ハードボイルド・パンダ
閉じたブラインドの隙間から眩しい光が差し込む。
また、朝が来た。
重くだるい体をベッドから引き剝がす。
昨夜、となりで寝ていたはずの女は熱く交わった後の余韻ひとつ残さずに消えていた。どうせ夜の街でひろった一夜限りの関係、深追いするような相手ではない。
サイドボードに手を伸ばし、残り少ない煙草に舌打ちをしながら火をつける。指先から立ち上る紫煙はゆっくりと窓の方へと流れてゆく。
ああ。
特に望んだ覚えも無いのに、何度も何度も朝はやってくる。
電話が鳴る。
10回目のベルを数えたところで、彼は電話を取った。
またくだらないトラブルが持ち込まれる。頭が割れるように痛む。
表情を消した声で、依頼内容の確認と金額の交渉をする。今日は気分が乗らない。相手が提示した金額の倍の値段をふっかけてやる。
一瞬の間。
「わかりました。お願いしますよ、パンダさんだけが、頼りなんですよ」
卑屈な声。契約成立。電話は鳴り始めたときと同じように突然に切れた。
彼は白と黒の体毛に覆われた体を思いきり伸ばして伸びをした。
さて、仕事の準備をしようか。なに、たいしたことじゃないさ。くだらないもめごとの後始末だ。クールに片付けて、夕方にはこの部屋に戻ってくる。また女をひっかけて、酒をあおる。悪くない。まったく、悪くない。
クローゼットからいつもの黒いスーツとトレンチコートを引っ張り出す。右手はポケットに突っ込んで、左手にはいつもの金属バット。
さあ、おでかけの時間だ。
街の住人は彼をこう呼ぶ。「ハードボイルド・パンダ」
汚れた街並み、煤けた日常。猥雑な大通りには今日もわけのわからない生き物が群れている。
長い脚を見せびらかしながら客を誘うフラミンゴ、どこから拾ってきたのかわからない妙な色の木の実を売りさばくリス、小賢しくその隙を狙う猿ども。透明の液体が入った注射器の針がゆっくりと黒ヒョウの腕の中へと吸い込まれる、それを羨ましげに見つめるのはトドたちの腐った目。
立ち並ぶ建設中のビルは、むき出しの鉄骨を風雨にさらしたまま数十年も放置されている。
電車の車体が壊れたのはいつのころだったか。いい加減な政府が修理などするはずもなく、転がった鉄の車輪は空地の隅でいつしか土にかえる日を待ちわびている。叶わない夢。
壊れた街に流れるBGMは、狂ったカワセミたちが奏でる不協和音。脳の奥までが浸食されていくような錯覚。逃れられない現実。
「にいさん、寄って行きなよ。安くするから」
どこまでもしつこいガラガラヘビの客引き。コートの裾を翻しながら唾を吐く。
「なにさ、お高くとまってんじゃないよ」
客引きの後ろから飛ぶ罵声は、牙を抜かれた雌ライオン。その隣では蛆にまみれた死骸をつつくハイエナ。見慣れた光景。
雑踏を抜けてたどり着いたのは、廃墟と化した古いビル。
入口の壁はぼろぼろと崩れ、立ち入ろうとする者すべてを徹底的に拒んでいるかのようだ。
パンダは立ち止り、軽く深呼吸をする。
廃墟の中に巣食う見えない影の気配を数える。1、2、3・・・全部で6つ。
カツン。
金属バットで廃墟の床を軽く叩く。それを合図に、有象無象の影がいっぺんに飛びかかってきた。
それは巨大な鴉の群れだった。パンダの目を、鼻を、喉笛を確実に狙って食らいついてくる。
ふん。どうせやってくれるなら、確実に一発で仕留めてほしい。それが出来ないのならおとなしく、死んでほしい。
どこまでも無表情に、パンダは鴉を薙ぎ払う。鋭い嘴を掴み、上下に思い切り開いて見せしめのように引き裂いた。飛び散る血しぶき、流れ落ちる臓物。
残された鴉どもは戦意を喪失したかのように逃げ惑う。慌てているのか、出口の方向を見失っているようだ。悪いが、こちらも仕事だ。逃がしはしない。
足を掴み、壁に叩きつけ、踏みつけて頭蓋骨を粉砕する。異臭が漂う。喚き続けていた鴉たちの声もいつしか静かになり、廃墟に静寂が戻ってきた。
そう、廃墟には静寂が似合う。異物は除外されるべきだ。
血と体液に汚れた自らの手を眺める。俺はいつまでこんなことを続けていくのだろう。
「ああ、パンダさん、助かりましたよ」
どこに隠れていたのか、電話で依頼してきたオランウータンが顔を出す。卑屈な声と態度、それとは裏腹に右手に構えた銃はまっすぐにパンダの額を狙っている。
「ねえ、せっかく手に入れたお宝を、あの鴉の野郎どもに奪われるところでしたよ。ええ、本当にパンダさんのおかげで助かりました」
カチリ、という音で安全装置が外されたのがわかる。ずいぶんな挨拶だ。
「でもね、今日のパンダさんの話していた金額払っちゃうと、こっちも赤字なんですよ。不景気ですしね。だから、まあ、こういうことで」
パンダは微動だにしない。オランウータンは引き金にかけた指に力をこめた。
「都合の悪いものは見ないように、聞かないように。最初からなかったことにしてしまえばいい。それがこの街の掟。悪く思わないでくださいよ」
「そんなに、見たくないモノが多いか」
「愚問でしょう。あんたも、この街で育ったならわかるはずだ」
「まあな」
「さよなら、パンダ」
爆音と共に弾丸がパンダをかすめる。パンダの動きはそれよりわずかに速く、オランウータンの懐に飛びこむ。
左手に持った金属バットを振りあげる。オランウータンの怯えた目。断末魔の咆哮。
足元に転がる大きな黒い体。
こいつとは幼なじみだったのに。いつからか歩く道が別れ、お互いの足元を掬いあうようになった。呪われた街のせいというにはあまりにも悲しいじゃないか。寂しいじゃないか。
脳裏を横切った思いを振り払うかのように、パンダは早足で廃墟を後にした。
さよなら、オランウータン。生まれ変わった時には、また一緒に酒でも飲もうぜ。
血と脳漿にまみれた体で女を誘うわけにはいかなかった。
雑多に広げられた露店で、ござの上に並べられたわけのわからない瓶の中から酒を買う。
片目を失ったカワウソが嗤う。明日の朝、目が覚めれば幸運だと思いなよ。
パンダは皮肉に歪んだ表情を返す。目が覚めない酒を売ってくれるなら、それに越したことはないのだと。
部屋に戻り、すでに薄暗くなった通りを見下ろす。いつのまにか灯された提灯の光に蛾が群れている。
路地裏にはその身が朽ちるまで動かないナマケモノ、四つん這いで鬼の面を売り歩く鰐。
生まれた街を呪いながら、それでもここを離れては生きていけない己を恨む。
パンダは買ってきたばかりの酒をあおる。瓶の中身はただの水。
カワウソの嘲るような顔が目に浮かぶ。見事に騙された。
こうやって、明日も俺はこのくすんだ街で生きて行く。いつか、朝が訪れをやめるその日まで。
(おわり)




