やだよ……、やだよ、お兄ちゃん! 私を一人にしないで! もう私にはお兄ちゃんしかいないのよ!! お兄ちゃんが死んだら、私は何を支えに生きていけば良いの!?」

 ヒューッ、ヒューッ、と僅かに聞こえる歪な呼吸音。少し息を吹き返しただけでも奇跡。だが、奇跡はそれだけでは無い。それは空から見下ろす神の、せめてもの慈悲だったのか。兄の腕が小さく震えたかと思うと、抱きしめる妹と同じように腕を妹の背中へと回し、ゆっくり、だが強く、強く少女を抱きしめた。

「お、お兄ちゃん!?」

 それは少女の目にどのように映ったのだろうか。あるいは、少女に淡い期待を抱かせてしまったか。やや、落ち着きを取り戻した少女に、しかし、ゴボッと兄から血の塊が吐き出された瞬間、またしても少女の呼吸が止まった。吐き出された血は少女の肩を穢し、胸元を汚し、服の袖へ染み渡った。異物が取れ、ようやく自由になった口はやはり声にならぬ声で少女の耳元で何かを囁いた。

 そして、そこで。

 最後の力を失い、兄は本当の本当に事切れた。今までの苦しいほどの力強さがまるで嘘のように、兄と妹の抱擁はあっさりと終わりを告げた。

「お兄、ちゃん……?」

 愛しの妹の声に、兄は答えない。身動きはおろか、歪な呼吸音すらも聞こえない。まるで人形のように動かない兄は、抱きしめていた腕は、力を失ってダラリと床へ垂れ下がっていた。

「あは。あはは……。ああ、あぁぁぁぁぁあああああ……!!!!!」

 泣き、叫び、吼え、少女の瞳は絶望に染まった。いつも兄に褒められた自慢の髪を兄の血がべったりと付いた手で掻き回し、獣の如く咆哮した。その悲痛に満ちた声に気が付いた近所の少年が部屋へ飛び込んで来るが、少女はそれに気付かない。そんな少女に向けて、立ち竦む少年は何か言葉を放ったが、狂ったように叫ぶ少女に届かず。ただ少女の世界は灰に染まり、絶望に満ちた。

 優しかった両親を病気で失った少女にとって、兄は最後の肉親である。元々は気が弱く、少女はいつも兄の後ろに隠れ、困った事があればいつでも助けてくれて、辛い事があったらいつでも慰めてくれた。それは両親が死んだあとはより顕著になった。

 だからこそ。兄が病気になった時、今までの恩を返すチャンスだと思ったのだ。治らない可能性は考えないようにしていた。自分が毎日神様へお祈りをし、毎週薬を届ければ、兄の病気が治ると信じていた。だからこそ気弱い自分を押し殺し、気丈に振る舞った。

 そして、兄の病気が完治した時には、少女が頑張っただけ甘えようと思っていたのだ。それはまた、二人で幸せな生活が続く未来を想像して。

 少女の絶叫は止んだ。ただ、全てを呪うような声色で、「神様は悪魔だ」と呟いた。その儚い呟きに、後ろで呆然としている少年は見ていられないと顔を背けた。

 運命とは残酷だ。少女の前から全てを奪う。

 今までの絶叫が嘘のように静まり返った部屋で、少女は兄の胸に刺さった剣の柄を掴んだ。これを自分の胸に刺して死のうと考えるのは、少女にとっては当然の結果である。自分も死ねば、両親の所へ――愛する兄の元へ行ける。幼い故の幻想に囚われた少女は、一気に剣を引き抜いた。その勢いに押され後方へ尻餅をつく。そして、目の前に現れた光景に息を呑んだ。

「あ……」

 窓から差し込む光を反射し、飛び散った鮮血の飛沫が天井へ、壁へ、少女へと降り注いだ。その瞬間、少女の世界は絶望の灰色から、殺意の紅色に染まった。

「神様が悪いんじゃない……」

 優しかった兄の血に、匂いに包まれながら、少女は呆然と呟いた。

「殺した奴が悪いんだ」

 少女の瞳は緋色に満ち、狂気に歪んでいた。少女は慣れない剣を掲げ、兄の前で誓いを立てた。そこに横たわる死体の口元は、まるで笑みを作るように吊り上がっているのだった。



 ****



 大自然を感じさせる草原。

 腰ぐらいまでありそうな草が思うがままに背を伸ばしているのが、その情景を抱かせるのに一役担っているのかもしれない。晴天の空は、やはり雲一つも無く心地よい温かさの日光が草原を照らしていた。そんな場所で、十歳も中頃の少女が似合わぬ長剣を振るっていた。似合わぬ剣というのは、小柄な少女の身の丈に合わない程の長剣であるから――だけでなく、肌は白く精細で、筋力の付きにくい華奢な体は、人を傷つけるような刃物そのものが似合わない。

 ブンッと剣が風を切り、少女はよろめいた。三年たった今も、その剣を扱えずにいる。しかし、当初は振るう事すら満足に出来なかったのだ、そう考えれば少女の努力は着実に実ってきているのかもしれない。

「先生」

 草原に立つ巨木、そこに背を預けてその少女の姿を見ていた道化師は、そう呼ばれて視線を目の前に移す。

「何か、考え事ですか?」

 少女と同じ歳ぐらいの少年。あの日あの時あの場所で、少女の悲鳴を真っ先に聞いて飛び出していった少年だった。

「ふと、あの時のあの娘を思い出してな」

 視線を再び少女に向け、つられて少年もそちらを見た。懸命に剣を振る姿を遠目で見ながら少年は、「あぁ」と小さく感嘆を漏らして「可哀想な話です」なんて言う。

「あの頃の少女は――そう、まるで剥き出しの刃物のようでした」

 少年は身寄りの無い少女を預かった時の事を思い出しているのだろう。この少年もまた、道化師に拾われて共に暮らしていた。こちらは親に捨てられた、という違いはあるけれども。

 少年の言葉は続く。

「些細な事に怯え、恐怖し、過剰に攻撃的になっていましたよね。『お兄ちゃんを殺した奴に復讐してやる』と口癖のように言っていましたっけ……」

 少年の物寂しげな呟きに、道化師は小さく首肯する。少女は、ただ兄を殺した者へ復讐するために今日を生きているのだ。

「先生」

「なんだ?」

「僕、その頃に一度だけ『復讐が叶ったら、どうするつもりなの?』って聞いた事があるんです」

 チラリと傍らにいる少年の方を向くと、少年もまた道化師の方を向いた。少年は細めた目で寂しそうに笑う。

「いつもは牙を剥き出しだったのに、その時だけ困った顔で『自分にその先は無く、何をすれば良いのか分からない』って返してくれました」

 復讐だけを生き甲斐に、憎しみだけを糧に生き続けてきた少女が、もしその悲願を果たしてしまったら――きっと、少女にとっての生きる意味を失うのだろう。奇しくも憎しみが少女の体を動かし続けている――そしてそれは、少女の兄の目論見通りでもあった。

『俺を、殺せ』

 かつて、少女が薬を買いに行くのを見送った後、道化師の親友は少女に内緒で招いてそう言った。

『我が家には薬を買い続けられるほど金も無い。そして俺はもう長くは無い』

『……妹の方は兄が治ると信じて疑っていなかったぞ?』

『院長先生の話か? それとも神父様の話か? それを真に受けて信じる程、お前もバカではないだろう』

『……』

 ゴホゴホッと咳き込む親友に、沈黙で返す。

『優しい世界、優しい村、優しい大人。その優しさが、俺の妹を殺すぞ。もし俺が死んだら、アイツはどう思うだろうな? 嘘を吐いた大人を恨むか? 真実を伝えなかった村を憎むか? 自分だけを除け者にした世界を呪うか? アイツは純粋だ。だからこそ、歪んでしまうだろう』

『だからお前を殺せと? “優しさ”を守るために、犠牲になると!?』

 怒鳴る道化師に対して、親友は首を振った。

『そんな……そんな大層な事ではないさ。俺は家族として、アイツの兄として、アイツに幸せな人生を送って欲しいんだ。病気で死んだ両親や、俺みたいなのに囚われずにな。俺はアイツに生きて、結婚して、子供も作って、幸せに暮らして欲しい』

 唯一無二の親友は言う。

『愛で人は死ねる。それならば、憎しみで人を生かせるはずだ』

 その瞳は決意に満ち溢れていた。兄は愛の故に死に、少女は憎しみ故に生きる。それは余りに残酷に歪んでいて、しかし余りにも深い愛によって仕組まれた悲しい運命だ。

『あの娘は憎しみで生きるだろう。だが、憎しみは簡単に人を歪ませる、狂わせる。お前の思い描く結末に、あの娘が辿り着ける確証がどこにある?』

 そう言う道化師に対して、少女の兄は不敵に笑った。

『あぁ、いずれ分かるさ。アイツは――』

 その言葉の真意を、道化師は未だに汲み取れていない。しかし今なら自らの胸を刺して、尚も笑った親友の気持ちが痛い程理解できる。

「大切な妹の為ならば死も厭わない、か」

 いつの日か、復讐されるとしても。例え、少女の手で殺されるとしても。道化師は少女を嫌いにはなれなかった。家族のように愛し、妹のように接した。そうやって過ごした三年という年月は、復讐に憑り付かれた少女が兄の死から立ち直るのに要した時間。

 だが、それは少女の人生において余りに長過ぎた。あのまま兄の病気が完治し、日々の苦労があれどそれに勝る幸せな生活を手にしていたとしたら、もしかしたら少女は恋の一つでもしているのではないかと思う。毎日が輝きに満ち、誰もが笑顔を浮かべて楽しい日々を過ごしているのではないか、そう思わずにはいられない。

「……」

 ふと、少女がどこかの男に恥じらう姿を想像して、道化師は僅かに顔を歪めた。そして、そんな自分に苦笑しながら亡き親友へ向けて、言う。

「お前と、同じことを考えてしまった」

 もう記憶の中にしかいない親友に向けて、肩を竦めた。それは遠い昔の記憶、まだ親友が元気であった頃、ふと真面目な顔で真剣に悩んだ親友に対して何をバカな事を、と鼻で笑ったものだったが、もう親友の事を笑えない。これも少女への愛、故なのか。

『憎しみで人は育たない。愛が人を育むのだ』

 それは、道化師がこの三年間で見出した一つの答え。親友が、愛する妹の為に導き出した答えを更に発展させた末の結論。

 今、少女には愛が必要だ。深く、優しく、温かく、乾ききった心を癒す愛情が。きっとそれが少女の悲願を果たした末に、少女に道を迷わせず、少女を孤独にさせず、少女を生かす新たな道しるべとなるだろう。

 道化師は少年が少女の事が好きなのを知っていた。そして、少なからず少女もまた……。

「アイツの悲願が叶ったら、お前があの娘の生きる意味になれ」

 傍らで少女を眺める少年にそう言った。道化師の「好きなんだろう?」という悪戯な気色を受けて、少年は驚いて、そして顔を赤くして、「どうしたんですか、突然」と口を尖らせた。

「いや、良い。気にするな。ただ、そう言いたくてな」

 親友は少女を生かすために死んだ。ならば、道化師は。愛憎の、その両方を抱えてしまった道化師もまた、少女が新たな一歩を踏み出すための礎となろうではないか。

「先生、どうしたんですか? 思い詰めたような顔をして」

「ん? あぁ、いや……」

 不覚にも、決意の表れが顔に出てしまっていたようで、道化師は言葉に詰まる。そんな道化師を見て、少年は明るく呟いた。

「大丈夫ですよ」

 それは何に対する返答だったのか。

「だってほら、先生。アイツを見て下さいよ」

 少年の指差す先で、日は傾き、落ちようとしていた。紅に染まる草原で、長く伸びた一つの影が二人の前でゆらゆらと揺れている。視線を上げれば少女がこちらに向かって大きく手を振っていた。少年の名と、道化師を「先生」と呼びながら。その顔に美しい笑顔を浮かべながら。

 少年もまた大声で少女の名を呼び、振り返す。そんな光景に心温まる何かを道化師は感じ取った。

『あぁ、いずれ分かるさ。アイツは愛されてるからな』

 頭の中で、親友が残した最後の言葉が再生される。

「あぁ。そう、だな」

 道化師の返答もまた、やはりどちらに向けたのか分からなかった。





 夕暮れの草原で、仲良さげに歩く三つの影があった。小さな二つの影が大きな影の周りをクルクルと回っている。走りながら、歌いながら、笑いながら。二つの影は、嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに。

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