08
母さん
その単語に、葛は一瞬呼吸が止まったのを感じた。
何言ってんだ。俺は男だ。馬鹿だろう。お前目腐ってんじゃないのか。
そんな言葉が次々に浮かび上がるが、葛に縋り付くように額を胸に当ててる美晴の満足げな様子に――理解する前にゾ、っとしたものが背筋を走った。
――いきなり母親呼ばわりされたのだ。会って間もない奴に。男である、自分が。
人外妖怪魑魅魍魎云々と関わってる状態で言うのも変だが、おかしいだろう。これ。
葛の脳裏には次から次へと訳のわからない得体の知れない恐怖が浮かぶ。
美晴がしっかり正気であるのも余計恐怖を煽った。
「…っ何勘違いしてんだ」
「勘違いじゃない」
それはクズが何よりもわかっているでしょ、と美晴は葛の耳を噛む様に囁いた。
「葛であるクズが母さんなワケじゃないよ?クズの前世が、俺の前世の母さんだったんだよ」
ちゃんと現実の母親は別にいるしね。実に楽しそうにと笑う。
その笑顔を見て葛は相容れない――むしろ、相容れたくないと思った。
…そうか。コイツ電波か。
電波ならショウガナイ。
いやいやいやいや、ショウガナイが――俺に暴力振るう理由にならねぇよ!
そんな考えで必死に自分の思考を落ち着けようとするが、どう考えても自分が暴行を受けるのは理不尽じゃないか?と葛は思う。
言葉を拾う限り、また前世関係の厄介ごとではあるようだが――
(――たかが生まれ変わりだろう。前世と今は違うんだ――)
「意味わかんねぇ…」
理不尽にも程があるだろ。これ…と葛はあまりのやりきれなさに、気力を失い、抵抗を弱めた。。
すると「わかんない?」と美晴が首を傾げる。
心無しか拘束する力も少しだけ弱まった気がする。
……まぁ、動けないことには違いないが。
「だって、同時に俺の宿敵だから」
「っ、なんだよ、それ…っ!!」
「あれ、ここまで言ってわからない?人形浄瑠璃の葛の葉伝承とか…知らないの?それともはぐらかしてるだけ?」
「…生憎、そんな高尚な趣味持ってねぇ」
「ふーん…」
言外に「知らない」と言った葛に美晴は目を細めて見下ろす。
…イラついてるな、と一目で解る目だった。
「…ねぇ、言ったよね?魂を縛るほどの呪があるってさ…?クズがそうだったように、俺もそうなんだよ俺の名前、言ってみれば?」
「………」
「まさか、忘れたなんて言うんじゃないだろうね?」
その言葉に葛は思わず目を逸らした。
すみません。
忘れました。
(苗字だけは覚えているが)
でもそんな事言える訳が無い……!!!!
「……っ」
その様子がさらに美晴をイラつかせたのだろうか。
葛の両手は頭上に纏められ、それを美晴は片手で押さえつけた。
ついで、空いた手が葛の首を絞める。
最初はぎりぎり呼吸が出来るか出来ないかの力で、様子を見ていたが、葛が自分の名前を言おうとしないのを察したのか、美晴は次第に遠慮無しに首を絞める手に力を込め始めた。
意識が飛びそうになる。
「…っ、ぁ…!」
「…じっとしててね。すぐ終わる」
まるで片手とは思えない程の力を込められて、呼吸が止まる。
いつの間にか頭上で拘束されていた両手は開放されたが、当然その手で首を絞める美晴の手を離そうとするが、びくともしなかった。
対して、美晴は自由になった手で首元から何かを取り出す。
3cmほどの天然石の珠。
完全に円ではなくて、少しだけ飛び出た形――紅い紐の先端に括り付けられた半透明の勾玉。
その珠を美晴は自身の口元に持って行き、おそらく葛の首筋を噛み切った時の血を、口付けするように珠に付けた。
そして葛の左胸……心臓の上に押し付け、美晴の口が何か言葉を紡ぎはじめる。
その光景を、葛は苦しさで霞む視界で捉える。
何かされる。と葛は恐怖と理不尽さに目を瞑った。
その時――
「――カズ、怪我したらゴメンね!」
(…は?)
幻聴だろうか、教室に残った筈の伊吹の声が聞こえた。
…と思ったら、次の瞬間ズガンッ!!という音がし、背中からとんでもない衝撃と共に吹き飛ばされていた。
そもそも、いままで葛が押さえ込まれていたのは屋上の扉だ。
その扉に、葛が美晴に押し付けられるような形でいたわけで。
どれだけの力を込めたのか、物凄い勢いと音で葛は、開けはなたられるドアに吹き飛ばされてしまった。
「い…っ!?」
「!?」
当然、葛は目の前の美晴に体を投げ出される形になり、美晴は葛を抱え込む形で投げ出され、背中を強打。
「…っ」
「ッゲホ…ッガハッ」
やっと開放された喉に空気が入り、葛は自分と共に吹き飛ばされた美晴を見た。
彼は端麗な顔を痛みで引き攣らせながら、葛に体当たりされた鳩尾辺りを押さえて呻いた。
…どうやら打ち所が悪かったらしい。
いや、葛にとっては良かったのかもしれないが。
また拘束されちゃ堪らない、と葛は這いずる様に美晴から離れ、出来るだけ距離をとろうとした。
すると、突然背中に手を置かれ、葛は思わずびくりと肩を揺らす。
恐る恐るそちらを見ると、――あぁ、やっぱりさっきの声は幻聴じゃなかったんだ、と見知った姿に驚いた。
そこには葛の肩に手を置く伊吹と――今は学校で先生と生徒なのに、そんなの忘れてるくらい焦ってるのが解ってる、氷牙の姿。
それに、葛は思わずほっとして泣きそうになった
「だいじょうぶ?」
「葛君…!!!」
そんな葛に心配そうな言葉をかける伊吹を忘れたかのように、氷牙は葛に駆け寄って抱きしめると、葛の首の痕を見て眉を潜めた。
見る見るうちに体感温度が寒くなってのを感じ取って、葛は氷牙が怒ってるのが解った。
大丈夫、と返そうとするが、恐怖と呼吸困難だったせいか、なかなか喉が言うことを聞いてくれない。
葛のそんな様子に、氷牙は目を細めて元凶である美晴を睨んだ。
「…いいところだったのに」
いつの間に復活したのか、残念そうに言う美晴。
それを見た伊吹はちょっと困った顔になって苦笑をもらした。
「君も懲りないね。…今は美晴君、だっけ?オンミョウジ君。」
「……。あぁ、お前もいるんだ。」
日本の輩、隠れてただけかよ、と妙に納得した顔の美晴は氷牙と葛に目を向けると、ふ、っとあざ笑うかのような笑みを口に浮かべて屋上のドアへと歩き出した。
「まぁ、今日はいいや。じゃぁね、クズ。……また。今度ね」
「も…っ、二度とっ来るな…!」
葛の言葉に美晴は口に笑みを浮かべたまま、何も言わずに屋上を後にした。
その後姿が階下へと降りていくのを確認し、葛は目の前が真っ白になる。
「…っ」
「!! 葛君!」
真っ白の中、氷牙の焦ったような声が聞こえた気がした。
――妖狐は、情が厚い妖怪とも知れている。
人間と結ばれて、正体がバレた後も見守る…など数多くの美談にして悲劇的な恋が知られている。
一番有名なのは、彼の陰陽師の母親の話だろう。
…そう、陰陽師、安倍晴明の母――葛葉姫。
「……みはる、どこ、いってたの?」
「ん。ちょっとね」
しばらく歩いていると廊下の先に心配そうな表情のシルヴィアに出会って、美晴はにこりと笑った。
美晴 陽。
みはる あきら。
かの陰陽師、“はるあき”の音が隠れた名前。
縛るにしても、もっといい縛り方は無かったのかなぁ、と自分の名前を思いだす。
クズなんて、そのまま“葛”なのに。
今度会った時は、邪魔されないようにしないとなぁ、と先ほど手にしていた勾玉を首にかけて制服の下へしまう。
そんな美晴を戸惑うように首を傾げながら見つめていると、頭を撫でられ、メレディスはそのまま廊下を静かに歩く美晴に、付き添いのように後ろをついていった。