07
突然の美晴の登場にざわつく教室。
元から集中してる奴らのが少なかったが、いまや完全に授業なんて忘れてる。
「…貴方はえぇっと…」
「壱組の美晴です。杉山先生、大前君お借りします。」
眼鏡の位置を何度も直し、どこか引き攣った顔で壇上の老教師は口をまごつかせた。
「しかし、君。今は授業中ー―」
「お借りします」
にっこり。
教師の目を見つめ、美晴は蕩けるような魅惑的な笑みを浮かべた。
するとどうだろう。
それまで――消極的ではあったが――美晴に対して否定的姿勢でいた教師は、まるで自分の孫…もしくは愛おしい相手に笑いかけるかのように微笑み「そう、わかりました」と了承したのだ。
「大前君。何やら急用らしいから、特別に措置してあげるから行って来なさい」
当然、葛は妙な展開に頬を引き攣らせる。
(おいおいおいおいおい、ちょっと待てよ。杉山先生よぉ…!!)
ふざけんな。何処に連れてかれるかわかったもんじゃない。
お前には奴の笑みの裏に隠れてる得体の知れない何かに気がつかないのかよ。
つかおかしいだろ。何であっさり納得してんだ。この老僕ババァ…!!!
「…なんか杉山先生、おかしくない?」
葛があらん限りの罵倒を心の中で行っていると、隣から伊吹がそ、っと呟いた。
いつもはそれなりに頑固なのに、と眉根を寄せる伊吹。
あぁ。おかしいさ。おかしいとも。
少なくとも、自分の他にそのおかしさに気づいている存在がいることに葛は安堵した。
ついで周りを見渡せば、美晴の笑みにぼんやりと見惚れている奴らがいるが……嫌な想像をするならば、そいつらは壇上の教師と一緒の状態になっているかもしれない。
ちなみにその数教室の半数以上。
人外を魅了するなんてとんでもない。
人外だけじゃなく、人間だって美晴に魅了されている。
葛はその数に軽く現実逃避を起こしたくなった。
「さ、クズ。行くよ。」
そう言って、いつの間にか目の前にやってきた美晴に手を掴まれて、葛はハッと意識を戻した。
とっさに振り払おうとする手も振り払う前にもう片方の手でさらに握りこまれる。
放せ、と視線に意思を込めて美晴を睨むが、美晴は相変わらず笑ったままだった。
解けない。
手も。視線も。
「…何が目的だよ」
「ついてくれば解るよ」
だからおいでよ。と囁かれ、葛は舌打ちを打った。
あぁ、本当面倒くさいことこの上ない!
とりあえず、この衆人観衆の前では滅多な事はしないほうが吉だろう。
八咫烏の言った「魔性」がこういうことを指すならば、下手な反抗は後々の面倒になる。
判断を決すると、葛は見張るを睨みつけたまま顎で「連れて行け」とドアを指した。
その仕種をどう思ったのか、美晴はくすくすと楽しそうに笑って葛の手を握る力をさらに込めた。
――この馬鹿力が。
「じゃぁ、お邪魔しました」
「…っ」
「カズ…!」
教室を出る瞬間に、伊吹の心配そうな一声がやけに大きく聞こえた。
当然ながら授業中の廊下は違和感がある。
人の姿は無いが、皆すぐそばの教室に入ってるから気配は微妙にあるのだ。
いっそ誰もいない建物だったほうが清々しいと思えたかもしれない。
けれど我慢の限界と言うものもある。
いい加減掴まれた箇所が痛みと痺れで訳がわからなくなってきた。
「放せ!」と力いっぱい振るが振り切れず、さらに力をこめられる。
(手に痕が残るな…これは…)
どうにかして逃げれないか。そうは思うけど逃げられず、結局屋上のドアの前へと連れてこられてしまった。
美晴はドアを開けると、一歩出てまるでエスコートする紳士のように葛の手を持ち直す。
そうして見えた青々とした空。
その空に心が安堵したのは一瞬だった。
「――っ!!!」
――ダンッ!!!
流れでドアから一歩踏み出した葛だが、しかし身構える暇も無くすぐさまドアへと叩きつけられてしまった。
ついで縫いとめられるように両手を、美晴の両手で頭の左右に拘束され、手首の骨が軋む。
「…っぐ…!」
「やっと二人っきりだね」
ずっとずっと待っていたんだよ、と愛おしそうに言う美晴。
愛おしそう?
いや、何か…違う。
愛情・憎悪・狂気…それらが一緒くたになった欲望に満ちた目。
なんでそんな目をする?
葛には理解できない。自分達は今朝がたが初対面では無かったのか?
不意に何か恐怖を感じた。
得体の知れないものに対する、純粋な恐怖を。
「あれ?俺がわからないの?」
「なんの…はな…っ」
「酷いなぁ…俺はちゃんと覚えてるのに…」
にやり、と口を歪めたかと思うと、首元に金色の頭が移動した。
葛の首に噛み付く美晴。
痛い。
「何のつもりだ…ってめぇ…!!!」
「――俺さ、探したい奴がいて、ここに来たんだよね」
「っは、それがどうした」
俺は無関係だ!!!と声に出さず視線でで叫んだ。
そんな葛の様子に美晴はうっとおしそうな目を向ける。
そして葛の視線も、意思も無視して独り言のようにただ言葉を紡いだ。
「そいつさー、俺の天敵…っていうか?俺がいるのもそいつがいたから、なんだよねー」
「……っくぅ…」
「ここは妖怪がいっぱいいるから、“気”を撒いてれば勝手に寄ってくるって思ったのにさー…来るのは外国の奴らばっかだし。意味無いって落胆してたんだ」
そこまで言って美晴は、ふ、と優しげに葛に笑いかける。
「でも良かった、日本の…それも妖狐が来てくれて。それもクズだったなんて。探す手間が省けたよ」
にっこり笑われて、葛は再び吸血鬼のように首筋に噛み付かれた。
息を詰まらせ痛みに耐えるが、さっきと違って、噛み付かれた所の痛みは中々ひかなかった。
ついで舐められて再び痛みが走る。――噛み切られた。じっとりと痺れるような感覚でそう解った。
(っていうか、こいつの人外ほいほいって…わざとだったのかよ…!?つか、そんなの…)
「普通の人間ができるわけ――」
「だって、俺普通じゃないもん。」
そう笑う美晴。
ぞ、っとした。
あまりにも無邪気な子供を思わせるような笑みで、どこか困ったような笑みなのに…怖い。
(…おい糞カラス。こんなの、俺には荷が重過ぎるっつの…)
もはや目の前の存在が自分なんかじゃ太刀打ちできないほどの存在であることがわかる。
たかだか狐火を少し出せるだけの自分では、何もできやしない。
そう、まるで捕食者と被捕食者のような力関係では。
感じ取った恐怖に葛は思わず怯んで体を固めた。
そんな葛を不思議そうに見ては「ねぇ」と美晴は笑いかける。
美晴の言葉はまだ続いていた。
「名前は“呪”って言葉知ってる?」
「……なんだよ」
「名前はその固体を示すもっとも身近な呪術なんだ。だから、妖怪を縛る――そうだね、式神化しちゃうときは…名前を付けちゃえばいいんだよ?」
「……っ」
「でもねー、時に魂を強く縛り付ける呪も存在するんだよ。」
宝物のように。
あるいは、恋人のそれのように。
あるいは、恨みの言葉を吐くように。
あるいは、大好きな家族に笑いかけるように。
あるいは、憎くて堪らない仇敵に嗤いかけるように。
そんな正反対な感情がごちゃ混ぜになったような視線と、声音で。
「…ねぇ、クズハ?」
美晴は葛の耳元で囁いた。
「……っ!!!」
クズハ。
その響きにまるで体に電撃が貫いたような感覚が走る。
手足が震える。動かそうと思っても動けない…
まるで金縛りにあったかのような出来事に葛は混乱する。
なんだろう。なんだろう、この感覚。
動けない葛を見て、今度は「やっぱり」と美晴はどこか乾いた笑いをす浮かべた。
「俺の事、捨てていったくせに…尻拭いするのは俺。いつもそう。いつも…」
今までの恐ろしさが嘘のように、甘えるように美晴は葛の胸に顔を埋めた。
そして小さく呟く。
それは気のせいか、泣き声のようなか細い声だった。
「………母さん」